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Vacances

01:ミロ視点
02:カミュ視点
03:ミロ視点
04:…


 一日目


「ルーファス、スコーンは荷物の中に詰めておいたわよ? もうそろそろ出ないと、リムジンの時間に間に合わないのではないの?」
「ありがとう、お母さん。お父さんも、一週間煩くしてごめん。兄さんとフィルによろしく」
「まったく……明日皆集まるというのになあ……どうしても二日ずらせないのか?」
「ごめん。今が一番大事な時なんだ。……フィルが連れて来た彼女だったら、僕は大歓迎だとフィルに伝えてもらえるかな。それから、フィアンセに不義理をして申し訳ないと」

 男三人兄弟などというのは、成人したらよほどの事でもなければ顔を合わせることがない。兄のジェームズはシティに近いウェストのアパートに一人暮らしをしているし、弟のフィルに至ってはリセからそのままパリに居着いてしまって、クリスマスにも隔年でしか姿を見せないからだ。
 めっきり人の出入りが減ってしまったハムステッドの両親の家に、それなりの頻度で顔を見せているのは実は自分くらいで、その理由もピアノを借りるためだというのが我ながら両親に申し訳ないが、そういう事情で母は毎度の僕の我侭にも結構喜んで家の扉を開けてくれている。
 父の方は、鳴り止まないピアノの音にうんざりしながらも、傷んで来た家の修理などで息子の手を借りられるのは悪い気分ではないらしい。

 そんな事情も分かっていて、イタリア行きまでの一週間、実家に予定も確かめずにピアノを借りる事を決めてしまったのだけれど、間の悪いことに私がイタリア行きのチケットをとった翌日にフィルが帰省する、という連絡があった。一人ではなく、将来の伴侶を連れていく、と内容で。
 私にも兄にもそんな艶めいた話など欠片もなく、流石に息子達の将来が気になり始めていたのだろう。父は思いの他この知らせを喜び、兄のジェームズに電話してホームパーティを開くことを決めてしまった。当然、私も二日ほど予定より長く居ればよい、という計算が父の頭にはあっただろうが、例によって格安チケットを手配してしまったため日程の変更が効かず、私は出られない、と告げたところで軽く口論になった。
 曰く、生真面目で口数の少ないジェームズ一人だけ呼びつけて、折角パリから訪ねてくれるご婦人に居心地の悪い思いをさせたら申し訳ない、と……
 それを言うなら、そもそも恋人の親に挨拶するだけでも緊張するものなのに、その上兄二人に検分されるのも決して良い気分ではないだろう。けれど、散々家のピアノを借りておきながら家族が揃う機会に都合をつけられないのも決して褒められた事ではないので、私はとにかく今は一分一秒も時間が惜しい、と繰り返した。
 フィルには悪いが、今は本当にこの二日を無駄にする余裕がない。第一、フィルが私の意見を聞きたいなら、親に連絡する前に直接私に話があるはずで、過去にもそういう事は何度かあった(口では可愛気のないことを言うが、シリアスな案件は何故か兄ではなく私に相談してくる)。それがなかったということは、もう弟の心は決まっていて、私が何を言っても揺らがないということだ。
 この五日間、まともに食卓にもつかずピアノを弾き倒していた事を勘案してくれたのか、父は溜息を両手の指の数ほどもついて、漸く許してくれた。


 ロンドン・スタンステッド空港行きのバスの中で、ラヴェルのツィガーヌの楽譜を広げる。第一次予選のモーツァルト、semi-finalのベートーヴェンのソナタ8番は、この5日でなんとか止まらないレベルには仕上げたが、ツィガーヌはピアノも一筋縄ではいかない曲で、結局積み残してしまった。あと二日あればなんとか形に出来ると見積もっているが、その二日でモーツァルトとベートーヴェンを合わせなければならないのだから、ローマへ行ってもこれまで以上にピアノ漬けの毎日になるだろう。
 バカンスなんて言っている場合じゃないぞ。
 先日のミロの電話を思い出して、可笑しくなった。ミロは人を遊びに誘ったつもりだろうが、残念ながらご期待に添う暇はないだろう、と真っ黒な楽譜を眺めながら思う。ツィガーヌは、長いヴァイオリンのソロで始まり、ピアノが入ってくるのは、全長10分の曲のうち4分が過ぎたころだが、残りの6分だけでも十分にアクロバティックな上、どんどんテンポが速くなっていく。ミロがここで手加減をするはずがないので、それに遅れずかつ焦った印象にならないように弾くのは大変だ。
 iPodの音を聞きながら楽譜を眺めていたら、流石に気分が悪くなった。
 そういえば、このところ、まともに夜も眠れていない。
 音を出せない夜に色々と考えても仕方がないのだが、昼間うまく弾けなかった部分が気になって眠れない、そんな日がずっと続いていたからだ。

