2007年 バーロウ氏のアパートにて

今年は暖冬だと思っていたら、遂に大寒波がやってきた。街は一面の銀世界、折角の週末を狭いアパートの窓から外界を眺めて過ごす。
ネットの天気予報でも見たのか、イタリアからしきりに羨ましがるメールが届いた。
いい年をして、未だに雪が珍しいというわけではなく、きっと彼の故郷を思わせるからなのだろう。気性はすっかりイタリアに染まっているくせに、ふとした瞬間に北の人間の素顔を覗かせる、未だにびっくり箱のようでよく掴めない部分が、ミロには沢山ある。

 

先月の彼の誕生日には、仕事の口実を見つけてローマへ行った。この時期は商売柄忙しくて、なかなか会いに行くためだけには時間を割けない。とうにそんな事は先方も承知の筈なのに、ついたその日の夜から仕事の下見に出かけると言うと、ミロはお預けをくらった犬のような目をして恨めしげにこちらを見た。
「だったら、一緒にくるといい」
最初から言うつもりだった言葉を、さも今思いついたかのように口にしたら、 途端に元気になって飛びついてきた。
夜の音楽公園の一角で行われるアートフェスタの環境照明が今回の仕事だ。音楽公園は1960年に行われたローマ・オリンピックの会場の跡地に作られた新しい建造物で、その現代的な建築のためか、地元の人々の反応はなかなか複雑であるらしい。行政側としては、ローマ郊外のこの施設に人を呼ぶために、音楽ファン以外の人々にも受け入れてもらう企画が必要なのだろう。
テストライトを色々な角度に置いて、最も身近な建築家の意見もききながら試すうちに、いつしか夜は更けていた。
あと一時間で彼の誕生日が終わってしまう。施設の施錠のために残ってくれている管理員に幾度も謝りつつ、漸く納得できる配置を見つけて腕時計に視線を落とし、そう気付いて驚いた。

今年のプレゼント、ミロのアパートまで戻っていては、今日中に渡せないのじゃないか?

メインの会場となるギャラリーを出て空を見上げて歩く。すぐ目前を歩む背中で、相変わらず手入れの悪い巻き毛が楽しげに揺れている。昼間の意気消沈はどこへやら、弾む足取りはそれなりに真剣なディスカッションに満足したらしい彼の機嫌を映している。
ミロがもっとも生き生きとする時間、彼の好きなものを見、好きなもののの事を考えている時の眼差しが、私は好きだ。
これだけ年齢を重ねても、昔と変わらず曇りない、その事実に驚き、憧れる。

「少し、その辺りを歩いていかないか?」
そう誘ったら、ミロは少し意外だというように目を見開いた。いつもなら、ミロが口にする言葉だ。
「いいよ? ここが気に入った?」
「まあね」
建造中に発掘されたというローマの古代遺跡(ローマでは何かを建てる度に起こる事だそうだが)の周りをめぐり、大中小の三つのコンサートホールの周囲を一周して、中ホール「SALA SINOPOLI」の前に出ると、正面には野外ステージが三つのホールの中央に囲まれるようにして収まっている。階段状の観客席を降り、客席の中ほどまで来たところで、ミロの肩に手を置いてその歩みを止めた。

「そこで、ストップ。」
「?」

日付が変わるまであと一時間というこの時刻、コンサートの客は流石に帰途につき人影もない。
何がなんだか分からない、という表情を隠しもしないミロをその場に置き去りにして、一人で階段を降り、舞台の前に立つ。
一応、警備員が見ていないのを確かめてから、舞台によじ上った。

「十九年前のリクエストにお答えして」
はあ? と頚を捻るミロの顔が見えるような気がしたが、残念ながら、新月の闇の中、暗がりに立つ人の表情は見えなかった。
まあ、ミロが聞きたがったのは、声代わりを迎える前の自分の声だったのだけれど。
あの声はもう捧げられなくとも、今君の側にいるのは今の自分なのだから、これで許してもらおう。

ミロに内緒で数ヶ月練習してきた、H. Bingenのイムヌスを数曲披露した。独唱無伴奏で歌える曲はほとんどなくて、どうしてもグレゴリオ聖歌の時代に戻らざるを得ない。誕生日に少々辛気くさいかとも思ったが、ミロはそういう事に拘る性格ではないと開き直り数十年ぶりに発声練習から初めて、ようやく納得出来るレベルにまでこぎ着けた。
気に入ってくれるか、それとも、夢が壊れてがっかりするか。
我ながら、誕生日のプレゼントとしては、少々危険な賭けだと分かっている。
それでも、ただ何か物を贈るよりはいいのじゃないか、とも思う(ただでさえミロの部屋は十分に狭いのに!)。
もしかしたら、昔少しだけ彼を傷つけた分の、埋め合わせをしたかったのかもしれない。

気がついたら、ギャラリーの玄関が開いていて、先刻世話になったギャラリーの管理員がドアにもたれてこちらを見ていた。
勝手に舞台に上っているところを見られて、今度こそ怒られる、と、身を竦めたとき、拍手がその方角から降って来た。
今晩は、これでお開きだ。
客席を見上げると、ミロは微動だにせず固まっている。
やはり、あまり気に入ってもらえなかったかな、と後悔が胸を過る。
舞台の上で一礼して、そのまま舞台から飛び降りると、いきなり目の前にミロの姿があって、そのまま抱きすくめられてキスされた。
ええと……管理員がまだ見ているんだが……(汗)
思わず引きはがしそうになった腕を、一呼吸おいて、そのままミロの背中に回した。
……ま、誕生日だから……少々の公衆良俗の乱れは容認する事にするか。

何か、管理員がイタリア語で喚く声が聞こえたが、幸い、意味は分からなかった。


ロンドンでも仕事の予定がつまっていて、結局、アートフェスタは初日だけ照明の状態を確認して、そのままロンドンに戻った。ミロは本当に仕事のためだけに来たのか、と不平をならしたが、それが嫌ならこちらを養えるくらいちゃんと稼げ、と言ってやったら黙ってしまった。
可哀想な気もするが、二人で自転車操業の現状では致し方ない。ミロは私のために買ったピアノの返済で貯蓄どころではないので、引っ越し代から事務所の移設費まで、こちらで全て捻出しなければならないのだ。

金銭にはそれなりに苦労しているだろうに、とんと執着のないミロはその辺りの私の焦りがどうも理解できないらしい。メールボックスの受信ボタンを押すと、また新しいメールが届いていて、その文面に思わず苦笑した。
「注文確認」というタイトルのそのメールには、どこからどうやって運び込んだのか、あの狭いローマの屋根裏部屋に据え置かれた大きなクリスマスツリーの写真と、短い一言が添えられていた。


「クリスマスキャロルを注文します。今度はケルティックで。 ── 12月24日、午後八時配達希望」