01:ミロ視点
02:カミュ視点
03:ミロ視点
04:カミュ視点
05:...
三日目
姦しい鳥の鳴き声で目が覚めた。時計を見ると、あと十分で八時といったところだった。
久々に、良く眠れた、ような気がする。
枕元に積まれた湿ったタオルと、マットレスの端の方に小さく丸まっているミロの後ろ姿で、昨日の記憶を呼び覚ます。
まずい……あのまま寝てしまったのか。
一昨日うまくいかなかったので、昨日は少し念入りに喜ばせてやろうと思っていたのに。
起きて朝食の準備でもしようと体を起こしたところで、首と背中に電気が走った。
「……痛っ………」
思わず、口にしても詮無い事を口走って呆然とした。……何なんだ?! 全身が、まるで筋肉痛みたいに痛い……
「……ん……おはよう、カミュ」
ミロがころん、と寝返りを打ってこちらを向いた。目が赤い。
「良く眠れた?」
「ああ……お陰さまで。有り難う。……でも、何故か全身が痛いんだが……揉み返し?」
「揉んでなんかいないよ! 今まで、凝り過ぎて痛みが分からなくなってただけなんじゃないのか?」
ミロが枕に頬を付けたままそう言って笑った。ミロは結構、寝起きは良い方だ。目が覚めたら、いつまでもベッドに寝そべってはいない。
きっと遅くまで眠れなかったのだろうな、と、気の毒に思った。
「ごめん……まだ眠いだろう。もう少し寝ていていいよ。何か適当に朝食を作ってくるから」
「え、カミュが起きるなら俺も起きる」
「無理するな。昨夜、寝れなかったんだろう? 私が先に寝てしまったから」
ミロの両目を手のひらで覆って押し付けてやったら、その手の上にミロの手を重ねられて抜けなくなってしまった。少し、瞼が熱っぽいような気がする。
「……気持ちいい……」
ミロがうっとりと呟くので、ますます手を抜けなくなった。薄いピンク色の唇が笑みの形をかたどり、何故かそこから目を離せない。
ほんの出来心で、そこに自分の唇を押し付けた。舌で歯茎をくすぐったら、すぐにミロの唇も開いて深いキスになった。
目を隠していた左手を押しのける力を感じて、わざと力を込める。そうか、ミロの手を外させるのは結構簡単だった、と気付いて可笑しくなった。
「……外してよ、手」
甘い囁きと共に、手首をしっとりと撫でる感触を感じた。その気になってくれるのは嬉しいが、今日はツィガーヌを合わせる事になっているので、残念ながらその暇はない。
「わかった。それじゃ、朝食が出来たら呼びに来るから、それまで寝ていてくれ」
目を覆っていた手を外して立ち上がると、ミロが大きな目一杯に裏切られたと訴えながら呟いた。
「あ……そ………」
冷蔵庫の隅で自家生成された乾燥パセリとドライトマト、スモークモツァレラチーズを使ってオムレツを作り、冷凍庫にあったチバッタにミルクと卵、シナモンをかけてフレンチトーストを焼く。冷蔵庫といっても、例によって中身は殆ど空だ。明日か明後日には買い出しに出なければならないだろう。
ミロが入れてくれたエスプレッソを飲みながら、今日一日の予定を確認する。ツィガーヌはテンポが動くので、まず午前中に一度合わせをやり、午後に個人練習、夜にもう一度合奏しようということになった。
合わせなので、最初四分のヴァイオリンソロは省略し、ピアノが入る少し前から始める。ピアノはいきなり滅茶苦茶な調に聞こえる音の羅列で始まる。ヴァイオリンは三度のダブルストッピングのトレモロなので、そもそもこの音が合っているのかあまり自信がない(一応録音をきいて確かめたが)。
その後は、大体予想通りのテンポだった。つまり、速い……。
私が持っていた録音はグリュミオーのもので、10分20秒近くかかっていたが、この感じだと9分後半で終わりそうだ。
最後のアッチェランドは予想よりもずっと遅いテンポから始まったので、これは最後相当巻くつもりだな、と覚悟していたら本当に爆走して案の定崩壊した。
「今くらいのテンポで午後までに指慣れそう? もし無理そうだったら別の方法で練習考えるから言って?」
こちらの顔を見ずに楽譜を眺めたままそんな台詞を吐かれて、カチンときた。
ヴァイオリンは、ここでピアノの二倍の速さで音を刻んでいるのだ。勿論、一度に弾かなければならない音の数はピアノの方が多いが……
「分かってる。夜までの宿題にしておいてくれ。最後にテンポ176くらいまで持って行けばいいんだな?」
