07-1 カミュ編
準備を終えて屋根裏部屋に上がると、ふわっと優しいアロマキャンドルの香りがした。ミロは普段こんな香りのするものは使わないのに、珍しい。
小さなダイニングを抜けてベッドルームに入ると、窓辺に四つのアロマキャンドルが燃えていた。
「このくらいの光なら、許してくれる?」
タオルの準備をしていたミロがそう振り返って、はにかみながら訊いた。
以前、明るい所でするのは嫌だと言ったことがある。その後、ミロは事に及ぶ前に電気を消すようになったが、その時にあまりに何度もこちらの都合を訊ねるので、暫くして漸く気付いた。
やり方を間違えば怪我をすることもあるアナル・セックスでは、結合部位が見えないというのはそれだけでかなり難易度が高い。パートナーの表情も、それ以上進めて良いか否かの重要な判断材料になる。真っ暗にしてしまうことで、ミロがそれを手探りでやらなければならない事になるのだ、と気付いたときに、我侭を言って申し訳なかったと思った。
「いいよ。もう、光は気にしないことにしたから。お前が安心出来る明るさならなんでもいい。……そのキャンドル、すごくいい匂いがする……」
マットレスに腰を下ろして、ローションや水で絞ったタオルなどを準備しているミロの動作をじっとみつめていると、何だか不思議な感じがした。
たかだか、性的な快感を得るだけのことなのに、こんなにも色々と準備が必要だというのは、矢張りかなり特殊な関係なのだろう。
女性との経験もあるからこそ、尚更そう思う。そういう気分になったときに、すぐに出来るかといったらまず出来ない。全ての条件が揃わないと、こちらの体も緩まないし、成功しない。
よく、こんな面倒な体の関係に付き合ってくれているな、とミロに感謝した。
紙箱を開ける音がして、ミロの手元を見ると、コンドームの包みを十個ほど引き出していた。
ミロは、こちらがはっきりと要求しない限り、絶対に直接中には出さない。別に病気を持っているわけでもないし、面倒ならしなくても良い、と言ってあるが、まあ感染症などを防ぐためには良い習慣だと思っているので、そのままにしている。しかし、それにしても、十個はいくらなんでも多すぎないか、と可笑しくなった。
「……それ、いくらなんでも多すぎるだろう……もうすぐ二時だよ?」
ついそう口を出したら、ミロが振り返って、きまり悪そうに言った。
「あのさ……今朝届いたディルド、使っちゃ駄目かな?」
一瞬、何と答えたものか声がつまった。……あのグロテスクな代物を、今晩?!
「……あれは、どうしても出来ない時に使うものだと……」
「でも、折角届いたし、買ったし……指で慣らすよりカミュが辛く無いかもしれないし……」
つまり、十個のうちの四つはディルドの分、ということらしい。それでも、あと残りが六つ、というのはどうかと思うが。
なんとなく、朝にあれが届いた時点で、試したくて仕方がなさそうなのは感じていたので、やっぱりな、と溜息をついた。
まあ、ミロの言う事も分からないではない。そもそもその目的で開発されたものだ。指で事が足りるなら、あんなにヴァリエーションの広い市場にはならないだろう……。
本当は、普通、bottomをとる側はああいう器具を使って事前に慣らしておくものだ、ということも、一応知識としては知っている。
「気持ち良くなかったり、痛かったりしたからすぐに止める。気をつけるから」
間近で目を覗き込まれ、小さなキスつきでそう頼まれて、ついに折れた。
「……わかった。でも、いきなり突っ込むのは止めてくれ。……あとは、ミロに任せるよ」
ミロが、嬉しそうに笑った。
「うん。ありがとう」
深いキスを交わしながら、今更、こんなに丁寧に扱わなくても、と可笑しくなるくらいゆっくりと丁寧に寝台に押し付けられて、先刻から体の芯に埋み火のように燃えていた熱に身を任せた。
一緒に寝るようになって一週間ほどすると、体が勝手に次の快感を予測して反応するようになる。ただ触れられただけで、息苦しくなる。唇の感触を感じれば、そこから毒でも盛られたかのように、全身が痺れる。そして、その縮こまった肺を広げるために、空気を求めて喘ぐ。
ミロにも十分にその効果は見えているはずなのに、今日は何故かミロは先を急ごうとしなかった。全身にくまなくキスを送り、優しく撫でる動作を繰り返した。
肌から脳髄に走り抜けるような刺激で意識が朦朧として来た頃、漸くミロがローションをとり、その指で局部に触れたのを知った。
一瞬、麻酔が覚めて外界の空気がはっきりと感じられるようになった。今から入れるつもりなのだ、と思った瞬間に体が緊張した。
ミロは、すっと眉を潜め、ローションに浸した指で私の唇に触れた。その指は二、三度唇の上を往復した後、喉の上を滑り、左胸の一点で止まった。
「……大丈夫」
ミロの唇が笑みの形を作り、その瞬間に腰に疼きを感じた──ミロが、左胸の乳頭をその指で撫でたからだ。
思わず溢れた溜息を飲み込むようにミロの唇が覆い被さってきて、キスに応えている間に、体内に異物が侵入してきたのを感じた。
……ああ、これは、ミロの指だ。
そう思った瞬間に、ほっとして力がぬけた。約束通り、いきなり異物を押し込むのは止めてくれた、ということなのだろう。
その異物感から気を逸らすのではなく、むしろそこに神経を集中する。体を緩める作業というのは、そこで拮抗する恐怖と快楽への期待を競合させ、後者を上回らせることだ。
勿論、自分の感情から言えば、ミロが相手で恐怖を覚えることなどないと断言出来るのだけれど、反射的に体が抱く警戒というのはあって、体調が悪い時にはそれが邪魔をしてミロを受け入れられない事もある。また、未知の異物は、たとえミロが相手であってもその警戒の対象になる。
いつもなら、ミロが愛撫してくれる間に、自分もミロに出来る限りのことはするのだけれど、今日はそこに気を割く余裕がなくて、体を緩めることに集中した。いつものように指を使った愛撫が続いて、もしかしたら最初は使う気がないのかも知れない、と思い始めたころに、ふっと指の感触が消え、冷たい塊が押し付けられた。
あっ、と思った時には、それは既に体内に入った後だった。多分、一番小さいプラグだろう。
「……やっぱり、指よりずっと入り易い?」
ミロが少し驚いたような声を上げた。
「痛くなかった、よね?」
驚きから、興奮したような笑顔に変わったミロの表情に、一気に甘い雰囲気が冷めた……
いや、確かに、痛くはないし、随分簡単に入ってしまったんだが……
恐らく、独特の形と、やはり表面が指よりもずっと滑らかだからなのだろう。ローションをかなり潤沢に使っても、指のざらつきを感じると、異物感になる。
「うん……痛くはないけど……なんだかな……」
今感じているのは僅かな圧迫感だけで、これに慣れたらサイズを変えて……というコンセプトはわかるような気がする。
しかし、冷静に考えると、ものすごく馬鹿馬鹿しいことをしているような気がするのは、考えすぎか?!
いや、そもそも、セックスなんて、冷静になったら出来ないものだと思うが……
幸い、ミロがそこでキスの雨を降らせてくれたので、それ以上不毛な想像に陥らずに済んだ。
こういうことは、理性的に考えてはいけない。キスの感触と、体の奥の熱をもう一度手繰り寄せる。
これも一種のプレイだと思えば……
殆ど強制暗示のように自分を宥める間に、またそれを突き破るような声が聞こえた。
「……なんか、簡単に入ってるような気がするんだけど……次のサイズ入れてみていいのかな? 大丈夫、カミュ?」
……そんなこと、わざわざ訊くな!!!
