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Vacances

01:ミロ視点
02:カミュ視点
03:ミロ視点
04:カミュ視点
05:ミロ視点
06:カミュ視点
07:混合
08:…


六日目


(ミロ視点)


カミュは、諦めるのが早いと思う。最初から諦める事を計算に入れて望むところがあるように思う。
そういうところが、堪らなく切なくて、同時にとても怖い。
いつか自分も同じように諦められてしまうんじゃないかと、そんなふうにいつも怖い。


好きだ、とか、愛してるとか、同じ言葉だけれどそこにある色や、温度や、形はみんな違う。無数の好きというものと、無数の愛というものがある。
それはずっと小さな頃からそう思っていて、むしろ「好き」といったくせに自分の「好き」と同じじゃないと詰られる事に疲れていた。
自分の「好き」は人が言う「好き」とは違ってるのかもしれない。けれど、だとしたら、一人一人がきっと違う「好き」を持っている筈なのに、どうしてみんな同じだと考えているんだろうと不安になった。
自分の愛情を示す言葉に他人と見比べられるような目盛りは付いていない。その曖昧な形のまま、与えてくれた「好き」という言葉を自分なりに解釈し受け止める。
受けてで自分の言葉の重さや意味が決まってしまうと理解した時から、俺にとって言葉の意義は一気に半減した。
言ったとか、言わないとか、そんな小さないざこざが言葉には付いて回るし、どんなに自分にとって大事なもの美しいと思えたものでも、言葉を尽くして説明したとして、理解されるものでもない。
同じ定規を持っている者同士でなければ、正確に言葉がその役割を果たす事は出来ない。
言葉は、あまりにも頼りない。自分の気持ちを表しきれない。
それに頼るよりは、触ったり、一緒に時間を共有したり、抱きしめていたい。その方が、もっと自分の気持ちをストレートに反映している。そう思っていた。


「こちらの気が済むまで繰り返して」


始めはなんの事を言われているのか分らなかった。少しヒントを貰って、ようやく合点がいって顔に火のように火照った。
言ってくれ、と言われて恥ずかしく思うような言葉じゃない。
嘘でもない。
大げさだとも思ってない。
でも、ニコニコと悪戯がうまくいって笑っているカミュに受け取ってもらいたい言葉でもない……。
うまく言えないけれど、カミュを愛しているのは本当だけれど、そんなに簡単に言える言葉じゃないのも本当なんだ。


言葉は、そこに詰まる形や色や温度が違う。ぎゃくに言えば、詰まるものが変われば同じ文字の羅列でも、意味が違うものになるんだ。
カミュが、あの晩たまらなくなった気持ちで言った「I love you.」といういたってシンプルで短いこの文句を、どんな気持ちで繰り返して欲しいと言ったのか、本当の所、分っていない。
言葉に飢えていたのか、言葉で示して欲しかったのか、もっと頻繁に言うのがフツウなのか……分らないけれど、何かを欲しがっていることだけは分ったから、だから、必死で繰り返した。
I love you...I love you...I love you...
本気の言葉じゃなかったら要らない、と釘をさしてきたカミュに、本当じゃないI love you なんてあるもんか、と思いながら、懸命に気持ちを言葉に追いつかせようと繰り返すと、そのうち小さく笑う音が聞こえて、両耳をカミュの温かな手で挟まれた。
「有り難う……もういいよ。私も、お前を愛しているよ」
もういいよ、というカミュの言葉に、本当はカミュの欲しいものは違ったんだと確信した。でも、カミュはまた諦めたんだ。そう分った。


一瞬唇を強く噛み締めて、それからカミュに深く口付けた。カミュも同じように応えてくれて、それからは、特に話す事もなく互いの行為に没頭した。
回を重ねて、少しずつ力が抜けやすくなっているカミュの部位に自分の体を繋げてお互いの体をかき抱くようにして一緒に一つの熱を追いかけている時、カミュの体はもがいたり、甘く絡み付いてきたり、苦しそうに空気を求めて足掻いたりする。
そんな体を無理矢理こっちの支配下に置くようにして自分の原始的な欲求を吐き出す時、もの凄く単純な満足感と、複雑な後悔が絡みつく。
ちゃんとカミュも気持ちよくさせてあげられただろうか?
独りよがりの欲の追求になっていなかっただろうか?
カミュが気を使って「フリ」をしていなかっただめうか?
全部ひっくるめて、ちゃんと俺はカミュを見ていられただろうか?
冷静じゃない分、平常心じゃない分、100%の答えなんて無い訳で……かといってカミュの「大丈夫」を丸呑みできるほどカミュの事を知らないわけでもない。


