不調が改善されないまま一週間。
三時間の仮眠で大学へ出かけた体を、まずは休ませるぞ、と重い頭で午後のスケジュールを立てながら事務所のドアを開ける。
すると、事務所のドアを開けるなり、陽気な一声が耳に飛び込んで来て、俺は思わず肩に担いでいた楽器を落としそうになった。
短く淡い小麦色の髪をツンツンに逆立てさせ、明るい橙色のサングラスをかけた男が一人、事務所のソファに長々と寝そべりながら、ビール缶を握った手をぶらん、と天井に向かって伸ばし、挨拶のつもりかそれをぶらぶらと左右に振っている。
「……何、してるんだよ……人の、事務所で……デス―――!!」
思いっきり眉を顰めて難しい顔をしたところで、半分出来上がってソファにだらしなく体を任せているデスには見えはしない。
そうは分かっていても、数ヶ月にも及ぶ万年睡眠不足と過密スケジュールに負け気味の俺は、不愉快になる気持ちを抑える事が出来ない。
結局俺は額に深い皺を刻み、口をへの字に結んでデスの挨拶を無視する事で不満を表した。
酷く子供っぽい意思表示だとは、百も承知。
俺と同じく、イタリア人の母とイギリス人の父を持つデジー・ギネスは、アイオロスやサガらと同じく、2学年上のスミス寮での先輩だ。
チビだとからかわれて何かと問題ばかり起こしていた頃から、同郷のよしみか気さくに声を掛けてくれていた。
昔から、DESSY(デイジー)と間違われてばかりの名前を嫌って家族は元より友人知人は言うに及ばず、公式の場でも自らをデスと呼ばせようと躍起になっているので、俺はずっと彼をデスと呼んでいる。
不本意な名前で呼ばれる苦痛は、それなりに理解が出来るので。
下品なジョークが気に入りで、ゴシップ好きの面があるけれど、根っこのところは結構照れ屋でさっぱりとした性格の、この先輩が俺は結構好きだったりするのだけれど……体力・気力の磨耗激しいこの時、この今、この人を相手にするのはかなりしんどい。
その結構好きな根っこの部分に辿り着くまでは、彼はしつこく、お喋り好きの詮索屋だから。
大体、事務所にはちゃんと鍵を掛けてあったんだ。
それが、どうして、と頭に疑問を浮かばせると、まるでそれが聞こえたかのようなタイミングで、
「隣の仕立屋の爺さんに挨拶したら、開けてくれたぜぇー♪」と得意げな一言。
俺は、今度こそ力が抜けて右肩に食い込んでいた楽器と、学生達の課題レポートが詰まった鞄を床に置いた。
隣の仕立屋の爺さんは、俺の大家にも当たる人で、何かの時には、と店の鍵を預けてある。
何か、ってのはもちろん予測不可能な凄い非常事態が起こった場合のことで、このゴースト・フェチの超心理学者を自分が不在の時に部屋へ招き入れるためでは断じてない。
普段なら、一矢報いるべく口を開くところだけれど、どうにも先日のベネツィア、フィレンツェ、アレッツォぐるりの強行旅行から偏頭痛が収まらず、頭蓋骨から脳味噌に響くその痛みに、反撃したい気分も削げて、床に下ろした自分の荷物を跨いで、俺は事務所の奥の台所へ行き、冷やしておいた水で喉と気持ちをなんとか宥めた。
兎に角、何も突っ込まれないように、あっちのペースに乗らないように、早々に退散してもらおう。
今、デスに構っている心の余裕も金銭の余裕も、時間の余裕も一分だって無いのだ。
そう決意を新たにした時、背中にデスから暢気な声が投げつけられた。
「よお、オレにも水!」
ホント、いい性格してるよ……この人……。
がっくりと項垂れて、俺は自分用とデス用にガラスのコップを持って、デスが我が物顔で寛いでいる接客スペースに歩を返した。
と、床の上で録音・録画機材の黒い箱が、足元にまとわり着く小型犬のように彼の周りをぐるり囲んでる事に気付いた。
これは、調査機材じゃないのか?
