01:ミロ視点
02:カミュ視点
03:ミロ視点
04:カミュ視点
05:ミロ視点
06:カミュ視点
07:…
五日目
まずいことになって来ている、と思う。
こんなに濃密な時間を過ごしていたら、お互い色々と変わってくるのは当たり前で……。
最初の変化は、ミロのヴァイオリンだった。
昨日一日弾いていたブラームス。背筋がぞくりとした。ミロに、あんな音が出せるとは思っていなかったから。
その昔、ミロが最初にやったモデルの仕事は、ヘンリー・アジェの写真集のモデルだった。クラスメイトは口を揃えて「こんなのはミロじゃない」と囃し立てたが、私はアジェの写真家としての眼力の鋭さに舌を巻いた。
厳しい、何も寄せ付ない表情。ミロのヴァイオリンそのものだ。音に対してあれほどにストイックな奏者を、私は他に知らない。私や、ポールや、ジョシュアでさえ、たまに自分や相手の音に酔う事があるというのに、ミロにはまったくその隙がない。ただ、理想の音を追い求めるだけだ。
「音」に集中する傾向のあるミロは、楽器を弾く時、何の干渉も受け付けない。一度音が鳴り始めたら、自分の中にある音を深く一途に覗き込み、周囲の事など考えてもいないのだろう、と思う。批評家の耳、聴衆の目、そして、多分、伴奏者の音でさえ半分気の逸れた状態でしか聴いていない。
だから、ミロの音は、本当は無伴奏の時にこそ一番強く輝く。
余計なプレッシャーを与えたくないので、ミロには言った事はないけれど、私は、ミロのイザイの無伴奏は世界一だと思っている。
そのミロが、多分、初めて背後に居る私を意識した演奏をした。多分、具体的に何かを考えているわけではなく、ただその前夜の空気を引き摺っているだけなのかも知れない。それでも、彼の音が誰かの匂いを纏わせたことなど、これまでただの一度もなかったのだ。
集中出来ていないのかもしれない。
邪魔をして申し訳ないな、と思う反面、流石のミロも気もそぞろになる、ということもあるのかと、少し嬉しくなった。
楽器を持てば、人の事などすっかり忘れてしまうのだろうと思っていたのに。
流石に構成は昔よりずっとしっかりしていて、感傷に流されるようなことはない。けれど、音の甘さだけでなく少しポルタメントがかかったような指運びもしていて、以前のミロだったら絶対恥ずかしがってやらなかったような表情もつけている。
悪い演奏じゃない。むしろ自分は、このくらい自由な方が好きなくらいだ。けれど、好みが分かれる演奏だ、とも思う。
ブラームスを神聖視する人の中には、やりすぎだと眉を潜める人もいるかもしれない。コンクールに持って行くには少々危険だ、という気もする。
困ったことになった。
結局、自分はミロの邪魔をしにきただけなのじゃないだろうか……?
それでも、一夜明けて、こんな甘い演奏を披露してくれたことを、とても嬉しく思う。
ミロは、多分自家発電型だ。
ウサギなんかを見ていると、興奮が更に興奮を呼び、自分でそのループが止められなくなってしまうことがあるが、なんとなくそれに似た雰囲気を感じる。
側に恋人がいれば、いつでもスキンシップをとりたがる。そしてそれに応えれば、それはどんどん濃密なものに変化する。
一晩飽きるほどセックスすれば、その次の日は落ち着くかと思えば、更に体温が上がっている。
その反面、相手が側にいなければ、あまり寂しく思うことはないらしい……。平気で何ヶ月も音楽に夢中になっている。
まあ、素直というか、偽りがないというか……
それが薄情に思えた頃もあったけれど、ミロが本気で音楽をまたやり始めたのだと分かったときに、妙にそういうものなのだ、と納得してしまった。
たまに会って、その時にしっかり自分の方を向いていてくれるのなら、それでいい。