「……いや……お前に任せるから……頼むから、あまり具体的な事を言わないで欲しいんだが……」
もう、全部すっとばして本番に進みたい、と言いそうになったのを漸く堪えて、ミロがこれ以上余計なことを言わないようにキスで口を塞いだ。
ミロが何も喋らなくなったので、それからは比較的すんなり事が運んだ。
奥の陰門に埋め込まれた異物は、確かに予想していたよりはかなり負担の少ないもので、いびつな形にならざるを得ない指で慣らすよりは効率的だった。
ただ、それは裏を返せば、腹部への圧迫感を除けば殆ど刺激がない、ということでもあって、それを使って快感を導こうとするミロの努力はあまり実ってはいなかった。
ミロがあまりに真剣なので、もういいから、とも言えず、なるべくミロの導く方向に自分の熱を添わせようと深い呼吸を繰り返すうち、急に腰に直接響く刺激が走って、思わず上半身が跳ねた。
慌てて上半身を起こして見ると、ミロが性器に唇を這わせていた……。
実は、ここ暫く、ミロには私の性器への直接の刺激を禁じていた。というのは、ウェットで出してしまうと体力を消耗して、最後までミロの求めに付き合ってやれなくなるからだ。
敢えて禁じ手を使ったのは、あまりに反応が悪い私にミロが焦れたということなのかも知れない。
折角こんなに一生懸命にしてくれているのに、曖昧な反応しか返せない後ろめたさも手伝って、私はそのミロの行為を止めなかった。
久々に性器に直接に感じる暖かい唇と舌の感触に意識を攫われて、やがて余計な事など考えられなくなり、身を捩って快楽を逃がそうとしたとき、その衝撃がやってきた。
それまで下腹部を占めていたものが抜かれ、それより明らかに大きいとわかるサイズのものが押し付けられた。ぬるり、と直腸に侵入して来たものに、今度ははっきりと圧迫感を感じた。
一瞬、背骨の中心をぞっとするような痺れが走った。体の中心を串刺しにされるような感覚、というのが一番近いかも知れない。
けれどそれは、いつもミロと交わる時に感じるほどの、息がつまるほどの感覚ではなかった。
「……大丈夫?」
それまで黙っていたミロが、やや心配げに声をかけてきた。
「見た感じ、無理をしているところはなさそうだけど……」
「……うん。見た目よりは、ずっと負担が少ないよ」
正直、私はこれで、今回のミロの買物の目的は果たしたと思った。確かにミロが予想した通り、こうして段階を追って慣らしていけば、いきなりミロのものを受け入れるよりはかなり負担が軽いだろうと思ったからだ。すくなくとも私はこれらの道具の用途はその一点だと思っていたし、このときまでそのことを疑ってもいなかった。
それが間違いであったことに気付いたのは、ミロがその差し込んだディルドをゆっくりと動かし始めた時だ。そして同時に、また性器への口による愛撫も始めた。
頭が、真っ白になった。こんな感覚は、今まで経験したことがない。思わず、下肢に覆い被さっているミロの肩を押しのけた。
「……出る…っ!」
それまで性器に加えられていた刺激で積み重なっていた衝動が、一気に臨界点に迫った。……とそのとき、ミロが、性器から口を離した……。
一瞬、何が起こったのか、分からなかった。急速に迫り上がった衝動は、行き場をなくして体内を荒れ狂った。
「……ごめん。でも、出したら駄目なんだよね?」
本気で、申し訳なさそうにこちらを見詰める瞳に、返す言葉もなく唇を噛み締める。
お前……まさか、わざとじゃないよな?!
「もう少し、我慢して付き合ってくれる? 今まだカミュ、後ろで感じてないだろ? なんとか頑張るから……カミュ、もう少し辛抱してくれる?」
頑張るって、何を?!
上がり切った息のお陰でこれらの悲鳴が声になることはなく、ミロはまた黙り込んで己の作業に没頭した。
こんなに、羞恥心を煽られる扱いを受けたことはない、と断言出来る。
これが悪意によるものだったら、間違いなく張り倒してでもこの場を離れているだろう。
でも、ミロは本気で、好意からそうしていて……
嫌だとか、恥ずかしいとか言う以前に、こんな有様を見ても萎えないミロの一途さに、兜を脱いだ。
ミロは、同性愛者じゃない。どう考えても、今の自分の姿は、性的興奮をそそるようなものじゃない。それなのに、それをする理由があるとしたら、多分本気でセックスの安全を考えているからだ。ディルドで一度感度を上げてから先に進めば、ただ指で慣らすより安全だと考えているからだろう。そして、それは多分正しい。
だったら、協力すべきなんだろうか……
ぼんやりと漂う思考の中で、体だけが熱を帯びて、ミロの与えてくれる刺激を一心に追う。ミロが自分自身で愛してくれる時と何が違うのか、後ろへの刺激はもどかしいばかりで、なかなか体の芯の火に届かない。勢い、前の性器に加えられる刺激だけが先走り、既に数度、頂点の直前で愛撫を止められていた。
乱れた呼吸で、肺が痛い。少し過呼吸気味になったようだ。頭の芯がぼんやりする……
ミロが困りきったように溜息をつき、一度こちらの顔を覗き込んで、小さなキスを落として言った。
「カミュ……一度、出す?」
ここまでやって、止めてしまったら、今までの我慢が無になってしまう。半分意地で、そう思った。
それに、これまでのミロの努力も水泡に帰してしまう。
深呼吸をして、ミロの首に両腕を絡み付けて、言った。
「……お前に任せるって、言った」
ミロが、優しく微笑んだ。
「カミュ……一つ、頼みがあるんだ」
とびきり甘い声が、耳孔に忍び込んだ。急に艶を増した、何かサプライズを思いついたようなそのトーンに、下半身が反応した。
力を込めて抱きすくめられて、自分の性器がミロの性器に触れる。熱い。ミロも我慢しているのだと気付いて、また血液の温度が上昇する。
どちらかといえば、一生懸命手に入れた道具を試している、という感が否めなかったのに、いつの間に……。
ミロは甘いキスをくれた後、言葉を続けた。
「カミュ、一度だけでいいんだ。教えてくれないかな……? どうしたらカミュが気持ち良いのか……」
それは、少しこちらに甘えるような声で、一瞬言葉の意味も考えずに頷いてしまいそうになった。けれど、その内容は決して簡単ではなく……結局、暫く考えてこう応えるしかなかった。
「ごめん……自分でも、どうしたらいいのか分からない……あまり、普段、どうして気持ちいいのかとか考えないから……」
どうしたら、パートナーが気持ちよくなってくれるか。
誰でも、不安とともにその課題を一度は考えているだろう。でも、自分がどうしたら気持ち良くなれるかなんて、考えたことがない。
ミロがくれる熱は、いつでも切なくて、本当に愛して貰っているというのが痛いほど分かる。そう思うだけで、勝手に体が反応する。
でも、こんな風に、ミロが頭で何をすれば良いかと冷静に考えているような状態では、どうしたらそういう状態にもっていけるのか、分からない。
それでも、ミロは全く問題ないというように、甘く微笑んで言った。
「分るよ……俺も、言葉で説明するのは苦手だし、いつも難しいと思う。だから、無理して言葉にしようとしなくていいよ……手で教えてくれればいいんだ」
一瞬、言葉で説明するのが苦手だからではなくて、それを言葉にして考えたことがないからだ、とそちらの方の気をとられた。そして、最後の言葉の意味まで理解が追い付く前に、ミロが嬉しそうに何度も唇を合わせ、その答えを口にした。
「多分、俺がやっているからカミュはもどかしいばっかりで感じきれないんだ。だから、一度カミュにやってもらって、そしたら今度から俺が同じ事をしてあげられる。言葉でうまく言えなくても、多分、カミュの体がどうして欲しいのかは分ってる」
ミロとのセックスの時の快感の根源をぼんやりと思考の中で探していた私は、まだ、「一度カミュにやってもらって」という言葉の意味を素直に飲み込めなかった。実際、自分で快感を追い上げた事は何度もある。騎乗位をとれば、それは可能だ。
だから、今もそうすれば……と思ったところで、急に、はっきりとその言葉の意味が輪郭をなし、冷汗が肌を伝うのを感じた。
つまり、ミロは、この道具を使って自慰をしろ、と……?!
