2007年 エインズワースさん宅でのある目撃事件

真っ白な花弁に、花芯が淡いピンク。花の名前は詳しくないが、確かに兄の『恋人』には似合いのバラだな、とアイオリア・ジャスティン・エインズワースは溜息を付いた。

7月末、結婚記念日を迎える祖父母への祝い物を相談するため、アイオリアは久方ぶりに兄の家を訪ねていた。
実の所、アイオリアはこの話題を兄の宅で話す事に消極的だったのだが……。
アイオリアを始め、両親、アイオリアの妻であるマリンは兄と『恋人』の関係を知っていたが、祖父母は別だった。
父の親である祖父は、Operation Overlord を生き抜いた英国陸軍将校だ。その後も鬼教官として軍学校で名を馳せた人物である。その妻は経験なクリスチャンで、先の大戦の折、一途に教会に通い祖父の無事を祈りつつ、従軍看護婦にまで志願した信仰心の厚い女性。この二人が、兄の現状を知った後の衝撃を考えると、彼らが死ぬまでこの事は知らせずにいよう、とするのは無理なからぬ事と言えよう。
そういった事情があって、兄の 『恋人』は、いわば祖父母にとっては隠された存在で、当然家族の催事に『彼』が招かれる事は無い。
その彼の目の前で、近付く家族催事の相談など、『彼』が優しく微笑んで席を外すか、兄の横で黙って控えめに話を聞くか、という姿が容易に想像出来るため、まるで『彼』一人を除け者にしてしまっているような気分をアイオリアの方が感じてしまってやり辛い。
なんとか兄だけとやりとりしようにも、近頃はそうとう忙しいらしく、電話も深夜近くならないと繋がらず、根っから朝方のアイオリアと折り合いが付かない。また、週末は用事があるとかで兄達は何時も留守だった。
それが、やっと午前中に話が繋がったと思えば、自宅に呼びつけられる始末。兄は弟の気遣いなど気付く様子も無い。
しかし、胸の内で苦言を並べつついざ訪問してみれば、兄の『恋人』は体調不良で昨日から寝込んでいるという。
不謹慎と思いつつも、隣の寝室で休んでいる兄の『恋人』に感謝の念を送り、早速とばかりに打合せを始めた。
日程は7月21日、父宅に招待し、母からの持ち寄りの分担などを見つつ二人連盟で贈り物の予算などのアタリを付ける。
まあ、こんなものだろう、と互いに納得し合った時は時刻は正午に近く、そのまま昼食を馳走になる。
「凄いな。このパン、兄貴が作ったのか?」
香ばしく、柔らかな触感のトーストを齧りながらアイオリアが感心すると、アイオロスは肩を竦めて言った。
「エセルがはまっててな。オーガニックの粉とか買って来て作っているんだ。簡単だぞ? 分量の材料を入れれば、あとは機械が勝手に捏ねるし焼く」
兄と話し合いをしていた間、兄が飼っているウサギと遊ばせていた娘のミリアムは、ペロリとその焼きたてのパンを二切れ(砂糖とバター付き)を平らげ、カップ一杯のホットミルク(蜂蜜入り)を飲み干すと、途端にうとうとし始めた。
「向こうで寝かしとくぞ?」
ひょい、と娘の体を抱き上げ、その顔を覗き込み目元を優しく滲ませる自分より背の高い兄の背中をアイオリアは見送った。知らず、パブリックからの親友とも腐れ縁とも言える二人の友人の姿が脳裏に浮かび、嘆息が漏れる。
そして、娘用の小さなタオルやおもちゃ、菓子、もしもの時のための着替えを入れた小さなリュックの中から携帯電話を取り出し妻の番号を押す。
直ぐに出た声に、娘が遊びつかれて眠ってしまった事を伝えると、買い物に寄ってから迎えに行くとの事。
そのまま男二人、何を話すでもなく、入れなおしたコーヒーと新聞を手に沈黙が部屋に満ちる。
「おい、少し仕事していいか?」
メールのチェックをしていたらしい兄から声を掛けられ、アイオリアは「ああ」と頷いた。
兄はDenとして使っているのだろう部屋の扉を開けると、幾つか書類の束を持ち帰りキッチンの横にあるテーブルで書類を広げ、眼鏡を引っ掛けながらパソコンに向かって何かを打ち込み始めた。
てっきり、仕事というからには私室に篭るのかと予想していたアイオリアは、リビングのローソファーに腰掛けながら少し不思議な感じを覚えて兄のその姿を暫く見つめ、ややして「ああ」と納得した。
兄が今腰掛けている場所は、寝室の扉の向かいで、何かそちらから音がすればすぐに気付くだろう。
何が、「ああ」なのか、自分自身にもアイオリアはうまく説明できなかったが、柔らかな午後の日差しにそのもやとした曖昧な感触は霧散し、ゆっくりとその上に時が流れやがて痕跡も消えた。
どのくらい時が経ったか、短いブザーの音にアイオリアが壁にかかる時計に目をやった時、それは2時を示していた。
素早く立ち上がった兄が扉を開け、その向こうに立つマリンに軽くハグの挨拶を送り招き入れていた。
「早かったな。荷物は?」
アイオリアは日系アメリカ人の妻に近付くと、大きくせり出し始めた腹部と妻の顔色を確認しながら尋ねた。
「ああ、ちょっとかさ張りそうだったからあんたと一緒の時にしようと思って今日は目星をつけておくだけにしておいたよ」
きゅっ、と口の端を吊り上げた、気の強そうな笑みを見せる妻の口の端に、アイオリアは笑って口付けた。
「ミリアム、見てくるか?」
弟夫婦を残し、アイオロス・エインズワースは八分咲きの丸々としたオールド・ローズが生けられた花瓶を手にして寝室に姿を消した。
二、三言、寝室から言葉のやりとりの端が聞こえてきたと思うと、直ぐに静かになった。
おそらく、数分だろう。アイオリアはマリンの腰に手を回し待っていたが、何も動きが見えないので、一人寝室に向かって歩き、半開きの扉を覗き込んでから声を掛けた。
「兄貴?」
「なんだ?」
フツウに返事が在った事に安堵して、アイオリアは寝室に足を踏み入れた。
そして、途端に激しく猛烈な後悔に見舞われた。
目前には、呆然とベッドの上に座り込んでいる兄の『恋人』と、その『恋人』の髪に清楚なバラの花やキラキラしい髪飾りを挿している兄の姿があった。
繊細な白い襟元のレース、それを止める細く光沢のある白いリボン、ゆったりとした白い服は、緩やかに重力にそって垂れ、見たくは無かったが見えてしまった袖口にも、大きく幾重にかレースの飾りが施されている、兄の『恋人』が見に付けているその衣服のカテゴリは、所謂『ネグリジェ』というものではなかったか? と、アイオリアは暫し固まった。
ネグリジェ、つまり、女性用の部屋着、化粧着、寝巻き、だ。
そういうものを身に着けて、兄の『恋人』は見事なその銀色の髪に花やら髪飾りやらをぼーっと飾り立てられている。
ドア口でぴくりとも動かなくなったアイオリアを不思議に思ったのだろう。マリンもまた部屋の中を覗く。
「おや、サガ、随分可愛いじゃないか」
え? マリン? この光景みて言うのはそれか?!
アイオリアは一瞬激しく動揺したが、幸か不幸かまだ体が固まっていたのでそれを表すことが出来なかった。
「あ、マリン?」
一方、マリンの一言に、銀の人形のようだった兄の『恋人』の視線が正気に返り、はっとしたようにベッドの上で寝息を立てているミリアムを見た。
「お迎えかい?」
「ああ、昼寝もいいけれど、寝すぎると今度は夜に寝なくなるからね」
マリンはつかつかと部屋に入ると娘を抱き起こした。始めはぐずっていったミリアムだったが、ふと視界に入ったサガの姿に目を輝かせた。
「ママ! お姫様みたい!」
「そうか? じゃ、ミリアムもこれでお姫様だ」
アイオロスは器用に両耳の上で括られている少女の栗色の髪にバラの蕾を飾った。
きゃあっ、と喜ぶ娘を抱きかかえて、マリンは部屋を出る。そして、ほんの数分後、身形を整えたサガも寝室から姿を現した。
短く挨拶を交わした後、マリンはテキパキと暇を告げた。
サガは重ねて自らの無作法を詫びようとしたが、マリンは笑ってそれを取り合わず、今だ一種のショック状態から立ち直れて居ないらしい夫の背を押して義兄宅を後にした。

