ある日ロンドンの片隅で

ロンドン塔の時計が午後7時の刻を告げた。
カミュ・ルーファス・バーロウは辿りついたアパートメントのドアに鍵を差込み、溜息を付いた。先月からクライアントに振り回されっぱなしだった案件にやっと目処がついたのだ。幾つか鍵の付いたホルダーを回し、さっと鍵束を抜きドアを開ける。鍵は玄関脇のフックに掛け、ネクタイを緩めながら今晩の食事について考える。
すぐにワインを冷やして、サラダを作り、まだ冷凍庫に入れていた仔羊の肉を解凍して簡単に炙ってオレンジ・ソースを添える。パンは、本当はバケットを口にしたいけれど、ロンドンでただ一軒自分が気に入るバゲットを焼く店には寄れなかったので、それは諦めて買い置きのサワードで我慢しよう。


スーツの上着を脱ぎ、寝室に入りネクタイと一緒にハンガーにきちんと掛ける。ワイシャツの袖を折りながら、寝室から出てキッチンの灯りを付ける。パチン、とスイッチの動く音、そしてジッ、電球に電気が走る音。カミュは白色蛍光灯の陰が強く出る明るさより、明度を調節でき柔らかなオレンジ色を併せ持ったボールライトを好んで自室の照明に使っている。幼馴染兼同窓生兼一応恋人であるミロ・アーヴィング・フェアファックスは蛾になったような気分で好きじゃない、ホテルみたいな色だ、とあまり気に入っていないのだが。
キッチン脇の釣り照明の明るさをつまみで最大限に上げ、カミュはキッチン奥に寝かせてあるワインから一本、今日の気分に合う瓶を引き抜き冷蔵庫の扉を開けた。と、その時だった。
玄関の扉が、バタン、と酷い音を立てて開いた。ブザーも、ノックの音も無しに。
カミュは一瞬ぎょっとして体を引いたが、直ぐに別の事に思い当たる。開いていたままの冷蔵庫の扉を閉めると、足を玄関へと向けた。
「どうした、急に? 珍しいな、連絡も無しに……」
ひょい、と壁から玄関を覗いたところでカミュの言葉は途切れた。顔の前にバサッと草臥れたコートが突き出されたからだ。思わず抱きとめたその黒い布の塊の向こうで、ボサボサの金髪を濃緑灰のTシャツの首の穴から覗かせている物体があった。
「カミュ! 悪い! 突然! シャワー貸して!」
単語の羅列の間に、Tシャツとジーンズを脱ぎ終えた背中がバスルームの扉の中に消えた。
あまりの非常識的な現象の羅列に、言葉と思考を失っていたカミュだったが、いくら自分が合鍵を与えた相手とはいえこれはあまりにも失礼ではないか、と感情が思考に火を付けた。
響いてきたシャワーの水音を踏み潰すようにしてバスルームの扉を開く。
「ミロ、」
と、ここでカミュの声は途切れた。狭いバスルームにはむっと肌にまとわりつく湯気ではなく、すうっと足や襟首に滑り込む冷気が漂っていたからだ。
「お前……何をやっているんだ?」
ボイラーが壊れたのか、と思い尋ねてみると、激しい水しぶきの音の合間から、ミロのくぐもった声が返った。
「いや、壊れてない。大丈夫。ただ寝てないし、風呂入ってないから、頭覚まそうと思って」
ぐわしぐわしと泡の擦れる音は恐らく髪を両手で雑巾のように洗っている音だろう。カミュは溜息を飲み込んだ。
「夕食は?」
「ごめん。これから直ぐに出かけなきゃならないんだ」
どうも会話を楽しむつもりは無いミロの受け答えに、カミュは踵を返してキッチンに戻った。
折角ようやっと一つの仕事の波を乗り越えたという満足感と、久しぶりに異国で離れて暮らす恋人が会いに来た、といううっすらとした喜色はもはやすっかり消え失せていた。
予定通り、一人分の食事を作ろうと包丁やキッチンストーブに神経を集中させる。けれど、耳は様々な音を拾ってカミュの平静になろうとする気持ちを苛立たせる。