あまりの事に、咄嗟に声も出なかった。いくらなんでも、そんな事をパートナーに要求するのか、と信じられない気持ちで、ミロの瞳を見詰めた。
ミロの表情は、まったく悪びれない。嬉しそうに甘える時の、無邪気な顔だ。
大きな目に揺れる蝋燭が映っていて、要求された内容と、無垢といっても差し支えないだろう笑顔のギャップに困惑した。
……勿論、そういうプレイがあるのは知っている。ミロがプレイだと割り切って、そこに性的興奮を感じ、人の痴態に幻想を砕かれたりしない、と約束してくれるなら、百歩譲って乗ってみてもいいと思う。一人で快楽に耽る姿も、それを見て興奮する姿も、どちらも同じくらいばかばかしいというか……でも、そういう馬鹿も恋人の関係なら有りだ。
でも、今ミロにそんな要求をさせたものはそういう性的興奮ではなくて、このどうしようもない現状をどうにかしようという至って健全かつ前向きな発想だ。そんな冷静な思考の前に、我を忘れるような痴態を晒せ、と言われても、そう簡単に出来るものじゃない。医者の前で射精してみせろ、というのと同じくらい居心地の悪い話だ。
それを、どう説明したら分かってもらえるだろう、と(つまり、全くそういう考えがないからこんな要求をするのだろうから)戸惑ううちに、ミロはさっさと枕やクッションをかき集め、私の背後に押し込んで上半身を少し起こし、愛撫の続きを始めてしまった。優しく性感帯を吸われれば、既に何度も追い上げられて突き放されている体が勝手に反応する。ミロがまた性器を口に含んだのを感じて、その痺れに少し仰け反った。その間に、右手をとられ、そのまま下肢に導かれた。何の疑問も感じていない、流れるような自然な動作に、私は拒絶する機会を逸したことを知った。
ここまできたら、やるしかない……
嫌だ、と言って手を払う選択肢の向こうに、一瞬見えた想像の中のミロの驚きの顔が、その選択肢を封じた。
……色々と、感覚がすれ違うこともあるけれど、ミロを傷つけたいと思ったことは一度もない。こんなふうに甘えてくれるミロに、がっかりした顔をしてほしくなかった。
自分の手に、ローションでぬめるシリコンの杭が触れて、その生暖かい塊を右手に握った。あまり握りよいとは言えないその形が滑らないよう色々持ち方を変えるうちに、自分の指がそんな道具を飲み込んでいる部分に触れて、その明らかに普通でない使い方をしていると分かる皮膚の伸び具合に、自分がとても卑猥なことをしているような羞恥を感じた。
余計なことを、考えてはいけない……。
ミロの顔を見ているのが辛くなって、目を閉じる。ゆっくりと、手の中のものを抜き差ししてみる。
けれど、覚悟を決めたものの、体の緊張ばかりは意思ではどうにもならず、中で大きな塊が動く度に異物感を感じる。ミロが性器に与えてくれる刺激が強すぎて、そちらに気をとられてしまうのも問題だ。
二度ほど、大きく深呼吸して、体の力を抜いた。無心に性器を舐めてくれているミロの顎に手を差し入れて、それはもう要らないと、顔を上げさせた。少しびっくりしたような顔を引き寄せて、キスを強請る。ミロは、一瞬下腹部から離れ難いような抵抗を見せたが、すぐに諦めてこちらに添ってくれた。
性器への直接の刺激に依らず、前立腺への刺激で快感を感じるのには、それなりに時間がかかる。最初からそんなに興味津々で覗き込まれていたのでは、なかなか体の芯に火がつかない。
それなりに太さも長さもある道具をこの姿勢で操るのは思ったよりも大変で、ミロが信じるように自分でやればすぐに気持ち良くなれる、というものでもない、と思い知る。
昔、ミロとのセックスがなかなか上手く行かなかった時に、どうしたら感じられるようになるのか、それなりに色々と情報を集めた。知識では前立腺の場所も大体わかっている。けれど、それを実際に探すのはそう簡単じゃない。自分の手指ならともかく、神経の通っていない道具では尚更だ。
一向に異物感がなくならないので、一度ミロの体をそっと押しのけ、ローションを手にとった。手を十分に濡らして、ディルドをを湿らせる。ミロがその作業をじっと見ているのに気付いて、思わずローションに汚れていない手でミロの目を覆った。ミロがその手を無言で退ける。ミロに下腹部を見させないよう、左腕をミロの首に絡み付けて、またキスを強請る。
滑りやすくなった道具と自分の体との間で、小さな水音がした。その音が想像させる行為と、その先にあるものの期待感で、急に体が熱くなった。
分かっている。自分達は、性の経験のない子供じゃない。これまでに経験したミロとの関係の中で、快楽に結びついた情報は全て記憶に刻み込まれている。声も、表情も、音も、匂いも……息づかいから、相手の肌の熱さまで。そうして、そういった情報があれば、体は勝手にその先の快楽を期待する。
急に切羽詰まった私の息を聞いて、ミロが下腹部を覗こうとした。先刻、快楽を感じていなかったときにはそれほど感じなかった羞恥心が胸に迫り上がり、思わず膝を閉じてまた顔を上げさせ、ミロが他に何も見る事が出来ないように長いキスをした。
その間も右手の動きは止められず、ミロの唇に向かって呻く。唇を外せば、その視線が最も見られたくない場所に向いてしまうと分かっているから、離せない。
ミロが苦笑した気配がした。私の腕の拘束をはずれ、頬や瞼にキスを降らす。顔から唇が離れていかないことに少し安堵して薄く目を開けると、ミロがじっとこちらの目を覗き込んでいた。
「……見せて……」
はっきりと、言われた。「I want to see you」と。
その言葉に胸を掴まれて、左手が抵抗の力を失った瞬間に、ミロの両手が脚にかかったのを感じた。閉じていた膝から内腿へ、ゆっくりと手が滑る。ローションで湿った場所に、ひんやりと冷たい外気を感じる。思わず止めてしまった右手をミロの手が辿り、埋め込まれた道具の角度を確かめるようにゆっくりと一度引き抜き、それからまた埋め込む。それから、体をずらし、内股に添えた両手をクッションに押し付けるようにして、その脚にキスした。
「……続けて?」
一瞬、こんな格好で、続けてもあるか!と叫びたい気持ちと、ミロがそれを見たがっている、という妙な期待が、ランダムに混じり合って胸を塗り潰し、自分の性器が強く脈を打って反応したのを感じた。そして、そのことに諦めに近い苦さを感じた。
アイオロス先輩が、「お前、マゾの気があるからな」と愉快そうに笑っていた記憶がフラッシュバックし、不機嫌にそれを否定した自分を思い出す。
……あるのかも知れない……マゾの気。
ミロにきっぱりとした意思の力で押さえつけられると、抵抗の意思をなくす自分がいる。こんな羞恥プレイを要求されて(本人はプレイだと思っていないところが一番いたたまれないのだが)、勘弁して欲しいと叫びつつ強い性感を煽られている自分が居る。
ミロがもし、私の自慰に興奮してくれるなら、きっと自分は嫌だと言いつつ結構喜んで痴態を見せてしまうのだろう。
……マゾで、悪いか。
何かが、焼き切れた瞬間だった。どんな理由であれ、ミロが見たがっているのだから、もういい。そう納得してしまったのだ。
別に、他の誰に見せるわけでもなし……。
止めてしまっていた右手を動かした。沈黙が満ちていた部屋に、また薄く皮膚の擦れる音と水音が響いて、それを真剣に見詰めている視線に耐え切れずに目を固く閉じて顔を背けた。