テンポ176というのは、1分間に176拍、音楽記号ではプレストの領域になる。このテンポで弾くのは不可能じゃないが、最後の方は和声がラヴェル独特の捻り方をしていることもあって、力任せに弾くと煩くて聞くに耐えない。
譜面に四分音符と176を書き込んで鉛筆を置くと、ミロがピアノ譜をぱらぱらとめくり、中間部の一点を指し示した。
「このニ長調に戻って来たところはもっとゆっくりでいいよ。その代わり、その前のピッツィカートのあとのピアノ・ソロがちょっと重い。ここで遅れるとそのあとのハーモニクスがもっと重くなるから、そこはイン・テンポで」
「了解」
「あ、グリッサンドは適当でいいよ。真面目にやって指痛めると困るから」
テンポ設定と休符の長さを確認して再度合わせ、もう一度課題を洗い直してから、昨日合わせたモーツァルトとベートーヴェンを通した。弾いているうちは忘れているが、腕を下ろした途端に全身の筋肉が悲鳴を上げる。ただ、昨日どうしても指が回らなかったところが楽に通ってしまったり、音のニュアンスも割合楽に変えられるようになっていて、改めて如何に自分の筋肉が固まってしまっていたかを実感した。
「いや、だから、筋肉は使ったら十分解して休めないと」
ミロが苦笑しながらバスルームへ立ち、それから大きめのボールに湯を張って持って来た。ふわっと甘い香りが湯気に混じって立ち上った。
「何? アロマオイル? 凄くいい匂いがする……」
「マグノリアのバスオイル。……随分前にヴァイオリン科の後輩から旅行の土産とかで貰ったんだけど……俺はこういうのあんまり使わないから」
ミロは、ポケットに突っ込んであった硝子の小瓶を取り出して、テーブルの上に置いた。洒落た小瓶で、どうみても旅行の土産というよりはもっと深い意味のある贈り物に見えたが、ミロは気付いていないようだった。
「後輩って、女の子?」
「うん」
「それは……随分見込まれたね」
「……何で?」
「マグノリアの花言葉は、威厳、崇高、自然への愛……そんなところだ。ヴァイオリン科ということは、お前のヴァイオリンに対する評価だってことだろ」
「えっ……そうなのか?!」
「女性が花に関するものを贈ってきたら、まず花言葉が絡んでいると思って間違いないよ。親しい間柄でなければ尚更だ。……それで、ちゃんと礼は言ったんだろうな?」
「勿論言ったよ! ……でも、そんな意味があるとは知らなかったから、簡単にしか言ってないけど……」
ミロは困ったように呟いて小瓶を取り上げ、しげしげと中身を見詰めた。
「だけどさ、花言葉なんて普通男は知らないだろ? ……なんでカミュは知ってんの?」
「私の仕事を何だと思ってるんだ? 照明だけを弄ってるわけじゃないぞ。室内に花を置くときや、モチーフに使う時には必ず花言葉は調べるよ。中には、あまり良い意味でない花言葉を持つものもあるからな。……それで、この湯はどうするんだ?」
目の前に置かれたボールの用途がわからず、そう訪ねると、ミロは慌てて小瓶をテーブルに置いて言った。
「ああ、ごめん。両手を浸けてごらんよ。それだけでも、大分肩の力が抜けるから」
「両手?」
「うん。どっちかが特に疲れてるなら片手でもいいけど……取りあえず、両手でいいんじゃないかな。楽譜ばっかり見て目も疲れてるだろうし。小指に目のツボがあるんだってさ」
肘を冷やさないよう長袖のシャツを着ていたので、袖をまくり、言われた通りにボールに両手を鎮めた。少し熱めの湯に手首まで浸した途端、思わず深い溜め息が口から溢れた。確かに、とても気持ちがいい。音を外に漏らさないよう部屋は閉め切って冷房をかけているので、思いの外、冷えていたのかも知れない。
「……これは、癖になりそうだな……凄くいい匂いだし」
「だろ? 手が暖まったら、肘も温めると気持ちいいよ」
湯の中で指を縮めたり、伸ばしたりすると、凝り固まった疲れが解けていくようだった。気がつけば、ミロが肩や首筋などにも手を当ててくれていて、そのあまりの心地よさに時間の経つのを忘れそうになった。しかし、これではミロの手伝いに来たのか、面倒をかけにきたのか分からない。
「有り難う。あとは自分でやるから、ミロは上に上がって練習していてくれ。昼食は、こちらで作るよ」
両手を湯から引き上げ、タオルで拭いて頬を撫でてやると、ミロは少し残念そうな顔して、「それじゃまた後で」と私の頬にキスをして部屋を去って行った。