いっその事、こういう人間の三大欲求の一つに振り回されなければいいんだろうけれど、残念ながら、カミュを目の前にして綺麗にそれを捨てきれた事は一度もない。
カミュが、辛いだけじゃない、気持ち良いよって言ってくれるのも信じてはいるけれど、俺がカミュにあげたいのは、もっと辛さとかいたたまれなさとかそういったものが全くない完璧に気持ちいいってもので、これもまた今だかつてあげられた事がない。
数え上げられるくらい負の項目があるのに、それでも俺はカミュの中に自分を受け入れてもらうのがどうしょうもなく好きで、カミュと一緒にいれば甘えてそれをねだる。


ちらっと時計を確認すると、始める前にカミュに念を押されていた日付が変わるまで、のタイムリミットが近くなっていた。
組み敷いたカミュの額には汗が流れてて、細くてやわらかい髪が濡れた皮膚に張り付いていた。
丁寧にカミュの髪を生え際からその向こうに撫で上げて、オールバックになった額に口付けながら、カミュの息が整うのを待った。
そして、さっきもういいとカミュに言われた言葉をカミュに捧げた。
無理をさせたらまたカミュは明日が大変。そして、そうさせた自分に自己嫌悪する。
だから、今晩はこれが最後。
本当にカミュの体の事を心配してるなら、もう今すぐに止めればいいのに、未練がましく俺は「これで最後」といいながらカミュの体を指で解してカミュの好意に甘える。
体を繋げる最中にカミュの声が上がって、その切羽詰った声を聞いていられなくてカミュの唇をキスに誤魔化して塞いだ。
強くカミュの体を抱きしめて深く深く自分をカミュの中に沈めながら、言葉を繰り返す。
分らない。
今みたいな気持ちの時が一番この言葉に近いと思う。
カミュが大切で、いとおしくて、でも自分の支配化におきたくて……。
もっと穏やかな愛だってあるだろうに、今の自分の持つそれに見合う気持ちはいつもこんな瞬間に俺の体の中に広がるものだ。
カミュの腕が俺の肩にしがみ付くようにして力がこもる。
もっと欲しいと、苦しい息の中から言ってくれるその言葉に、単純だけれど励まされて、有頂天にさせられる。
本当は、きっとその言葉の中にも、万の意味がこもっているのだろうに……。


