01:ミロ視点
02:カミュ視点
03:ミロ視点
04:…
ずっと、考えていた事がある。
もしパブリックの時にカミュを説得するだけの力が自分にあったら、と。
カミュが音楽を続けていたら今のカミュはどんな風に生きているんだろう、と考える。
スカイプを切ったら、肩からどっと力が抜けた。
短くても勢いのある息が口から洩れて、暫くそのまま動けなかった。
上手くやれたのか、さっきまでのカミュとの会話を頭の中で組み立ててみるが、どうにも飽和状態の気持ちではうまくいかない。
もう一度息を吐き出す。
椅子から腰を上げて、何冊か楽譜を掴み、のろのろとFAXの前に移動する。
壁に張ってあるメモを見て注意深くボタンを押すと、後はなんとも言えないスローテンポな機械の調子に合わせて楽譜を一枚ずつ手差しでFAXに読み込ませていく。
考える作業は後回しだ。
ぼうっと突っ立って何度もその単純な作業を繰り返し、手に持つ楽譜が無くなってから、もう一度溜め息を吐いた。
カミュがずっと不調である事に、もう大分前から気付いている。
昨年、音楽院の卒業にかまけて長く音信不通状態をしてしまった上、他人の口から自分が音楽を続けていた事がカミュに知られてしまってから。
結果的にカミュを騙すような形になって深く傷付けた後、精一杯の気持ちを込めてディプロマ取得の為のコンサートを再現した時から。
自分一人が、カミュの気持ちを引っ掻き回し、踏み付けにしているという事も、重々承知している。
長く音信不通にされれば寂しいし、心配になる。
隠し事をしていたと知れば、悲しいのを通り越して虚しくなる。
そして、そこに音楽が関わっていれば、事は余計に複雑で……。
カミュが、自分と復縁した後、細々と建築関係の仕事をしているこの小さなイタリアの事務所に、本気で仕事の上でもパートナーになろうと考えてくれていた事を、きちんと分っている。
イタリアに拠点を移し、自分と生活していく未来をカミュが真剣に実現させようとしてくれていた事を、胃の中に石を一杯に詰め込まれるような、苦しくて重い真剣さで分っている。
だから、尚更未練で音楽をやっているとカミュに言えなかった、なんていう言葉も言い訳になんかなりはしないって何万回も「分っている」と言うくらい分っている。
去年の終わりくらいから、カミュはピアノを弾かなくなった。と、思う。
ローマに来ても、一昨年はあんなに楽しそうに弾いていたピアノに触りもしなかった。
なんとなく、カミュがピアノからまた遠ざかろうとししているような気がして、嫌な感触が背中にずっと張り付いている。
その原因が、自分にあるんだ、って事も、これまた判っていて……。
判っているくせに、ここ最近、何度もパブリックの頃の夢を見る。
カミュが、音楽の翼を自分の手でもぎ取ってしまった時の夢だ。
離れていたら、何も出来ない。
かと言って、今のこの時期、ロンドンに行ってカミュの気持ちが十分ほぐれるまでバイオリンを手放している訳にもいかない。
まずい、まずいと思いつつ、なんとかこっちに呼び込もうとして、小さな可能性に辿り着いた。
多分、こんな事を言ったら、カミュはピアノに触るんだろうな、と予想はしていた。
けれど、賭けだった。
伴奏ピアニストが居ない。
それは、本当の事ではあるけれど、でもカミュに負担を掛けてまで「たった今」必要としているわけでも無い。
半年以上もピアノに触っている様子の無いカミュが、これから僅か一週間で一定のレベルにまで仕上げてくるという作業は、並大抵のことじゃない。
けれどカミュはその並大抵じゃないところまで必ず自分を追い込む。
カミュ自身が優れた批評家で、決して自分に妥協を許さない人だから。
あんな事を言えば、必死になって、精神的にも肉体的にも自分を追い詰める事は分ってる。
それでも、カミュにピアノをまた捨てて欲しくない。
自分勝手な希望。
自分勝手な思い。
自分勝手な願い。
本当に、いつまでたっても、救いようが無い。
ピーッと唐突に耳障りな音。FAXの送信完了の知らせだ。
とにかく、俺が動揺してたら駄目なんだ。
しっかりしないと。
観光客の笑声が、こんな屋根裏部屋にまで飛び込んでくる。
せめてカミュをがっかりさせないよう、なるだけ高みを目指そうと思う。
けれどそれが、カミュの心に影を落とす。
彼方に広がる空を小さな天窓から見上げる。
口の中にまで青い色が侵食してきているような、すすぎきれない苦さを覚えた。