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アイオロスとサガのモルディブ滞在記

 

そもそもの始まりは、今年のアイオロスの誕生日の過ごし方だった。当初は中国に行く予定だったのが、近年執着を増してきた「純白のウェディング」熱にサガの気力が付いていかず話が決裂。アイオロスは自称「傷心の家出」、他称「迷惑な逗留生活」を実行に移し、一週間後、サガが代替案として持参した「南国の島、地上の楽園への新婚旅行」でようやく落着の兆しを見せた。

 


 

「大切な初夜のために寝室は分けよう!」
サザークの小さなアパートメントに戻り、うさぎにただいまの挨拶をしていたサガの背後から、突然きっぱりとした、厳かな宣言とも言えるアイオロスの声が響いた。
道々、サガから手渡された旅行会社&ホテルのパンフレットの束に熱心に目を通していたアイオロスが、全ての紙に目を通し言い放ったのがこの言葉だ。
思わず崩れかかった体を、うさぎを潰してはならないと気力だけで支えたサガは、一瞬自分を褒め、その後その原因となった言葉を頭蓋骨の中でもう一度確認の為に響かせ、どっと疲労感に襲われた。

「初夜」って、一体なんの事だ?!

と、突っ込んでやりたい言葉が両手に余るほどサガの脳裏に噴出する。
サガの認識では、初夜とは the bridal night もしくは the wedding night というもので、結婚の意志を表明した者同士が迎える初めての晩を意味していた筈だ。
アイオロスと初めて夜を共にしたのは、両親には申し訳なくてとても言えないが、十代もやっと後半に入ったばかりの頃だった。そして、パブリックを卒業し、オックスフォードでの大学生活からアイオロスがフランスに留学していた二年間を除いてこれまでずっと生活のパートナーであり性の上でもパートナーあり続けてきた。
この状態で、一体どんな神経で「初夜のために」などという言葉か生まれてくるのか、一瞬目の前の視界が遠のく。
いや、婚前交渉がもはや当然の事となった現代において、例え挙式の前に体の結び付きがあったとしても、やはり結婚の誓いをした後に迎える初めての晩を「初夜」と称しても、 the bridal night もしくは the wedding night とその夜の事が称される限り間違いではない。
だがしかし、自分たちの場合、「花嫁」も居なければ「婚礼」も無いのだ。一体どこに夜という単語の前にそんな余分な形容詞の着く必要や余地があるというのか?

ああ……でも、「新婚旅行」という言葉を使ったのは自分だ……。

うさぎと向かい合いながら、出口の見えない思考の螺旋階段にはまっていたサガはアイオロスの「初夜」という単語の出自に思い当たり今度こそがっくりと肩を落とした。
背後では、アイオロスが予備の寝具を両手に抱えてリビングの隅に着々と簡易ベッドを支度している。
そんな所でこれから一ヶ月も眠ったら体を壊すよ、とか、一ヶ月溜め込まれて後の自分に降りかかるだろう惨劇を予見してそれだけは避けたいという願いが激しくサガの胸中で交錯した。
折角、地上の天国と言われる美しい南国の島に行くのだ。一週間寝室にいるだけしか出来なかった、などという結果は絶対に避けたい。
しかし、アイオロスを連れ戻すためにこれまで払った強行軍---長距離通勤の後に旅行会社に足を運び、夜遅くまでパンフレットに目を通し、また旅行会社に足を運び、予算から日程の調整などに時間を割く(これまではアイオロスが担当していた事)---に疲労の色が濃かったサガは、取りあえずの睡眠時間を確保する為に、「風邪をひかないように」という言葉とアイオロスのしっかりとした鼻梁へのキスを一つ落として、一人で寝室へ行く道を、この日は選んだ。

しかして、その後、アイオロスは誓い通りにサガへのキス以外の親密な行動は一切、ぱったりと行わなかった。
次第に危機感を募らせたサガは、まだ決めていなかったオプションのアクティビィティーのパンフレットやウェブサイトを集め、巡り、涙ぐましい努力を開始した。
「ほら、初心者用の水中ダイビングのコースがあるんだ。インストラクターがマンツーマンで教えてくれる」
「クルージングでランチボックスを持って無人島に行くコースがあるよ?」
「シュノーケリングも出来るそうだよ。さんご礁や魚が綺麗だって書いてある」