    ***


朝、まだ深い眠りの中にいる様子のカミュを起こさないように、そろりと寝具の中から体を滑り出し、楽器を掴むと足音を潜めて階下の事務所に移動した。
シャワーを浴びて、楽器に雫がかからないように髪を乾かしてから指慣らしのスケールをしてツィガーヌ、パガニーニを弾く。
ところが、いい感じで音に対する集中力が上がってきたその時、事務所のブザーが鳴った。
事務所のブザー音は、ちょっと手を入れて屋根裏部屋でも聞こえるようにしてある。
カミュが起きてしまう! 俺は焦って扉まですっ飛んで行った。
クローズの看板出しておいたのに、見えなかったのか? と少しばかりむっとしながら荷物を受け取る。
荷物は小包みで、差出人は見たこともない会社だった。内容物はパソコン部品とあってそんなものを注文した覚えはここ半年全く無い。
思わず玄関で手に持った荷物を睨みつけていたら、カミュの「どうした?」という声がした。
ああ、やっぱりおこしちゃったか……とカミュの綺麗な寝顔を思い出して物凄く残念に思いながら、朝の挨拶をしに近寄る。
キスをしてうっとりしていたら、カミュの方から軽く音を立てたキスがほっぺたに返された。
「何か荷物?」
まだ手の中にあった荷物を視線で訊ねられた。
「うん。なんか知らない会社から。パソコン部品って書いてあるけど、ここ半年そんなものをどっかに発注した覚えないしと思って」
「えっ……配達ミスじゃないのか?」
「うーん……でも住所はあってるんだよな……」
カミュの短い質問に、辞書二冊分くらいの箱を耳元で振りながら返事をする。
それほど重くはないけれど、軽くもない。そして、振っても音はしない。
そっと掲げてた荷物を下げてカミュの顔を見ると、カミュが少し厳しい顔つきになって言った。
「……だとすると、クレジットカードのナンバーを盗まれて悪用されたとか……? でも、それなら、普通、カード名義人の家には配達しないな……本当に、昔取引があった会社じゃないのか?」
カミュに指摘されてちょっと怖くなった。俺はそんなにカードを使うほうじゃないけれど、自分であまり管理のいい性質でない事も知っている。
過去に利用した会社、過去に接触のあった会社、と懸命に考えても合致する名前が出てこない。
これは直接相手に聞いた方が早い、と電話をしてみるもコール音ばかりで繋がらない。
ますます不気味な感じになってきた。
カミュは冷たいミネラルウォーターの入ったコップを片手に心配そうにこちらのやる事を見守っている。
溜め息を付き、受話器を戻す。
「繋がらない。まあ、バカンスだから、かもしれないし、下手したら架空の住所ってこともありうるかな……開けてみてもいいと思う? 生ものではないと思うけど……」
振り返ってカミュを見ながら俺は聞いてみた。実は、頭の中に差出人不明の荷物=切られた塩漬けの耳、っていう発想が点滅しててかなり開けたくない。
(塩漬けの耳が小包みの中に入ってクリスマスギフトとして贈られてくる話がホームズの中にあるんだ)
「うん……まあ、コンピュータ部品なら、箱を開けても中にまだ梱包があるだろうから、その封を切らなければ返品は出来ると思うよ。開けてみたら?」
なる程。その通りだ。カミュの指摘はまったくもって正しくて、俺は俺に付き合って立ちんぼを続けているカミュを誘ってソファに腰を下ろし、ローテーブルの上でカッターを使って綺麗にダンボールの繋ぎ目を切り開いた。
箱の中には丁寧に薄紙が緩衝材として詰められていて、これは本当にハードウェアかなと思う。
勢いこっちも慎重に、丁寧に薄紙を引き出す。カミュも水の入ったコップをテーブルの上に置いて、中身を見極めようと身を乗り出してきた。
層になって入っていた緩衝材を取り除け、荷物の中身がついに見えた。
そして、俺は思わず「ああ!」とデカイ声を上げていた。
俺は隣に座っているカミュにもちゃんと見えるよう中身を一つ掴みだして、それから自分の勘違いが可笑しくて吹き出してしまった。
「違った。これ、カミュが来た日に一緒に注文したディルドだよ! ご家族に荷物が怪しまれないようにどうのこうのって書いてあったと思ったけど、こういう事だったんだな! 手が込んでる!」
カミュがイタリアに来た6日前の夜、上手く体を合わせる事が出来なくて、カミュはピアノの事が頭が一杯で眠れなくて、暇つぶしがてら二人でアダルト・ショップと呼ばれるサイトを巡って事前用の肛門拡張器具を探した。
なんとかいくつか候補を絞り込んで、ついでにさっさと決済を済ませて注文した。それが、もう届くなんて、イタリアじゃ信じられない早業だ。
すっかり忘れていた自分も可笑しくて、久しぶりに大口開けて笑い転げていたら、カミュの溜め息が聞こえた。
「……どうしたの、カミュ? 具合、悪い?」
溜め息をついたカミュはこっちを見向きもせずにガラスのコップを掴んで立ち上がり、「……シャワー浴びて来る」とぼそり一言。
「えっ? 今日練習しなくていいの?!」
思わず口を開けたダンボールを両手に掴んで慌てて立ち上がった。
シャワー浴びてくるって、だって、そういう意味だよな?
思わず顔が緩んで胸が期待で一気に膨れ上がった。
すると、カミュがキッとした表情で振り返って言った。
「馬鹿! 目覚ましに浴びてくるだけだ!」
え……馬鹿って……、あのタイミングで言われたら、そりゃやっぱり、ちょっとは期待しちゃうの、しょうがなくないか?? そんな、犬を叱り付けるみたいに言わなくても……。
スタスタと歩いていくカミュの背中を追いかけて、機嫌を直してもらえるよう話しかける。
「それじゃカミュ、シャワーから出たらエスプレッソ飲む?」
「……カフェオレがいいな。出来たら」
振り向いてはくれなかったけれど、カミュの声の調子からはあのキッとした迫力が消えていて、俺はホッとして後ろから腕を回してカミュの体を抱きしめた。
「朝食は? 何なら食べられそう?」
カミュの項に鼻先を寄せると、ふわっとカミュの匂いが立ち上っていて目を閉じてその匂いを食べるようにカミュの皮膚に口を押し付ける。
勢いで持ってきてしまったダンボールが邪魔をしてカミュの体をもっとぴったりと抱きしめる事が出来ない。箱は丁度カミュのお腹に押し付けられるような形で俺の腕の中に納まっている。
カミュの体温とか、匂いとか、抱きしめた時のこの形とか、みんな好きだなぁとうっとりしていたら、ぐいっと箱ごとカミュの腰に回していた腕を押された。
「簡単なものでいいよ。……ほら、さっさとしないと、昼になってしまう」