 ロンドンからスタンテッド空港まで約2時間、それから2時間半のフライトと1時間の時差で、ローマに着いたのは結局夕方の4時だった。以前はセレブのプライベート空港として有名だったというチャンピーノ空港のセキュリティ・ゲートを出ると、ミロが既に迎えに来てくれていて、遠くから手を振っていた。そんな合図を送らなくても、ミロの姿は人混みの中でもとても目立つ。色の濃いサングラスなどかけていたらまるきり芸能人そのもので、側に居た若い女性が数人ミロの方を振り返った。
 一瞬、あの側に寄るのかと思うと気が滅入ったが、今に始まったことではないので気をとりなおしてトランクを押した。
「Hi! カミュ、時間通りだね!」
 頼むからまずそのサングラス外してくれ、と思いつつ、バスで市内まで向かうと言ったのに、と笑おうとして、声がつまった。
 まずい。まだ地面が揺れている感じがする……。
 空港行きのバスで酔ったので、それから楽譜は見ないようにしていたのだが、機内でずっとかけっぱなしだったiPodがまずかったのか、普段より揺れた飛行機のせいか、久々にかなり危険なところまで酔ってしまった。
 迎えに来てもらっていて、良かったかも知れない。
「カミュ? 具合悪そうだけど大丈夫か?」
「ああ……大丈夫。少し酔っただけだ」
「酔った?! カミュ乗り物弱かったっけ?!」
「そんなことはないよ。ただ、今日は風が強くて飛行機が揺れたからだと思う。少し歩けば治まるよ」
「いや、少し休もう! 別に急ぐわけじゃないし、ここからまだ30分かかるしさ」
 問答無用で近くのソファまで引っ張っていかれ、二人で並んで腰を下ろす羽目になった。ミロの手が背中をさすってくれていて、それは気持ちが良いのだけれど、周囲の視線が痛い……。何故こんなに興味津々の視線を浴びなければならないのか、と疑問を感じて、ふと、ミロの手が私の右手をいじくり回しているのに気付いた。
「手も冷たい……冷汗かいてるぞ。本当に大丈夫?」
 いや、頼むから、そういうことは人目のないところでやってくれ!
「……大丈夫。とにかく、ここでは落ち着かないから移動しよう」
 少しは周囲の視線にも気付け、と祈りを込めて、ミロのサングラスを取り上げて自分にかけた。


