あ、何かおかしい。
と思った次の瞬間、腹部に痛みを感じた。
「アイオロス、ごめん……。今日の食事、キャンセルできるかな……?」
サガは自分に用意されているオフィスに戻るとそっと鍵を掛けて、窓辺に寄り小さな携帯電話を耳元に当て機器に記憶させてある短縮番号を押した。
今週の水曜日に、サガはまたアイオロスに追いついた。
年に一度、彼の年に追いつくその日を、毎年アイオロスは様々に企画を立てて祝ってくれる。
今年は、まだサガの継承権の問題と、イギリスにおける法曹界の変革の煽りを受けたアイオロスの仕事の都合で、昨年のように長期休暇を取って祝う事が出来ず、その代わり金曜の晩にゆっくりと雰囲気の良いレストランで食事を楽しみ、週末は恒例化している弟宅への訪問を一回休み、そのかわり北西の海岸沿いにドライブを楽しもう、とアイオロスから提案を受けていた。
楽しみにしていた。弟のカノンには申し訳ないが、久しぶりにゆっくりとアイオロスと二人きりで居られる、と。
けれど……。
電話の向こうから、書類を忙しく捲る音と、アイオロスの声が重なって届く。
「……うん……。ごめん……。少し、体調が優れなくて……」
不調の理由を詳しく話せずに、歯切れ悪く応答すると、電話の向こうで数秒の沈黙の後、迎えが要るようだったらまた連絡を寄越せ、と言葉があった。
通話を切るボタンを押すと、緊張が解けてどっと体が重くなる。
ゆっくりとドアに向かって歩き、掛けていた鍵を外す。ドアノブを握ったまま、少しじっと佇み、またサガは部屋を後にした。
ここ数週間、アイオロスは夜の生活でコンドームを着用していない。子供を欲しがってサガを抱くその行為において、それは全く反対の理念をなすものだからだ。
サガ自身も、アイオロスの熱に感染して、そのまま受け入れてしまうし、時にそうすることを求めもするが、結果は直腸に水分を直接注入している事に他ならず、帰ってくる体の反応も明らかだった。
古い建物の、ひんやりとした洗面所からオフィスへ、何度か往復を繰り返すうちに、夕闇は迫り、サガは自分の体に灯る微熱を持て余すようになっていた。
少し、体の関節が痛い……。
冷房の効き始めた長距離バスに乗るのも、人で混み合う列車に乗るのも億劫を覚えて、サガは手持ちの書類の整理に取り掛かる。
もう少し様子を見れば、なんとかなるだろう。
そう思って学生達のレポートに目を通すうちに、ノートブックのUSBケーブルから充電中の携帯電話が震えた。
「おい、とっとと出て来い」
電話はアイオロスからで、その言葉にはっとして時計を見上げるともう11時近い。慌ててパソコンの電源を切り、レポートの束を机の鍵の掛かる引き出しに仕舞う。
少し湿気のある、木々がざわめく大学の校舎の外に出ると、目の前にはすうっと赤く光る小さな光。
アイオロスが煙草を燻らせながら、小さな白い車のボンネットに寄り掛かってサガを待っていた。
「ごめん……気が付かなくて……!」
外食はキャンセルしたのだから、せめて彼には彼の好みにあった夕飯を、と思っていたのに……。
ちらりとアイオロを見上げると、彼は特に機嫌を損ねている様子もなく、助手席のドアをサガの為に開け、サガが煙草の事を注意したくとも小さな罪悪感でそれが出来ずジレンマを抱えて少し眉根を寄せている事にも頓着せず、さっさとそのドアを閉め、反対側の席に落ち着いた。
車が少し、傾いだ。
「椅子、倒しとけ」
あまり頓着されないと、見た目はそうでなくとも、彼の気分を害してしまったようで、その心当たりが幾つかあるだけにサガの気持ちは沈んだ。
それでも会話の糸口を見出せず、仕方なくサガはのろのろと背を倒そうとサイドの隙間に体を屈めて手を伸ばした。