止まった水音、棚が開いた音。ドライヤーの音。それから、下着一枚でリビングに現れたミロの姿がカミュの目の端を過ぎる。カミュは、ミロが玄関で脱ぎ捨てた衣類はまとめてリビングのソファの上に積んでいた。その小さな山の下から、ミロはスーツバッグを引っ張り出して、ビッと破くようにしてジッパーを下ろした。
まだ半分湿ってくるくると輪を描く髪を、無造作に長く筋のしっかりとした指で梳いてきつく後ろで一つに纏める。中空を睨んだまま白いアンダーシャツを掴み頭からすっぽりと被り、その両脇を両手に掴んですっと伸ばした。次に真っ白な、きちんとアイロンのかけられたシャツを、これまたぞんざいに掴んでシュッと音をさせながら袖を通す。
見つめていた腕の筋肉や、滑らかに動いた肩口から背骨にかけての隆起がそれで見えなくなった。カミュは自分が何を見つめていたか気付いて心底嫌そうに眉を顰めた。そして、何気ない風を装ってサラダの入ったボールとワイングラスをとボトルを手にリビングに入り、険しい顔をしたままのミロに問うた。
「仕事か?」
「いや。妹。付き合っている……人間を紹介したいから一緒に食事をしてくれって」
ミロは途中その人物をどういう人称で指したものか一瞬躊躇した後、「mankind」と捻るように発音して、再び口を真一文字に結んだ。
仕事ならばこの無作法も多めにみてやってもいいか、と目論んでいたカミュは思いも寄らなかった方向からの否定の言葉に一瞬自分の機嫌を忘れた。
「妹って、二人いたよな?」
「下の妹。十一年上」
文法的に意味を成さないフラグメントを、カミュの脳は正確に解析してみせた。
ミロと十、年の離れた妹が、彼女らを溺愛する兄に恋人を紹介したい、そう言ってきたのだ。そして、その恋人はその妹と十一歳の年齢差がある。
カミュはそっと溜息を殺して言った。
「余計な口は挟みたくないが、頭を冷やせ、と、取り合えず言っておこうか?」
「冷やしたよ、さっき。頑張って」
「物理的にではなく、心理的に。それから、フォーマルなその格好に、ゴシック・メタルなその指輪群は甚だ不釣合いだと思うが? いくらお前でも」
冷ややかに放たれた言葉に、ミロの動きは一瞬止まった。そして、くっ、と歯を食いしばる音が漏れる。そして、もし、相手を殴る場合があったらその威力を増すようにとはめた指輪を次々と外した。ミロは、俯いたまま深く息を吸い込み、一人分の食事の前に着席している赤毛の恋人の前に立ち言った。
「ごめん、連絡もなしに……急に、妹からも連絡が来て……」
じっと、懺悔の色を瞳に刷いて見つめてくるミロに、カミュは一つ溜息をついて見せた。
「明日、朝、早い?」
「いや? 今日、取り合えず一つ仕事を終えたから」
「なるべく早く帰ってくる……待っててくれる?」
ミロは、ゆっくりと左手を伸ばして、少し伸びてきたカミュの前髪を指の腹でなぞり、白い額に口付けた。
稲光のように、雷鳴と雷光を伴って突然やって来たミロが玄関の扉から出て行って四時間が過ぎる頃、カミュは換気のための細く開けていた窓から湿った水の匂いがするりと部屋の中を泳いでいる事に気が付いた。
読みかけの本のページを確認し、窓辺に足を運び、外を眺める。霧のように薄く軽い雨が空気の中を漂っていた。石畳は既に黒く、てらてらと街灯の明かりをはじいている。
さて、一体何時あいつは帰ってくるものなのか。
ふっ、とカミュが覗き込んでいた階下の道路から視線を外そうとしたその時、アパートメントの壁に、立てかけられた梯子のように寄り掛かり突っ立っている影に気が付いた。
「何をやっているんだ? あのバカは」

 
「父さんや、母さんに言う前に、お兄ちゃんに味方になって欲しいの!」
電話で久方ぶりの妹の声を聞いたと思ったら、付き合っている男が居るから会ってくれ、両親は絶対に反対するに決まっているから助けてくれ、と泣きつかれた。
否、話の内容はともかく、口調と態度からは決然たる意志ばかりが漲り溢れ、とても自分に助けを請うような雰囲気ではなかったのだが……。