 結局、車の中で駐車場に車を泊めたまま三十分ほど睡眠をとらせてもらい(ミロが車を出そうとしなかったからで、正確にはそのうちの15分ほどは人前では出来ない挨拶をしていた、というのが正しい)、ミロの事務所に着いたのは午後五時を少し回っていた。ミロは少し休むか、と聞いてきたけれど、車の中で眠ったお陰で頭もすっきりしたので、そのまま練習させてもらうことにした。
 午後七時半、軽い夕食をとった後、まずモーツァルトから合わせ始めた。暫くグランドピアノを触っていたので、まだアップライトの反応に指が慣れておらず、多少不安を抱えたままの合奏になった。
 ミロのモーツァルトは、クィーンズベリに居た頃以来聞いていない。勿論あの頃とは全く違う演奏をするだろうと予想はしていたが、かといって参考に出来る演奏者もおらず、昔の印象からそう遠くないテンポ設定をしていて最初から駄目出しを食らった。
「そこは、あまり急ぎたくない。むしろ、後半でもう少し巻くつもりだから」
「ここ、もう少しピアノを前に出して──」
「こう?」
「駄目、それだと重くなる。音量じゃなくて音色で立てて。テンポはむしろ前にいく感じ」
 考えてみれば、私は音楽家としてのミロと共同作業をしたことがこれまで一度もなかった。ミロがこと音楽に関して容赦がないのはパブリックに居た時代から知っていたが、その厳しさに音楽家としての素養が加われば、これほどの威圧感が生まれるのだと驚かずにはいられなかった。
 普段見せる甘い表情も、建築の仕事をしている時の人の良さも、ミロの人格の表層に表れるごく一部でしかないと思い知らされる。
 本当の彼の姿は、この厳しい演奏家の世界の中にそびえる峻峰であり、何者によっても動かされず、その頂点を志す者に決して妥協を許さない。
 熱のこもった合奏はその後二時間続いた。二時間しか続かなかった、と言うべきかも知れない。
 モーツァルトの次に合わせたベートーヴェンで、ミロの厳しい注文が相次ぎ、結局終楽章に辿り着く前にミロが遂に楽器を下ろしてしまったからだ。
「……ごめん。今日はこれ以上やってもあまり意味がない。明日の夜までに、今から言う事をクリアしておいて欲しい。まず、全体に力が入り過ぎて遅れてる。ベートーヴェンだから強い音が必要なのは分かるけど、力を入れなくても音色で表現出来る筈だ。それから、抜く所はもう少しサボって構わないから、ヴァイオリンとの掛け合いのところでもっと積極的な音が欲しい。音色だけでなく表現も含めて。カミュの音は優しくて綺麗だけど、全体に音色の幅が狭くて平坦になりがちなんだ。もっと思い切って弾いて構わない」
 私が二の句を継げずにいると、ミロは少し唇の端を持ち上げて、秘密を暴いた探偵のような笑みを浮かべた。
「ヴァイオリンを立てようとか、思わなくていいよ」
 頬に血が上るのを感じた。つまり、そんな気遣いは要らない、ということだ。
 そんな簡単にピアノに潰されはしない、という自負か──あるいは、私のピアノではミロの音を邪魔する事など出来ない、ということか。
 恐らく、言葉が意味するところは、その両方だろう。けれど、ミロの本心は、多分後者だ。
 胃の奥に炎が生まれた。馬鹿馬鹿しい自負だと理解している。ミロはプロの演奏家で、自分は趣味で細々と音楽を続けて来たに過ぎない。続けてきたと言うのも烏滸がましい有様だ。
 それでも、私にはミロと音楽で対等であった頃の記憶があり、それが今胃の底の熱を生んでいる。その事に、自分で驚いた。
 ミロはあれから、どれだけ沢山の演奏家と出会い、彼等の音を聞き、学んだだろう。
 当時は多分それなりに評価してくれていた私の音も、その出会いの中で、殆ど最下層にまで沈んでしまったのに違いない。
 けれど、私の時間はあのまま止まり続けている。こんなに圧倒的な力量差を目の当たりにしても、その記憶にまだ引き摺られているのだ。
「……わかった。明日一日、時間が欲しい。夕食後にもう一回合わせてみて、使えないようだったら切ってくれて構わない」
 真っ直ぐにミロの目を見詰め返してそう切り返した。懐かしむだけならまだ良いが、感傷に引き摺られては折角の練習の機会が無駄になる。
 多少、凄む形になってしまったかもしれない。ミロが眉根を下げて、はあ、と溜息をついた。
「いや、そんな結論を急がなくても……折角一週間あるんだし、その間になんとなればいいわけで……」
「何を言っているんだ。これはお前の練習なんだ。お前が私の練習に付き合っていては仕方がないだろう……心配しなくても、役に立たないからといってロンドンに逃げ帰ったりしないよ。食事の準備や掃除をして、お前の練習の尻を叩くくらいは出来るからな」
「げ……それ最悪……わかった、じゃあ頑張って明日までに宿題済ませてよ」
 ミロは、珍しく私の決断に食い下がらなかった。引き止めても無駄と分かっているのか、あるいは、本当に明日までになんとかならなければ使えないと思っているのか……これも、おそらくその両方だろう。


