外の気温もマイナスが当たり前になってきたある日(ちなみに今日はマイナス八度だ)、百目鬼が、仕事にでかける間際に、なにやらモジモジしながらこんなことを尋ねてきた。
「矢代さん、……大変忙しいところ申し訳ないのですが……1日だけ、俺の単位取得のためお付き合いいただけませんか?」
「単位? なんの?」
「リベラルアーツ科目です。なんでも、1日講義を受けて、レポートを書けば単位を出してくれるそうなので……」
百目鬼は、こちらに来てから、仕事をしながらこの街のコミュニティ・カレッジに通っている。2年分の単位を全部取得すると、日本でいう短大卒の資格になるらしい。その後、さらに四年制の州立大学に編入すれば、大卒資格を得ることも可能だ。まぁ、課題の量はハンパじゃねぇが。
「別にかまわねぇけど、何すんの?」
「それが、よくわからないんですが……一人で受けても意味がないらしいんです。だから、必ず、恋人でも配偶者でも、パートナーを連れてこい、と」
恋人? 配偶者?
……大学の、講義なんだよな??
「……なんかよくわかんねぇけど、わかった。いつ?」
「再来週の水曜、午後1時からです」
「ん。じゃ、予定あけとく」
そんなこんなで、会議の予定を調整して、約束の水曜日に、車で町外れのコミカレに乗り付け(まぁちょっと駐車場のポールでボディ擦った)、指定の教室に足を踏み入れると、前のホワイトボードに、デカデカとこんな文字が書かれていた。
Couple Relationship Education
……いや、ちょっと待てよ。コレ、「よくわからない」とかいう内容じゃねぇんじゃねえの?
一人で教室の扉を開けた俺に、めちゃくちゃ注目が集まっている。そりゃそうだわな。
一応大学なので、やっぱり若い連中が多いが、それでもたまに白髪混じりの奴がいたりする。リベラルな土地柄、さすがというか何というか、同性カップルも3割くらいはいる模様だ。
少々気圧されて、動作が遅れたところ、後から肩を叩かれた。
「……すみません! 先に入って待ってるつもりだったんですが……!」
「おせーよ。てかお前、内容わかってて、わざと黙ってたな??」
振り向いて身長190センチのデクの棒を睨んでやったら、なんだか部屋がざわついた。
いや、別に声は上がらなかったが、なんというか、雰囲気が、だ。
……そのへん、その、サラリと当然のようにコッチの腰に手回して誘導しようとするオマエの癖のせいだ、って、わかってんのかねコイツ?
講師はなんでもその道ではかなり有名な人物らしく、アメリカ全土を飛び回って方々で講演会や特別講義を行なっているらしかった。なにしろアメリカは、結婚したカップルの半数が離婚する離婚大国だ。まぁ、大学で金がかかるから、さっさと学生結婚して少しでも経費浮かせるとかパートナーに食わせてもらうとか、諸所の事情で結構簡単に結婚しちまうから、ってのもあるんだろうが……それにしても、やっぱ離婚となればそれなりに金もライフも削られるので、その状況をなんとかしよう、って活動も盛んなんだろう。
配られたプリントやら冷蔵庫に貼るシールやらを眺めていると、その講師は、簡単な自己紹介のあと、いきなり爆弾をカマしてきた。
「本日、まず最初に覚えていただきたいのは、恋愛感情は、化学反応だということです。これはすでに複数の医療研究機関の調査でわかっていて、本当に、ホルモンが分泌されるんです。そして、そのホルモンは、多少の個人差はありますが、恋に落ちてから約3年で枯渇する、と、すでに研究結果がでています。このことは、結婚したカップルが次第にセックスレスになっていく問題とも関わりがあります。つまり、3年を超えたら、カップルの双方が努力をしないと、性生活は続きません。同時に、そのパートナーへの性的興味の減少に伴い、パートナー以外の性的興味対象に惹かれるようになります。これは、人類の生存戦略のため回避は不可能ですので、今パートナーとハッピーな生活を送っている皆様は『自分は絶対そんなことにはならない』と思っているかもしれませんが、必ずそうなります。まず、そのことを重々に自覚してください」
……おいおいおい。いきなりロマンスもへったくれもないのがきたなぁ。
まあ、知ってたけどな。