サガの内心たっぷりと冷や汗をかきつつの日中散歩予定や海での娯楽のお勧めなど、アイオロスは何処吹く風の状態で、彼も仕事帰り寄れる限りの旅行代理店やプリントアウトした「スパ」「エステ」の情報に目を光らせている。
「エセル、これどうだ? アーユルベーディック・マッサージってあるぞ? アジア、東欧、西欧、どこの国のマッサージでもモルディブ発の新式も数え切れないくらいあるぞ!」
「……君も一緒に受ける、というのなら考えてもいい」
「なんで俺がエステなんぞしなきゃならないんだ?!」
「だって、ここにあるじゃないか! ほら、ちゃんとカップルでのコースだって用意されている。私一人でそんな所に放り込まれて君一人でぶらぶらしているなんて、絶対に嫌だ」
「エセル? エステ気持ちいいって言ってただろう? ほら、色々まだやったことのない面白そうなのがあるぞ? 綺麗になるし、疲れも取れるぞ?」
「それは、マッサージして貰うのは気持ちが良いけれど、綺麗になれというのなら努力もするけれど、君だって疲労は溜まっているし、肩だってガチガチじゃないか! 君が一緒に受けないのなら、私も君と一緒にぶらぶらしている。折角海に行くのだから泳ぎたいし、潜ってもみたい」
「……エセル、泳ぐのは駄目。禁止」
「なんでっ!!」
「だって、水着きるつもりだろう?」
「そりゃ、泳ぐのだから……」
「駄目。トップレスなんてもっての他!」

サガは、本当に一瞬目の前が真っ暗になった。
トップレス禁止、とは一体何事を指すのか? 写真で幾たびも見せられた青い綺麗な海。白い砂浜。澄んだ海の水。暖かな日差し。何もかもが英国にはないものだ。とても楽しみにしている。既にこっそり水着も買った。それなのに、スパに行け、エステに行け、真っ白なサンドレスを買おう、など、アイオロスが自分に夢を見るのは勝手だが、それを際限なく自分が呑めるかといったら大間違いだ。何より、どうしてもっと、もっと根本的な大事な事を分かってくれようとしないのだ。
膨らんだアイオロスに対する不満が、どうして我慢出来ずにそのまま言葉になって喉から滑り落ちた。

「私は、君と一緒に旅行に行くんだ。君と一緒に色んな事を楽しみたいんだ。それなのにどうしてそうやって……」
もうこうなれば自棄だ、とサガはもう一言付け足した。
「新婚旅行なんだよ?」

アイオロスの顎が、くいっと上がった。そして、まじまじとサガの悔しさの滲んだ顔を見つめ、「新婚旅行か……」と呟いた。
「新婚旅行だから一緒にいたい?」とアイオロスは真剣な顔でサガに尋ねた。サガも、負けず劣らずの真剣な表情で「居たいよ」と応えた。
「そうか……新婚旅行か……」
サガの必死で訴えかける緑色の目から視線を外し、アイオロスは腕を組んで呟いた。そうして数秒ほどじっとしていると、突然長い腕をテーブルの上に伸ばし、ガサガサと広げられたパンフレットを整理し始めた。

「じゃあ、エセル、マレーに着くのが昼ちょい過ぎくらいだから、この日にスパに一緒に行こう。で、二日目にダイビング申し込んで、三日目はシュノーケリング、四日目に無人島に行って、五日目はイルカを見に行くか釣りに行くかして、六日目はロッジでのんびりだ」
言いながら、次々とその項目に当てはまるパンフレットのページを開いてサガの目の前に積み上げ、インターネットでウェブページまで開いていく。
「ほら、エセル、運が良ければ鯨に会えるかもしれないぞ?」
そのあまりの変化の早さに、サガは自分の意見が通った喜びを味わう事も出来ずにただ呆然としていた。

 

旅行まで残すところ一週間となった日曜の朝食の席で、突然アイオロスが「あっ!」と声を上げた。朝食は終わり、二人とも食後の紅茶とコーヒーをそれぞれ新聞を片手に楽しんでいたところだったので、サガはどんな事件が起きたのかとアイオロスの次の言葉を待った。
「エセル! 大変だ!」
バサリ、と新聞をテーブルの脇に置いて、アイオロスはサガに向かって身を乗り出した。
「新婚旅行なのに、新しいパジャマを買ってない!」
「…………駄目。これ以上の出費は無理です」
どうせ寝間着なんか着たって直ぐに意味がなくなるじゃないか、とは言わなかった。サガは経済的な困難を理由にきっぱりとアイオロスの恨めしそうな視線を断ち切った。「新婚旅行」にかこつけてそうそう甘い顔ばかりはしていられない。今週にはサンクスギビングと称してまた痛い出費が待っているのだ。
心を強く持って、サガはなんとか残りの一週間を乗り切ったつもりでいた。

 