「もしかして、オレへの牽制攻撃だったりして」
ぼうっと呟くと、なんとなくそんな感じが強くなる。
ミロはスーツの胸ポケットに仕舞いこんだ煙草を取り出して、ライターを持っていないこと気付いた。
溜息を付く。
相手は自分より一つ年上、という事だったが、随分と落ち着いて見えた。多分、もう薄くなりかけてすっかり刈り上げてしまっている髪型のせいか、やけにクラシカルだった服装のためか。
文字通り、カチンコチンに緊張していた医者(個人の開業医)の緊張が伝染して、すっかり自分も当てられてしまった。
握手をして、当たり障りのない会話をして、その後は自分が妹に近況を尋問される始末。ミロが妹の恋人を検分しに来たのか、観察されに来たのか分からないという状況にあいなった。
近年観光スポットとして昔の面影を失いつつあるサザークで魚料理を流し込み、食後の軽い酒まで飲んだが、それでも相手が一体何者なのか判別出来なかった。故意に人となりを隠していたわけではないだろう。ただ、お互いに、どう相手に自分を見せれば良いか分からず、適当に愛想よくなる、といった社交儀礼の型に納まり切る事も出来ずに、ただ内心オロオロと時間を過ごしたに過ぎないのだろう。
果てしなく続くかに思えたそんな無為な時間の果てに、見送る妹の背中に腕がすっと伸び、その指にパッと妹の指が触れ、互いにほんの一瞬見詰め合って、再び二人で寄り添って歩き始めたその影は幸せそうで、ミロの複雑で痛みすら覚える困惑に深々と杭を穿った。
「おい、人に起きていて欲しいような事を言い置いておきながら、何をやっているんだ? こんな所で」
ミロの耳元で、凛とした静かな声が弾けた。
はっ、と目を見開いて声の方を見ると、直ぐ真じかによくよく見知った、けれど知らないような男の顔がある。
「カミュ……!」
と口にした後で、ミロはカミュに言われた言葉の内容を理解して一瞬言葉に詰まった。そして、詰まった息を笑いで誤魔化して詫びる。
「ごめん。ちょっと頭冷やしてた」
「冷やしていたのは体で、頭は全然冷えてないんじゃないのか?」
ポンッ、と返ってくる言葉にミロは苦笑して、そうかも、と答えた。
応えて、石畳に張り付いていた靴底をぎこちなく引っぺがす。
「煙草、吸おうとしたけど、ライター持ってなかった」
「良かったな。持っていたらお前は今晩居間で寝る目を見ていただろうな」
「じゃあ、今日のオレはついてるのかな」
「どう解釈しようと本人の自由だろうな」
オレンジ色の明かりを湛えた玄関ホールに滑り込み、軋む階段をゆるゆると二人は上った。
「そうなんだよなぁ……。
運なんて自主の感受性に左右されてこそ納得がいくんであって、第三者がどう思おうと、自身以外の解釈なんて異物に過ぎないんだ。そう簡単に消化できるもんじゃない。それに、第三者の方だって、時に絶対的な信条でもって善意の忠告をするんじゃなく、多分に自分の嗜好の影響下において物を言ってるに過ぎない」
やがて二人はカミュの部屋の扉の前に到着した。
「……むしろ、人っていうのは、いつも自分の好き嫌いで物事を捉えて理解してまたそれを表現して、理論や常識や善意ある忠告なんてみんなそういう自分勝手さを隠すために後付けしてる、そうなんだろうな——」
ミロは扉の前で、黒い革靴に落ちる薄暗い自分の影の先を、何かを慈しむような眼差しで見つめて呟いた。
カミュはミロの独り言には言を返さず、部屋に入りタオルとバスローブを洗面台の上に揃える。
「おい、着替えを置いておくからさっさと服を替えろ」
ハンガーに濡れたスーツを掛けて、さて何処に干そうと辺りを見回しているミロからそれを奪い、カミュは言った。
「うーん……カミュは? もう寝る? カミュって結構酒のストックあるんだよな?」