(カミュ視点)


 冷たい水のシャワーが気持ちいい。
 水風呂を浴びているなんて、ミロに知られたら怒られそうだが、そうでもしなければ気合いが入らない。
 何重ものプロテクトの中に収まっていた通販商品を見た瞬間、文字通り、心臓が止まるかと思った……。
 六日前の夜、なんとなく雰囲気に流されて購入ボタンを押させてしまったモノたちの写真は、実物よりもずっと小さくて現実味がなく、まあ、こんなものか、と思っていた。
 が、実際に実物大の形を見てしまうと、その予想外の圧迫感にぎょっとした。
 奇抜な色は嫌だと主張したので、まあ、肌色に落ち着いた訳だけれど、今となってはその選択が正しかったのかも怪しい。
 ……というか、ミロは、早速使ってみたいような素振りだったが、あのグロテスクなものを、人の……その、あんな場所に突っ込んでみたいと思うのか?!
 まあ、実際に、セックスする時には、あれよりご立派なものを突っ込んでいるわけだから、大して違いはないのかも知れないが……
 でも、あいつは正常位が好きだから、いつも別に接合部を見ているわけではないし……


 …………。


 朝からどっと疲れて、とにかくそのことは今は頭から追い払おうと決めてシャワールームを出た。
 扉を開けると、コーヒーの香ばしい匂いと一緒にパンケーキの甘い匂いが部屋一杯に広がっていて、ほっと人心地がついた。
 最後の練習日だ。今日は、最初から全部通さなくてはならない。
 頭を音楽に切り替えながら、まだキッチンでサラダを用意しているミロの側へ寄った。
「何か手伝おうか?」
 そう言って、カッティングボードに目をやり、その向こうに見えたものにたっぷり三秒は思考が停止した……。


 その……水切りトレイの上に綺麗に林立しているものは、一体何ですか???


 咄嗟に声も出ず、思わずそのブツを指差したまま固まってしまった。ミロが気付いて、こちらの肩に手をかけてきた。
「あ、もう上がったんだ? サラダ、トマトとズッキーニのホットサラダでいい? フルーツは?」
「ああ、ありがとう……それより、そこに並んでるものは……」
「え? ディルド」
「分かってる! そうじゃなくて、なんでそんな所に……!」
「え、だって使う前に洗剤で洗わないと、気持ち悪いだろ」
 ここに机があったら突っ伏したい、と真剣に願った。誰か、コイツに羞恥心というものを教えてくれ……!
「……ミロ。するとお前は、我々がこれから使う皿を洗う洗剤とスポンジで、そいつを洗ったというわけなんだな?」
「うん。だってまだ未使用だし。 流石に、使用済みのものはキッチンでは洗わないよ」
 もう駄目だ。完全に、感性がズレている。そういう問題じゃない、と言って通じるとも思えない。
 多分、ミロにとって、これらの物体は、DIYのツールと大して変わらないのだ。よくある、ネジ穴を拡張する器具とか。
 あ……なんだか、自分で想像して悲しくなってきた……。
 大きく息を吸い込んだ。此処で怒っては駄目だ。ミロに悪気はない。悪気は……。
「ここは、一応お前の事務所だろう? もしクライアントが訪ねてきて、キッチンの水切りトレイにそんなものが突っ立っていたら、とれる仕事もとれなくなるんじゃないのか?」
 営業スマイルでそう優しく教えてやったら、ミロは、まるで電球が灯ったかのように、ああ、と目を見開いて手を打った。
「そうか。それはマズイね。でも、外の看板、一応closedにしてあるんだけどね」
「いいから、それは仕舞え」
「でもまだ乾いてない……」
 キッチンタオルを無言で押しつけ、カッティングボードを取り上げた。残りのフルーツを超高速で刻んで、ブツは仕舞ったかと顔を上げると、ミロがもとの箱に収めてキッチンテーブルの端に寄せたのが見えた。
「そこはいまから食事をするテーブルだろう! そんな所に置くな!!」
「でも、変な所に置いたら忘れそうで……」
「バスルームにでも仕舞っておけ!」
 ついに、キレた。