最近は、そう思うようになった。そして、その分、側に居る間は遠慮なく甘えられるようになった、と思う。
以前は、一緒に暮らしたいと思っていたけれど、今はこれでもいいのじゃないか、と思い始めている。
たまに会えるからこそ、外せる羽目もある。
朝の光を見るまで無茶をして、少々体に不都合があっても、求められれば応えたいと思う。あと二日。それが終わったらまた暫く会えないと思えば、尚更だ。
「それじゃ、先にシャワーを借りるよ」
そういって、バスルームに入り、洗面台の鏡に映った自分を見て赤面した。
……これは、まずいだろう……(汗)
思わず、それ以上自分の顔を見たくなくて、鏡の扉を開いて自分の視界から隠した。
パリに居た頃、一組のゲイのカップルと友人になった。
周囲には眉を潜める人間もいたが、全く悪びれることなく、いつも二人で幸せそうだった。
「カミュは凄く自然に僕等と接してくれる」と嬉しそうに言われ、自分も女性がだめというわけではないが、現在の恋人が同性であることを白状した。そうしたら、大層驚かれた。「全然そんな空気を感じない」と。
ゲイのカップルの間では、所謂セックスまではしない間柄もあれば、しても役割を固定しない関係もある。
けれど、彼等は、明らかに役割分担が出来ている関係だった。そんな込み入った話まで聞いたわけではないけれど、顔を見れば一目瞭然だった。
男性でもエストロゲン(女性ホルモン)を分泌することは出来るのだから、ある意味当然の帰結かとも思う。
エストロゲンの働きが活発になると、肌の皮脂が抑えられて肌理が細かくなる。頬や唇に赤みが増す。
そして、多分これは心の持ちように関わるのだと思うけれど……表情が柔和になる。
パリには、ある一角に行けば結構そういう表情の男性がいて、ああ、そうなんだ、と納得する。確かに部分を見れば綺麗なのだけれど、男性の中に奇妙にもう一つの性が混じり込んでいる感じで、自分を含め殆どの人間が咄嗟に感じる印象は、あまり肯定的ではない違和感だろうと思う。
だからこそ、それを隠そうとせず堂々としている彼等二人を尊敬していた。けれど、そう思いながら、自分はああいう顔にはなりたくないと、どこかで思い続けていたように思う。
それは、多分、自分自身が一瞬でも感じてしまう強い違和感の所為だろう。そして、その違和感をミロに感じられる事が怖いからだ……。
鏡の中の自分は、どこかそんな空気を引き摺っているように見えた。
ミロは、どう思ったのだろう……
あんな誘いをかけてきたのだから、気付かなかったのかも知れない。あるいは、気付いても、自分が思うほどには違和感は感じなかったのかも知れない。
だとしたら、自分は結構普段からあんな顔をしているんだろうか? ミロの前で?
考えたら、少し気が滅入ってきた。あんな表情で人を誘うような事をしているのかと思うと、急に羞恥心で身が縮むように感じられた。
……とにかく、頭をクリアにして、さっきまでの事は忘れよう。妙な依存心があると気が緩んでいけない。
ミロに優しく愛撫して欲しいとか、こちらの理性が溶けるまで面倒を見て欲しいとか、そういう甘えを全部シャワーで流し落としてバスルームを出た。
役割はbottomでも、リードをとる事は可能で、それなりに首尾よく事を運べた、と思った翌朝。
睡眠も十分、一日もらった休みのお陰で腕も回復し、一日の練習に備えて朝食を作ろうと冷蔵庫を開けた瞬間に、自分の目を疑った。
……これは、ただの箱か?!
文字通り、冷蔵庫の中に「何もない」……電気を使って冷やす必要はないと断言出来る。
「ミロ……冷蔵庫の中が空なんだが……」
「うん、昨日全部使った。だってカミュ、昨日買物に行くかって聞いても嫌だって言ったじゃん」
当たり前だ! あの状態で買物になんか行けるか!
