2007年 フェアファックスさん宅でのオオカミとそれが喚起した願望の話(前編)

「カミュ! これ、一緒に見よう!」
カミュ・バーロウは、部屋に着くなり道すがらミロ・フェアファックスから延々と聞かされていた番組を見るべくPCの前に座らされた。
ミロの部屋にはテレビが無い。彼の部屋は五階建の屋根裏部屋にあり、築300年の物件で一階部分には彼のオフィスがある。その一階の右隣は仕立屋、左は古本屋だ。通りは繁華街ではないが、所謂下町の商店街でパン屋、床屋、肉屋など小さな古い店舗が軒を連ねている。テレビどころか屋根裏部屋のミロの部屋には時計も鏡も、加えていうならトイレ・バスも無い。台所は小さなガスコンロとこれまた小さな流し台、冷蔵庫、テーブル、一脚の椅子。切妻屋根の下に窓とオイルヒーター。その横にタワーデスクを配した作業用のPCと机と椅子。
このPCで、友人からDVDに録画してもらったTV番組を見よう、と言うのだ。
180センチはゆうに超えている成人男性二人で、21インチ液晶モニタに視線を注ぐ。
流れてきたのは、BBCネイチャーのロゴと音楽。

何故、イタリアにまで来てイギリスのTVを見ているんだ、自分は?

と、カミュ・バーロウは思わず自分に突っ込みを入れてしまったが、隣にいる一応恋人兼親友兼幼馴染の男が、青い目を本当にキラキラと輝かせて前のめりになって番組に見入っているので、仕方なく黙ってその番組を見た。これに付き合ったら、今度は自分のピアノに付き合ってもらうぞ、と頭の中で何を弾こうかと牽引作業をしながら、カミュは番組の進行を追っていた。
さて、番組は、イギリスのあるオオカミ好きの男性の話だった。彼は、オオカミと共に暮らし、オオカミを育てその過程から「オオカミ」という生き物を理解している、大学などの生物学、動物医学などに寄らない孤立したオオカミ研究家であった。彼は、自身が群れのボスとなり、その地位を維持する為に日々森林の中でのトレーニングを欠かさない。
そんなドキュメンタリーを、ミロは一ヶ月ぶりに会った恋人兼親友兼幼馴染の前でうっとり見入っている。
「あ、わかるなぁ……舐めてもらうと傷って早く治るんだよなぁ……」
オオカミに傷を舐めてもらうと治癒が早いという彼のコメントを聞いて、ミロはうんうんと頷いている。

お前……オオカミと暮らした事なんてあったか?!

と、カミュは問い質したくなったが我慢した。あまりにもミロが幸せそうに画面を見詰ているからだ。
画面の中の彼は、日々鹿などの死体をオオカミの為に運び、内蔵(レバー)を食す権利は群れのボスにのみ許される特権なのでそれをみんなの前で食べる(こっそり加熱処理済み)動作をし、他のオオカミ達に食す順番を命じ、唸り声を上げて威嚇している。その姿は、もはやカミュには人間に見えない。
「いいなぁ……オレもあんな風に暮らしたいなぁ……」
丁度、腹も満たされたオオカミ達が互いにじゃれ合い、件の彼はオオカミと熱烈にキスを交わしている最中だった。
「……ごめん。そこまでは付き合えない」
思わずカミュはぽつりと言った。言った後から、本当にミロがこんな暮らしをしたいと言い出したら、自分には絶対についていけない、とカミュはひしと思った。
「え? 何が?」
くるりと視線をカミュに向けて聞いて来たミロに、カミュは言葉の通りだと伝える。ミロがああいう生活をしたいのであれば自分はその生活に合わせる事は出来ないと。
それに対してミロは、そうかな? と特に何かを感じた風も無くモニタを見詰なおして呟く。
この場合、お前がどう思うかが重要なのでは無く、自分が出来るか出来ないか、の判断が自分の行動を縛るのではないのか? とカミュは考えたが、はたと別の事に気付いた。
そもそも、ミロ以外の人間がこんな番組に見入って憬れめいた事を嘯いたとて、それを彼等が実行するとは想像し難い。なのに、そういった仮定の計算を抜きにして思わず『自分は付いて行けない』と言ってしまったのは、ミロならやりかねないと思っている自分が居るからだ(そんな可能性を含む人間が自分の側にいるという事だけでも、何かそこはかとない茫とした思いに囚われる)。
ちらりとミロの顔を盗み見てみれば、彼はまだ熱心にドキュメンタリーを追っている。一時間の番組はもう終盤で、二週間オオカミ達の許を離れたその男性は、彼の地位を失い群での最下位の地位に甘んじる事になってしまった、との事だった。それは、彼にとっては非常に危険なことであるが、それでも尚彼はオオカミと生活を共にすると言う。