11月29日。21:25 ロンドン発のスリランカ航空に乗り一路モルディブの首都であるマレMale)へ。サガが予約したFour Seasons Resort Maldives at Kuda Huraa へはここから高速艇に乗り25分の距離にある。
一般常識より随分高いところに位置する頭蓋骨を持つアイオロスは、やはり通常平均とされる足の長さよりは長い脚を有していて実のところ長距離の空の旅は苦手だ。それなのでいつも真に愛想良くフライトアテンダントに挨拶しに行きこう伝える。
「是非自分を非常口扉の横の席に座らせて欲しい。有事の際には非難の手助けをしたいので協力させて欲しい」と。
そうすると、これまでサガが実際に見たところとアイオロスの自称の分と合わせて100パーセントの確立で、その非常脱出口脇の席を手中に収め、さらに添乗員からなにくれとなく追加サービスなどもしてもらっている。
ではそのサービスと脚の為の余分な空間が目的かと言うとそういう訳ではなく、真剣に「馬鹿な奴らをこの席に座らせて有事の際に巻き添え食らうのはまっぴらごめん」と思っているので、席に落ち着くとまずは真剣にその都度避難マニュアルに目を通している。
サガにもしっかりと目を通すように伝え、機内モニタと添乗員による実演に注意を注がない大部分の乗客を目の端で冷たく見ながら「ああいう馬鹿な奴らがいざという時に自分で自分の命を守れずに人にまで迷惑をかけるんだ。ホテルに行ってもまず避難経路なんぞ確認しない。俺はあんな奴らは絶対に助けないぞ」と冷たく評する。
「いいな、エセル、このハッチを開いて脱出する時は、まずお前が一番先に下りてその後に続いて降りてくる人間の補助をするんだぞ?」
決まってアイオロスはサガにそう言い聞かせる。けれど、口でどう冷たい事を言ったとしても、アイオロスはきっと最後まで飛行機の中に残るだろう。助けを必要とする人間がいる限り、きっとアイオロスは見捨てる事が出来ない。
サガは、いつもアイオロスのそんな勇ましい暴言を聞きながら、どうしたら自分が最後までそのアイオロスの隣に立っていられるのか、ひっそりと考えを巡らせる。それが、サガにとっては空に向かって二人で旅行する時の小さな儀式であり、無事に固い地面に辿りついた時の感謝の素朴な祈りだった。

 

さて、マレは晴天だった。
サガが沢山のパンフレットで見たとおり、真っ青な空と水ではなくガラスなのではないかと思わせるような青い海。
飛行機を降りてほっと息を吐いたサガの胸は、この景観に対する驚きとわくわくするような感情で直ぐに満たされた。
チェックインの時間は二時なので、それまで荷物を預けてのんびり世界で最大の進行過密地と言われるモルディブの首都マレを散策する。気温は26℃。一日前まで居たロンドンとは比べものにならないくらいの強い太陽と明るい日差しに、サガは目を細めた。
「エセル、ほら、日傘が売ってるぞ? 買っときなさい」
というアイオロスの親切めいた言葉を無視して、サガは気の向くまま好奇心の促すままに高速艇の時間まで、車のひしめき合うマレ島を堪能した。


マレでは、隣を歩くアイオロスは、ひたすら腕を伸ばしたり首を回したり体を伸ばす事に忙しかったが、高速艇に乗り込み白い飛沫を上げて青い海を疾走する段になっては、いかにも楽しそうに平らな海を眺め回し、チカチカと琥珀色の瞳を光らせ始めた。
潮の香りまで、イギリスの海とは違う。
そう思いながら、 30分にも満たない短い海の旅は、まるで絵本にでも出てくるような椰子の葉で作ったとんがり屋根と白い壁の、まるでどんぐりのような水上コテージで終点した。
四時から予約しているスパにまでは多少時間がある。それまでは荷物を置いて、軽く汗を流してのんびりしようとやってきたのだが、部屋に一歩脚を踏み入れてサガは仰天した。
アライバル・デッキのドアを開けると、視界の前方に大きな海の見える窓がある。部屋は三分の一ほどの位置に衝立があり、その向こう側が天蓋付きの寝台とソファ、簡単なリビングのセットがある。右手に続く壁の中ほどにスライド式の大きな窓があり、どうやらそれが外のデッキへの出入り口らしい。
清潔な室内、木目も美しいフローリング、陽が燦々と降り込み精々しい。
さすがフォーシーズンズだと思わせるだけの、華美ではないが洗練された室内。けれどその室内の何箇所にも、美しくアレンジメントされたバラの花があるのは何故だ?!
リビングのテーブルにはシャンパンまで置いてある。それもリボン付きで。
先にてくてくと衝立の向こう側に歩いて行っていたアイオロスが驚きの色と共にサガの名を呼ばわった。
「来て見ろよエセル!」
激しい不安に駆られながら、思い足取りで、衝立の向こうでアイオロスが巨大な寝台を指差すその先を見た。
息が、三秒は確実に止まった。
真っ白なベッドカバーが、綺麗なバラの形に襞が寄せられ、南国の花々で作られたブーケまで置かれたベッドメイキング。
「凄いな。たかが布でここまで出来るんだな」
アイオロスはひたすらその繊細な指の技術に感心しているが、サガの頭は二つの事で真っ二つに割れそうだった。
一つは、アイオロスと等しくこの芸術的なまでの技に感嘆している。が、もう一方では、この新婚オプションを付けられた事に対する怒りと動揺と羞恥心でぐちゃぐちゃだ。
にこやかに去っていった高速艇のスタッフたち、これらを用意したホテルのスタッフたち。一体自分はどんな顔をしてこれからの一週間接していけばいいのか、泣きたい気持ちになる。
こんな事なら、パジャマを買っておく事で手を打っておけば良かった……!!
立ち尽くすサガの心情を他所に、アイオロスはさっさと荷物をベッドヘッドの向こうにある一角に整理すると、サガを促して外のデッキに出、バスルームへと案内した。
ロンドンのアパートメントのものより三倍はあるようなバスルームは、やはり明るい陽の光で満ちていて、バスタブのある一面はガラス窓になっていてデッキの向こうに続く広大な海を見ることが出来る。
先にどうぞ、と勧められ、サガは一人きりになって自分を励ましながら、これからマッサージを受けるのだから、綺麗にしておかなければ申し訳ないと丸一日かかった旅行の埃を落とすことに専念するよう心掛ける。
と、綺麗に可愛らしくセットされたアメニティーが、とても使い心地が良いことに気付く。
ラベルを見ると「LOCCITANE」と書かれている。
カミュならきっと気に入りそうだ。もし、土産物などで扱っているようだったら、これを選んでもいいかもしれない、とふと気がそれるくらいには、サガも随分と昔に比べて逞しくなっていた。

