「どうして、お前は何もかもそうのんびりなんだ?」
はあ、と深く息を吐く敬愛する師匠を前に、俺はぎこちなく口角を上げて答えを誤魔化すしかできなかった。
ロベルト・ドニゼッティは聖チェチーリア音楽院でもう三十年以上教鞭をとっているヴァイオリン演奏科の教官だ。俺が下級第六学年の時からの付き合いで、今はもう家族同然だ。愛想無し、口数僅か、たまに開く口は辛口ばかり、な人なので学生からは怖がられているみたいだけれど、不思議と俺は最初からこの師匠が好きだった。
「パガニーニ国際コンクールで二位を獲ってから何年だ? 三年か? 獲った時すぐに行動を起こせば幾らでも道はあったものを……」
ロベルト師匠はもう一度ため息を吐いた。「遅い」と呟きながら、書机の上に山と積まれた紙の中から何かを探し出そうとしている。
新学期そうそう、カミュの衝撃の告白から三日、俺はロベルト師匠の自宅を訪ね、自分を拾ってくれそうな音楽エージェントはいないかと尋ねている。師匠は一瞬目を剥いてから、冒頭の一言になるわけだ。
本当は、カミュの卒業を待って、一緒にそんな活動をしたかった。けれど、カミュの「契約」告白で事情が変わった。お金が必要だ。「お前に払えるわけがない」と言われないだけの。カミュが安心して音楽だけに打ち込めるだけの環境を整えるために。そして、出来ればカミュの卒業後の進路を支えられて、もし「契約」を勘ぐる噂が生まれても、それをモノともしない盾になれるような「演奏家」になりたい。
カミュは、誰にも秘密の契約と言ったけれど、カミュが漏らしたように「特別」に面倒を見てもらっているのなら、きっと遅かれ早かれその特別をやっかむ悪意が、カミュの周りを羽虫のように飛び回る筈だ。カミュはきっと、「事実だから」と云って構うことをしないだろう。パブリックでのダンス大会の後の騒ぎのように。カミュの物わかりのいい諦めは、いつも俺を苦しくする。
先に演奏家として活動を始めて、卒業したカミュに手を差し伸べたら手を噛まれそうだ、と思っていた。国際的なタイトルは獲るだけ取っていれば後々困ることはあるまい、と挑戦した国際コンクールは二位という微妙なもので、でも今の師匠の苦虫を食べてしまったような顔を見るに、それなりに価値はあったらしい。多分、三年前は。
探すの、手伝った方がいいかな、と思い始めた時、バサッ、と紙の束で胸元を叩かれた。ヨーロッパの目ぼしいクラシック・レーベルのリストだった。
約一か月かけてレジュメと自分の演奏を記録したCDを揃え、イタリアの数社とイギリスのレーベルを中心に二十箇所ほどに送ってみた。一番反応が早かったのがまさかのグラモホォンで、送ったものは確かに届いた、という事務的な封書とカードだったけれど、そうか、こんなふうな対応をするのか、とそのスマートさに感心した。
有難いことに、幾つかのレーベルから連絡があり、話を詰めていくうちに今イタリアを離れて演奏だけに集中できない理由から(カミュから目を離せる訳がない)、イタリアの小さなクラシック・レーベルと契約した。
その名もストラディヴァリウス。ミラノの事務所を訪ねれば、開口一番「どうして写真を同封していてくれなかったんですかっ?!」と来た。色々、なんか、物凄くあけっぴろげな事務所だ。まあ、ミラノといえどイタリアだし、と自分を慰めた。
「じゃあ、スィニョール、音楽院の講師のお仕事をされながら、ということなので週末を中心にコンサートを組んでいきますね。お車お持ちでしたら、移動はそのお車で、という事で宜しいでしょうか? フィレンツェにご実家がある、と。そうなるとフィレンツェをまず攻めていきますか? ミラノは今からだと来年以降、CDの販促を兼ねて、という事で」
どんどんと調子良く話を進めていくけれど、イタリア人って基本言った事の半分も実行できない夢想家だから、何をどこまで頷いていいのか久しぶりに戸惑う。
