ようやく灰色から青へと空の色が変わり、早咲きのバラに蕾が膨らむ頃、アイオロス・エインズワースは落ち着かなくなる。落ち着かない、といっても粗相をする訳では無い。規則正しく早朝から仕事に赴き、迅速かつ的確に事件に対処している。
変化といえば、普段より、少しばかり仕事への熱意が増し、帰宅するとサガ・チェトウィンドに熱心に愛情を注ぎ、毎月彼が購入する雑誌に、育児に関連する雑誌が加わり、最新の妊娠・受精方法などのscience書籍がテーブルに積まれ、サガ・チェトウィンドの体温を測り表を付け、栄養食を彼に取らせたがり、時折遠くをぼんやりと眺める、といった症状が変化に値するだろうか。
さて、うっすら目を開いたサガ・チェトウィンドは、目の端に飛び込んで来たガイドブックの山にぎょっとした。慌ててベッドの上を、そして部屋の中を見回すが、運び主の姿は見えない。
サガは、がっくりと肩を落として、少し息を整えてから、ゆっくりとヘッドボードに用意されていたガウンに袖を通して床に足を下ろした。すぐ目の前になみなみと水の入ったデキャンタが用意されていたが、冷えた水を飲んで頭をすっきりさせたいと、それを手にしてキッチンへ移動した。陽はもう高い。
「毎日水は1リットル以上摂取する事!!」
サガは、冷蔵庫の扉にべったりと張られたA3版の上質紙に書かれた黒く太い油性マジックの文字を見て思わず取っ手にしがみ付いた。扉を開ける気力が全てその文字に吸い取られ、今もなお強力に吸われ続けているように感じ歯を食いしばる。
理由も、根拠も、目的も分かっている。アイオロスの仕業だ。
昨晩、彼はリフレクソロジーについてこちらの反応を窺っていたし、その中に水を一日に1リットル以上呑む事で体質改善に繋がるという事を言っていた。
どうにか気を取り直して、マグネットで四方をきっちりと押さえつけられていた紙を外して、綺麗に四つ折りに畳んでカウンターの上に置いた。
冷たい水を飲むと、どうやら気分も幾分落ち着いたので、もう一度寝室に戻り身支度を整える。ちらっと積まれたガイドブックの山に視線を走らせる。どうやら全てリフクレソロジーに関しての本で色々なクリニックなども紹介されているらしい。
溜息を飲み込む。昨日、熱心に足の裏をマッサージしてくれたのにも合点がいく。肩が凝っているから、と言ってはいたが……。
リフクレソロジーとは、
ホリスティックセラピー(心と身体の状態をトータルに捉えていく療法)の一つで、足の反射作用を利用して、体内環境(体温・血流量・血液成分など)をある一定範囲に保つよう促し、心身をリラックスさせることで、自律神経・内分泌腺の機能を整え精神バランスも安定させようというトリートメントの一つだ。足裏の反射区を中心に、膝下から指先にかけて刺激していく。イギリスでは習得に最低2年の単位を求められる、何百もある代替医療のうちの一つだ。
代替医療ならば、ドウコとシオンのクリニックで十分だと、10日程前に言った記憶があるが、やはり届いていなかったらしい。触りたくは無かったが、かといっていつまでも目に付く場所に置いておくことも出来ず、目を反らしつつ紙袋に全て仕舞い、玄関の脇に寄せる。タイミングを見て古本屋にまた運ぶ事を決意する。
しかし、今度は何処の古本屋に行けば良いのだろうか?
まだ今日のものはあからさまに不妊治療をうたう書籍・雑誌では無いが、毎回なるべく異なる古本屋を探して現金に換える時の居心地の悪さはいつになっても慣れない。もちろん、先方は自分が自分の細君の為に、又は細君が買ったものを処分していると思うのだろうが……。そろそろロンドン近郊で処理出きる店のリストが終わりに近づいている。
窓を開け、部屋の空気を入れ替える。すると、眼下からふわりと知ったタバコの匂いが立ち上っている。裏通りに面した壁に寄り掛かり、アイオロスがタバコを燻らせている。
今年の7月から、ここイギリスではパブも含め公共の施設・オフィス屋内では一切の喫煙が禁止される。
彼も、大好きなパブに通う楽しみの半分は確実に減るだろうな、とぼんやりと思う。だからと言って、彼のオフィスは彼と彼の上司かつ雇用者のみの小さな事務所で両名ともヘビー・スモーカーだからきっとあそこは治外法権になるのだろうな…と、また想像して少し苦笑する。
こうして上から見下ろしていると、アイオロスの表情は見えない。けれど、どこかいつもの覇気が無い。悲しそうに見える。子供が好きな事も、望んでいることも、よく分かっている。自分に嗾ける時は賑やかに、強引に、そして頑固に言い張る。自分はそれを巧く宥めたり、無視してみせたり、気を反らせたり、アイオロスが、多分そういった駆け引きも楽しんでいるとサガは知っていた。
けれど、こうして一人でぼんやりとタバコを吸っているアイオロスの姿を見ると、彼のその難儀なゲームの裏にもっと深く真剣な熱がある事にも否が応でも気付かされる。そして、自分自身も答えの無い問い掛けに体の芯を冷たくさせる。
自分が、彼と一緒にいて彼は幸せなのだろうか?
彼が、自分を何よりも愛してくれている事は知っている。けれど、それでも彼はあの熱を抑え切れない。もしかしたら、自分は実家に戻り、爵位を継げば、カノンにも迷惑を掛けず、アイオロスにも結果として彼の望みを叶える切欠へと繋がるのではないか?
けれど、考えるだけで血の気が引く。彼の居ない未来と彼の隣に自分以外の人間が居る未来。
こんな時、本当に自分は意気地の無い人間だと痛感する。
「サガ! 起きたのか?」
下から良く通る声が耳を打った。はっとすると、意識する間もなく視線は大きな笑みを浮かべてこちらを見るアイオロスを捕らえる。安堵が広がり微かな溜息が漏れる。
「タバコ、体に良くないよ?」
長く長く、私は君と一緒に居たいのだから…。
「吸った分は吐き出しているから問題ない」
「またそんな屁理屈を……」
「いいから! 起きたんだったら買い物に行かないか? いい天気だぞ?」
例え行き先が、ベビー用品店だと分かっていても、何となく、今日だけは少しだけ付き合ってもいいか、とサガは思った。アイオリアの所に生まれる二人目の子供への贈り物を見ているのだと思えば気も紛れる。
彼に諦めてくれと願うのは、酷で不可能でどうしょうも出来ないことなのか……せめてもう少し自分が気にしない性格だったら良かったのかもしれない。
やっぱり、カノンのところに電話をしてみようか……階段を上る足音は確実に春の足音。眩しくもあり、戸惑いが始まる季節の兆しだった。
春には、エインズワース家には二つの病気が混在する。