 

アイオロスのカラスの行水が終わり、二人で部屋の中を探索し、デッキの下が小魚の住処になっているのを発見した頃、スパの島に行くための小舟が迎えにやって来た。
片足で舟の舵を取る、伝統的な木製のモルディブ式ボート「ドーニ」に乗り珊瑚礁を横切り進む。すると、やがて椰子の葉ぶきのパビリオン7棟が海上に建てられている異相に出迎えられる。
The Island Spa at Four Seasons Resort Maldives at Kuda Huraa だ。フォーシーズンズはスパ専用のアイランドを所有していて、この閑静な隠れ家的スパが売り物の一つでもある。
華やかな笑顔の女性に案内されながら、二人共に一番大きな白い天蓋のような屋根を持つ円形の建物に通される。
中央に屋根を支える梁と柱があり、それをぐるりと囲むようにソファが置かれている。壁はガラス張りの窓で、磨き込まれた床が南国の日差しに反射を返す。
さり気無く設置されたグリーンの間から、また先ほどとは異なる女性が現れて移動。
服を着替え小部屋に通される。小部屋といっても、先の巨大な部屋に比べての事で、サガとアイオロス、マッサージ師達が詰まっても全く狭苦しさは感じさせない。

 

二人並んで全身オイルマッサージというものを受ける。施術者は二人一組の女性だったが、「女性」と言う事で油断していたのか、マッサージ開始から数分で、アイオロスが「痛いっ!」と体を仰け反らした。シオンとドウコの整体院でツボを押されたり、強張った筋を引っ張られたり、首の骨を鳴らされたり、といった事には慣れていたが、背中を滑っていくだけの女性たちの腕にこんな痛みが走るとは予想もしていなかった。
隣の悲鳴を聞きながら、サガは無理矢理にでも一緒に受けさせて良かったと心から安堵の息を零した。
大体にして面白がって波風を立たせる性質ではあるものの、今回のアイオロスの強情にはどこか意固地になっているものを感じていた。
どこか体に偏り疲労が溜まって、それがその意固地の原因だな、と真面目にシオンらの説に耳を傾けているサガには予想がついたが、もうそうやって意固地になっている時のアイオロスは、大概にして人の意見が受け入れられない。
素直にシオンの施術を受けに行くとも思えないので、今回の機会にかけてみた、という次第だ。
暫くすると、隣からくすくすと小さな笑い声が響いてきた。
気持ち良く漂っていた意識を纏めて探ってみると、アイオロスの規則正しい寝息が響いている。
全く……眠っているときは本当に無条件で可愛いのに……。
そう思いながら、サガ自身も浅い眠りの中に戻っていっていた。

 

60分コースのマッサージを受けた後、ぼんやりとしているアイオロスと一緒にサガはミストバスと渡された泥を使って体のオイルを落とした。
何時もは整髪剤を使ってかきあげられているアイオロスの前髪が、無造作に額に散らばり表情をずっと幼く見せている。
パブリックの頃と同じだ。
サガは少し背伸びをしてアイオロスの頬に軽いキスを送った。アイオロスの反応は、一瞬きょとんとして、それから、少し照れているようだった。
その様がいとおしく、懐かしく、胸に膨らんだ「この人が好きだ」という思いを、鼻梁や頬、額に散らすキスにのせた。
最後に、もういいよ、というようにアイオロスからサガに、まるで儀式のような口付けがあったので、サガの言葉にならない想いはアイオロスに届いたのだろう。

 