……と叫びそうになったのを無理矢理飲み込んで、パントリーを開ける。
せめて、小麦粉とベーキングパウダーくらいあれば、パンケーキを焼いて朝食くらいにはなるだろうと思ったが、その小麦粉すらなかった……。
「あ、小麦粉もおとといピザ焼いたから全部なくなった」
「……じゃあ、仕方がない。今から買物に行こう。……これじゃ、簡単なものも作れないよ」
「え、乾燥パスタにセージの葉のオリーブソースとかは?」
「却下」
実は、自分一人の時にはそれに近い食生活の時もあるのだけれど、この旅の目的のひとつはミロにまともな食生活を採らせることでもあったので、さっさと服を着替えて外へ出る準備をした。
ふと気がつくと、ミロが着替えもせずにこちらを見詰めている。
「……どうした? 行かないのか?」
練習したいなら、私一人で買いに行ってもいいが、と言おうとしたとき、ミロがきまり悪げに言った。
「……カミュ、外に出るなら、袖と襟のある服にした方がいいと思うよ?」
この夏の最中に、長袖はともかく、襟の高い服など持って来ていない。
「見える所にキスマークをつけるのは止めろと言っただろう」などと、何度口にしたか分からない台詞を吐いて朝から険悪なムードに持ち込むのは止めた。言った本人だって、最中にはどうでも良くなってしまうのだから、ミロだけを責めるわけにもいかないのだ。
溜息を噛み殺して、ミロの衣装ケースを漁る。モデル仲間に貰ったのだそうな、間違いなく貰ったまま袖を通していないだろうと思われる衣服の中には、たしかにその条件に合致するものもなくはないのだが……
「あ、コレ、いいじゃん! カミュにも絶対似合うって!」
ミロが黒いシフォンのタートルネックを取り出した。長袖だが、所謂シースルー素材で一応夏物らしい。
「……こんな派手なのを着て市場に行って、キャベツだのブロッコリーだの買ってくるのか? ……というか、これ、女物じゃないのか?!」
「うーん? そういえば、ユニセックスって言ってたかな? 女物ってわけじゃないよ」
「……勘弁してくれ……」
本気で、お前一人で買いに行って来い、という気分になったが、それでは本当にただの役立たずなので諦めて袖を通す。その他は、もっと派手なものしかなかったからだ。
「とにかく、余計な寄り道はせずに必要最低限のものを買ったら帰ろう。時間もないし」
「うわっ、やっぱり似合うじゃん! モデルみたい!」
「お前に言われたくないよ……」
溜息をついて、机の上からミロのサングラスを取り上げたら、「エー勿体ない」と抗議された。黙れ、とひと睨みして、財布をズボンのポケットに押し込む。
真っ黒のシフォンのタートルに、八十パーセント以上の確率で染めていると間違われる赤毛なんて、まるでシャンプーかヘアダイの広告塔だ。サングラスでもかけていなければ、恥ずかしくて外など歩けたものではない。
兎に角緑の野菜がないと始まらないので、まずは市場に出かける。今日は水曜日なので、朝市が立っていた。
市場といっても、簡単なパニーニやワッフルなどを焼いて売る店もあって、ついふらふらとそちらへ釣られてゆくミロをその度に引き戻す。
「カミュ、バジルのいいのがあったよ!」
のっけから買物リストにないものを持って来たミロに、まずはこのリストを探せ、と紙片を持たせる。玉葱、ジャガイモ、人参、パプリカ、ズッキーニ、ホウレンソウ、ガーリック、セロリ、キャベツ、ブロッコリー、フェンネル、グレープフルーツ、オレンジ、レモン、レンズ豆、トマト、パセリ、マッシュルーム。
このくらいあれば、今日と明日でまた少し作り置きの食事が作れる、と考えて、長いと思っていたこの合宿もあと二日しかないのだ、と気付く。
少ししんみりした空気を追い払って、またメニューを考える。
良質の蛋白質も必要だ。サーモンと、ターキー、豚肉を少し買っていくか……。
私自身はもう殆ど肉は食べない。けれど、コンクールのような精神的にも肉体的にもハードな目標を乗り切るには、矢張り動物性蛋白が一番いい。
本当は、本選まで、側にいて食事管理でもしてやれれば良いのだろうけれど……
側にいたら、きっと邪魔になる、とこの五日間で確信した。
ミロは無邪気に野菜を選んでいる。本音はもしかしたらそれほど無邪気ではないのかも知れないが(いつも、私が帰る二日前くらいから元気がなくなるのはミロの方だ)、少なくとも今は楽しそうだ。
籠の中はトマトで溢れていて、「トマトだけでなく他の野菜も探して来い」と言ったら「これは全部違う種類のトマトなんだ」と大真面目に反論された。