 一悶着あった朝食の後、改めて、一杯のコーヒーで気分を入れ替え、仕切り直した。
 あんな、頭のネジが一本飛んでいるような会話を交わした後でも、ヴァイオリンを構えればやっぱりミロは本職の演奏家で、その研ぎ澄まされた音に圧倒される。
 甘さの欠片もない厳しい横顔。でも、その表情を美しいと思う。
 叶うなら、ずっとその横顔を見ていられる立場だったら良かった、と思う。
 もしも、あのとき、ピアノを諦めなかったら……
 そうしたら、今頃は、そんな風になれていたのかも知れない。


 もう一度あの選択をすることができるのなら、多分今度はピアノを続ける道を選ぶだろう。
 けれど、後悔はしない、と決めて生きてきたし、今の自分の道で得るものも確かにあった。
 あのとき、あの状況では、どんなに考えても、あの答えしか導けなかった。その自分を否定したくはない。
 無数の決断の分岐路の末に現在があり、過去の一点の決断を翻したところで、その結果を予測するのは容易ではない、とも思う。
 あるいは、ピアノを続けていたら、自分の方がとっくにミロへの興味を失っていたかも知れない。
 私にはないものを持っていると思ったから、ミロに惹かれたけれど、私自身がそれを追求出来る立場になったなら、今度はミロのことを敵対視したかも知れない。
 ミロは恐らく、そんなものは過去の自分を正当化する言い訳に過ぎないと言うだろうけれど……。
 自分の選択が正しかったかどうかなど、いつだって自分が決めるものであって、それが必ずしも苦い思いを少しも伴わないで済むようなものだとも思わない。