ひょい、と手を伸ばしてコップを受け取ったデスは、目を輝かせて身を乗り出してきた。
「なぁ、今ウンブリア州で幽霊屋敷があるらしいんだが、」
ああ、やっぱり……!
オレは、慌てて両手で耳を塞いだ。
「行かない!」
「……なんだよ、まだ何にも言ってないだろう? 態度悪ぃなぁ。でもよ、今度のは」
「絶対に行かない」
「ちょっ、人の話は最後ま……」
デスの腕が伸びて、オレの手を掴んだ。必死に抵抗して喚く。
「死んでも行かない。絶対に行かない。何言われても行かない」
「ま、」
「い、や、だ!!!」
口を、パカッと開けたままこっちを見ているデスに思いっきり言い切ってやった。
こっちの意志こそ聞けと言うんだっ。まったく!
本人曰く、4歳の頃から心霊研究者を志し、それに生涯を賭すという誓いを立てたというデスは、その情熱に反比例してその手の感度が極度に荒いらしい。
そもそも、存在の有無を明確にする研究をしているのだから、無いものに対してアンテナがどうの、と現段階で言えるのかどうか釈然としないが、兎に角デスは一般に幽霊だの超常現象だのといわれる事象と相性が悪い。
相当に「ヤバイ」ものしか見えないらしく、気軽に研究対象などとは言っていられないのだそうだ。
本人は、優秀な研究者が優秀な霊媒である必要は無い、と昔から大言しているが、それではデータが集まらない。
そこで、パブリック・スクール時代から霊感があると自称・他称された生徒に付きまとい、これも本人曰く、ありとあらゆる可能性と確率を想定して記録を取ることこそ研究者の正しい姿勢という事で、兎に角まとわり着き、引きずり回し、そういった現象があると言われる場所に無理矢理引きずり込んで……、ああ……もうなんだか後は、思い出したく無くなってきた……。
「何の為に大学に残って研究させてもらってるんだよ? いくらだって学生が居るだろ? そいつら使えって」
「お前なぁ……、ほんっと何にも分かってねぇのな。学生連れてこんなイタリアくんだりまで旅行に来てみろよ、科研費なんていくらあってもたりねぇぜ。現地で有能な人材を調達してこそ有能な学者の有能たる所以ってもんだろうが?」
「今、あんた、『旅行』って言わなかったか? そういや、こないだもうちに泊まって宿泊費浮かしてその分バーで飲んでたよな」
「だから、言ってんだろ? 現地の人と酒を酌み交わすのも大切な調査の一環よ。それを頭の固い事務方が認めねぇから、こちとら現場が涙ぐましい節約をする羽目になるんだよ」
絶対、嘘だ!
そう思ったし、実際びしりと睨みつけてそう答えてやったら、デスは、首を悲しげに左右に振り、肩を竦めて溜息を吐いた。
「やだねぇ……あのイカさま弁護士みたく視線で人を脅すような真似覚えちゃってよぉ……あんなにちっちゃくて可愛かったのに。やっぱオケなんかじゃなく、オレ様んとこのサークルに入ってれば正しい教育を受けさせてやれたなぁ……」
「……泣き真似しながら新しいビールの缶に手ェ伸ばすなよ」
「可愛くない。可愛くないぜ。只今禁煙7時間更新中の哀れな男に酒も飲ませてくれねぇなんて……」
禁煙7時間なんかで威張ンなっ! と、口を開きかけた時、ピタッ、とデスの視線が上がり、俺の背後をじっと見つめて、すっ、と人差し指を伸ばした。
「あ、お前の後ろに……!」
ぎょっとして、俺は飛び上がり、背後を振り向いた。
「古い壁があるな♪」
……ちっくしょーーーーーッ!