二人で迎えに来たドーニに乗って島へ戻り、早めの夕食を取りに Al Barakat という本格的なアラビア料理を出すダイニングへ向かう。道々、何組かのカップル、親子連れ、友人、といった人々の姿を見るが、どの顔もノンビリと幸せそうだった。
ローズ水で手を洗ってもらって、エキゾチックな内装で統一されている店内を進む。二人で一人前の料理を味見しながら、ノンビリと野外の席で海を見ながら食事を楽しむ。
食事の前に夜の事を考えて下剤を飲んでいたサガは、軽く摘む程度にその異国の食事を楽しんだ。そして、六時を回った頃、アイオロスはサガを促して席を立った。
水上コテージに戻り、後はのんびりするだけか、と思っていたサガの耳に、再びドーニを漕ぐ、木の擦れ合う独特の音が響いた。
アイオロスが軽い上着をサガの分も持ってアライバル・デッキに続く扉を開き、サガに声をかけた。
これから、一体どこへ?
説明されていた予定には、もう今夜の予定は何も無かったはずだ。
ほぼ一ヶ月禁欲生活をしているアイオロスがまだ夜遊びをするつもりだったとは意外で、一体なんだろうと訝しく思いながらもサガはもう一度舟に乗った。
小さな船は昼と変わらずゆっくりと海上を滑り、そして……。
「アイオロス……!」
サガは小さく鋭い声を上げた。
目の前に見えるシルエットは、先刻にもやって来たスバ専用のアイランドだ。
先刻と同じように丁寧に迎え入れられ、今度は自分一人だけの名前とメニューを確認される。
アーユルヴェーダのHimalayan Crystal Facial。
してやられた! また騙された! ついさっきまで平穏に満たされていた心にかっと火が点り、サガはアイオロスをきっと睨み付けた。
アイオロスは、サガの怒りを宥めるように大げさな身振りで両手を挙げ、前もって用意していたのであろう言い訳をすらすらと口にした。
曰く、
アーユルヴェーダの神秘は絶対にサガの気に入る、
ここのものはAyurveda Doctorが診察してハーブなどを調合してくれる本格的なもの絶対サガの健康にも良い、
アーユルヴェーダは個室での「医療」だから、そもそも二人一緒には出来ない、
等々……

 

そんなに素晴らしいものなら自分が体験すれば良いではないか、と喉まで出かかった言葉は、案内人の柔らかな言葉に遮られた。
サガは胃に熱いものを抱えながら、焦りと怒りに沸く頭で女性の後ろを歩きながら、どうやってこのエステをキャンセル出来るか必死で考えていた。
「初夜」だ「初夜」だと張り切っていたアイオロスに合わせて、食事前に飲んだ下剤が、マッサージの間に体に影響を及ぼしたらどうしたらいいのか。
事に及ぶ前にサガがそんな事をしているなど知らないアイオロスには、きっとまたサガが拗ねているだけにしか写っていないだろう。
しかし、サガには見せたくない努力というものがある。
そういった夢・奇麗事ですまない事柄を懸命にアイオロスの目から隠している自分の、やり場のない誰にも誇れず漏らす事も出来ない努力が、矛盾に対する苛立ちが、こんな時はアイオロスを恨みそうになる程膨れ上がる。
なんとか、診察ぐらいでキャンセルさせて貰おう。体調が悪いと言えばきっと……。
そう思いつめながら、静まり返ったハーブ園を通りサガは小さな小屋に案内された。
中には初老の小柄な男が一人。鋭いが、やさしい光を目に浮かべてサガを見つめていた。
案内の女性は戸口で姿を消し、サガは一人小屋の中に残された。
インドの訛りが強い英語で座るように促され、アーユルヴェーダというものに対する理解を、まるで教授が学生に尋ねるように問われた。
サガは、焦りと誠実に答えようとする気持ちの乱れの中、何とか言葉を返そうとしたが、じりっと背中に浮いた汗に気がそれた。
すると、そのAyurveda Doctorは、すっとサガの頭の天辺に手を置くと、滔々とアーユルヴェーダの教えについて語り始めた。
話を聞くうちに、ああそういうものだった、という思いと、酷く暖かなドクターの手にサガの息がふっと抜けた。
すると、ドクターはサガの左手を取り脈を探ると、じっと見えないものを見るように触診を始めた。
濃い空気が小さな小屋に満ちる。
脈を取る医師の気を邪魔したくなくて、サガは必死で準備していた言い訳を口に出来ないままじっと黙って時を過ごした。

 

やがて、ふと視線を上げた医師が、サガの目をひたと見つめて「自分は占い師ではないが、」と一言断りを入れてから脈から見えるサガのドーシャ(タイプ)と現在の体の状況を説明し始めた。
シオンやドウコの診断で慣れているつもりだったが、脈一つでここまでいえるものなのか、とサガは驚きを隠せなかった。
ずっと揉めている実家との対話、心配事、数分前に抱えてしまった怒りと悲しみ、全てを見透かされているような言葉を聴かされ、最後に
「何故わざわざ薬など飲んでいるのか? あなたの体にはこのような薬は必要ないはずだ」
と言われた時には、顔から火が出るような思いをした。
「内臓に少し疲労が見えるが、これはおそらく仕事と悩みから。野菜中心の生活をしているようだが、もう少し魚を食べた方がいい。朝と夕を少なめにして昼をしっかり食べればいい。
それから、一日20分くらいは自分の内面を見るようメディテーションをするようにすると良い。禅やヨガといったものではなく、自分自身にもっと集中するといい」
そう言って、言葉を切った医師に、サガは顔に血が上っている事を自覚しながらも今日のマッサージのキャンセルを申し出た。
理由は、医師が先ほど指摘したとおり、今の自分の体調はマッサージするために万全の体調とは言い難いからだ。
と、医師はにこりともしないで心配ないとサガの申し出を片付けた。
丁度迎えに訪れていたスタッフに細かく指示を出しながら、
「全てが整えば自然に体のものは流れていく。そして、整わなければ出ない」
と言ってサガを送り出した。