腹部にかかった圧迫が、嫌な感じを再びサガに思い起こさせた。
どうしよう……もう一度車を出て……。
すると、ガクンと背凭れが倒れて背が少し空に浮いた。
「ほら、とっとと寝てろ」
アイオロスがサガに覆いかぶさるように上半身を倒し、代わりにハンドレバーを引いたのだ。
ぽすん、と腹部に毛布が置かれる。
「なんで調子の悪い時は直ぐにうちに帰るって芸当を、いつまでたっても覚えられないんだ? お前は」
言葉と一緒に、温かい大きな手がサガの頭を一撫でした。
そのたった一つの動作に、硬くなっていた体から一気に力が抜ける。
「ごめん、ロス……折角予約してくれていたのに……」
「予約なんて、潰れなきゃ何時だってまた出来るだろうが」
呆れた口調に、ほっとする。
車は、ゆっくりと発進し、普段よりずっと丁寧なその運転は、サガをまどろみに誘った。
深夜過ぎに帰宅し、サガは直ぐにベッドで横になるよう厳命される。
一方、まだネクタイを取っただけのアイオロスの姿にサガが違和感を覚えて尋ねると、
「具合の悪い時ぐらい広々とベッドを使え」
と、頭を枕に押し付けられた。
ふと喉の渇きに目を覚まして、まだ隣にアイオロスの姿が無いことにすこし落胆を覚えたサガは、そっと寝室を抜け出した。
すると、居間で、小さなスタンドライトの光一つ灯して書類を睨みつけているアイオロスの姿があった。
「寝ないのか?」
そっと近寄って尋ねると、もう少し、とっとと布団に戻れ、と言われた。
体調が優れないからこそ、そばに居て欲しい思う時がある。
けれど、それは、彼を煩わす要求でしかないのだろうか?
居間の照明を増やし、少しだけ水を口に含んで喉を湿らせる。水分をしっかり取った方がいい事は分かっているが、また足繁く個室に通うことが憚られて躊躇してしまう。
振り向かない広い背中をもう一度見て、聞こえないと分かっていながらサガは「おやすみ」と呟いた。
時々、いや、頻繁にそして懸命に考えようとしない事がある。
寝室の真っ暗な天井の一隅に目を凝らし腕を空に向かって伸ばす。
夜、アイオロスを満たす事が出来なければ、本当は自分などお払い箱になるのではないか、と。
どんな女性より、自分を選んでいるのだと言ってくれる彼も、子供も産めず、ましてやこんな特別な日に彼の相手が出来ないようでは彼を自分の元に引き止めておくことは出来ないのではないか?
彼にとって、自分の価値はどれ程のものがあるのだろうか?
例え、セックスの真似事が出来なくても、愛していると抱きしめてもらいたいと思うのは贅沢な事なのだろうか?
愚かな、彼にしか応えられない事を自分が自分に問いかけてどうする? と、サガは必死で自分の思考を止めようとする。
けれど、流れ出した意識は、もはや思考という形すら取れずに奔流となって体中を駆け巡る。
いつからだったろうか。
彼に認めてもらいたいと、彼に認めてもらう事が自分へ自信のようなものを付加するようになったのは。
いつからだったろう、よくやったと、笑顔と一緒に髪を撫でられ、お前は俺の自慢だと滲んだ瞳でうっとり見つめられる事に全身が震えるような喜びを感じるようになったのは。
こんな自己評価の過程は間違っている。相手に対する依存心の現われと、成熟した大人の在り様ではない、と強く言い聞かさすのに、彼に要らないと、もう自分が必要ないと言われるのが凍えつくほど恐い。
視界が黒く塗り潰されるほど恐ろしい。
どうしたら彼を繋ぎとめていられるのか、考えれば考えるほど浅ましい答えしか思い浮かばず、それすら満足に実行できない自分が口惜しい。
彼の事を本当に愛しているのなら、自分は爵位を継ぎ、彼を自由にするべきだと分かっているのに彼すら巻き込んで彼の人生に生涯に渡って関わり続けようとする自分が堪らない。