しかも、緑のものもタイムやバジル、セージなど、ハーブばかりだ。ミロ本人はハーブ類はあまり好きではないくせに、二人で買物に出ると必ず束で抱えてくる。
まあ、私が好きでよく使うから、ということなのだろうけれど。
ミロ本人は決して料理には使わないだろう、と思われる野菜を持って来ては私が返す作業を三回ほど繰り返したころ、漸くリストの品が揃い、そろそろ戻ろうかという話になった。ミロが、一軒のクレープ屋を指差して言った。
「あそこで、クレープ買って帰ろうよ……」
実は、私はクレープには郷愁があって、粉砂糖をかけただけのバター・クレープに目がない。小さい頃はあまり甘いものを食べさせてもらえなかったのだが、フランスの祖母の家に行くと、露店で売っているこういうシンプルなクレープは食べさせてもらえて、それが殊の外美味しかったからだ。
この程度のものなら自分で作れば良いのだけれど、なんとなく二人で買い食いも悪くないか、と思い、朝食前だから、とひとつだけ買って二人で分けて食べた。
甘いクレープは思い出通り幸せな味で、つい口元が綻んだ。とその時、視界が急に遮られて、唇に柔らかい感触を感じた。
「……あれ? 怒らない………」
気付けば、ミロが心底意外、という顔でこちらを覗き込んでいた。
……意外も何も……押しのけるタイミングを逸した……(脱力)
色の濃いサングラスのせいで、直前までミロが何をするつもりか気付かなかったのだ。
「どうしたの? 具合悪い?」
やや心配気な声音に、少々天の邪鬼な心が首をもたげた。勝手にキスしておいて、反抗しなかったからといって、それはないだろう?
多分、私も色々とネジが緩んでいたのだろう。お返しに軽くキスしてやって言った。
「全然。帰ってお前の練習の尻を叩くくらいには元気だよ」
どうせ、こんな格好で、こんなサングラスをかけてこの界隈を歩く事など二度とない、と思ったら、なんだかストレートの振りをするのもばかばかしく思えて(第一、この髪の色だって本当の色だとは思ってもらえないだろうし、ミロの横に並んでいたら男性に見てもらえるかどうかだって怪しい)、これ以上ないと思えるほど上機嫌のミロと手をつないでグロッサリーストアへ寄り、乳製品、卵、粉類とオリーブを買って車に乗った。帰りは太陽に向かって走ることになるので、渋々サングラスをミロに返した途端、ミロに目から鼻から散々キスされた(サングラスが邪魔でそれまでは出来なかったらしい)。
事務所に戻ると、小さな冷蔵庫はあっという間に買ったもので一杯になった。朝食というよりは昼食に近い時間になったので、サーモンを焼き、パスタを茹でてレモンのソースであえ、グレープフルーツとオニオン、バジルとオリーブでサラダを作る。ミロがトマトを名残惜しそうに見詰めていたので、買って来たチバッタにモツァレラチーズとトマト、バジルを乗せ、サラダ用に作ったビネガーをかけてオーブンで焼く。
「カミュ、なんかこういう、酒のつまみになりそうなものがホント上手だよな……」
「それはどうも。一人の時間が長かったからな。食事くらい少し捻らないと、食べる気もなくすだろ?」
言ってしまってから、これでは今寂しいと言っているように聞こえるな、と気付いてしまったと思ったが、時既に遅かった。
ミロは何かを考え込み、それから私の両手を握りしめて、真剣な眼差しで言った。
「……俺、ちゃんと考えてるから……!」
……何を考えているのか、遥か彼方まで先走られる前に聞いた方が安全だと過去の経験が訴えるが、何となく聞くのも恐ろしい。少なくとも、コンクールが終わるまでは、聞かない方がいいような気がして、結局それについては深く追求しなかった。
午前十時半、ブランチを終えたあと、再び部屋を分けて二時間ほど個人練習をし、ブラームスを合わせた。昨日テンポの確認をしたお陰で、それほど酷い事にはならずに済んだけれど、矢張りミロ一人で弾いていた時の方が自由に伸び伸びとしていたな、と口惜しく思った。
あと一日。明後日には、ロンドンに戻る。
こんな時間が、ずっと続けばいい、と願う自分がいる。ミロと楽器を弾いている時間は、思うようにいかない事ばかりだけれど、それでも楽しい。
けれど、自分では矢張りあまり役に立たないと、身に凍みて分かった五日間でもあった。ゼロよりはましかもしれないが、それ以上でもない。
この時間は、永遠には続かない。日常にもならない。