 せめて、今与えられた残り少ない時間を大切にしよう、と、殆ど休憩無しで音合わせを続け、気付いたら窓の外が薄暗くなり始めていた。
 ブラームスの最後の音を弾き終えた後、ミロがちらり、とこちらに視線を投げた。演奏家の顔ではなく、少し困ったような、恋人の顔で。
 ああそうか、今日が最後の夜だから……。
 こちらも音に集中していたあまりに色気の方はすっかり留守気味で、ミロのその視線で漸く甘い空気を思い出した。
 一昨日も驚いたけれど、ミロが楽器を持っていてそんな事を考えるというのが本当に意外だ。
 物に嫉妬しても仕方が無いけれど、ミロの心を一番強く捕らえて離さないのは矢張りヴァイオリンであって、自分はその遥か後塵を拝するに過ぎないと思っていたのに。
 すぐに頭をそちらに切り替えるには少し深く音にのめり込みすぎてしまったので、軽い気持ちでミロに誘いをかけた。
「もう一回、モーツァルトをやらないか? ただし、今度は遊びで」と。
 ミロは、一瞬、少し残念そうな表情をしたけれど、それでも私の我侭に付き合ってくれた。
 コンクール用の行儀の良い演奏は止めて、出来るだけ軽いタッチで、ジャック・ルーシェのコピーバンドの演奏をしているときのような気分で、音の遊びそのままといった感じのモーツァルトの音符を追う。ミロのヴァイオリンが飛び込んで来るのを、そんな重い音は要らないと軽いアルペジオで蹴り上げる。モーツァルトの疾走感がとても好きだ。走っているくせに、時折道端の生き物に興味を引かれた子供のように突如立ち止まり、別の物語を始める天真爛漫さが好きだ。
 そして、そういえばミロもそんな感じだな、と気付いて可笑しくなった。
 三楽章分、ミロを散々振り回して、最後の音を弾いた時には思わず吹き出してしまった。第一楽章こそミロは出遅れたり飛び出したりしていたけれど、第三楽章にはちゃんとこちらの傾向を読んで合わせてきた。そういう事も出来るようになったのだな、と、嬉しく思う。
「どうしたの、カミュ?」
 何故笑ったのか分からないミロは、不思議そうにそう聞いて来た。
「いや、お前そのものだな、と思って。この曲」
 ミロは、まだ分からない顔をしていたが、何やら気もそぞろ、といった感じで別のことを訊ねてきた。
「……それで、どうする? カミュ、お腹空かない?」
 お腹が空いているようには、あまり見えない。でも、それを隠してこちらも訊ねる。
「それじゃ、楽器はもう終わりにする?」
 ミロは、それまで全くそんな事は考えてもいなかった、というのがまるわかりの表情で姿勢を正すと、急に真面目な表情になって弓を左手に持ち替え右手を差し出して言った。
「一週間、付き合ってくれてありがとう」
「どう致しまして。……私も、楽しかったよ。少しでも役に立てたのなら良いけれど……」
 その手を握ってそう返すと、ミロは「うん。無駄にしないように頑張るよ」と笑って頬にキスをくれた。
「ところで、夕食だけど」
 すっかり陽が落ちてしまった窓の外を見て囁く。
「昼食がそもそも三時過ぎだったし、あまり空腹は感じないのだけど、どうする?」
 今現在、時計は既に八時を回っている。これから食事を作り、食べて、準備をして、となると、ベッドに入れるのは十時半を過ぎるだろう。
 明日帰らなければならないのだから、最後の夜はゆっくりしたいと、それなりに甘い声で誘ったつもりだった。けれど、ミロはちょっと考えて、言った。
「……でも、ご飯はちゃんと食べた方が良くない?」
 今朝の様子を考えても、少し、らしくないな、と思った。もっとも、今回はそれなりに充実した毎日だったし、特に夕食は毎回軽めだったから、こちらの体調を気にしてくれているのかも知れないが……
 しかし、それなら、逆に冷蔵庫の食材でミロのこれからの食事を少し多めに作って冷凍しておける。それはそれで良いか、と思い、ピアノに蓋をして椅子を立った。
「わかった。それじゃ、夕食を作ろう。これからの非常食も、何かご希望があれば作っておくよ」


(ミロ視点)