やっぱり、自分には理解出来ない世界だ……。

カミュが溜息を付きかけた時、左の親指に痛みを感じた。
見ると、ミロがコーヒーカップに添えるようにしてテーブルの上に出していたカミュの親指をカリ、と噛んでいる。そして、手首、噛んで少し歯を離す。その内側をそっと舐めまた噛む。
「おい……」
カミュが眉を顰めて言外に静止の意を込めてミロを呼ぶと、彼は顔を上げてにっこり笑って言った。
「あんまり幸せそうだったから」
番組内での彼とオオカミとの交流を差して言っているのだろうと見当は容易に(付きたくも無いが)付いた。あの光景を幸せというのか、とカミュは心の中でミロに問う。その僅かな間に、ミロはカミュの正面に回って、カミュの顎や耳を噛んでくる。その表情はとてもうっとりとしていたが……。
「止めろ。お前は人間なんだぞ?!」
ペシリ、とカミュは思わずミロの頭部を叩いていた。ミロは気にした風も無くカミュの唇を舐め、また首筋に歯を立てた。
「ミロ、やるなら先にシャワー」
「……やっぱり、あっちの生活の方がいい……」
「重ねて言っておくが、お前の言う『あっちの生活』には私は居ないからな」
「意地悪」
「意地悪だの意地悪じゃないのという次元の話じゃないっ」
だらりと覆いかぶさって来た体をぐいっと押し退けて、カミュは椅子から立ち上がった。

冗談じゃない。自分は文化的な生活が好きだし、ピアノだって弾きたい。そして何より人間で居たいのだ。腹の底から強く誓ってシャワーを浴びに行く。その後ろをミロがだらだらと付いて来る。シャワーは共同で五階にある。鍵を掛けて一つのシャワーを二人で使う。ミロは全く自分の体には構いもせずにカミュの体に執心していた。仕方なく、カミュがミロの体を洗う。その間にもミロはカミュの体を舐めたり噛んだりキスを強請る。

こいつは、ああいうのを見て発情するのか?!

事が一通り済んで、体にまとわりつくミロをあやしながらカミュがふと聞いてみると、ミロの返答は、発情するかどうかは分からないけれど、ああやってじゃれているのを見ると確かにじゃれたくなる、との事。ならば、人間のそういうビデオはどうなのだ、と尋ねると
「なんか、嘘っぽくて白ける」
 と一言。逆にミロからカミュへ同じ質問がされ、カミュも一瞬深く考えずに答えてしまった。
「男と女のを見てもな……参考にならないし」
  ミロは、まじまじとカミュを見詰め、ようやく合点が行って頷いた。そして、
「じゃあ、男同士のは?」
「……それも、見たいとは思わない」
カミュは憮然と答えた。
「オレ、カミュがやってるとこなら見たいかも」
「は?!」
「いや、カミュ以外の人がやってるトコ見たって意味無いじゃん? カミュがそういうビデオにでも出てて気持ちいいっていう顔してるんなら興味あるけど」
「…………(汗)」
「? どうしたの、カミュ?」
「………お前、そういうの、結構真面目に見てるのか?」
「そういうのって? アダルトビデオ?」
「違う。その……人の顔」
「見てるよ? なんで?」
カミュは溜息を付いた。それにミロは些かむっとしてカミュに詰め寄るとカミュは目を反らして「別に……」と答えるだけだ。そんなカミュをじっと見詰ていたミロは、徐にカミュの鼻先を舐めて、それから自分の唇をカミュのそれに重ねた。唇の間から舌を入れて歯を舐めると、その硬い門は上下に開き、ミロは舌をさらにその奥へと差し入れた。其処の空洞ではカミュの舌が待っていて、お互いに舌を舐め合う。ミロがカミュの舌を押さえて、カミュの口内を舐め始めると、カミュの声が少し鼻腔から漏れる。もう一度強くカミュの舌を撫で上げると、ミロは唇を離してカミュの目を覗き込んで言った。

「何を見てるより、カミュを見てるのが好きだ。カミュの楽器を弾く時の指とか、歩いている時の腕とか、椅子に腰掛けてる時に組む足とか……キスしてくれる唇とか…でも、こういう時のカミュの顔を見るのが一番好きだ。多分、今見れるのはオレだけだし、独り占めしたいし、変だけど、独り占めしてると思うと少しおまけの幸せがある感じだし……セックスする時だけじゃなく、色んな時のカミュを独り占めしたくなる」
「……だから、オオカミが羨ましい?」
カミュは少し真剣にミロの瞳を見返して尋ねた。
「食べることと寝ること以外は、ひたすら戯れあって居るみたいだからな、彼等は」
ミロは、カミュの額に口付けると、その肩口に顔を埋めて答えた。
「どこでも、好きな時にじゃれ合えていいな、とは思うけれど、ちゃんと考えてみれば彼等は住む場所を制限されているし、やっぱり狩は大変だし……って思ったら、いつも好きな人と一緒に居られるってのが違うんだなって分かった……春だからかなぁ……なんか、ちょっと限界っぽい。もう何年離れて暮らしてるんだろう……カミュと……」
カミュはゆっくりとミロの頭を撫でて言った。
「……そろそろ、新しい家を探そうか。ここで」
ミロはガバッと上半身を半分起こして叫んだ。
「新しい家?! ここで暮らすんじゃないのか? 一緒に!」
二人は、ぴくりとも動かずお互いの顔を凝視していた。

(6月に続く……かもしれない)