「でも、だからといって、浮気を繰り返していては、子供が無事育つまで家庭を維持できないですよね? 幸いなことに、人間は脳が発達した高度な社会性をもつ動物なので、性的行動を誘起するトリガーを引かなければ、ホルモンが枯渇したあとも楽しい愛ある家庭を維持することができます。というわけで、3年を超えて家庭を維持していくためには、パートナー以外の性的興味対象との、ロマンチックなシチュエーションを徹底的に回避することが必要不可欠です。奥さんや旦那さんがいないところで、他の男性や女性と会うのは絶対にダメです。電話もいけません。職場などでチームになるときには、二人だけで会わず必ず第三者を間に入れる。友達だから、とか、幼馴染だから、とか、相手は結婚しているから、とか、それに類する言い訳で例外を作ってはいけません。実は、友達や幼馴染だからこそ、気安く悩みなどを打ち明けて不倫に発展するケースがとても多いのです。お互いにそのルールを遵守するだけで、不幸な離婚の3割は回避できます」
なるほど。
こういう話は、日本だったら曖昧に倫理観だとか、体裁だとかいうもので縛ろうとするんだろうが、こちらではまずルールを決めてしまって、それを夫婦間で共有する、という話になるらしい。さすが契約の国だ。
そういえば、会社の会食イベントには、必ずパートナー同伴オプションがついてて不思議に思ってたが、要するに、そういうことなんだな?
仕事を理由に、パートナー以外と親密な食事会はNG、ってわけだ。
チラリと隣の百目鬼を横目で見ると、さりげなく手元でガッツポーズをしていた。
……ちょっと待て。俺はそんなに信用ねぇのか?
(まあ、ねぇだろうが。)
「残り7割の原因の大半は、意思疎通の失敗です。そして、今日は、それを回避する方法を皆さんに学んでもらおうと思います。みなさんは、意思疎通がうまくできないのは、相性が悪いからだ、と思っていませんか? 実は、意思疎通を円滑に行うというのは、才能でも相性でもなく、テクニックを持っているか否かの問題です。テクニックさえ習得すれば、だれでもできるようになるのです。そのテクニックの名前を、Speaker Listener Techniqueといいます」
わー、さすがマニュアル大国だなー!
そんなんまでマニュアル化されてんのかよ。。。
驚いたが、まぁ、それなりに面白かったので、手元の紙に色々メモってきた。
以下、そのメモの内容。
1. Speaker has the floor.
ルールの一つ目で、これは、要するに、相手の話を遮ってはいけない、ということらしい。
Floor、はなんでもよく、たとえばタイルカーペットのうちの1枚でも、リンゴ箱でも、なんなら広げた新聞紙でもかまわない。物理的に、喋る側がその上に立って喋り、そこにいる間は、Speakerだとみなされる。
(立ったり座ったりが面倒なら、一枚の紙とか、マイクに見立てた何かを手に持つ、でもいい。マイクを持っている方がSpeaker。)
その「お立ち台」に立っていない方は、自動的にListenerになる。
そして、Listenerは、一つの例外を除き、喋ってはならない。
その例外とは、「パラフレーズ(復唱)」で、詳しくはListenerのルールを参考。
2. Speakerが守らなければならない3つのルール
(a) Speak for yourself, don’t mind read.
「自分がどう感じたか」だけを喋れ、というルール。
「相手が何を思っているか」を推測した言葉や、相手の言動に対する決めつけを話してはならない。
例を挙げると、「○○と言われて、私は悲しかったし、悔しかった」と言うのはOKだが、「○○なんて、お前は俺をバカにしている」「あなたは私を愛していない」はアウト。
どっちも、相手にしか、本当のところがわからない話だから、らしい。
(b) Keep statements brief. Don’t go on and on.
文章をダラダラ長く続けてはいけない。一息で喋れる長さくらいにする。
例を挙げると、「お前があの時ああ言ったが、俺は〇〇なつもりだったし、そもそもお前があの時××してなければ……」はもう長過ぎだ。
「俺は〇〇なつもりだった」で一回切る。このくらいにしておかないと、Listenerが復唱できない。
(c) Stop to let the listener paraphrase.