午後はツィガーヌと明日合わせる予定のブラームスの練習に明け暮れた。力が抜けるようになったのは良いが、筋肉痛のせいで無理がきかない。ほぼ二十分に一度は休みをとらなければならない有様で、昨日に引き続き一時間に一度は様子を見に来る(本人はスコーンを摘みに来たと言っていたが、私に強制的に休憩を取らせるためであることは承知している)ミロも、お役御免で手持ち無沙汰だった。
夕方六時にミロが作ったシチューで夕食を済ませて、再度ツィガーヌを合わせた。何度か繰り返すうちにかなり自由にテンポを動かせるようになり、最後のアッチェランドも何とかミロの希望のテンポについてゆけるようになった。
夜八時、少し休憩を挟んでブラームスを軽く通すことになり、指慣らしにオーケストラパートの最初の数小節を弾いた。そのとき、ピリッと嫌な感じの痛みが左手の小指に走った。
ブラームスはオーケストラ・パートをピアノで弾く事になるため、音域が広く特に左手に負担がかかる。小指の痛みは、これ以上の無理は危険だという信号のように思えた。
「……ミロ、」
念のため、小指を動かして筋を違えていないことを確かめてから、私は自分の現状を白状した。
「……済まない。……ちょっと、今日はこれ以上は止めた方がいいかも知れない」
「えっ……?」
ミロは弾かれたようにピアノの方を振り返り、私の手をとって言った。
「どこ? 小指? 筋? 病院行く?!」
「いや、そんな大したことじゃない。これ以上やると痛めそうだから、大事をとって今晩は止めておこう、というだけで」
「本当に?! どこか痛いんじゃないのか?!」
あまりに必死な様子に、申し訳ないと思いながらも可笑しくなった。どこかどころではなく、朝から全身痛いのだ。
「本当に大丈夫。まだ先が長いし、嘘をついて酷くしたら元も子もないから、痛めたらちゃんと正直に言うよ」
目を見開いて血の気が引いた頬にキスをした。どうせ今日はもう練習出来ないのだから、それなら、昨日の宿題を今日ここで済ませれば良い。
「……その代わり、夜が長くなるから、それはそれで悪くないだろう?」
さりげなく誘ったつもりだったが、まだ私の指に気をとられているミロは気付かなかったようだった。怪訝な表情でこちらをじっと見詰めているので、苦笑してもう少し分かり易いヒントをやった。
「これからシャワーを浴びるよ。お前も、楽器を仕舞って浴びて来たらいい」
あ、と驚きの形にミロの唇が開き、蒼白だった頬が綺麗な桃色に染まった。ミロはこちらから誘うととても嬉しそうな顔をするが、その実、人の誘いにはなかなか気付いてくれない。今日はまだ勘が良い方だ。
「今日は練習しろって言わないのかよ?」
照れ隠しに、憎まれ口が返って来た。勿論一人で練習してくれても構わない、とこちらも憎まれ口で返す事は出来るが、ローマへ着いてからずっと私の身を気遣ってくれている礼に、もう少し素直になることにした。
「一日の三分の二をヴァイオリンに譲っているのだから、たった数時間くらい私がお前の所有権を主張したって構わないだろう?」
返事はなかった。代わりに、息がつまるような力で羽交い締めにされてキスされた。
「……でも、お互いシャワーを浴びてからだ。それまでは上で待っていてくれ」
いつの間にかシャツの下に滑り込んできた手を宥めて、私はミロを事務所の外に押し出した。
「今日は、上に乗ってもいいかな」
二人でマットレスの上にもつれ込み、お互いのバスローブの紐を解きながらキスを交わす。その合間にそう囁いたら、ミロは一瞬手を止め残念そうな顔をした。
「カミュが無理しなくても、ちゃんと気持ち良くするよ? 時間もあるし……」
「うん……でも最初は、こちらでリードした方がやりやすいだろう?」
一昨日不成功で、昨日は準備だけさせて触ることも出来なかったのでは、相当に欲求不満が溜まっているだろう。その状態で長い時間我慢を強いるのも酷だし、こちらが怪我をしないよう気を遣わせさせるのも気の毒だ。
「心配しなくても、途中まではミロにやってもらうから。それで、一度ちゃんとやれたら、そのあとはそっちに任せる。それでどう?」
付き合いも長くなってくると、閨でこういう色気のない会話も出て来るようになる。実際、うまくいくかいかないかというのは、色気だの雰囲気だのよりもよほど大事で、そのためには事前の相談も必要だと最近では割り切るようにしている。
ミロが渋々、といった態で頷いてくれたので、頭を切り替えてミロの体の中の熱に気持ちを集中した。
セックスというのは、体を繋ぐ事ではなくて、相手の体の熱の流れを感じる事だ、と思う。
どうすれば相手の体に熱が生まれるのか、全身の感覚でそれを探り当て、導く。余計な思考を全て取り払い、その熱の流れに自分の熱を添わせる。