 それなりに疲れているはずなのに、夕刻に少し眠ってしまったのがまずかったのか、日付が変わろうかという時刻になってもまだ眠気は訪れなかった。
 ミロがバスタブに湯を張ってくれたので、長時間の演奏で疲れた背中を殆ど沈むような形でバスタブに預けて、ふと壁に吊るされたラックに目が止まった。
 シャンプーのボトルの隣に、透明のジェルが満たされたボトルがある。明らかに見覚えのある形だが、ボディソープではない。思わず口元が緩んだ。
 あいつ、こういうところ、結構露骨になってきたな。年をとったということか。
 洗浄能力の全くないこの液体をミロがバスルームで使う事はないので、これはバスタブの準備をしたミロがわざわざ置いていったものだということだろう。
 ……そういえば、そもそもローマに来る事になった電話の用件は、ミロのそういう誘いだったか。
 今まで忘れていたのも、そう思えば薄情な話かも知れない、と少し反省した。ミロは、あんなに打々発止のやり取りをした後でも、ちゃんと旅の目的を覚えていたわけだ。
 少し長めの準備を終えてバスルームを出る頃、ミロも四階の共同シャワールームで汗を流して事務所に居りてきた。
 バスルームで時間がかかった理由を察しないほど初心な間柄でもないので、ミロは何も聞かずに「じゃ、上に行こうか」と私の背中に腕を回した。
 こういうとき、この居住者の居ない事務所ばかりの建物は有難い。夜中なら、バスローブで階段を上り下りしても誰も見咎める者もないからだ。
「気付かれないんじゃないかと、ちょっと心配してた」
 マットレスを二つ並べて紐で括っただけのベッドの上に人の肩を押し付けながら、ミロは嬉しそうに笑った。
「よっぽど、『そこにあるよ』って言おうかどうか、随分バスルームの扉の前で迷ったんだけどね」
「バスタブに湯が張ってあれば寝そべりたくなるし、寝そべれば絶対に見える位置にちゃんと置いてあっただろう? ミロのくせに、そういう計算もするようになったんだと、正直感心したんだけどね」
「あ、なんだよ、その『ミロのくせに』って!!」
 不貞腐れた言葉の後に、鼻を齧られた。予想していなかった反撃だったので、思わず声が上がった。
「痛っ……! お前、本気で咬んだだろう?! 猫じゃあるまいし!」
「カミュが酷い事を言うからだ」
「だからって……どうして鼻なんだ?!」
「目の前にあったから。……別の場所がいい?」
 ミロの瞳がすっと細まり、暗めに落としたルームライトが唇の端に笑みの形の影を作った。吐息がゆっくりと頬を撫でて、それから耳にかかるのを感じた。
 齧られる衝撃を待って身を竦めたがそれは訪れず、代わりに湿った唇と舌の感触を感じて脊髄に痺れを覚えた。
 口を使い始めたミロはもう喋る事を止め、それに呼応するようにこちらの口からも言葉が消えた。
 前に会ったのはサガ先輩の誕生日の時で、それからまだ一ヶ月半しか経っていない。
 ミロの愛撫は十分に甘く情熱的で、直ぐに体があの熱を思い出すだろうと思っていたのに、何故かどんなにミロが手を尽くしても体が緩まず、伴奏者としても恋人としても役に立たない自分に少々落ち込んだ。
 ミロは、よくやってくれている、と思う。切り替えができていないのは、自分の方だ。
 先刻のベートーヴェンのデュオで見せた厳しい態度と、今のこの甘さの間で揺れている。どちらも本当のミロだと知っているのに、この甘さの影に醒めた厳しい視線が隠れているのではないか、と、まるで発作のように不安になり、その度に心臓が拍を止める。
 疲れているのだろうから、少し眠った方がいい、と甘い声で囁かれて、言葉に甘えてミロの腕の中で数時間ほど眠った。それでも夜中に目が覚めて、それから先はどうしても眠れず、こっそりベッドを抜け出してバスローブを羽織り事務所へ降りた。
 この辺りは、事務所ばかりで居住者は殆どいない。
 あまり大きな音を出さなければ、ピアノを弾いても迷惑にはならないのじゃないだろうか、と心が揺れた。
 ピアノの蓋を開け、今にも音を出そうかという直前で思いとどまったのは、今ここで弾けばミロは起きるかも知れないと思ったからだ。
 鍵盤に指を置く。音を出さずに、形だけを変える。
 十分ほどもそうしていた頃、背後から声がかかった。
「……眠れない?」
 はっとして振り返ると、ミロがドアに凭れ掛かり、腕組みをして立っていた。
「眠れないなら起きるのは構わないけど……ピアノは明日までナシにした方がいいと思うよ? でないと、明日ちゃんと弾けなくなる」
 ミロの言う通りだ。きちんと寝て、頭をクリアにしなければ、指だってまともに動かない。
 胸に詰まっていた息を吐き出して、楽譜を閉じた。眠れなくても、横になるだけでも疲れは幾分か抜ける。
 ピアノの蓋を閉じ、事務所を出ようとミロの方へ歩いたところで、ミロに腕を掴まれた。
「どうせ目が覚めたんなら、こっち。ちょっと付き合ってよ」
「え?」
「眠れないときは、全然関係ないことをした方がいいんだよ」
 ミロは人の手をひいたまま、事務所に備え付けのコンピュータラックのところまで行き、椅子に腰掛けた。コンピュータの電源を入れ、ブラウザを立ち上げる。