ミロの言うとおり、これは「バカンス」であって、いつか終わりが来る時間だ、とはっきりと自覚が出来た時、少しくらいミロの我侭をきいてやってもいい、と思った。今まで許した事がなかった人目のある場所でのキスも、二人で手をつないで歩くのも、たまの特別の時間であれば構わない、と思う。
ここへ来るまではまだ決まっていなかった未来が、少し見えたような気がした。
多分、今の形が一番いいのだ。ミロも、音楽に集中しつつ、時間のある時には恋人と過ごせる。私も、たまにしかない特別の機会だと思えば、人の目を気にせずに積極的に甘える事が出来る。
サガ先輩とアイオロス先輩のように、側にいるからこそ安定する関係もあれば、そうでない関係もあるのだと、厳しい演奏家の顔と、甘い恋人の顔を目まぐるしく入れ替えてみせるミロを見ながら思った。
「もうそろそろ、休もうか?」
午後九時、大人の就寝時間には早すぎる時刻に、そう言ってミロを誘った。毎回のことだけれど、慣れた頃に夜の生活もいつも終わりになる。
ミロは、ちょっと意外そうに目を見開いて、それでも嬉しそうに頷いてくれた。
「今日はどうして欲しい?」
ベッドの上でミロの体の上に覆い被さって、唇を舐めながらそう聞くと、困ったような返事が返って来る。
「……あのさ、何にもしなくていいから、……俺に甘えて、っていうのは無理?」
本当は、分かっている。ミロは、ベッドの中ではかなり尽くしたいタイプだ。今時、珍しいとも言える。
「欲がないな。普通は、色々してもらう方が嬉しいんじゃないのか?」
そう笑って聞いたら、存外に真面目な答えが返って来た。
「フツウっていうのはよく分らないけど……俺としては、普段はカミュがこっちにたくさんしてくれるんだから、出来る時は俺がたくさんカミュにしてあげたいんだよ……カミュがして欲しい事を、本当にして欲しいように」
して欲しい事……なら、これからしてくれるんじゃないのか、と思った瞬間、ミロの真面目な溜息が聞こえた。
「甘えて欲しいって言われて、カミュが安心して甘えきれるほど俺がカミュに信頼されてないってのも自覚してる。でも、カミュは本当に頑張って俺にたくさんしてくれるだろう? 今だって、忙しいのに必死でピアノを練習してイタリアまで来てくれた。俺の食事とか、コンクールの事心配してくれる。夜も、一生懸命俺を気持ちよくさせよう、喜ばせようってしてくれてるだろう? でも、そんなに頑張らなくてもいいっていうか……むしろこんなに色々してくれるなら、もっと、こう……強気で色々要求してくれていいというか……。いや、要求することをもはや諦められてたりしそうでそれもちょっと怖いんだけど……。
フツウって本当によく分らないし、分るよう努力しなきゃいけないのかもしれないけれど……カミュの事はフツウの事じゃないだろう? 特別だから。本当は毎日でもカミュの事見て、自分で気が付かなきゃいけないんだろうけど、今はそれが出来ない。カミュには嘘吐き呼ばわりされそうだけど、けど、カミュが俺の人生で唯一の人なんだ。
だから、俺だってカミュに何かしたい。ずっとカミュには不義理ばかりしてるから、こんなのその場だけの言葉に過ぎないって思えるだろうけど……でも、本当にそう思ってる。だから、せめてカミュがちゃんと目の前に居る時には、俺もカミュに色んなことしてあげたいんだよ……」
別にミロの事を信頼していないわけではないし、まあ、不義理はされたかも知れないが、嘘つきだとも思ってはいない。
ミロにとって、多分自分はそれだけ特別な存在なのだろうな、と理解はしている。
でも、確かに、自分が必要以上に傷付かないセイフティ・ネットを張っているところはあるかもしれないな、と、ミロの言葉をきいて苦笑した。
たとえば、特別だからといって、自分の思うような愛情とは違うのかもしれない、とか。
自分の思う愛情の定義と、ミロの愛情の定義は違うというのは、随分昔から感じていた。でも、そんなものは、多分つきつめれば、皆一人一人違うのだろう。
私だって、自分の愛情が歪んでいない、と言い切れる自信なんてない。それどころか、多分かなりたちの悪い部類に入ると自覚している。
「……そうだな……」
確かに自分がミロの立場だったら、何かをしてやりたい、と思うのかも知れないな、と思い、何をして欲しいのかを考えた。けれど、すぐには思い浮かばない。
側に居て欲しい……は、もう満たされているし。
気持ち良く……は頼まなくてもこれからしてくれるだろう。
恋人にしてほしい事もすぐに思い浮かばないというのは、それはそれで問題かもしれない、と思ったとき、ふと、一つだけ希望が浮かんだ。
さて……これを頼んだら、ミロは照れずにやってくれるだろうか?
