人の誕生日が近付くと憂鬱な顔になってくる奴も珍しい。
アイオロスは、サガ・チェトウィンド用の朝食を乗せたキッチン脇の簡易テーブル--2脚1卓で30ユーロだった--の席に腰掛けて新聞越しにサガの顔を窺いながら胸の内で嘯いた。
朝食はいつもアイオロスの分担だった。彼は朝が早く、寝起きも良い。学生時代から睡眠は4〜5時間もあれば十分と豪語するだけの事はあり、めったな事ではそれ以上の眠りを必要とする事はなかった。短時間にぐっすり眠り、すっきりと目覚めるのだ。
だから、通常アイオロスはサガより一時間は早く目覚めて、オレンジジュースを一杯とシリアルに牛乳をかけた朝食をさっさと済まし、コーヒーをセットした後、三匹のうさぎに朝食を与え、その後、出来上がったコーヒーをマグカップに注いでゆったりと最低三社の新聞を楽しむのだ。
そして、きっかり時計が6時50分を指すと、腰を上げ、寝室に向かい、もう二十年来のパートナーであるサガを起こすのだ。
「Good morning, honey!」
毎朝の決まり文句とキスを幾つか白い顔に散らすと、ようよう緑の瞳が重たげに現れ、二人の人間の唇と唇が朝の挨拶を交わす。
ゆったりとサガ・チェトウィンドの銀色の髪を何度か梳くと、アイオロスは立ち上がり、サガの朝食を用意するために再びキッチンへ向かう。
オーガニック・ベジタブルの葉っぱを千切り、ざっと洗い、冷蔵庫にあるトマトやフルーツ、クルトンなどを適当に散らし、小皿一杯分の「ラビット・フード」を一品。スクランブルエッグ、トースト一枚、カリカリのベーコンなどフライパンで手際よく炒め薄い白いプレートに盛り付け、紅茶用の湯を沸かすのだ。
大体その時分に、顔を洗い、身支度を整えたサガがキッチンの隣のそのこじんまりとした食卓にやってくる。
「おはよう」
もう一度朝の挨拶を済ませてサガは食卓に着く。アイオロスは読みかけの新聞に戻る。サガはたっぷり睡眠時間を好むタイプの人間で、朝は些かエンジンのかかりが遅い。用意された朝食をどこか心ここに在らずの体で咀嚼しながら、熱い紅茶を濃い目に入れる。
既に朝食を終えたうさぎたちは目を細めて床に長々と寝そべっているが、もし許されるなら、サガももう一度寝台の上に戻り無我の境地に沈むのになんの躊躇も感じないだろう。
静かな一日の始まり。天気が良ければ、リビングの向こうの窓から陽が差し込み、曇天ならばバックヤードの境にある塀に伝うアイビーが黒い落書きのように見える。
サガは、毎朝の習慣で簡素なテーブルセットの壁側に掛けられているカレンダーで一日の確認をした。
もう今年最後の月がやって来ようとしている。
無意識に、彼は息を吐く。
今月の最後の一日は、いつまでも少年のようで、それでいていつも自分を大きな翼で包むようにして庇護しようとするアイオロスの、生涯共にあろうと決心した人間の誕生日だった。
毎年、自分の誕生日には贅を尽くしたり、趣向を凝らして祝ってくれるアイオロスに習い、なんとか自分もそれなりのものを捧げたいと思う。しかし、サガの「プラン」は二桁目の数字を迎える頃にはもうネタが尽きて来ていた。
コンサートのチケットを、と思ってもクラシック以外のアイオロスの音楽の守備範囲に付いていく事が出来ない。
楽器の弦をそう毎度のプレゼントとして送るのではあまりにも自分が情けなくなってくる。
服でも、とも思うが、自分のセンスはどうやら彼にはあまりにも「クラシック」なものであるらしく受けが悪い。
唯一絶対に外さない自信のあるプレゼントがあるのだが、狂牛病騒動が発生して以来、それを贈る事は自主的に断念させてもらっている。
今年は、どうしようか……。ぼんやりとカレンダーを見つめる。
尋ねると、とてつもなく無欲な答えか、あまりにも意表をつく答えしか返ってこないと学んだのはいつの頃だったか……。
サガが朝食を終えると、食器をシンクに溜めた水に付けて、二人はドアに鍵を掛ける。アイオロスは、シティと呼ばれるロンドンの中心へ、サガは長距離バスに乗ってオックスフォードへと向かう。
まだ考え事をしているのか、すっきりとしない表情のサガのマフラーが、きちんと彼の首を温めているか確認すると、アイオロスはウォータールーの駅でサガと別れた。
ロンドンの街は先週から一気に気温を下げ続けている。白い息を吐きながら通いなれた下町を歩き、小さな法律事務所の扉を押す。
コートを脱ぎ、小さなストーブに使い古された薬缶をかける。曲がった薬缶の口からしゅんしゅんと湯気が音を立てて吐き出される頃、アイオロスのボスが赤くなった鼻を啜りながら軋むドアから入ってくる。
「よお」
「っす」
サガが聞けば目を丸くするに違いない、あまりにも短くそっけない挨拶を交わし、彼らはそれぞれの仕事に没頭する。
高く積み上げられたファイルの向こうから、盛大なくしゃみと鼻をかむ音が響く。
「長引いてますね」
「おめぇと違って繊細に出来てるからな、おれぁ」
一応上司に当たる男の言葉に、アイオロスはにやりと口角を上げた。
「そろそろ一人寝は寒くなる季節だからでしょう?」
「……おれぁ、つくづくお前のカミサンにゃあ同情するぜ。お前に湯たんぽ代わりに使われるんじゃあ堪らん」
「俺が湯たんぽなんですよ。あいつは冷え性だから。でも、手触りはどんな毛布より高級で滑らかですけどね」
アイオロスの言葉をかき消すように、ティッシュに鼻水を搾り出す音がラッパのように轟く。
「それで? 子供はいつ頃の予定なんだよ?」
「早くて来年、まあ、遅くても三年以内には」
「円満合意でやれよ」
「そもそも子供をつくるのが目的でしょう?」
答えながら、アイオロスの唇に柔らかな笑みが浮かぶ。
そんなに頭を悩ませなくても、誕生日プレゼントなんて分かりきっていると思うのだが、と。
今頃、バスの中で睡眠を補ったサガが自分の名前のプリントされたネームプレートの掛る小さなオフィスに辿りついたころだろうか。
アイオロスは、ふと壁に掛る時計を見上げて思った。
賢者の贈り物という話があったが、自分のパートナーがそのボックスに気付くのは何時であろうか。
願わくば、あと10年以内には気付いて欲しいのだが、とくつくつと笑いながら、アイオロスは煙草を一本咥えるとそれに火を付け、深々と煙を吸い込んだ。
クリスマスの足音が、すぐそこまでやって来ていた。