1ポンド87ペンス。
小さな羊皮の財布の中身を数えて、サガは溜息をついた。
オックスフォードには細かな雪が振り、道行く人は俯きながら足早に通り過ぎていく。サガは街角にかかる看板を見上げ、もう一度溜息をついて、冷たい硝子のドアを押した。
1ポンド87ペンス。単位をドルとセントに変えれば、誰もが手を打って頷くであろう──特に、クリスマスを一ヶ月後に控えた今なら。
有名なオー・ヘンリーの小説、「賢者の贈り物」に出て来る貧しい夫婦の、妻が最初に所持していた金額だ。
しかし、サガの財布がこれほど寂しいのは、必ずしも一家の稼ぎが少ないせいではない。現金を持たないのは身を守るためであり、今週用事がたて混んでいたこともあって、ATMに寄れなかったからだ。
事実、サガの所持するクレジットカードは年会費100ポンドのゴールドカードであったし、共に暮らすアイオロスのカードもそうだった。
しかし、それでも、サガはATMの機械の前で再度溜息をついた。
一体、どのくらい下ろしておくべきだろう?
今月は一体、どれだけの余裕があるのだろう?
世の中、カード貧乏という人種は意外に多く、グレードの高いカードを持っているからといって家計が裕福とは限らない。
アイオロスの困った癖の一つが、「サガのために」全く使えない高価な装身具を買って来てしまうことだった。
アイオロスは、どうも彼の金色のカードを魔法のプラスチック板か何かと勘違いしているらしい。
その時は望みのものを手に入れても、翌月には家計が火の車になるのだ、ということを何度説明しても、(おそらく故意に)決して理解しようとしない。
結果、翌日以降にこっそり(といっても当然気付いているのであろうが)返品することになり、あまりに頻繁に返品を頼むので仕方なくカードをゴールドカードにしている。銀行の口座にも、余剰金を置いておくと何時の間にか引き出されてしまうので、まめに定額貯金に回して手をつけられないようにしてある。
そんなわけで、銀行から現金を引き出す時には少々込み入った計算が必要になるのだ。あまり多額を引き出してしまうと、公共料金の引き落としに足りなくなってしまうから。
サガは、暫く考えた末、結局100ポンドを引き出してATMを離れた。
先月、地道に溜めたショッピングポイントを洗いざらい吐き出し、必死で出費を抑えたお陰で、口座の残高はまだ暫く余裕があった。これならば、多少の額の小切手を切っても大丈夫だろう。
最後についた溜息は、ほっと安堵の溜息だった。
Oxford expressをマーブル・アーチで下車し、セントラル・ラインでホーボーン駅へ。ここからコベント・ガーデンの方向へ十分ほど歩く。
オペラハウスを横目に見ながら(誘惑されないよう自分を縛めつつ)、Naturally Cashmereの扉を潜る。
「いらっしゃいませ」
落ち着いた女性の声がかかり、それから、あら、と小さな呟きが聞こえた。
「ようこそお越し下さいました、チェトウィンド卿」
「ご無沙汰です」
「以前はよくお父上とご来店下さいましたね。オペラの前に。お父上はお元気にしておられますか?」
「ええ、幸い大病もなく、元気に過ごしています」
二十年近く前の常連客を懐かしそうに見上げるその眼差しに、サガは些か居心地の悪さを覚えた。
当時、サガの父であるシュローズベリ伯爵は、息子を連れてコベントガーデンのオペラハウスに来ると、よくここで妻への土産を買っていた。
父と子が共にオペラ鑑賞に通わなくなってから、ここへ寄る事もなくなり、サガもつい先日までこの店のことは忘れていたからだ。
「それで、本日はどのような品をお探しですか? お母上への贈り物ですか?」
「いえ、今日は友人への誕生日プレゼントを。マフラーかストールを探しています。焦げ茶色の髪と、琥珀色の瞳に似合いそうな」
誕生日の贈り物に頭を悩ませつづけて三週間目の朝。
サガはついに、今年の誕生日のプレゼントを思いついたのだった。
それはあまりにも定番で、これまで敢えて候補には挙げてこなかったものだった──ネクタイやマフラーなど、自分の趣味に合わないものを貰って何になるだろう? アイオロスは、ファッションなどにうつつを抜かすのは軟弱だと豪語する割には好き嫌いがはっきりしているのに。