腕一本で食っている職人の言葉にはそれなりに真実がある。でも、商売人の言葉は愛想と取らぬ狸の皮算用が砂糖菓子のように降り積もっていて、ほんと、どこまで削ぎ落とせば土台が出てくるのかわからない。もっとも、カミュは土台なんて無いって断言してたし、俺ももしかしたらこの話、ビジネスの話じゃなくて空想お伽噺かもって思ってたりする。
調子のいい話はどんどん加速して、何故だか俺が昔モデルをしていた、という事もバレていて「スィニョールならおっきく顔写真載せたポスターさえ張っておけば、教会のコンサートなんて簡単に満席ですよ」なんて囀るから、思わずカミュの真似して顔には笑顔、心の中で「そんなわけあるかっ!」って毒づいてやった。
演奏会シーズンは秋からだから、それまでにCDを間に合わせましょう、と言われレコーディングの日程も組まれた。候補曲のリストはエルガー、クライスラー、タイス、ロマン派のオンパレード。ため息を噛み殺した。
これ、俺がわざわざ弾く理由あるの? と思う。
不遜だ、とも思う。けれど、これらの曲はもう巷に溢れかえっている。そんなの今更俺が弾いてどうするんだ? と。思わず不機嫌な顔をしそうになった時、脳裏にロベルト師匠とカミュの顔がパッと浮かんで消えた。
巷に溢れかえっている曲だからこそ、出来の良し悪しも歴然と出る。誰もが聞いたことのある曲だからこそ、詰まらない演奏では人の心には残らない。口を酸っぱくして言われた、「おざなりに弾くな、頭を使え」そして、「弾けろ」という言葉。
ちょっと目を瞑って息を整えて、覚悟を決める。うん。売れなかったら、出来高制なんだから収入は増えないし。勇気と知恵と努力だよね。そういう話は大好きだ。でも、俺が好きになるのはいつも主人公じゃなく脇役で、いざ自分がその主人公を張らなきゃならない状態はとても居心地が悪い。
一度は決心したものの、苦手意識の強い曲が急に得意満々の曲になるわけはなく、久しぶりにロベルト師匠に曲を見てもらった。台所で耳を澄ませていた奥さんがひょいっと顔を覗かせ、
「そんな眉間に皺を寄せて愛を囁くの? 笑顔で囁かなきゃ」
と言ってコロコロ笑った。
三月も末、一度音楽院から家路に向かうカミュを見かけた。その表情は、今年の初めより随分柔らかく精神的に落ち着いているように見えた。
カミュが精神的に落ち着いているってことは、「契約」が上手くいっている、そこに葛藤を感じなくなってきたって事で、俺はますます崖っぷちってことだった。
「だからさ! お前はヴァイオリニストであって楽器屋じゃないだろ!」
「いや、だからと言って俺の顔写真のアップとか、必要ないだろう……?」
四月に入って、少し自分のウェブサイトを作るのに難航した箇所を相談したアレックスは俺のサイトを一目見るなり、「文房具屋?」と言った。
「でも、商品ってこの場合、お前だろ? だったら効果的な商品写真を使うのは当たり前じゃん?」
「いや、商品は音楽。曲です」と言った俺に、「でも、曲って見えないじゃん? オレ、昔っから演奏家とか音楽家とかのウェブサイトってダサくて嫌なんだよな。おんなじ芸術畑の人間の作品とは思えない」とアレックス。
アレックスはロンドン芸術大学卒でショウビジネスの世界に魅かれて流れながれてミラノにやって来た。今は若くて血気盛んなメンバーを集めてデザイン総合事務所を立ち上げて活動している。国際展示なんかのポスター・コンペティションに最近勝ち星を取っていて勢いがある。
「これ、うちの事務所で引き受けちゃダメ? ミロは器用だからまあ、パッと見いい感じに作れてるけどさ、色気がない。商品価値を進んで低く見積もってるから広告効果がヘボ過ぎ」
アレックスはじっと俺の顔と体をふむふむと眺めまわした。
「ロンドン時代と比べてもそんな劣化してないし。この顔と体を使わない手はないだろ」
