ピアノの音だ。
ミロ・フェアファックスはふと何処からともなく聞こえてきた音に、意識のチューナーを合わせた。
アイオロス等の定例のクリスマス・コンサートも盛況のうちに幕を閉じ、コンサート終了後は、集まってくれた懐かしい友人らとカミュのアパートに雪崩れ込んで打ち上げをした。
まるで学生時代に戻ったかのように、皆で騒ぎ、酔い潰れた順に適当な場所で眠り込む。
そうして自分が寝たのはいつだったか。
目を閉じたままミロは記憶を反芻し、今自分が居る場所がカミュのアパルトメントのバスルームだと思い当たる。
酔ってっかわざとか、説教を始めたシオンを避ける為に、毛布を体に巻きつけてバスルームに入り、そのまま寝てしまったのだ。その間、何人か用を足していた気もするが……。記憶を反芻してゆくうちに、徐々にピアノの音がはっきりとミロの知覚部に浸透してゆく。
バッハ、か……?
一瞬の五分の一程のぼんやりとした意識と遊夢の境界で、ミロはここはカミュの家なのだからピアノの音がしてもなんら不思議ではない、と思いかけた。
思いかけたが、頭の中で何かが弾ける音がした。
そんな馬鹿な。カミュの音がこんなクソみたいな音楽であるわけがない!
「カミュッ!!!」
ミロはバスルームのドアを殆ど叩き壊す勢いで開け放ち、カミュが何処に居るかも確認する間も惜しんで大音声で叫んだ。
床やソファにはまだ睡眠を貪っている人間が海岸で日光浴するトドのように横たわっているが、時刻は既に朝の9時を回っている。
「何だ、大声で……。言っておくが、お前が自分でパスルームで寝ると言ったんだぞ?」
怒りで視界が見えなくなっているミロの頭に、カミュの言葉が届き、それがアンテナに届いた電波のようにミロの視覚をオンにする。やっと、ミロは、カミュが台所のテーブルに上半身をうつ伏せて椅子に座って眠っていたのだと知る。
ミロは、一歩も動けずに、体を戦慄かせながら再び叫んだ。
「なン何だっ!! この下手糞なピアノはっ!!!!」
カミュは、ぼうとした表情で天井に軽く視線を流すと、「ああ……」と曖昧な声を出して溜息を付き、前髪をかき上げた。
「先月、かな。インド人の夫妻が上に引っ越してきて、ピアノを弾くのが趣味らしい」
呟くように言ったカミュは、もう一度テーブルに突っ伏して眠ろうとした。何せ、彼が眠ったのはかれこれ2時間程前なのだ。
だが、それをミロの三度の大声が妨げた。
「練習?! 練習ってなんだ?? 練習って言うのは猫が鍵盤の上を歩くような事を練習って言うのか!!!! なんなんだよっ!!! あのふざけたテンポとめちゃくちゃな音符の羅列はっ!!!!」
カミュの部屋の真上の住人が弾いている曲は、バッハのインベンション。
酔っ払いが、というよりはジャズにもブルースにもなり損ねた不思議なメロディーがバッハの皮を被り音を出している、といった有様だろうか。
カミュは溜息を吐いてもう一度髪をかき上げる。
「練習しているんだ。誰だって最初から上手になんて弾けないだろう? ……まあ、一小節の拍数がたまに合わないとか、いろいろ練習以前の問題はあるようだが」
ミロはカミュの返事に目を剥いた。
「当たり前だ! だから練習っていうのはレベルに合わせて段階を追ってやっていくものだろう?! なんだあれは! あの音は、指はっ!! あれはまだバイエルを弾いているべきレベルだろうがっ!!!?」
ミロが捲くし立てている間に、曲はバッハからショパンのエチュード「別れの曲」へと移っていた。そして、2小節目に入って直ぐに音を外す。
ミロの頭の中で、また何かが弾け飛ぶ音がした。
「ミロ?」
カミュは、すうっと表情を凍りつかせ半眼になったミロが玄関に向かって歩き出したのを見て、カタンと椅子を引いて立ち上がった。
「何処へ行く気だ?」
「ここの上なんだろ? 一言いって来る!」
「ミロっ!」
ゆらり、と、しかしなにやら重点音のBGMを背負って歩いているミロの腕をはしっとカミュは掴んだ。
「やめろ。ここに住んでいるのは私なんだぞ? 揉め事はごめんだ」
「そうだ。お前はここに住んでいる。だから、オレが言って来てやる。オレはここに住んでいないからな」