「おい、ミロ、止めろよ? オレの首、絞まってんぞ? 大体、オレには、んな簡単に見えねぇし、感じねぇって何度言っても学習しないお前がバカ」けらけらと笑いながら言い切られ、俺は、掴んでいたデスの襟首を離してドスン、とソファに沈み込んだ。
疲れる……。っとに疲れる!
学費を浮かす為にやっているTA(ティーチング・アシスタント)の仕事として、これから学生たちのレポートの読みが山ほどと、卒業するのに必須のリサイタルのスケジュールと練習もある。もちろん、こっちの事務所の仕事も片付けなければ……。
考えただけで窒息しそうだ。
がっくりと俯いて額をぐりぐりと指で押す。
「なぁ、お前、気楽な自営業だろう? ちっとぐらい都合付けろよ。ウンブリアなんか隣の州じゃねぇか。
な? 今度もまたとっときの写真くれてやるからさ♪」
一瞬、無理出来るかな? と考えてしまった自分が悲しい。
去年、夜中のコロッセオに侵入して一週間の調査とやらに付き合ったときには、ずっと欲しかったカミュが第4学年の時にドレスを着た写真を報酬として貰ったし、デスのとっておきは、確かに今まで外れはない。
「あの、ポールの引退コンサートの時のアップ写真、だぜ? どうだ? 欲しくねぇのか?」
はっとして顔を上げると、口の端をくいっと上げて、にやにや笑っているデスと目が合った。
しまった。
「ほらほら、欲しいんだろ? フェア・トレードと行こうぜ?」
デスの顔が自分の優位を確認した余裕に満ちたものになっている。
頭の中で、必死に計算をする。
例えば、この約50人分のレポートを今晩一晩でやっつけてしまったとして、会場ホールの手配と伴奏者選びとプログラムの構成。
いや、自分でプログラム絞ってからじゃないと伴奏の楽器が決められないから、まずは選曲だ。
楽譜揃えて、練習して、合わせとか予定を決めて……。学生のレポートだって、一度で合格ラインに達している奴らって何人いるんだろう?(なんせ一年生だしな……) そうすると、もちろん適切な指導込みで返却しなくちゃならないわけで……そういや、フェランティ氏の改装の図面、今週末には仕上げとかなきゃダメだし、確かこないだカミュに回せそうな仕事がメーリング・リストで回ってきてたんだ。それの確認もしなきゃだし―――――。
洗濯機の中で回る洗濯物みたいにぐるぐると回りだした思考を、精一杯冷静に現実と付き合わせる。
「……ごめん、デス。すっごくそれ、欲しいけど、今、本当に時間が無い……」
両手で顔を洗うみたいにしてこめかみや額をこする。
「でも、またなんかの時には絶対に欲しいから、ちゃんと取っといて」
オレの根限りの結論に、デスは、ちょっと意外、って風に俺を見詰めて、
「お前って本当に忙しいんだ」
などと呟いた。
そして、チノパンツの尻のポケットから携帯電話を取り出し、パチン、と音を立てて二つ折りを開いてワンプッシュでどこかにラインを繋いだ。
「お、オレだ。金色の子犬ちゃんは生憎都合が付かないんだとよ。だからやっぱあんた取り合えず一緒に来てくれや。――――。
いいだろ? そんぐらい。どうせここまで来てんだからさぁ。
? 今か? 今は、そのミロ坊の棲家だ。
は? 今から? まあ、いいけどよ。えーと、住所、ディーテに一応渡してあっから、それ見て来いや。おう。じゃな」
デスは、ポリポリと頭をかきながらの電話を終えると、通話の切れた携帯電話を見つめて呟いた。
「なんだってんだ?」
いや、何? って聞きたいのは、むしろ俺で、もしかして、誰かがウチに来るんでしょうか?