「あの人が女だったら、ほんと、なんの問題もないんだよなぁ……」
バス停で、細い空を見上げながら、脳裏にちらつく銀色と白いバラの花を追い払いながら、アイオリアは妻に向かって呟いた。
「あの人が女だったら、あんたの兄さんの所に嫁げるかどうか、それもそれで大問題だったろうさ」
カラリと笑顔で返された妻の一言に、アイオリアは一瞬言葉を失った。
ただ、いえる事は、どちらにしても人騒がせな兄だという事で……。
アイオリアは本日何度目になるかしれない溜息を再び吐き出した。
「パパ! ミーもお姫さまのおよーふくきるの!」
小さな掌にぱたぱたと叩かれて目をやると、きらきらとした眼差しが自分を見上げている。小さくても女の子だなぁ、と思いアイオリアは苦笑した。
「ミリアムがもっと大きくなって、夜に一人でおトイレに行けるようになったら着ような?」
そう言って、高く娘の体を空に向かって持ち上げると、隣で妻が面白そうに微笑んで言った。
「いいのかい? そんな安請け合いして。あの『バジャマ』のレースは多分、一流のベルギーレースだと思うんだけどねあたしは」
ぐっ、と喉を詰まらせたアイオリアを見て、マリンは軽やかな笑い声を立てた。
「がんばってね、お父さん!」
パシンと叩かれた背中に、兄たちが味わえない幸せを感じているのだと刹那に思い、アイオリアは一層娘の幼く明るい笑顔を空へと伸ばす。
空には、初夏の青が広がっていた。