カミュはくるりと振り返ってミロを見た。
「何? お前、酒が飲みたいのか?」
ずっと幼い頃に、イタリアの祖父母の農場にてワイン樽の中で溺れてから、アルコール摂取に関して過剰な拒絶反応を見せてきた、この古馴染みから聞こえた言葉に、カミュは一拍、我が耳を疑った。
「だって、カミュ、仕事、一段落付いたんだろう? お祝いしよう」
凝と、それこそ穴を開けてしまいそうな集中でミロの顔を見つめてしまったカミュの意識に、一瞬空白が生まれた。その静止した時間に、ミロは、すっとカミュの側に近付いて、カミュの緩んだ唇の先に自分の唇を重ねた。
「お疲れ様」
一言添えて、ミロはバスルームへ姿を消した。
一人残されたカミュは、釈然としない気持ちと対局を仕掛けられたような軽い興奮を天秤に掛け、前者を捨てた。
言葉によるものでも、肉体を伴う意思の伝達でも、駆け引きを楽しむ機会があるのなら、それを楽しみつつ最終的には自らの満足いく流れの果ての結果を引き出してみたい。その相手がミロなら、滅多と来ない巡り合わせなのだ。掴まない手はない。カミュは、そう判断したのだ。
温かく柔らかな水滴の放物線の下に立ちながら、ミロは独り先程取った自分の行動を思い出し、含羞の笑みを漏らす。
カミュが、実は結構なロマンチストである事、雰囲気や流れといったものを楽しみたい性格の人である事を、ミロはずっと以前から知っている。分かっていても、中々カミュの望むようには面映くて出来ないでいた。カミュは、自分の一番無様なところ、どうしようもない欠点、我侭な自己本位を知っている。そのカミュの前で、どんなに格好を付けて見せたって、種も仕掛けもばれている下手な芝居を打っているようで居心地が悪い。
けれど、それさえも見栄の為のもっともらしい理由で、カミュの楽しそうな顔が見られるのなら、捨ててしまおう、と思ってしまった。
少しぐらい、背伸びしているのがバレたところで、きっとカミュは見えないフリをしていてくれるだろう。
温まった体に少し草臥れてきたバスローブを羽織ってリビングに入ると、そこには綺麗な明るく透き通ったワインが一本、グラスが2脚。カミュは、スティック状に切ったセロリの横に小ぶりの白い切り株型チーズを盛っている最中だった。
「ありがとう。温まった」
「髪、まだ生乾きじゃないか?」
「大丈夫。飲んでるうちに乾くよ」
「へえ! そのぐらいには粘るつもりか?」
楽しそうに、けれど少し意地の悪い光を目の端に乗せてカミュは軽く声を上げた。ミロは、一瞬唇をとがらしかけて、すくにその唇をすっと横に引いた。
「蒼いワインがあればフェアなんだと思うんだよね」
「なんだそれは…」
「カミュはいっつも目の色や、髪の色でも人を酔わせにかかるから、オレが不利なのは仕方が無いって事」
「では、金色の酒を用意しようか?」
「まさか! オレが先に沈んでも、カミュはやさしいから一緒に潜りに来てくれると信じている」
「お前と同レベルを保つ、というのはかなり難しい注文だな」
考え込むような素振りを見せたカミュの腰に、ミロは柔らかく腕を巻きつけ抱き寄せた。
「やさしくしといて損は無いよ?」
囁きながら、ミロはカミュの首筋にキスを一つ落としして、にっと笑ってカミュの顔を正面から見返した。
「手加減して欲しい、の間違いじゃないのか?」
カミュは、ペロリ、とミロの唇の先を舐めてゆったりと微笑んだ。
「そういう場合でも、その時はその時で、今度はお前がオレに酔うんだからあまり不用意に度数を上げさせない方がいいんじゃない?」
すうっと細められた青い瞳がカミュの瞳の中に広がり、カミュは諸手を上げてミロの首にそれを絡めた。歯列を圧し開いて深く互いの舌を味わった後、結局開封されること無くテーブルの上に置き去りにされた葡萄酒の存在は、果たしてどちらの勝敗を示しているのだろうか。