 

半分絶望的な気分に陥っているサガは、足湯を施す専門の部屋に連れて行かれ、丁寧にハーブの入った湯でマッサージを受けた。
心配していた体の変調は、その兆しすらまだ見せないがいつ何時襲われるか分からない。
いつもなら……そう思って身構えても、体はどんどんと弛緩するばかりで先がますます読めなくなる。
丁寧な足へのマッサージが終了した後、ここでマッサージを終わりにする事はできないか、サガは再度セラピストに尋ねた。
すると、彼はにっこり笑ってこのまま続けても大丈夫ですよ、と応えて女性のセラピストと入れ替わった。
再度服を着替え、寝台に横たわり全身を解されてから、 蜂蜜、ゴトゥコーラ、ニーム、オメガー3脂肪酸などの成分を含む、アンチエイジング効果の高いという成分で丁寧に顔へのマッサージを受ける。
やはりぼんやりと眠くなってしまうのを止められず、気が付けば二時間に及ぶマッサージは無事終了し、終了後のシャワーも問題なく終えた。

 

もと来た道を今度は逆に歩き、ロビーの役割をしているパビリオンに着くと、アイオロスが気持ちよくソファとクッションに埋もれて読書をしていた。
どんな顔をしてどんな文句を言ってやればいいのか、サガは咄嗟に答えを導き出せず、ただ黙ってアイオロスの顔を見ることを拒絶した。
けれど、マッサージを受けに行く前に抱え込んだ苛立ちや怒りや不安の炎は、今身の内をどんなに探して見つけ出せない。
それでも黙って許す事も出来ない。
ドーニでヴェラに戻る間中、サガは一言もアイオロスに口を聞かなかった。
一人になりたくて、帰るなりバスルームに篭り、広い浴槽に湯を満たしすっかり陽の落ちた海を眺めて時間を過ごす。
どれ程たったか、バスルームのドアが控えめにノックされた。
サガは返事を返さなかったが、ドアはゆっくりと開き、アイオロスの顔が覗いた。
「エセル、まだ怒ってるのか?」
アイオロスの方を見ないまま数秒、サガはじっと言葉を堪えた。そして、
「……君が約束を破ったんだ。私だってもう知らないよ」
と応える。
すると、アイオロスは口から盛大な溜息を零し、ゆっくりとバスタブの縁に足を動かすとそこに座り込んだ。
サガの見つめる暗い海を同じように見やりながら、もう一度溜息をついてゆっくりと話す。
「俺への誕生日プレゼントって事で、我慢できない? 別にお前をからかって遊んでるわけでも、いじめてる訳でもないんだぜ?」
「だけど結局君は私の要望は聞いてくれていないじゃないか!」
「だからさ、お前だってえせる撫でて可愛いとか美人だねとか、時々花をかざしたりして喜んでるじゃないか。それと同じだよ。好きだから、とにかく着飾りたいし、綺麗にしたいし、可愛くしたいし……悪意は無いんだって……。
お前だって、俺が燕尾とかきてカッコつけてるの好きだってうっとりしてるじゃないか。それと一緒」
尚もサガが口を引き結んで黙っていると、アイオロスはがしがしと頭を掻くと、大仰に息を吐いて言った。
「分かった! 悪かった! 今回も全面的に大々的に俺が悪かった! 変わりに来年真面目になんか一曲お前の為に弾いてやるから機嫌直せって……」
「何を?」
「何でも。お前の好きな曲を弾く」
「嘘だ。君は嘘をついた。だから今度もまた嘘をつく」
「あのなぁ……じゃあ、どうすればいいんだ?」
「君も同じエステを受けろ」
「そんな、一ヶ月も前から予約が埋まっているようなの簡単に受けられるか」
「じゃあ、私がする!」
「……は???」
「私が君のフェイシャル・エステをする! それでイーブンだ」
サガの言葉に、暫し唖然としたアイオロスは、そんなの何が楽しいんだ? と呟いてから、「お前がそれでいいならそれでいい」と返事をした。
そして、自分を睨み付けているサガの顔に手を伸ばし、頬のラインをゆっくりと指の背でなぞった。
「それで? 本当に機嫌は直った?」
アイオロスの言葉にサガは渋々頷いた。すると、アイオロスがバスタブの縁に手を掛け上半身を伸ばしてサガの唇に軽くキスを落とすと、
「凄く綺麗だ。このままいつまでも見ていたいくらい」
とサガの耳元に囁いた。
そのまま濡れた髪や頬に、キスを落とされて、体が妙に熱くなるような気がして、サガはアイオロスを押し返した。
「もう少ししたら出るから……」
アイオロスは、口の端で小さく笑うと「溶けないうちに出て来いよ」とサガに言い置いて静かにバスルームを後にした。