余計なことを考えずに、一心に快楽だけを追う。ミロの気配は感じないが、クッションに脚を押し付けている手の力で、この状態を止める気はないという意思だけは伝わってくる。
部屋の空気は重く、ミロは何も喋らない。自分の喘ぎ声と湿った水音が、体の内と外に響く。狭い箱に閉じ込められて、その箱の世界には自分しかいないような錯覚に捕われる。
自慰というのは、本当に自分一人の行為なのだな、とぼんやりと思った。
息があがり、皮膚が熱をもつ。じっとりと汗をかいて、皮膚から外界に向かって気の流れが溢れるような浮遊感を感じる。
それと同時に、何も意識していないのに下腹部に力が籠り、右手が動かしづらくなったのを感じた。
もともと力があまり入らない体勢で、思うように動かせない。
何度も、快感を追い上げようとしては途中で力つきて、もう達するのは諦めてしまおうかと思ったとき、ミロの手が右手に触れた。
優しく絡み付いた指が私の指を解き、代わりに体内に埋め込まれているものの一部を握った。先刻、ミロが最初に試したのとは違う角度で二、三度ゆっくり動いた後、それは力強く腸の内壁を擦り上げた。その何の迷いもない、きっぱりとした意思に、全身を突き抜けるような快感を感じて叫んだ。
箱の世界は破られ、自分に執着する者の意思に向かって塞き止められていた思いが溢れ、そのあとはもう何一つ考えられなくなった。
ぼんやりとした闇の中で、目が冷めた。蝋燭の光は消えている。隣にミロの姿はなく、隣室から、微かにコンピュータのキーボードを叩く音が聞こえていた。
時間の感覚が曖昧だった。昨夜、結局最後はミロに手伝ってもらってディルドでドライ・オーガズムに達した後、ミロが熱っぽい眼差しで求めてきて、そのまま体を繋げた。
既に一回ドライに達していたからなのか、最初から脳髄に突き抜けるような強い快感を感じて何も考えられなくなり、思わず時間がないことを忘れた。
あれから、何回やったんだろう……そういえば、鎧戸の隙間から光が漏れていたような気がする……
まさか?!
急に思考がはっきりして、飛び起きた。時計……!
室内に時計はない。ミロの携帯、と探して、それもなくなっている事に気付く。
立ち上がって、ミロの姿を探そうとして、腰が砕けた。
うわっ……立てない……!
内股を熱い液体が伝うのを感じた。昨日の残滓だ。慌てて足下に丸められていたバスタオルの上に座り込んだ。
勢い転ぶような形になってしまい、その物音に驚いたミロが寝室を覗き込んだ。
「カミュ、起きたの? 大丈夫? 転んだ?」
「ミロ! 時間! 今、何時……」
「え……? 今? もう七時過ぎてるけど?」
嘘だろう?!!
呆然と、その言葉を噛み締めた。ロンドン行きの飛行機は、八時発だ。ここから空港まで三十分かかると思えば、どう頑張っても間に合わない。
「乗り遅れた………」
がっくりと、両手を床についた。こういう事を予想して、夜のフライトにしたのだ。いくらなんでも、それまでには起きるだろう、と……
「落ち着きなよカミュ。正規のチケットだったんだから変更はきくだろう?」
ミロが、にっこりと笑って肩に手をかけてきた。その笑顔に、違和感を感じた。
「……なんだか、随分楽しそうだな? お前、何時から起きていた?」
少し眉を潜めて睨み付けてやった。確かに、帰りは正規料金のチケットしかとれなかった、とローマについた初日に言ったが、そんな事をわざわざ覚えていたというのが如何にも怪しかったからだ。
案の定、ミロは全く悪びれもせず、嬉しそうに返して来た。
「ん? 五時くらい? カミュ良く寝てたよね。気持ちよさそうでよかった」
「何で起こしてくれなかったんだ……」
多少恨みを込めて言ってみたが、我ながら迫力がない。今にして思えば、昨夜ワインを開けたのも、時間がないというのにマッサージをしてくれたのも、最初から今日寝過ごさせる為の計算だったのかも知れない。
それならそれで、そうまでして引き止めようとしてくれたのなら嬉しいのだけれど……
「ミロ、電話貸してくれ」
「え? 何処に電話するの?」
やや焦った声に苦笑を噛み殺した。
「空港。飛行機、今日のフライトをキャンセルして明日の便を予約しないと。……心配しなくても、もう今日は何処にも行かないよ」
くるくると跳ねている髪に指を絡ませて言った。ミロの表情が一気に華やいだ。
「明日じゃなくて明後日の朝の飛行機にすればいいじゃん」
仕事、明後日だろう? と猫のように戯れ着くミロの姿に、謀などというものからはもっとも遠いと思い込んでいた恋人の罠に見事に嵌まった自分を発見した。
航空会社に連絡をとり、ミロの肩を借りて(立てない私の姿を見てミロはおぶって行くと主張したが、それで階段を下りるのは流石に怖いので辞退した)事務所へ降りた。ミロがまたバスタブに湯を張ってくれて、先日手を温める時に使ってくれたマグノリアのバスオイルを入れてくれた。
乳白色の暖かい湯に体を浸すと、全身が柔らかく溶けていくようで、思わずほっと溜息をついた。……昨夜は結構汗もかいたし、ミロはまめにその汗を拭いてくれたけれど、相当長い時間を裸で過ごしてしまったので、結構体が冷えている。
目を閉じて幸せに浸っていたら、ちゃぽん、と小さな水音がして、湯が動く気配がした。……そして、内股から会陰、その奥の陰部に指が触れた。
「……ミロ?」
目を開いて、バスタブの横に膝をついているミロの顔をちらりと横目で睨んだ。昨日あれだけ遊んで、まだ遊び足りないのか?
ミロは、悪戯っぽく笑って一瞬肩を竦めた。けれど、その指は引っ込めるどころか柔らかくアヌスの周辺を撫でて、そのまま奥まで潜り込んできた。
一瞬、身を捩って逃げようか迷った。ミロは昨夜用意したコンドームを結局使わなかったので、結構な量の精液がまだ体内に残っているだろう。それが溢れることを警戒したが、この乳白色の湯の中では溢れても見えない、と気付いて力を抜いた。
自分でも、どうかしている、と思う。きちんとけじめをつけるべきだと分かっていて、これまではそうしてきたつもりなのに、ミロがこうして誘いをかけてくると乗ってしまいたくなる。というより、ミロが今自分を甘やかしたがっているのを肌で感じていて、それに甘えたくなる。
なんというか、毒気を抜かれた感じ、というのが一番近いかも知れない。
目を閉じて、ミロの愛撫に身を任せながら考える。
多分、今までは、自分がしっかりしなくては、とずっと思い続けてきたのだ。音楽では何も力になれないが、経済的に資金が必要ならすぐにそれなりの金額を動かせるようにしておきたい、とか。つい練習に夢中になってまともな食事をとることを忘れるミロに、定期的に食事を作りに行こう、とか。
それが、この七日間で、少し変わったのだと思う。この七日間、私はミロが、一人の演奏家として未熟な私を暖かく見守ってくれているのを感じた。そうして、私もその視線を有難く受け入れた。
ミロに頼っていい部分があるのだ、ということを実感できて、それがとても安心できるものだったから、ついそこにまた甘えたくなるのだ、と気付いて、それはちょっとまずいんじゃないか、と思った。
勿論、音楽でミロのリードに任せるのは構わない。けれど、体の関係は、対等だろう?!