だが、その日の朝、襟首に忍び込んだ冷気に首を縮めたアイオロスを見て、何かがサガの脳裏で弾けた。
これから、寒くなるばかりの冬の朝に。
あんなふうに、首をすくめなくて良い暖かなマフラーがあったら……
実は、サガ本人は、冬の朝に首周りの寒さを感じたことはない。
パブリックに上がる時に母が贈ってくれた、ウールのマフラーがあるからだ。
衣類から小物に至るまで、素材から厳選された品しか身につけたことのないサガは、アイオロスがワゴンセールで買ったアクリルのマフラーが全く見かけ倒しで保温効果に乏しい事に、長い間気付かなかった。
買うなら、良いものを。
アイオロスは「毛がちくちくする」とウールの肌触りを嫌う。本当は、ウールでも肌触りのよい織りの生地はあるのだが、それなりに値が張るし、重さを考えればウールよりカシミヤの方が軽くて暖かい。
今年のプレゼントはカシミヤ100%のマフラーにしよう、と、 心に決めて、それで昔よく通った店を思い出したのだった。
店主に手伝ってもらい、ジョンストンズのキャメルカラーのリバーシブルを買った。本当は幅広のストールの方にもっと似合いそうな色があったのだが、女物と決めつけて身につけてくれないだろうと諦めた。
小切手を切り(クレジットカードを使わなかったのは、後で明細をアイオロスに見られたくなかったからだ)、店の外に出ると、目の前を大きなツリーを抱えた男が二人、通り過ぎていった。コベントガーデンの何処かの店に飾るのだろうか。サガは、手にしたマフラーの包みを大切に腕の中に抱え込み、どこか浮き立った心と共に帰途についた。
それから、二日後。
今年、十一月最後の日は、折よく金曜日だった。サガは予め断って仕事を早めに引き上げ、行きつけの肉屋でラムのチョップステーキを仕入れ、付け合わせ用のいんげん豆、ブロッコリー、人参とマッシュルームを買い、それから少し迷って、薬局に寄った。
婦人用シャンプーや化粧品なども置いている大手チェーンドラッグストアの店舗は、何時尋ねてもファッショナブルな衣服に身を包んだ若い女性達で溢れている。
あきらかに仕事帰りのコートや鞄の他に、野菜や肉の入った袋を下げているサガの姿はそれだけで十分異質だったが、サガはそれでも居心地の悪い思いを宥めつつ店の一番奥へと向かった。
女性用生理用品が溢れるその棚の前に、誰も客がいないのをみてほっと息をつく。
ボトル入りの潤滑剤と、一応コンドーム(どうせ途中で外してしまうだろうが)を素早く手にとり、誰にも会わぬ事を祈りつつ、そのままキャッシャーに向かう。
実は、家には通信販売で買ったローションがまだ数本ある。が、自分でこういったものを用意するとアイオロスが喜ぶので(これも彼の幻想の一つであるようなのだが──つまり、アイオロスはこういった必需品を購入するのは「妻」の役目だと思っているらしい)、何か特別な日には、こうして薬局で買い物をすることにしている。
若いアルバイトと思しき女性店員が、一瞬サガの顔をじっと見詰め、それから少し俯いてレジを叩いた。
「それから、そこのビタミン剤の一番小さいのを」
言い訳のように、サガは呟いた。サプリメントに頼る生活はよくないと分かってはいるが、今日から週末、アイオロスも裁判が終わったばかりで、時間はたっぷりある(とアイオロスは思うだろう)。
睡眠不足と疲労をおして月曜に出勤するにはそれなりの助けが要る。アイオロスに言った事はないが、こういうものが必要になることもある。
必要なものを買っているだけだ、と内心で呟きながら、その実、本当は他の買い物から店員の注意を逸らせたかったのだと、サガは知っていた。
「19ポンド35ペンスです」
二十ポンド紙幣で支払い、紙の包みを受け取って、サガは足早にレジを離れた。ふと気になって振り返ると、キャッシャーの店員が楽しげに同僚と喋っている姿が見え、「奥様」という単語が、微かに聞こえた。
……まあ、この出で立ちでは、奥方の為に買い物をしている夫の姿にしか見えないか……
女性店員の思い込みに少し感謝しつつ、サガは薬局を後にした。
「……で、これが、そのジョンストンズのマフラー?」