ロンドン大学に通っていた当時、生活費の為と、カミュの居るアパートメントに帰りたくないという理由でかなり一生懸命モデルのバイトをしていた。アレックスはその頃からの友人だ。
「いや、だから、顔は演奏には関係ないって言うか……」
「いや。この顔、使おう。マージンは安くしとくからさ。その代りサイト制作にうちの事務所の名前とリンク貼って。管理はお前、自分で出来るだろ? だからうちはコンテンツの見せ方を重点的にやって……活動始めるのって、九月? 十月? CDジャケットとか、ブックレット……コンサートのポスターもこっちで作っちゃおう。てか、もう、これみんなに声かけてプロジェクトにしちやった方が良くない?」
みんな、っていうのは年に数回集まって騒いでいる若手のとんがった芸術家たちの事だ。
アレックスは俺の返事を待つことなく、事務所内に声を投げて撮影スタジオの空きを確認していた。そして、帰ってきた返事に右手で返事を返すと左手で携帯電話をいじって電話を始める。
「いや、アレックス、そんな勝手に決められないって!」
俺の慌てた制止の声に、アレックスは、
「いいから。面白そうだからやろうぜ。これからお前はエージェントのとこだろ? じゃ、そんな訳でコンテンツはこっちでやらせてもらうって伝えといて。あとCD作る時の予算聞いてきて」
アレックスは俺を追い払うように手を振ると再び電話相手との会話に戻った。もうアレックスの興味は俺からすっかり逸れて、見えたビジョンを現実のものにする為に走り出していた。
アレックスのデザイン事務所を出てミラノ街の石畳を歩く。俺の居心地の悪い感じはかなり跳ね上がっていた。俺は、お祭りは好きだけど、その他大勢として騒ぐのが好きだ。
真ん中でスポットライトを浴びて騒ぐなんて……。
もの凄くやり辛い。
はあ、と息を吐く。
やり辛いけれど、それが自分の人生を自分で作っていくって事だとは分かる。自分の人生はその他大勢なんて場所で眺めているんじゃ造っていけない。真面目に毎日生きてるだけでも作れない。
覚悟を決めなきゃね、と呟いてみる。
指先を足元から、ずっと先に続く道のその先を目指して伸ばしてみる。
努力は当たり前。知恵を使って、勇気を持って、ちゃんと自分の足であるかないと、ね。
びょん、と何個かの石畳を飛び越えた。目の先には広がるのは、見慣れたミラノの街並みとその向こうに広がる決して手に届くことは無い空という空間だった。
ビジュアルアートの世界は厳しい。例え有名な雑誌の表紙を飾るような作品を造ったって、一か月経てば別の誰かの作品を載せた雑誌が店頭に並ぶ。流行もあるから、当時「いけてる」感じのものがすぐに野暮ったくなって人の興味なんか引かなくなる。音楽事務所が適当に俺の写真を撮ってブックレットも付ければCDが売れる、なんて考えるのはとっても甘い。
「うん、だから、なるべく、流行とか関係なく、一つ一つの作品の完成度が高いものを作りたい」
その晩、アレックスの家でスカイプを繋ぎ、ネットの向こう側にいる友人達に言った。自分自身の音楽はそういう気持ちでやっているから、見える形にして人の関心を惹くならそういう写真を撮ってもらいたい。
「だから白黒写真? まあ、色にも流行があるけど、お前の場合は却下だな」お前、自前でいい色持ってるし、とフォトグラファーのルーカが返す。
隣でアレックスが「それに音って白黒じゃないし」とぼそりと言った。
スタイリスト、フォトグラファー、メイクアップアーティスト、など色んな業種の人間で喧々諤々のオンライン会議をした。終わった時には空が白けてて、お互い云うだけ言い合って、アイデア出し合って、俺はいくつかの、どうしてもやってみたいことを伝え、会議の終着は、俺のスタジオ録音が終わり、本格的なバカンスシーズンに突入する前、七月最初の週末にミラノに集合することになった。
連続拍手は
30
回まで可能です。