短い一文のあとに、Listenerが復唱する時間を与える。どんどん続けて喋らない。
これは、喋ってる間に感情が高ぶって、議論がオーバーヒートするのを防ぐため。
3. Listenerが守らなければならない2つのルール
(a) Paraphrase what you hear.
Speakerから聞いたことを復唱する。
復唱なので、内容を変えずにその通り真似なくてはならない。要約は禁止。
「君は、○○○○○○○○○○○○なんだね?」のところの、○○○○○○○○○○○○の部分に、人称を表す単語だけひっくり返してSpeakerの言葉をそのまま入れる。
「要するにこういうことだろ?」は絶対にダメ。
(b) Focus on the speaker’s message. Don’t rebut.
Speakerのメッセージを理解することに集中する。反論や反証はだめ。
4. Share the floor.
お立ち台(またはマイク)を、交互に相手に譲る。どちらかがずっとSpeakerポジションに居続けるのはダメ。
なるほど、口論のプロセスを、細かく細分化して、その全てのステップに、議論が感情的にヒートアップしないような仕掛けがしてある、って感じらしい。
……そんなわけで。
早速実習の時間になり、百目鬼が「これをマイクにしましょう」と自分のペンケースを手にとった。
「俺が先にSpeakerやってもいいですか?」
「いいけど?」
(Speaker)「俺は、あなたが、好きです」
(……ちょっと待て、ソレ、喧嘩の内容じゃねえじゃん! てか、これ、復唱すんのか?)
(Listener)「お前は、……俺が、好き、なんだな?」
(Speaker)「はい。……でも、あなたからは、そういう言葉をあまり聞けないので……それが、寂しいです」
(Listener)「……? お前は、俺から、そういう言葉をあまり聞けないのが、寂しい、んだな?」
(ここで、百目鬼が、ペンケースをこっちに寄越してきた。つまり、今度は俺が、Speaker、ってことだ)
(Speaker)「……俺は、……そう言うの、言うと嘘くさくなるのが……」
(あ、ダメだ。Speakerは、自分が何を感じたか、しか喋っちゃいけねぇんだった。)
(Speaker)「やり直し。俺は、そう言うの、言ったら嘘くさいような感じがしてた」
(Listener)「あなたは、そう言う言葉を言うことが、嘘くさいような感じがしていたんですね?」
(Speaker)「……そう思ってたが、お前がそう言うのは、別に嘘くさいとは思わねぇ」
(Listener)「あなたは、俺があなたを好きだという言葉には、嘘くささを感じないんですね?」
(コラ! パラフレーズになってねぇじゃん!)
(Speaker)「……だから、まあ、今後は、……努力する。」
「……セッション終了ですね。なんか、あっという間に解決しましたね? すごいですね……これが、Speaker Listener Techniqueの力、ですか……」
百目鬼は、なんだか素直に感動しているが。
いや、コレ、単に、設問が不適切だっただけなんじゃねぇのか?!
ちなみに、帰りがけに、教室を出る前、講師(40代くらいの女だ)がやたら満面の笑みで、「今日の講習どうでしたか? コレ、たくさんあげますから、冷蔵庫とかに貼って、折りに触れて試してみてくださいね!」とか言いながら、冷蔵庫に貼るマグネットシートを4枚ほど押し付けてきた。
貼んのか? コレ。
………貼るか………。
そうですか?
俺は、これ以上ないほど、最適な議題だったと思いますが!
これ、普通に聞いたら、きっと一時間経っても、イエスの返事もらえなかったですよ(笑)
おいコラちょっと待て、あれは、あんな場でバカ丸出しの議論してんのどうかと思ったから、さっさと切り上げたんだが?!
お前、隣の女二人のカップルがコッチチラチラ見てたの、気づいてねぇだろ?!
えっ……そうなんですか?
バカ丸出し……なんですか?
…………?
俺は……今日は、矢代さんの本当の気持ちがわかって、嬉しかったので……
今、悲しいです……?
オマエ、なんでも泣き落とせばいい、とかって思ってね?
……。
まぁ、あの方式がソコソコ有効だってのは認めるし、嘘は、言ってねぇから、
……?
あんま、しょげんな。な?