感じる快感の種類は違っても、その作業は、音楽を二人で生み出す時の感覚にとても似ている。
かつて、一度だけミロとのデュオでそんな感覚に捕われたことがあった。クィーンズベリに居た頃のことだ。
今は、私とミロの技術力の差があまりにも広がってしまったために、私の方に無心になる余裕がなく、そこまでの感性の共有は出来なくなってしまった。
私がミロに求める体の関係の中には、その音楽で出来なくなってしまった事の代償行為としての側面があるように思う。
その一方で、音楽では決して満たされないものも体の関係にはある。
デュオの相手に自分の全てを受け入れて欲しいなどとは思わないし、相手の全てを受け入れたいとも思わない。
全てを受け入れるなどと、素面の時に思い起こせばそのあまりの難しさに途方に暮れるしかないが、相手の体の熱に自分の熱を添わせている間はそれを本気で望み、心から信じていられる。セックスの目的とは「同化」であり、同化してひとつになるということは、相手を受け入れ、受け入れられる事の最終的なかたちであるからだ。
それはほんの一時の事だけれど、その暖かさはそれ以外の時間を生きていく勇気をくれる。
ミロが私に望むのはそういう交わりで、おそらくそれが全てなのだろう。
私も、彼と交わる時には本気で一つになりたいと望む。そうして、ミロが同じように感じてくれているのを肌で感じる時、泣きたいような幸福に包まれる。
けれど、その一方で、一つの記憶が邪魔をする。
どんなに望んでも、自分とミロの音楽がかつてのように融け合う事はない。そしてそうである限り、私達が本当にひとつになる事はないのだ、と。
ミロは、私が彼の吐精の手伝いをする事に未だに慣れない。
確かに、素人がディープスロートなど簡単にはやらないだろうし、普通のカテゴリから少々外れていることは承知している。
でも、私は彼が喜んでくれることなら何でもしたいと思う……それは、多分、愛情だけではなくて、強迫観念でもあると思う。
どこまで尽くせば、応えてくれるのか、どこまで捧げれば、本当に一つになることを許してくれるのか……
ミロは精一杯に応えてくれているのに、まだそんな問いを投げ続けている。
もう、そんな不毛な問いは止めるべきだと、分かっているのだけれど……。
口で三度、ミロの精を受けて、流石に非難めいた涙目で見詰められて、漸く少し大人しくなった性器を騎乗位で自分の中に飲み込んだ。
腹部というのはまさしく体の中心であって、其処に埋め込まれたものは否応なしに全体の一部になり、体はその存在に支配される。力が抜けて思うように動かなくなり、自分が最早独立した一個人ではないような感覚に捕われる。もっと露骨に言えば、その埋め込まれた存在に支配されたいと望む。
息苦しくて、熱くて、それでもこの体制では自分がリードをとらねば仕方がないと、無理矢理意思を呼び覚ましたところで、あっさりミロに体をひっくり返された。「最初一回はこちらでやると言ったのに」と抗議した口は、問答無用の情熱的なキスで塞がれた。
小さな囁きが耳元で聞こえ、それはこれまでに何度も彼の口から聴いた言葉だったのに、その音が言葉として意味を成した瞬間に、何故か涙が溢れた。
私が未だに払拭し切れていない不安に気付いてそう言ったのか、それともただ彼の思う事を告げただけなのか、分からないけれども……。
明日にひびくから、日付が変わる前には眠ろう、と事前に交わした約束はあっさり破られ、私達は二人とも、再び朝の光を見るまでお互いの体を貪って過ごした。久々に限界を振り切って交合を繰り返してしまい、起きた時には前日からの筋肉痛と相まってまともに椅子に座ることも出来ない有様だった。
「今日一日は、ゆっくり休めばいいよ」
なんとか事務所のソファまで辿り着いたものの、そこで力つきた私に、ミロはにっこり笑って毛布とブラームスのスコアを手渡した。
「今日は俺ここで練習するから、カミュそこで聴いててよ。で、何か気付いたことがあったら教えて」
私と同じく朝まで起きていた筈のミロは何故か上機嫌で大層元気で、今まで聴いたこともないような甘いブラームスを披露してくれた。
そういう事情で、私は今、ソファに寝そべったままミロの音を聞き、テンポのチェックをしている。
昨日嫌な感じに捻った小指も、一日のday offを貰ってなんとか回復しそうな感じだ。
……もしかすると、全てミロの計算の内、だったのかな……(溜息)。
05:ミロ視点