酷薄な微笑を浮かべてミロはきっぱりと言った。
「貴方の音は騒音です。下に居るのはピアノのプロなので恥ずかしい思いをしたくなければバイエルから練習しなおしなさい、と言えば親切な忠告だろう?」
カミュは、何も言わず思い切りミロの金色の頭に鉄槌を振り下ろした。
「へぇ。そんなに下手糞だったの? 僕も聞いてみたかったなぁ」
70リットルゴミ袋を手に持ちながら、アンソニーは話のネタにね、と笑って言った。
「ああ、もう、まったく凄かったよ。何拍間か一体なんの曲弾いているのか分からなかったからな」
暗く暗く、地を這うような声でミロは嘯いた。顔には笑みが引かれているが、それは明らかに引きつり、目は笑っていない。
あはははは、とアンソニーは微妙な笑い声を上げてじりじりとミロの側から離れ、「えっと、どこかにまだゴミはないかな?」と声に出しながら二つ学年が上のシュラ・コーツの元へ向かった。これはこれで明らかにミス・チョイスだったのだが……彼がビオラ弾きである事を思えばいたし方あるまい。
「だけど、ものの15分くらいで終わったんだろ? 良かったじゃないか」
開け放した窓際で、タブロイド紙を振り回して部屋の空気の入れ替えをしていたアイオリアが言った。
ミロの瞳が、くわっと見開かれ、彼の口がパカッと洞窟の入り口のように顔の中心に現われた。
「おうよ。たった15分だ。たった15分、出鱈目に楽器から音を出しただけで練習と言えるのか?? そりゃ練習じゃねぇだろっ!!」
ミロの真っ暗な口の洞からは、ずおぉぉぉ、と怨鎖とも呼べるような不穏な空気が渦を巻いて吐き出されている。
パン、と乾いた音がして、ミロの頭が不自然な勢いで前に倒れる。
「いい加減にしろ。お前もしつこいな。口を動かさずに手を動かせ」
カミュだった。ミロが、手にしていた雑巾をゆっくりと床の上に離し、体をカミュのアパルトメントの出口へと傾がせたので後ろから叩いたのだ。
ミロは、勢い床に手を付いた姿勢でカミュに口応えする。
「そうだ。カミュ、お前幾つか自分の演奏のテープ、持ってただろう……。それ、貸せ。無記名で封筒に入れて上の階のドアの前に置いて来てやる……それで、パソコンで打ち出したメモを付けとくんだ。貴方の音は下に漏れている。配管工を手配するよう管理人にお願いして下さい、とかなんとか……。いや、いっそのこと、今から楽譜やに行ってバイエル買って来てクリスマスプレゼント用に赤いリボンでもかけて玄関の前に……」
ぶつぶつと空を見つめて呟くミロに、カミュは盛大な溜息を吐いてアンソニーが分別して集めたゴミ袋の口をきゅっと締めた。
「ミロ、もういいから手を洗ってコートを取って来い。空気の入れ替えをしている間、皆と一緒に私たちも外に出るぞ」
なおも頭の中で目まぐるしく階上の住人に対する苦言の呈しかたをシュミレートしているらしいミロは、据わった目のまま器用に手探りで自分のコートを掴み取り、靴を履いている。
カミュは、ちらっと壁に掛けている時計を確認した。
12時27分。
そろそろミロ曰く騒音以下のピアノの音が鳴り始める頃だ。
やっぱ酒飲んだ翌朝はピザだよな! 既に玄関の外に出て準備万端のうきうきしたアイオロスの声が廊下に反響する。
オレは、絶対にチェーン店のピザなんて食わない。
ハリネズミのように尖り、グリズリーの歩みのように緩慢なミロの声がそれに応える。
バカだな……これでピザを食べに行くことは決定だ。
カミュは胸の中で呟いた。アイオロスは誰かが反対の声を唱えれば嬉々として絶対にそれをやる人間だ。きっと山ほどサラミ・ピザを注文して(この場合、本当にそのピザにはサラミとブレンドチーズしかのっていない)、土産だと言って自分に押し付けるだろう。
玄関に鍵を掛け、さて、と体の向きを変えたカミュに、じっと廊下に佇んでカミュを待っていたミロがすわと口を開き問い掛けた。
「なあ、ホロビッツのCD全集と防音設備の各社パンフレットとどっちがいいと思う?」
その日、何十度目かのクリアな打音を、第117期クイーンズベリ大オーケストラ、パーカッション・リーダであったカミュ・パーロウはミロ・フェアファックスの頭で打ち鳴らした。