悪戯心が首をもたげた。多分、聞く方も相当恥ずかしいような気がするが、どうせあと二日のバカンスなのだから、そういう馬鹿をやってみるのも悪くはない。
「じゃあ、こちらの気が済むまでリピートしてくれる?」
「……何を?」
明らかに緊張した声が返ってきた。さっきから私の手をまさぐっていたミロの手が、じんわりと冷たく冷汗をかいている。
いい反応だ。可笑しくなって、ミロの耳元に口を寄せた。
「一昨日の夜、お前が私から主導権を奪い返す時に言ってくれた言葉だよ」
途端に、ミロの顔がアルコールでも飲んだかのような朱に染まった。……ナイトランプをつけておいてよかった(笑)。
「……今、から?」
「別にいつからでも? でも私がもういいと言うまで続けてもらうけどね」
「……明かり、消してもいい……?」
「駄目」
がっくりと、ミロの肩が落ちた。そんなに恥ずかしがらなくてもいいだろう、と、益々許してやる気がなくなった。
「……I love you……」
蚊の鳴くような小さな囁きが耳元で聞こえた。まあ、顔を見て言うなんて芸当は最初から期待していなかったけれど、これではあまりにもヤラセっぽい。
「あ、言っておくけど、本気の言葉でなかったら要らないからな」
そう釘を差して、熱い頬にキスをした。
自分がこんな要求をされたら、散々相手を煽っておいて、夢うつつの状態の時に言うだろう。そういう小細工をしないのが、ミロらしいといえばミロらしい。
ミロは、はあ、とまた溜息をついて、今度はこちらに向き直り、キスをした。
「I love you……」
吐息のような声で囁いては、キスを繰り返す。一生懸命なのは分かる。本気だという事も。
けれど、そこに一生懸命になるあまり、すっかり手の方は疎かで……
ついに、苦笑を抑え切れなくなって、ミロの両耳を両手で挟み、しっかりと青い瞳を見詰めて言った。
「有り難う……もういいよ。私も、お前を愛しているよ」
ミロが、深いキスで私の唇を塞ぎ、それから、二人とも何も喋れなくなった。
そんなわけで、ご希望通り甘えてみたものの、あまり期待した雰囲気にはならなかったな、と思っていたら、忘れた頃にまた耳元で囁かれて、どきりとした。
明日にひびくから、これで最後、と体を繋ぐ直前に、ミロがそう口にしたのだ。
それは、ごく自然に彼の口から溢れたようで、一瞬、心臓の鼓動を止めた。そして、その隙をついてミロの性器が体内に射し込まれるのを感じ、思わず叫んだ。
ミロはその口を自分の唇で塞ぎ、それから渾身の力で私の体を抱き締めて何度もその言葉を繰り返した。それから、「I'm sorry」とも……。
その熱の籠った言葉が嬉しくて、泣きたいほど幸せだというのに、何がSorryなのか分からない。
お前が申し訳なく思うことなんて何もないのに、と思いながら、それを口にするにはあまりに息が上がり過ぎていて、ミロの肩に縋りながらもっと簡単な言葉を繰り返した。「もっと、欲しい」と。
多分、ミロが私に甘えて欲しい、というのは、そういう部分で素直になって欲しい、というのもあるのだろうから、まあ、今日のところはお互いひとつずつ希望を叶えた、ということになるのだろう。
さて、明日はヴァカンス最後の日だけれど、一体どんな一日になるのかな。