ミロの指は体から何かをかき出す動きを繰り返していて、先刻少し溢れてしまったのが知れたか、と少し恥ずかしく思いながら、さて、どうやってこの甘えを断ち切ろう、と考えた。そもそも、自分だけを湯につけて、ミロは服を着たままだというのが狡い。これでは、こちらからは何もできない。
……いや……この体勢なら、何もできないということはないか?
こちらの意図に気付かれないよう、目を閉じたまま、湯に浸っていた左手を伸ばしてミロの唇を辿った。ミロがその指を舐め返すのを感じた。
そのままその指を滑らせて喉に触れ、シャツの上から広い胸に触れ、腹部を辿ってジーンズの腰に辿り着く。そして、冷たく指に触れた金属片を一気に引き下ろした。
ミロが息を飲み、呆然と固まった。
思わず、ほくそ笑んだ。服を着ているからといって安全だと思ったら大間違いだ。
固まっている間にさっさと引っ張り出したミロの性器を、わざと音を立てて舐める。そういえば、昨日散々恥ずかしい思いをさせられたのだから、少しくらい仕返しをしてやってもいい、と思いついた。
「! カミュ、ちょっと待った! 俺、まだ洗って……!!」
「お前はもうシャワーを浴びてるだろう?」
問答無用、と再度口に含み、きつく吸って扱いた。舌先で亀頭をくすぐると、ミロが息をつめて私の肩にしがみついた。
昨日あれだけ射精して、まだこんなに直ぐに熱くなるというのは、ミロが超人的だということなのか、それとも少しはこちらにそれだけの価値があると自惚れても良いのか……。
ミロの背中が痙攣し、はりつめた筋肉の感じで頂点が近いことを感じて、わざと唇を離した。
呆然、といった表情でこちらを見下ろすミロに、にっこり笑ってやってまた刺激を加える。
考えてみたら、こんなふうに相手を焦らすような事は、これまでお互いにあまりやらなかった。そんな事をしなくても、それなりに毎回エキサイティングなセックスになったから、その必要を感じなかった。
でも、たまには、こういう遊びもいいかも知れない。少しくらい困難(?)があった方が、目的が達成された時の喜びは増すものだ。
三回ほど寸止めで焦らしてから、ミロのペニスを喉の奥まで通して吐精させてやった。
ディープスロートを練習したのは、たまには変わった事を、という単純な思いつきからだったが、意外にミロは気に入ったらしく、するともの凄く気持ち良さそうな顔をしてくれる。
閉じた長い睫毛の先が震えて、頬が薔薇色に紅潮する。セクシー、というか、かなり可愛い。
一度、そう言ってやったら、それこそ茹でたオクトパスのように赤面して焦っていた。正直、私には何が恥ずかしいのかよくわからないのだけれど、口でされるのはどうにも恥ずかしい、と言う。どうも、羞恥のポイントが私とミロとではかなりずれているらしい。
本当は、可愛いね、と言ってやりたいのだけれど、言うとまた折角の良い気分が吹っ飛んで全身で焦るので、汗ばんだ頬や額にキスをしながら体を簡単にタオルで拭ってやって、先に食事の準備をしておいてくれ、とバスルームから出てもらった。
実は先刻、ミロに体の内側をまさぐられて少しひやりとした。昨夜かなり酷使した場所がどうなっているか、自分でも分からなかったからだ。
もうすっかりバスルームに置きっぱなしになっているローションで指を湿らせて、ゆっくり押し入れてみる。長時間に及ぶ擦過刺激のため少し腫れて熱を持っているのはいつものことだけれど、指で探ってみると思ったよりも内部は整っていた。整っている、というのは、粘膜の壁を押してみても擦れて痛いところがないとか、腫れが肛門周辺だけでその奥にまでは及んでいないとか、そういう感じだ。
……まあ、ミロの予測が正しかった、のかな?
あらためてそれ専用に作られた道具を使うことの利点を思った。
たまにしか会えないから、という理由で、本来もう少し時間をかけるべきところでほんの少しずつ無理をする傾向が自分にあることは知っている。血を見るとミロが焦って大変なことになるので、勿論出血はしない範囲で、セイフティ・リミットを外す。こちらが焦れていれば尚更だ。
切れる以外で問題になるのは、実はローションの枯渇による腸内壁粘膜への強すぎる刺激で、これを刺激しすぎるとその時は分からなくても翌日痛い思いをする。もっとも、人間の体の回復力というのは大したもので、その痛みも大抵夜までには収まってしまうのだけれど、こんな風に毎日その刺激を繰り返していると回復が追い付かなくなってくる。
ミロもその事は知っていて、かなり頻繁にローションを継ぎ足してくれるのだけれど、指で解そうとすると完全な円形にならないため、指の本数を増やした時に隙間からローションが零れてしまう。それで、いつも、解す過程で少し刺激過多になってしまうのが、昨日はその必要がなかったためあまり傷まなかった、ということなのだろう。
……ということは、これからもアレの世話になることになるのかな……
溜息をついた。安全とミロの負担(気を遣うという)を考えたら、その方が良いに決まっているのだけれど……。
慣らすだけならともかく、ミロはきっと自分のものを挿入する前に一度後ろでいかせようとするだろうから、それがどうにも居たたまれない。
勿論、そうしておいてから体を繋げる方が、お互いに楽に上り詰められるし、強い快感を得られる、というのも分かっているのだけれど。
昨夜から考えることはそちらの方面ばかりで、我ながら箍が外れているなと思いながらも、一応今夜またセックスする事になっても大丈夫なだけの準備はしてバスルームを出た。
ミロは既に夕食の準備を整えてくれていて、昨日作り置きした料理が一通りテーブルの上に並んでいた。
「これはお前の非常食なんだから、今食べたら意味がないだろう……」
苦笑してそう言ってやったら、口を尖らせて「一人で食べてもつまらない」とミロの返事が返って来た。
そう。一人で食べてもつまらない。
そのことは、誰よりもよくわかっているつもりだ。でも、だから、せめて、一人の時に、その料理を作った人が居ることを思い出して欲しい、と思う。
一人ではないことを、思い出して欲しい……。
それでも、一緒に居る間は楽しく食事をしたい、というのも分かるので、ミロの隣の椅子(何故か向かい側でなくいつも隣だ)に腰掛けようとしたとき、バスローブの上から腰に手が回ってきた。
「……何?」
食事の前にじゃれつくつもりなのか思ってそう訊ねたら、膝に座れ、と言う。
この間はともかく、今は隣に椅子があるのに……流石に、ミロの膝に座ってまともな食事が出来るとは思えず、「ここ、一応二人分椅子があるだろう?」と言ってみたが、ミロはきらきらと光る青い瞳で私を見上げてもう一度訊いて来た。「駄目?」と。
どうしたものか、暫し迷った。
単に、くっついていたいだけだというのも十分有り得る。でも、それだけでもないような視線に見える。先刻、ちょっと悪戯をしてしまったので、まだ体の熱が収まっていないのかも知れない。
何処までこちらの欲を見せてよいものか、ミロが相手の時はその加減が結構難しい。
こちらばかりがヒートアップして相手にそれほどの気がなければ、気まずいだけだ。何年も付き合っていて未だにその呼吸が飲み込めていないというのはあまり褒められたことではないけれど、ミロの場合スキンシップが子供のような遊びの方向に転がるか、性的なものに転がるか直前まで分からないところがあって、その判断が難しいのだ。
……でも、今日は後者かな。
少し熱っぽい色も見えるミロの瞳を見て、そう結論した。まだ六日前の記憶もある状態で、ただ膝抱っこ遊びをしたいだけなら付き合えないが、それ以上進んでも良いなら希望に添ってもいい。
「……いいよ」
ミロに腰を抱かれてミロの膝の上に座り、足は自分が座るはずだった椅子の上に延ばした。正直なもので、ミロの体の熱を感じるだけで胸が息苦しさを覚える。こんな有様では、食事どころではないな、と苦笑する。
どうせなら映画に出て来るような事でもやってみるか、と、料理を切り分けてミロの口に運ぶ。お返しに、ミロもスプーンで食べさせてくれるのかと思ったら、キスされて口移しで渡された。
食べ物を口移しで渡すというのは、随分と原始的というか、動物的な愛情表現だ。ミロ以外の相手にやられたら生理的な嫌悪感で吐き出すだろうに、そうならないでそのまま嚥下してしまうのだから、我ながら不思議だと思う。
ミロに水を飲ませてもらって、雫が唇の脇から溢れ、それに気をとられた瞬間にバスローブの胸元にミロの手が滑り込んできて、腰にその衝撃が突き抜けた。
ミロ……お前、人に食事させる気、ないだろう?!