 

アイオロスの居なくなったバスルームで、サガはぼんやりと海を眺めた。
頭をバスタブの縁にもたげてぼうっとしていると、空に浮かぶ星や微かに聞こえる波の音に気持ちが攫われそうになる。
独特の浮遊感と、未消化の感情のうねりが鬩ぎ合う。こんな思いをしないでいような関係を、アイオロスに訴えているつもりなのに……そう思うと微かな落胆の苦しさまで重なってますます気持ちの収めどころが難しくなる。
いつも自分が譲っているような気がして、そんな不公平感はいくら頭で宥めてもなかなか大人しく押さえつけられてはくれないしそうしても駄目だという気もする。
暫くすると自然に下剤を飲んだ目的も達せられてしまって、これ以上バスルームに篭っていてもする事が何もない状態になる。
半ば諦めの気分でバスタブをざっと綺麗に流して体を拭き、髪をドライヤーで乾かしてからデッキを通って室内に戻った。
室内は、大きな寝室一つにクロゼットと言った造りなので、戻れば嫌が応でも目に付いてしまうのが、キングサイズより大きいようなベッドの存在だ。
やる事も、やられる事も十分理解しつくしている。だから、事前の準備も済ませた。
しかし、一ヶ月ぶりで、ロケーションがこれでは、やはりどうしても、色々と色々と躊躇する部分が、ある。
アイオロスのようにおおぴらっに「楽しみだ」などと笑えないし、笑うものでもないと思うのだが……と部屋の明かりが落とされた、親密な者同士が共有する空間に足を踏み入れてその空気の濃さに圧倒される。
本当に、これでは海を眺めるか、バスを使うか、この寝台の上で眠るか、それぐらいしか出来ない。それ程シンプルな造りだ。
これから先、この足を何処に向かって動かそうか、戸惑ったとき、アイオロスの声が耳に届いた。
「サガ、来て見ろよ。さっきからあそこで魚が跳ねてる」
海に寄せられてセッティングされたソファに腰掛け、片手にミネラル・ウォーターの入ったボトルを手にしていたアイオロスが、背を捻ってサガを呼んだのだ。
足音を忍ばせるようにしてアイオロスの脇に立ち、海の彼方を見やると、なる程、細長い銀色の流線が時々光る。
「なかなか綺麗だよなぁ」
アイオロスが呟いた。ふとその目の色を探ると、男の子が新しい玩具を見つけた時のようにきらきらしている。
もっとその光を覗きたくて、視線を下げると、アイオロスの方から近づいてきてくれた。
サガは、アイオロスの唇の端にキスをした。

 

何度も窓際でディープ・キスを饗しあってから、寝台に移動し、アイオロスが天蓋の帳を引く。
「誕生日おめでとう」
「祝ってくれてありがとう」
サガは体に覆いかぶさってくるアイオロスのがっしりとした体を両腕に抱き止めた。何時もと違うハープの香りの漂う髪の奥から、いつもと同じアイオロスの匂いが覗く。その事にとてもほっとする。
両手をアイオロスの頭髪に滑らせ、何度もそれを梳きながらアイオロスの皮膚に口付けた。
アイオロスは無言でサガのバスローブを探って肌蹴させ、厚い掌と骨のしっかした指で皮膚の上を滑り始めた。
静かに静かにお互いの体を確かめ合って、厳かに互いの口内の感触を確認する。
これがサガで、これがアイオロスだと互いに体の深い部分で感じ取った後、アイオロスの指が徐々にサガの体を下りやがて行き着くべき所に止まる。
首筋を唇で刺激しながら、アイオロスの手はサガの薄い皮膚の上から内部を揉み込む。
サガはなるべく状況を頭で理解しないようにしてアイオロスに自分の体を任せる。
サガの息に湿ったものが混じり始めると、アイオロスは片手を伸ばしてベッド脇の小さな引き出しから何かを取り出した。
多分、ローションだろうな、と思っていたサガは、突然部屋の中に漂った濃い花の香りに驚いた。バラだ。
「あの島で待っている間にちょっと覗いてみたら、敏感肌の人でも問題ないって説明があったからさ……」
サガがフェイシャル・エステを受けていた間の事を指しているのだろうアイオロスの言葉は、サガの耳元から吹き込まれ、息の暖かさと振動に、サガは一瞬体を跳ねさせた。
「……そんな……あんな所で買うアロマオイルだなんて……」
そういう遣い方をするものじゃない、と言葉を続けようとしたサガの喉は、きゅっと小さく鳴った。
アイオロスがサガの耳朶を柔らかく舐め上げたからだ。
「100%天然、有機栽培、厳選されたものだってさ……」
一言一言を、アイオロスはサガの熱を持った耳の奥に向かって小石を落とすように投げ込んだ。
サガは暗闇の中で目を見開いて衝撃の逃げ場を探す。
何処にも無い。
目じりに水が溜まった。
アイオロスは丁寧に受け入れるサガの体を解し、それと同時にサガの左耳にも執拗な愛撫を繰り返した。
風を通すために明けている窓から聞こえてくる海の音と、サガの小さく息を詰める音、そしてサガの左耳に大きく響くアイオロスの息遣いと彼の舌が自分の耳に当たる音、眩暈と腰に感じ熱く響くようなうねりにサガはどんどんと追い詰められているような錯覚に陥っていった。
何処の際に追い詰められているか、それは判然としないのだが、苦しい縁に居る事だけは分かっていた。
救いを求めてアイオロスの体を探ると、アイオロスの舌がサガの耳の奥にまで潜り込んで来て、サガは一瞬体を縮めて泣くのを堪えた。
何度もシーツの上で体を身じろぎさせ、その度にアイオロスの体の下にまた抱き込まれる。
繰り返し繰り返し体を馴染ませられ、最後には自分の腕の一本も本当に自分のものなのか怪しくなる。
体で快感を感じているのか、相手の快感を感じているのか分からなくなり、さらに刺激を求めて熱はエスカレートする。
優しく自分の体の中心にアイオロスが侵入してくる時、サガは一瞬ふっと左耳の熱さが消えた事を感じた。ああ、と思い、体の中心に意識を集中させようとした時、背骨をぞくりとしたものが太く重たく駆け下りた。
外耳道を深く、ゆっくりと何かが入ってくる。
意識が追い付き、追い付いたが故にアイオロスの小指がゆっくりと彼の性器の動きと連動するようにしてサガの内側に浸入しているのだと、漸くサガは理解した。
アイオロスの指が、サガの耳の皮膚を掠る音が大きく脳裏に響く。それと同期して、よく理解している有機体の塊が自分の内臓器官に含み込まされていく。
そのシンクロが堪らなく恐ろしくなって、サガは首を捩って耳からアイオロスの指を外そうとした。
耳は、弱い。もしかしたら直截な刺激を受けるより強く感じる。それを、こんな形で触れられては堪らない。
自分を見失いそうな恐怖、何処に向かうのか分からない不安、いつもの接合場所に意識を集めたいのにそれが出来ない焦燥。
口を開いて、なんとかアイオロスに指での淫技を控えてもらえるよう懇願しようとした矢先、サガの口はアイオロスの口に塞がれ最後の抵抗手段を封じ込められた。