三人分のラム・ステーキとボトル1本のワインが胃袋を満たした後、アイオロスがプレゼントの包みを開けて尋ねた第一声が、それだった。
足下ではウサギ達が今日の夕食の付け合わせと同じメニュー(ただし生)を平らげた後で、頭上で交わされている会話におかまいなく、眠たげな瞼を揺らしている。
「うん……君の髪と瞳の色に似合うものを選んだつもりなのだけれど……気に入らないかな?」
ワインで少し緩んだ目元に少し緊張を走らせて、サガはアイオロスの瞳をじっと見詰めた。
「いや、お前にしては若い選択だな。……誰かに選んでもらった?」
「そんなことはないよ。……いくつか見繕ってはもらったけれど、最終的にそれを選んだのは私だ」
「ふうん……」
アイオロスは面白そうに笑い、サガの心はその半分予想していた反応に萎んだ。
やっぱり、アイオロスは自分の選ぶものは好みではないのだ。「ジジくさい」と言われないよう、それなりに色の明るい、でも流行には左右されないものを選んだつもりなのだけれど……。
足下で、ウサギが小さく欠伸をした。
まるで、ウサギにまで「つまらない」と言われているようだ。ふとそんな悲観的な発想に陥り、サガは所在なげに俯いた。
その間にも、アイオロスはマフラーを広げて眺め、表裏をひっくり返してそのベージュと茶色のリバーシブルのマフラーを検分していた。それからそれをひょいと頭を垂れているサガの首にかけ、明るい声を上げた。
「お、お前、結構似合うじゃん。お前がすれば?」
「そんな……私は、君へのプレゼントに買って来たんだよ?」
「お前だって、俺の買って来たプレゼント着てくれないだろう?」
「それは……! 君が女物ばかり買って来るからだろう!」
「でも、そのへんの女よかよっぽど似合ってるぞ?」
「そういう問題じゃない! 私は……ただ……君が寒そうに首をすくめていたから……」
これだから、衣類は止めておくべきだったのだ。
サガは、何度か想像しては打ち消してきた可能性が現実になったことを知って、黙り込んだ。
寒そうな襟元に暖かなマフラーがあれば、と思うのは、アイオロスにとって迷惑でしかないのか?
いつもいつも、人の事は一から十まで気にかけて世話を焼くくせに、私が君を世話をやくのは迷惑だとでも?
サガは、小さく溜息をついて、用意していたバースデーカードを無言で渡した。
アイオロスが、楽しげにそれを受け取り、中を開いて確認する。
すっとその両目が細まり、それから、ふと口元に、それまでとは別の、淡く柔らかい笑みが浮かんだ。
『誕生日おめでとう。
共に過ごしてきた二十回の誕生日より多くの暖かい誕生日を、これからも共に迎えられますように。
一枚の温もりに願いを込めて。』
「……で、この願掛けにいくら払ったんだ?」
「内緒」
「このカードは?」
「……1ポンド87ペンス」
「まったくなあ……お前は………」
くつくつ笑うアイオロスに、流石に少し気分を害して、サガはソファの脇に置きっぱなしになっていた茶色の紙包みを取り上げた。
まあ、こういうこともあろうかと、一応予想はしていて、それで薬局に寄ったのだ。
「気に入らないプレゼントで失礼。一応、それ以外のものも買って来たよ。包装は間に合わなかったけれどね」
紙包みをぶっきらぼうに突き出すと、アイオロスがその袋の口を開け、それから腹を抱えて大爆笑した。
「失礼な! そこまで笑うことはないだろう!」
「だって……お前……この二十年で成長したなあ………!」
「他に何で君を喜ばせられるというんだ?! 人が三週間考え抜いて選んだプレゼントは気に入らないと言うし!」
突然の大爆笑に、ウサギ達は目をこぼれ落ちそうなほど見開いて飛び上がり、散り散りに部屋の隅で縮こまっている。
思わず拳を握りしめてサガが叫ぶと、アイオロスがふと笑いを収め、頬を膨らませているサガの髪を優しく撫でた。
「バカ。あれ、カシミヤ100%だろう? お前のウールより暖かいから、お前に譲ってやると言ったんだ。……ま、でも、願掛けじゃ仕方がないから、有難く貰うことにするか。……でも、ホントの事を言えば、俺は、お前の1ポンド87ペンスのカードだけで十分だったんだがな」