もともと、セックスする前にはあまり食べないようにしているし(あまり消化器官を活性化させたくないので)、最初にスープや卵などで最低限のカロリーは摂取したので、もうすっかり真面目に食事をする気がなくなってしまった。
こんな場所で遊ぶのもどうかと思うし、そろそろ場所を移動したい、と思っても、ミロはまだ空いた手でサラダやヴェジタリアン・ミートローフの欠片をつまんでいる。
無邪気な遊びと、性的な悪戯が同居している。悪戯にひっかかってその気になってしまうと、相手が同じくらい本気になるまで随分焦らされ、待たされる羽目に陥る。
ふと、だったらこちらも遊びをしかけてやろうか、という気になった。
スプーンを置き、ミロの首に両手をかけて、深いキスを贈る。胸に置かれていたミロの手の動きが、遊びでからかうようなものからもっとしっとりとしたものに変わり、背中へと回されて囲う腕に力が籠る。それを見計らって、わざと唇を外した。
ミロが何故、と視線で問うのに笑みだけで答えて、もう一つの椅子に延ばしていた足をたたみ、ミロと相対するようにミロの腰の上に跨がった。
一瞬、ミロが息を飲んだのがわかった。
さて、どうするか。
軽く唇にキスをして、後ろを振り返り、サラダの中のオリーブを口に入れた。実は、ミロはあまりオリーブが好きではないらしい。食べられないということはないけれど、自分では滅多に買ってこない。
そのオリーブを、キスしながらミロの唇の間に割り込ませる。ミロは一瞬困ったような顔をして、それでもそれを咀嚼して飲み込んだ。
「どう? 食べてみたら、そんなに悪くないだろう?」
「カミュがこんな風に食べさせてくれるならって限定がついてもいいならね……」
はあ、とミロが溜息をついた。矢張り、あまり好みの味ではないらしい。
背中に回された腕に力が籠る。少し、その気になりかけているのかな、と思い、こちらもミロの背中を抱き締めながら、ミロの腰に自分の腰が密着するように座り直した。
ミロの頬に血が上った。
「そう? じゃあ、これは?」
背中から首へと上がってきたミロの手を宥めてもう一度後ろを振り返り、今度はプチトマトを口に入れる。同じように深いキスでミロに口移しで渡し、追い縋ってきた舌から逃げて、代わりに唇を舐めた。
「カミュは? 何か食べたいものある? 嫌いなものでもいいよ?」
トマトを飲み込んだミロが、唇の端を持ち上げて見上げてきた。まだこの遊びを続ける余裕はあるらしい。
「残念だけど、嫌いなものはないよ。……それじゃ、マッシュルーム?」
ミロがサラダボールに手を伸ばし、まるごと入っていた小さなマッシュルームをとって口に入れた。
薄くドレッシングのかかったマッシュルームをお互いの口の中で転がしながら、長いキスをする。その間に、ミロの背中に両手を回し、服の上からミロの性器に自分の性器を擦り付けるように腰を揺らした。
ミロの吐息が熱の籠ったものになり、両手がバスローブの内側に滑り込んできた。
「……漸く、その気になった?」
まだ遊びたいミロを落としてやった、と内心で密かに喜んでいたら、そんな駆け引きなど微塵も考えない返事が返ってきて、性器にではなくミロを受け入れる場所に熱い疼きを感じた。
「起きた時から……一人でカミュが目覚ますの待ってたときから、ずっと待ってたよ……?」
頬が熱く火照り、何も言えなくなった。
自分がどういう表情をしているか分かる。こんなところで始めるのは行儀が悪いと分かっているけれど、もう移動するのが辛い。
ミロがバスローブの紐に手をかけて、それを解いた。優しく肩にキスをくれて、手をすべらせながら重いタオル地の布を払い落とす。背中にひやりと涼しい空気が入り、それをミロの熱い手のひらが撫でる。腰をずらして、ミロのジーンズのボタンに手をかけ、ジッパーを下ろす。中は既にもう熱く形を変え始めていて、その熱を握り込んで丁寧に扱く。
背後で、ミロが何かを手にとる気配がした。ミロが閉じていた股を少し開き、宙に浮く形になった私の腰の下に手を差し入れた。
オリーブオイルだ。そう気付いて、申し訳ない気持ちになった。こんな事のために使用するものじゃない。
けれど、ここで始めようとしたら、それしかなかった。
あまり理想的とは言えない体勢だったけれど、なんとかミロに後ろの門を解してもらい、まだミロの性器が育ち切る前にミロの上に腰を落とすようにして挿入を済ませた。
体を繋げる、たったそれだけの事がどうしてこんなに幸せなのか、と思う。
ミロの瞳を覗き込むと、同じ思いを抱いてくれているに違いないと信じられる光があって、額と額を合わせて微笑み合う。
と、その時、くぐもった携帯電話のバイブレータ音が響いた。
うわっ、とミロが小さな声を上げ、まだ彼の腰にひっかかっていたジーンズのポケットからそれを取り出した。次の瞬間、身の竦むような怒声が携帯のスピーカーから溢れてきた。
「おいっ! バーロウ、まだそっちに居るんだろう? 連絡も寄越さず居留守ってのはどういう了見だ?」
アイオロス先輩の声だ。はっとして壁の時計を見上げた。十一時……!