 実は密かに計画していた事がある。
 計画、というほど大それたものじゃないけれど、それなりに色々とお膳立てしたいと思っていた。
 毎晩軽めにしか夕食を取らないカミュに、ちゃんとご飯を食べてもらって、イギリスで必死でピアノに齧り付いて来てくれた事とイタリアで「自分じゃ力不足だから」と引かずに頑張ってくれた事、ちゃんと感謝しようと思っていた。
 八時過ぎに練習を切り上げて、台所に二人して立つ。
 カミュの隣に立ってカミュの使った調理器具を洗ったり、頼まれてにんにくを刻んだり玉ねぎを刻んだり、チーズをすりおろしたり。
「次、何すればいい?」
 と聞いて答えが返って来るのが単純に楽しい。
 カミュはあれことれ作り置き出来るものも調理してくれて、狭いキッチンの中で、ボールやオーブン、ガスレンジはフルでよく働いた。
 二時間以上かけて豚肉のソテー、キャベツとジャガイモのスープ、ほうれん草のフリッタータ、フェンネルとマッシュルームのサラダそしてベジタリアンレシピなのだけれどと一言断ってのレンズ豆のミートローフ。
 レシピを見ないで良くこんなに手際良く作れると感心した。
 今日の晩飯は一気に食卓が華やいだ。
 カミュがサラダを取り分けている間に、事務所のキャビネットの奥に隠しておいたワインを持ってカミュに差し出した。
「はい、これ。一週間分のバイト料どころか足代にも足りないけれど……気持ちって事で……」
 ボトルを見たカミュの目が大きく丸くなった。
 びっくりしてる。
 これで、計画の一つ目成功。
 にこにことしながらカミュの反応を待っていると、カミュはゆっくりと本当に嬉しそうな表情になって言った。
「97年のトスカナ産じゃないか! こんないいワイン、今開けてもいいのか?」
「もちろん! 報酬の一部って事で、全部飲んでもいいよ。ここ一週間、カミュ全然飲まなかったじゃないか」
 カミュが食事をしながらワインを飲むのはストレス解消、というか大好きなのは知っている。けれどこの一週間、カミュは一滴もお酒を飲まなかった。
 つまり、ほっと一息つきたくてもつけない状況にあったわけだ。
 上からの目線ってわけじゃないけれど、本当によく頑張ってくれたと思う。
 ボトルを受け取って目を輝かせてラベルを読んでいるカミュに貰い物のワイングラスを渡して、形だけ乾杯して食事を始める。
 新鮮な食材で作った出来立てのあったかい料理を食べ、イギリスのみんなの近況を聞いたり、大学の非常勤としての一年を話したり、まさにイタリア式に、二時間以上かけてゆっくりと食事を楽しんだ。
 使った食器をシンクに貯めた水に浸して、カミュがお茶でも入れようか? と聞いてきたのに頷き、その間に俺は事務所のセンターラグの上に洗濯してあったブランケットを二つに折って敷いた。
 水が沸騰する直前に薬缶の火を止め、カミュがポットにお湯を注いでいるのが聞こえた。
「カミュ! ちょっとこっちに来てよ!」
 俺は綺麗に皺を伸ばされてぴんと細長く広がっているブランケットの様子に満足してカミュを呼んだ。
 ひょいっと台所の間口からカミュの顔が覗き、ちょっと困ったように小さく笑った。
「ミロ、……有難いけど、ワインも飲んでしまったし、それは確実に寝てしまうと思うよ?」
「大丈夫! 一週間お疲れ様でしたっていうお礼だから! お酒飲んで頭も緩みやすくなってるから体の凝りも取れやすいよ、きっと!」
 おいでよ、とブランケットを叩くと「まあ、そういうなら……」とカミュはゆっくり歩いてきて指示通りにブランケットの上に真っ直ぐに伸びた。
 俺はカミュの横であぐらをかいて、昔ドウコに教えてもらったようにゆっくりと息を整えて手の平に呼吸を集中した。
 ノートパソコンとスピーカーを上から持って降りてきていて、iTuneラジオからクラシックが低く流れるようにセットしていた。
 俺は滅多にクラシック音楽は聞かないけれど、カミュはBGMとしてよく聞くようだし、シオンも施療中に低く流しているから効くのかなと思っての真似だ。
 カミュの背骨の配置、筋肉の硬さ、返って来る温かさや弾力を測っていると部分部分冷たかったり手が止まるところがある。
 そういう所は一度止まって、また自分の手が動きたくなるまでじっとそこで呼吸している。
 背骨の上をゆっくりと辿り切った時、カミュがすっかり寝入ってしまっているのが分った。
 カミュの寝顔、綺麗で大好きだ。時々眉間に皺を寄せて眠っている事があるけれど、今は気持ちよさそうやわらかな表情で寝てる。
 嬉しいような、安心したような感じだ。
 それからまた暫く、カミュの背筋や肩、首、腕と手首を順々に同じようにして辿り、最後にカミュの腰に手を当てる。
 カミュが自分と同じ気持ちにならないか、実験。
 粘り強く、黙ってじーっとカミュの腰に当てた手で呼吸しているイメージを保つ。
 すると、どれくらい経ったか、カミュが目を開いた。
 うわっ! 効果があったのか?
 そう思ってカミュに顔を近づけると、ちょっとまだぼーっとしている。
「カミュ、どっかまだ痛いとこある?」
 目を覗き込んで聞いてみる。
「いや……ああ、やっぱり寝てしまった……どのくらい寝ていた?」
「うん? まだ一時ちょっと過ぎたくらいだよ」
 しきりに意識をはっきりさせようとするカミュが上半身を起こすのを手伝って首や肩を回させて痛い所が無いか確認してもらう。
「もう一時……」
 と額に手を当てて愕然としている様子のカミュの頭を撫でて、下向き加減だった視線を上にあげてもらってそっとキスをした。
 唇を舐めて口を開いてもらう。カミュの歯を舐めて、その奥の舌も舐める。
 カミュの腰に回した自分の手が熱くなっている。その熱くなった手をすっと横に滑らせて撫でる。
 額と額を合わせて囁いた。
「シャワー、浴びてきてくれる?」
 体を摺り寄せるようにしてカミュがキスしてくれた。
「……うん。なるべく急いで戻ってくる……」


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