 何か見せるものがあるのかと、立ったまま画面を覗き込んでいたら、くいっとバスローブの腰紐を引かれた。
「座りなよ」
「……何処に?」
「俺の膝の上」
「……はああ?!」
 思わず間の抜けた返答をしてしまった。……女性ならともかく、お前、自分と殆ど変わらない身長の男を相手にしている自覚あるか?!
 口に出して言わずとも、こちらの言いたい事は察したらしい。にっこりと笑って追い打ちがかかってきた。
「大丈夫だよ。身長は1インチしか違わないけど、体重はカミュの方がずっと軽いだろ。ってか、羊より軽いし」
「……また羊が基準か……」
「いいじゃん。誰が見てるわけでもないんだしさ。俺だってたまにはカミュを膝の上で抱えてみたい」
 一瞬アイオロス先輩の病気が移ったんじゃないかとその神経を疑ったが、そういえばミロは最初から性別関係なくそういうことをしたがる傾向がある、と気付いた。
「な? やってみようよ。どうせ椅子ないし。居心地悪かったら止めればいいんだからさ」
 理由になっているんだかなっていないんだか分からない説得をされて、つい、その気になってしまった。どうせ重くてそう長い間は抱えられないに決まっている。ミロの膝の上に横向きに腰掛けて、そのままでは座りが悪いので、左腕をミロの首の後ろへ回し、両腕を首周りに巻き付ける形になった。ミロがまた嬉しそうに笑った。
「うん、なんか、いい感じ」
「……重いだろう……」
「全然」
 実際、座ってみると、座り心地は悪くない。ミロが腰に手を回してくれているので、滑り落ちる心配もないし、何より安定感がある。
 我ながら、馬鹿だな、と思いつつ、そういう馬鹿がやれるのが恋人の定義か、と妙に納得する自分がいる。
「……で、何を見るんだ?」
「うん、まあ、こういうもの?」
 ミロの指がブックマークの一番上にあったリンクを選び、マウスをクリックする。途端にポップアップしたどぎつい色の小窓の数々にギョッとした。
「……これ……」
「……いや、毎回、カミュ苦労してるからさ……。一つか二つ、あった方がいいんじゃないかとずっと思ってたんだけど、流石に俺一人で選ぶのは申し訳なくて。……カミュの好みもあるだろうし……」
 派手な宣伝の小窓を片っ端から消去して、その下に現れた大画面に全身の力が抜けた。
 ……アダルト・グッズの通販ページを、普通、事務所のパソコンのブラウザの一番上にブックマークするか?!!
「ほら、前にロスからディルド貰っただろ? あれなら無理しなくても入ったし、そういうのから順にサイズ変えて慣らして行けば、まあ、時間をかければできるんじゃないか、って……」
 つまり、漸くお前さんのサイズの凶暴さが分かった、ってことだな。そりゃ大した進歩だ。
 今日もまた散々我慢させてしまった事は分かっているので、その悪態は胸の中だけでついて、頭を前向きに検討するよう切り替えた。
 確かに、いきなり無理をするから失敗する、というのは分かる。道具を使うのがいたたまれないか、それともその気になっているミロに散々我慢を強いる方が居たたまれないか、と聞かれれば、勿論後者だ。
「……買うなら、その変な色のは嫌だ。それから、固いものは、細くても痛いから駄目」
 そっぽを向いてそう呟いたら、ミロがぽかんと口を開けてこちらを見上げていた。
「……え、ホントに?! 買ってもいいのか?!」
「……まあ、それで、出来るんなら……。そんなに頻繁に会えるわけじゃないから、毎回時間かかるしね」
「マジ? やったっ! じゃ、この電動やってみようよ!」
「馬鹿! 固いのは痛いって言っただろうが!」
 色気もへったくれもない会話で散々アダルト・ショップを徘徊して、ミロは結局肌色のものを大中小と揃えた上、更に柔らかい素材の電動を探してきて発注をかけた。(本当はエネマグラにも興味を示したが、これを買うなら絶対にお前にも使ってやる、と脅したら漸く諦めた。)
 いつしか、カーテンの外から薄明るい光が零れ、鳥のさえずりが聞こえ始めていた。
 こんな爽やかな朝にショッキング・ピンクのサイト巡りもあるまい。そろそろお開きにしよう、とコンピュータの画面から視線を外すと、ミロがじっと潤んだ目でこちらを見上げていた。
 何時からこんな目で見上げていたのか、それを思った瞬間に、心臓が跳ね上がった。
 息がつまる。お互いに見詰め合ったまま、視線を外せない。
 脈が速くなった。沈黙に耐えかねて、何を言おうとしたのか自分でも分からないまま口を開いたとき、腰に回されていたミロの手がバスローブの裾を割って中に潜り込んで来た。
 ここはミロの屋根裏部屋と違って、一階の通りに面している。朝早くに出勤のため事務所の前を通る人もあるかも知れない。
 思わず息をつめて声を飲み込んだ。お互いに、口で交わした遠慮のない会話ほど冷めていたわけではなかったのだと、自分の体の熱さとミロの急いた吐息で思い知る。
 先刻までマウスを握っていたミロの手がひやりと肌に触れ、いささか乱暴に胸をはだけさせた。その冷たさと、もう一方の乳頭に感じた熱いキスの衝撃で、飲み込んだ筈の声が溢れた。
 そのまま屋根裏部屋に戻るだけの余裕もなく、結局二人でソファにもつれ込み相手の体を弄んで過ごした。