先輩の家には、ウサギのプチを預けてあって、今日戻ったら引き取りに行く約束になっていた。飛行機に間に合っていれば、とうにロンドンに着いている時間だ。連絡がないので私の携帯に電話をしてきたのだろうが、私の携帯はミロの屋根裏部屋にある。
何故先刻飛行機をキャンセルした時に同時に連絡を入れておかなかったのか、と激しく後悔した。
とりあえずミロが応対し、私は明後日に帰国の予定であることを伝えたが、スピーカーの声は私に代われと繰り返すばかりだ。
仕方なくミロの携帯を受け取って、スピーカーをOFFにして耳に当てた。
『やっと出たか。で? そこで何やってんだ? お前は。確か夜の十時半くらいにはこっちに来るとか言ってなかったか?』
「すみません。……ちょっと、寝過ごして」
『寝過ごした、ねぇ……何時に起きたんだよ』
明らかに面白がっている声音に、溜息をついた。勿論、先輩は私が飛行機に乗り遅れた理由など分かっていて言っているのだ。
「……フライトの1時間前です」
『ほう? じゃ、今から4時間は前だなそりゃ。で? 何してたんだ? 今まで』
「すみません。色々することがあったもので。連絡を忘れたことはお詫びします」
『色々とする事ねぇ……そんで今何してんだ? 随分近くにフェアファックスがいるようだが?』
「食事中です」
嘘は言っていない、ときっぱり言い返すと、この口が商売の先輩は人の一番痛いところを突いて来た。
『今頃か。4時間も前に起きて今……一回押し倒してシャワー浴びたらそんなもんか。
まとめると、お前がさかるのに忙しかった間、うちのエセルはやって来る気もない無責任な飼い主の到着を首を長くして待っていたというわけだ? 疲れているだろうから、とかなんとか言って甘いものだの茶だのの準備をしていたが、全部無駄だったわけだな、エセルのこの気配りは』
「それは……! 本当に、連絡をしなかったのは申し訳なかったと思っています……それと……本当にすみませんがあと二日ご面倒をおかけします」
考えてみれば、飛行機の再手配をする前にサガ先輩に予定を訊ねるべきだった、と気付いて流石に少し落ち込んだ。勿論、先輩はいつでも預かると言って下さっているが、一応、それが礼儀だ。
『お前、後二日も食ってくれと押しかけてるつもりか! あいつ、コンクール前の真面目に練習しなきゃいけない時期とかじゃなかったのか?』
揶揄の色なく、本気で呆れた口調でそう返されて、流石に声が詰まった。勿論、明日も今日のように遊び倒してミロの練習の邪魔をするつもりはないが、その一言は私が見ないようにしていた罪悪感の一端を巧妙に突き刺した。
「……練習の邪魔をするつもりはありません。こちらで出来る仕事もありますし。ロンドンには明後日の朝の便で戻りますが、そちらに伺えるのは夜になると思いますので、宜しくお願いします」
『しおらしい事口で言っても男旱の続いてるお前にゃ自制心って単語は捨てといて相手を落としたいってのが本音だろ? ま、いいや。そこの家主に代われ』
……本当に、どうしてあの人はこう人の神経を逆撫でするようなことばかり………!!
眉間に三本ほど皺が寄っているのを自覚しつつミロに携帯を渡すと、ミロは戦々恐々といった態でこちらの顔色を伺いながら携帯を耳に当てた。
「もしもし? ロス? ごめん、カミュは本当に悪くないんだ……俺がうっかりうさぎの事忘れててカミュを引きとめたんだよ」
ミロがしきりに言い訳をしてくれているのを聞きながら、これはプチを引き取りに行く時にまた散々嫌味を言われるな、と覚悟した。……まあ、今に始まったことではないから、考えても仕方がないのだが……。
ミロの応答からは、アイオロス先輩が特にミロを責めている様子は感じられない。どうもあの先輩は私達の関係に茶々を入れるのが好きらしく、昔は結構ミロにあることないこと吹き込んでミロの自信を喪失させたりしていたので、一応何を話しているのか警戒していたのだが、その心配もなさそうだと気が逸れた瞬間、ミロが爆弾発言をした。
「ううん。あ……膝の上……」
その前は相づちを打っているだけだったので何を話していたのか知らないが、これは間違いなく今私が居る場所を白状してしまったのだと気付いた。
いい年をした大人が、これまたいい年をした男を膝の上に抱えているなどということを普通そう簡単に口にするか?! とか、それ以前に人のプライベートを根堀り葉堀り聞くような質問に一々真面目に答えるなとか、言いたい事は山ほどあれど、あのアイオロス先輩の誘導尋問にかかってミロが口を噤んでいられる訳が無い、というのも十二分に知っている。
……いや、そもそも、アイオロス先輩にペット・シッターを頼むからいけないのだ。(本当はサガ先輩に頼んでいるのだが)
次からドウコ先輩のところへ預けにいこう、と半ば本気で思っていると、電話を終えたミロが困ったような表情でこちらを見上げた。
「ロスから伝言……『お前にそんな趣味があるとは思わなかった。食いすぎないようせいぜい注意しろ。邪魔したな』だって……」
つまり、こちらの状況がすっかりバレたということだろう。
思わずはあ、と溜息をつくと、ミロが申し訳なさそうに言った。
「……ごめん……」
つい電話をとってしまったことを謝っているのか、それとも私を引き止めたことを悔いているのか。
後者だったら、それは悲しいな、と思った。
「お前の所為じゃないよ。……ちゃんと電話しなかった私が悪い」
ミロの髪を梳きながらそういうと、ミロは少し驚いたように目を見開いて、それから甘く笑って「上に行く?」と聞いて来た。
ずっと体の中に埋められたままだったミロの性器は、先刻より力をなくしてしまっている。
少し湿っぽくなってしまった空気を寝室に持ち込みたくなくて、私はミロの手をとり自分の腰に導いた。ここで止めてしまったら、きっとこの空気を引き摺ってしまう。
ほんの少し、アイオロス先輩が呆れ声で言った一言が気になったけれど、それも明日までは忘れようと決めた。
「……つまらないことはこの部屋に置いていこう。……今は、他のことに気を逸らしたくない」
そうして、もう一度ミロの体に自分の体をすり寄せ、ゆっくりと腰を揺すり始めた。
二人で一度達して、一緒にシャワー室でオリーブオイルを洗い流し、数時間前まで眠っていたミロのベッドにまた戻ってきて一緒に横になる。
箍が外れているな、と思う。今に始まったことではなく、たまに二人でまとまった時間が過ごせるようになると、いつもこんな感じだ。
けれど、いつもと違う事もある。
何故だか理由は分からないけれど、今はミロに甘えたくて仕方がない。
体の関係は対等だと何度自分に言い聞かせても、どこかで、ミロに見守って欲しい自分がいて、能動的に求めることよりただ求められたいと望み、求められる度に安らぐ。
何かが崩壊しかけていると、警鐘が聞こえる──それでも、それもどうせ明日までのことだと思えば、抗う気力を失う。
昨夜あんなに恥ずかしい思いをしたと思ったのに、昨日の今日で後ろを道具を使って刺激される事にも慣れてしまって、叫びながらミロの愛情を乞う。
ミロはその全てに、抱え切れないほど一杯に応えてくれた。
私からは何も与えていないのに、どれだけ求めても、「もう十分だろう」と投げ打つことなく、必ず応えてくれる。
その安心感と幸福に、気が遠くなった。
自分にばかり都合の良い幸福は、ほんの一時しか続かない。そう分かっているのに……。
ミロが積極的に甘やかしてくれたので、翌日も、事務所のソファに横になりながらミロの練習するヴァイオリンを聞いて過ごし、また夜に体を重ねた。
ミロもとても幸せそうで……
そんな幸せを破らずにいられるのなら、あと一日だけ、このまま夢を見続けよう、と思った。
ロンドンに戻る朝、鏡の前で、その夢が浸食した自分の顔に苦笑した。
一人の自立した人間の顔じゃない。誰かに守ってもらって、安らいでいる人間の顔だ。