もし、彼が、直ぐに寝室に来てくれて、今日はどうしても出来ないけれど、それでも自分を抱きしめてくれたら、どんなに安心するだろう。
分かってる。
この不安定は、子供が欲しいと騒ぎ出すアイオロスの季節病に振り回されているのだ。
けれど、彼を受け入れられないとなると、こうして独りで寝室に置き去りにされるのは辛い。
違う。
彼は、仕事が忙しいのだ。分かっているはずじゃないか。この数週間、彼は寝室以外では殆ど書類を離さないでいた。
ゆっくりと、伸ばしていた手を目蓋に被せる。
寝てしまえ。
そして、朝になったら、ちゃんと調子を整えて、彼の好きな朝食を作ろう。掃除もして、洗濯もしなければ。そして、彼にちゃんと昼寝を取らせて、夜になったら、自分から誘ってみよう。
がくん、と階段を踏み外すような感覚が足に起こり、サガは眠りの淵に囚われた。
「よくやった! でかしたぞ、エセル!!」
苦しくて息が出来ない。顔が、汗で濡れているのが分かる。
アイオロスが、近付いてくる。
ダメだよ、汗が酷くて、そんなに顔を近づけたら……。
アイオロスが、何度もきっとぐちゃぐちゃなはずの私の顔にキスをする。
力強く抱きしめられる。
子供の泣き声が聞こえる。
ああ、とうとう……やっと、彼の希望を叶えてやる事が出来たのだ……。
嬉しい。
嬉しい。
凄く、嬉しい。
季節が変わる。目まぐるしく。
待望の女の子。
何度もお誕生日を祝って、食事を食べさせて、小さな手を握り締めて一緒に散歩をする。
アイオロスが、溶けてしまいそうなほどの笑顔で娘に見とれている。
そして、ありがとう、と私に言う。
お礼なんて……君が幸せで、私も嬉しい。
君の幸せに、私の存在が役に立って、とても嬉しい……。
学校から、娘が泣きながら帰ってきた。
自分はもらわれて来た子供なのだと、お母さんは本当は子供など埋める人ではないのだから、自分は偽者の子供だと、しゃくりあげて泣いている。
何を、馬鹿な事を……!
声が震える。
お前は、アイオロスが、長い間ずっとずっと待ち望んで、ようやく私たちの間に出来た子供なのだ。
お前は、私たちのたった一人の大切な子供なのだ、言いながら、私も泣いていた。
彼女の柔らかな髪を撫でながら、涙が止まらなかった。
なんども、何度も、髪をなでる。
いつしか、子供の泣き声はしなくなり、私はほっとして目を開ける。
ああ、ここは寝室だ。
光が、窓の向こうから午後の傾きで差し込んでいる。
惰性で、手が、子供の髪を撫で付ける仕草をする。
「?!」
跳ね起きた。
あまりにも生々しい感触。
それもそのはずだ。
ベッドの上に、栗色の髪をした少女が眠っている。
あまりの事に一ミリも体を動かせないでいると、寝室のドアが開いて、花瓶一杯に生けられた白いバラの花と一緒にアイオロスが入って来た。
「やっと目が覚めたのか? どうだ、調子は?」
サイドテーブルに花瓶を置くと、彼は顔を寄せてバードキスを額と鼻の頭に落とす。
「ハッピー・バースデー、エセル! 遅くなったけど、誕生日プレゼントな! 赤ん坊は引き続きコウノトリにお願いする事にして、まずはこの子を二人で大切に育てような♪」
神様……とうとう、私はアイオロスを犯罪者にしてしまったのでしょうか??
幼児誘拐、しかも、男性のアイオロスが、少女を誘拐するなんて、しかも、同じく男性である私のベッドに入れてしまうなんて……!!
法廷で、どんな証言をしても--------!!
サガは、虚空を見つめて硬直したまま、次々に髪に挿される花飾りと豪奢な髪飾りにも注意を払えず、ただただ唖然として人形と化していた。
血が、音を立てて引く、という現象をまさに身を持って体験した午後の陽だまりでの出来事だった。