だったら、まずは主である俺に一言断りが在るべきじゃないのか、おいー。
もう、疲れるから一々言わないけどさぁ……。
無言で、目を眇めてデスを見ると、
「おう。オレ様のパトロン。まあ、すぐ来んだろ。ハスラーに居るって言ってたからな」
と一言。
ハスラーって、あのVIP御用達とかいう一泊シングルでも400ユーロは下らないっていうの馬鹿高いホテルか?
たっく、どんなパトロンだよ。ってか、そんなのわざわざ家に呼ぶなよなぁ……。
そんな金持ちの接待なんて、オレ、出来ないからな?
あ、でもカミュならどこから仕事が来るか分からないっていうか。
なんだか体が重くて、ボーとそんな事を考えていて、うかつな事にデスの行動から注意が反れていた。
「なんだこりゃ?」
彼の声に気付いてふと姿を探すと、デスは床に立てたままの俺の楽器ケースをしげしげと眺め回している最中だった。
「お前、これバイオリンだろ? 朝っぱらからこんなん担いで何処に行ってたんだよ? そうだ! 午前中ならまだ事務所に居るだろうと思って気を利かして早起きして朝の飛行機で来てやったんだった!
それに、なんだよ、これ? 中世バロック音楽に果たしたバイオリン演奏技法の変移って、なんだこりゃ? これ、レポートじゃねぇか? しかも何? この量?!」
あーあーあーあーあー。
失敗したよ、俺!
と思ったときにはもう遅く、デスがにんまりとしてこちらを見ていた。
この好奇心で一杯の男は、なんと誤魔化せば納得するのか?
けれど、疲れ切った頭は一向に動き出してくれず、いい言い訳が見つからないまま時間が過ぎる。
デスが鞄から引きずり出した学生達のレポート片手に、これから楽しい尋問を開始すぞと意気込んだその時、事務所のドアの磨りガラスに黒い車の影が映り、ピタリと止まった。
ごく軽く、車のドアの開閉の音がして、人の気配が戸口に迫る。
人影が見える。
ドアノブが回った。
チリン、と一回、明瞭なベルの事が部屋に響く。
デスが電話していたパトロンか?
さっ、と外の明かりが訪問者の外郭を照らした。
外の明かりが強すぎて、とっさに輪郭しか掴めない。
「何を油を売っているのかね? デジー・ギネス。話では今日から現場に機材を設置すると言っていなかったかね?」
東洋人独特のまっすぐでしなやかな髪質の長い金茶色の髪を、ぞろりと背中に這わせ、すらとした体に細身のダーク・スーツをまとった、ヘレニズムの末裔。
くっきりとしたアーモンド型の目にターコイズ・ブルーの瞳とすっきり通った鼻筋。
久しぶりに見るとやっぱり迫力がある……イギリスの大富豪とインドのマハラジャの息子、シャカ・M・Y・ウォーラム――。
ぼうっと見惚れてしまった。
姿形が、というのでなく、なんとなく、いつもこの人には安定感があって、それが心地いい。
見ていて、目が疲れない。だから、いつも瞬きを忘れて無防備に見入ってしまう。
どのくらい呆けていたのか、一分か、少なくとも三分とか、五分とか、そんな時間ではない事を祈るが、気付くとシャカは目の前に居た。
彼の真っ直ぐな涼しい瞳と視線がばっちり合う。
慌ててソファの背に凭れていた背骨を真っ直ぐにしようと腰に力を入れた。
正確には、入れようとして、出来なかった。
何故かシャカと視線を結んだまま、自分の体がぴくりとも動かない。
「あの……えっと、こんにちは。随分と久し―――」
ぶりですね、といい掛けた俺の言葉は、チロリと俺の後ろ見やり、そして流れた流麗なシャカの言葉に凍りついた。
「君の背後のその人物は、君の新しいご友人なのかね?」
―――――!!!!!
オレは、恥も外聞もなく、大声を上げて飛び上がった。