 

モルディブでの一週間、サガは一日中アイオロスと行動を共にして過ごした。
朝食も、昼食も、夕食も一緒に取り、生まれて初めてスキューバー・ダイビング、シュノーケリング、無人島への小旅行、イルカツアーに地元の海洋生物学者によるFish Talk。
家事も買物も、日常の雑事、ウサギの世話、時々持ち帰る仕事、二人で同じ場所に居たとしても、同じ時間を共有しているわけではない。
それがこの一週間は、24時間全てが自分と相手の為にある時間ばかりだった。
モルディブで過ごす最後の晩になる日、夕日にオレンジ色に染まった浜辺を歩いていると、サガの一歩前を歩くような形だったアイオロスが、大きく伸びをして朗らかに言った。
「あー、これで、10ヵ月後のハネムーン・ベビーが楽しみだなぁー!」
ぐうっと空に向かって伸ばした片腕の下にある顔は、きらきらと金色に輝いている。
それだけは、どんなに毎晩濃密に行為を繰り返しても不可能だ、とあまりにも聞き過ぎたアイオロスの無茶苦茶な願望にサガが釘を刺そうとしたした時、くるりとアイオロスが振り返った。
一瞬、光を背後にしたアイオロスの表情が見えなくなった。
「あのな、サガ」
アイオロスの声には苦笑が滲んでいる。
「養子縁組って言葉の存在を知らないのか?
 サガが俺と一緒に育てようと思ってくれた子供は、サガが俺の為に産んでくれた子供と一緒だよ。俺にとっては」
サガはたっぷり三分は言葉を失っていただろう。
その間も、緑の目は影の中に埋もれるアイオロスの表情を懸命に探り続け、その影の中に色を見たと思った時、サガの唇から一粒の言葉が浜辺に落ちた。
「……それなら……まずはパートナーシップの申請をしないと……」
アイオロスの影は黙ってサガを見つめている。
「……確かに、子孫を残せないのなら、せめて社会に対し里親として貢献するという道はあると思う。でも、現実問題として、君はともかく、私には母親の代わりは出来ない。世界にはそれが出来る人がいる、ということも知っているし、だから我々も可能だ、という君の希望はわかるけれど、私にはそんなに簡単に答えの出せる問題じゃない。……それは、理解して欲しい」
アイオロスの半袖のシャツから逞しく伸びている腕が、サガに迫る。
「でも、前向きに検討する。それは約束するよ」
アイオロスの腕はサガの言葉ごとその体を包み込んだ。サガの長い腕がアイオロスの首に絡まり、踵が白砂から離れる。
柔らかく暖かなキスが一つ、アイオロスの額に音もなく落ちた。

※Italian Rhapsody はちょっと休憩(@_@;) 01〜03 は加筆修正してnovels に収納致しました。直通はこちら  
 

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