ほんの少し自分に許した甘えが、坂道を転げ落ちるように増長する。
自分は何もせずに、ただ人の愛情を当然のように要求する、そんな化物にはなりたくない。
帰り支度を整え、空港まで送ってくれるというミロの車の中でダッシュボードを開き、サングラスを取り上げて「貰うぞ」と声をかけた。
ミロは残念そうな顔をしたけれど、こんな顔でアイオロス先輩に会おうものなら何を言われるか分かったものではないからだ。
ロンドンで、一人で未来を見詰めるようになれば、今ならまだきっと数日で元の顔に戻れるだろう。
そして、そのころには、ミロもこの八日間の甘い夢を忘れて、ヴァイオリンに没頭しているに違いない。
空港で、いつも泣きそうな顔で私を見送るミロは、今回は晴れやかな笑顔で私を送り出してくれた。
コンクールまで、あと一ヶ月。
たとえどんな結果に終わったとしても、私は、この峻厳なヴァイオリニストの一番の理解者であろうと誓う。
たとえ、そのあとに我々の関係が変わってしまったとしても、私が世界で一番ミロのヴァイオリンを愛する人間である事実だけは、きっと一生変わらない。
ノッティンガムに新しいレストランを開くというクライアントとの打ち合わせを、腰の痛みを堪えつつなんとか無事にこなした夜、サザークのサガ先輩の家にプチを引き取りにいくと、案の定待ち構えていたアイオロス先輩に「サングラスを外せ」と言われた。
曰く、夜なのにサングラスは必要ない、人の家に来て濃い色のグラスをかけたままでいるのは失礼だ、云々。
「寝不足で目が痛いので」と言い張って、小さなウサギの入ったケージのもとへ行くと、プチは端の方に縮こまって怯えていた。
……そうか。こんな顔の人間は知らないものな。
苦笑が漏れた。まあ、確かにアイオロス先輩の言葉は一理ある。すくなくともサガ先輩には、きちんとグラスをとってお礼を言うべきだ。
アイオロス先輩に職場の上司から電話がかかってきて、先輩はなにやらコンピュータの画面を覗きにダイニング・テーブルを離れた。
お茶を入れてくれたサガ先輩の前でサングラスを外し、もう一度この八日間の礼と連絡が遅れたことへの詫びを言うと、サガ先輩は少し驚いたように目を見開いて、それから優しい微笑みを口元に浮かべて「どういたしまして」と言ってくれた。
アイオロス先輩が戻ってくる前にグラスを掛け直して、サガ先輩がいれてくれたお茶を飲みながら合宿の様子などを語る。アイオロス先輩の一昨日の電話は、どうやらサガ先輩がシャワールームにいる隙を狙ってかけてきたものらしく、どうりで遠慮がなかったはずだ、と納得して可笑しくなった(サガ先輩が居れば、大抵途中でストップがかかるからだ)。
「そういえば、お前あの電話の時、一度に二食分がっついてたそうだが、相変わらず満足させてもらえないのか? 随分長い事電話してたが」
サガ先輩がお茶のお代わりをとりに行っている間を狙ってそう言われて、ダイニング・テーブルに戻らずソファに腰を下ろして新聞を眺める振りをしている(絶対振りに違いないと信じる)アイオロス先輩を横目で睨んだ。
「それは、国際電話で長話をしてしまって済みませんでした。が、謝ってもなかなか許してくれなかったのは先輩の方ですが」
「こっちも謝ってやっただろう? 邪魔したなと。お前にそういう趣味があるとは知らなかったからな。しかし、今度人に聴かせようと思うんだったらもう少しまともに興奮してから掛けて来い。あと、また録音して欲しいとねだられてもこっちも準備があるからな」
思わずかっとなってアイオロス先輩の方を振り向いたとき、サガ先輩の穏やかな声が割って入った。
「何? ミロのヴァイオリンの録音の話?」
興味津々といった笑顔で見詰められて、喉まで出掛かった声を無理矢理飲み込む。
「……ええ、実は、ミロには内緒ですが、音をICレコーダーで録ってきました。……きいてみますか?」
鞄に入れていたICレコーダーを取り出して見せると、サガ先輩は目を輝かせて頷いた。
「……ミロ……本当に、上手くなったね……」
紅茶が冷めるのもかまわず、コンポから流れる音に耳を傾けてうっとりと呟くサガ先輩を見ながら、本当にその通りだ、と思う。
アイオロス先輩は、今度こそ本当に我々の会話に興味を失ったようにキッチンに背を向けて、新聞の新しいページを開いた。
プチにボーイフレンドをあてがう事を考えている、と話して、HRSからのアダプションの方法などを一通り聞いたあと、まだ怯えているプチのキャリーケージを持って玄関に立った。
この臆病な子が、良いパートナーを得てもう少し安心出来るようになれば良い、と思う。
再度礼を言って暇をつげようとした私に、サガ先輩はちょっと、とアイオロス先輩に断り、一人だけアパートの外まで見送りに来てくれた。
「カミュ、今日サングラスをかけているのは……ロスが君をからかうから、かい?」
濃いグラスの色のため、灯りの少ない外ではサガ先輩の表情が見えない。私は、サングラスをとってサガ先輩に向き直った。
「それも、ありますが……今の自分の顔が、好きではないので」
サガ先輩は、また少し目を見開いて、それから、ふっと溜息をついた。
「……気持ちは、分かるよ。君は誇り高い人だ。……でも、私は、今日の君はとても優しくて綺麗な表情をしている、と思ったよ」
「ミロと、同じ事を言うんですね……」
「ああ、彼ならそうかも知れないね。彼は、人の美醜を造詣とはまったく別の次元で見ているところがあるから……。私は単に、この違和感に慣れてしまっただけだけれどね」
サガ先輩は小さく笑って、それでもその綺麗な緑色の瞳にやや真剣な色を込めて言った。
「たとえどんな形でも、誰かの愛情を信じて安らげるというのは決して悪い事ではないと思う。……全てを否定する必要は、ないんじゃないかな」
それから三日後、ミロのサングラスはお役御免となり、母に教わったレシピのアーモンドスコーンの包みと共にFedexでイタリアに送り返された。
私の留守中に、弟フィリップ(フィル)の婚約が決まり、式は来年の6月に行うことが決定した。
ロンドンは夏の終わりを迎え、ヴァカンス・シーズンの終わりと共に秋・冬のカレンダーが仕事の予定で埋められていく。
ミロの居ない日常が再び慌ただしく過ぎて行く中、二つだけ私の生活に加わったものがあった。
マグノリアのアロマオイルと、ミロのヴァイオリンの録音。
一日の終わりの夜、コンポのスイッチを入れて一編の録音を再生しながら、ボウルに張った湯にアロマオイルを落とし、コンピューターで疲れた両手を浸す。
ローマでの最後の日、ソファに寝転びながらICレコーダでこっそり録音したミロのヴァイオリンの音だ。
きっと今頃は、もっと上手くなっているだろう。そう思いながら、ミロがコンクールで良い結果を出せるよう、祈る。
コンクールとは、若い才能を発掘する場だ。
聴衆も、審査員も、まだ人生の挫折も知らぬ十代の若者に優しい視線を贈る。一方で、年齢が上がるほど、今まで日の目を見ることがなかった才能に厳しい。
技術力は、運動神経に優れた若者と同等もしくはそれ以上を要求され、音楽の内容は若者より成熟していて当然だと看做される。
「その年まで賞をとれない二流演奏家」「いつまでもコンクールにしがみついて若者の邪魔をしている」と、シニカルな視線が降り注ぐ。
いくらマイペースなミロでも、音楽院で何年も過ごしてそんな視線に気付かないほど、最早無邪気な子供ではないだろう。
ここに、お前のヴァイオリンを愛する人間が居るよ。
そう、彼が、どんな嵐にも挫けることのないよう祈る。
お前の音を、魂を愛する者が居るよ。
祈りが何かを変えるとは思わないけれど、もう触れる事のかなわない音の翼には、はるかな地から祈る事しか出来ない。
マグノリアの香りがふわりと鼻腔をくすぐり、一瞬、ローマのあたたかな夜の空気を感じた。