 目が覚めたのは正午に近かった。大事な練習時間の半分を無駄にしてしまったことに呆然としていると、ミロが大層ご機嫌の様子でコーヒーを運んできた。
「な? 全然関係ないことしたら、よく眠れただろう?」
「関係ないこと、な……」
「少なくともピアノには関係ない」
「寝過ぎだ。時間が勿体ない」
 照れ臭いのも手伝って少々ぶっきらぼうに答えると、ミロがあーあ、と溜息を零した。
「そういう事言うってのが、そもそも寝不足だよ。焦って体調崩したらもっと時間が勿体ないことになるんだぜ? カミュ、昨日も乗り物酔いしてたし、どうせあんまり寝てなかったんだろ?」
 至極もっともな意見なので、渋々頷くと、ミロはまた満面の笑みに戻って言った。
「うん、素直になったのは、きっとちゃんと寝たお陰だな。お腹すいた? 上に行けばまあ、つまめるものはあるけど……」
「いや、食べるものならそこにある。トランクの中……母が、スコーンを焼いてくれたんだ。お前に渡せって」
「え、もしかして、アーモンドの?」
「そう、お前が以前うちに来た時に喜んで食べてたやつ」
 やった! とトランクに駆け寄るミロの後ろ姿を見ながら、今頃、フィルはフィアンセと共に家に着いただろうか、とふと思った。
 両親には、まだミロとの関係について話していない。いつか、自分もそうして婚約者を連れて帰ってくるものと思っているだろう。
 家族の中で、どうやらミロとの関係について気付いているらしいのは、フィルだけだ。
「……まあ、これで、良かったのかもな……」
 末弟が正式に婚約となれば、どうしたって兄二人の予定はいつか、という話になるだろう。その時に自分がいては、フィルに余計な口を挟まれかねない。
 コーヒー皿にスコーンを山盛りにしたミロが、その呟きをききとめてこちらの顔を覗き込んできた。
「良かったって、何が?」
「いや、実は、今日弟が実家に帰って来るんだ。婚約者を連れて」
「ええっ?! フィルが?! って、カミュ、こんなところに居ていいのか?」
「いいよ。こっちが先約だ。……それに、弟には、色々口を挟まれると厄介なこともあるから、なるべく両親と一緒の席で会いたくないんだ」
「……なんか、カミュ、フィルにすごく冷たいよな……いい奴じゃん」
「お前もああいう弟を持ってみればわかるよ」

 一瞬、いつか、お前のことを家の人間に話す日も来るのかな、と言いかけて、コーヒーと一緒に飲み込んだ。
 ミロとこの先もこの関係を続けていけるかどうか、まだ分からない。
 ミロのコンクール本選までに、そうしてゆける方法を探そうと決めたけれど、まだその選択肢は漠然としたままだ。

 兎に角、合宿の一日目は終了した。今は、今晩までの時間をどう有効に使うかに集中するのみだ。

 
03:ミロ視点