告白

今年に入って、カミュへの負債が雪達磨式に一気に積み上がった。


事の根は深い。
時間の堆積的に言って深い。
そして、自分で招いた事だからなお深い。
2月、カミュの誕生日を土壇場になって白紙に戻してもらった。
欲張って少し時間的に厳しそうだと考えてた設計の仕事を一つ引き受けた結果、見事に自分の首を絞めたのだ。
音大の課題を一つ落としそうになり、余裕をもって引き受けていた筈の仕事まで危うくした。
どうにも時間のやりくりが出来なくて、結局全部のしわ寄せがカミュの所に行った。一番無関係だった筈なのに。
忙しいのなら、食事くらい作りに行く、と言われたのを断ったのは、未だ学生なんぞしているのがバレて、その中途半端な状態を呆れ果てられるのが怖かったから。
学生やっている、という現状だけじゃない。
音楽を続けるのか。
生活の糧として続けるのか。
唯の自己満足で学位を取るのか。
復学した時には兎に角音楽をまたやりたかっただけの選択が、ぎりぎりと自分に迫る。
音大に戻った時、自分の将来の中にカミュの存在は無かった。
何がどう転んだって自分一人の人生だ。失敗したって、泣き言に終わったって、全部自分ひとりで済む事だと思ってた。
だから大学に戻れた。
でも、今は違う。
カミュと、二人分の人生かかってる。
俺がカミュを食わせていかなきゃいけないとか、そんなおこがましい事を考えているわけじゃない。
でも、何かの時にはカミュが働けなくったって大丈夫にしておきたいし、それよりも何よりも自分がカミュの荷物になるような事はしでかさないようにしておきたい。
こっちがこう考えてるんなら、カミュだってなんかの時にはこっちを支えてやるくらい当然の事として考えているだろうけれど、一つ、困った点がある。
カミュは、パブリックの頃から俺が音楽をやることに酷く肩入れしてくれている。
最悪、俺が泣いて音楽だけで食っていきたいと言ったら、金銭的な援助までしてくれるぐらい、絶対にやる。
自分自身は生活と音楽ときっぱりバランス取って生きているのに、もし俺がそのバランスを崩そうとしても、毛頭説教してみようとか、頭冷やして考えてみろとか、普通の人間だったらまず間違いなく「待った」をかけるような事を、決してしない確信がある。
自営業にしたのも、大学に行きやすいからだったけれど、将来の展望の無いもの=音楽に、金と時間を掛けているのを、カミュがコツコツ将来を考えて貯蓄してたりするのを横目にしていると、間違いなくカミュからは「馬鹿にするな」と言われるに違いない負い目を感じて、払拭するのに時間がかかる。
経済的に張り合おうと思えば、無理して仕事を詰めて、結局カミュと過ごす時間を減らすしかない。
で、その結果のとばっちりを食うのは、また全部カミュになる。
綱渡りが危なくなってきた頃、どうせここまで話さなかったもの残り数ヶ月、最後まで話さないでおくべきだと腹を決めた矢先に、思っても見なかった形で事実が露呈した。
その時のカミュの気持ちを考えると、今も痛くて、とても電話で済ませられる事ではなくて、首席のオマケに付いてきた学院のオケとのコンチェルトを聞きに来てくれるよう頼んだ。
詳しい話はその時に、と。
市内の、歴史はあるけど小さなホテルが、知り合いの設計でとても上手い具合に改装されて、無機質なモダン=合理的な美しさ=経済的の図式がまかり通る昨今にしては珍しく優美さや遊び心が点在する、隠れ家みたいな気持ちのいい佇まいになって、いかにもカミュが好きそうだったから、そこに予約を入れた。
最近は肉を食べないっていうカミュに合わせて食事も作ってもらってたのに、演奏会終了後、先にカミュにシャワーを使ってもらっている間に撃沈していた。
正気に戻ったのは翌日の夕方で、もちろん、その時にはカミュの姿は無く、おまけにホテルの支払いまで済まされている始末。
電話で謝り倒したけれど、その時、カミュは笑って受け流しその一件は片付けられてしまった。
カミュは、とてつもなく俺に甘い。
傍目にもはっきり分かるくらいに。
破格の特別扱いだ。
そんな別物扱い、徹底的に無関心か危険なところまで相手を受け止めようとしているか、二つに一つで、カミュは後者だ。
物凄く深いところで受け止めようとしてくれる。
そこにまで受け込んでしまえば、全てが晒される。そのぎりぎりの所まで引き込もうとする。その覚悟が深い。
ロマンチストだし、見栄っ張りだけれど、根っこの部分はいつでも曝け出すと思い定めている。
ずっと、隠し事をして来た俺は、小手先でその覚悟と互角に渡り合おうとして当然の連敗続き。
もう少し、もう少しはっきり未来の事が言えるまで、と先延ばしにすればするほど、より明確に提示出来るものでなければそれまでの不義理に見合わないのではないかと、自分でまた自分の首を絞める。そしてまたカミュに撥ね返る。
堂々巡りだ。
そして、12月に2回の本番、11月の自分の誕生日付近に仕事、と気付いた時、流石に目が覚めた。
これは、何をどうしてもそもそも自分一人で事が済む話じゃないと。
11月、無理をしても時間を空けてこちらに何かしてやろうとカミュは思うだろうし、12月、クリスマスというお膳立てに則って何か、と考えるのがカミュだ。
そういう大っぴらな機会があれば、それを理由に少し積極的な事が出来る。
逆に、そんな口実が無ければ、なかなか手出しを出来なくしてしまったのが俺なんだ。
カミュは、わりと世話好きだ。
自分を必要とされるのが好きだ。
そんなの誰だって同じだと、誰だって自分を必要とされたい願っていると人は思うかもしれないけれど、カミュはもう一つ別の根っこがある。
三人兄弟の真ん中で、親の手の掛からない、上とも下とも上手くやっていける「いい子」で育ったカミュの外面の良さは筋金入りだ。
寂しくったって、特別な注目が欲しくったって、絶対に自分の口からはそうとは言わない。
さり気無く、匂わせるだけだ。
そして、その匂いに敏感な人に、強い執着を持つ。
以前はそこら辺がもっと透明に見えていたはずなのに、何ヶ月も会わないうちに、簡単に自分の希望通りに見えなくなっていた。
まだ大丈夫なんじゃないか、あともう少し誤魔化せるんじゃないか。
そんな自分勝手な願いが、どんどんとカミュを追い詰める。
自分が、カミュだけの事に集中出来ていない事が分かっているから、余計に焦る。
これは、駄目だ。顔を見て、空気を感じて、直接時間を共有出来なければ、何より自分の言葉が捜せない。
最低限の荷物とパソコン掴んで飛行機に飛び乗り、カミュを唖然とさせる。
最近、こんな事ばかりしてたよな、俺。
ごめんな。
久しぶりに足を踏み入れたカミュのアパートは、気温のせいだけではなく、どこかがらんと冷たかった。
ロンドン市内にはハロウィンの橙色の飾り付けが店の窓を賑わせ始めていて、小雨が降る中一人で歩いているとその明るさがなんとなく余計な寂しさを刺激する。
楽しそうな風景なんて、一人で見たってつまらないよな。
考えてみれば、今も一人身でいるパブリックの仲間なんて、そうは居ない。
みんなパートナーを見つけて、それぞれに落ち着いている。
結構カミュの家でパーティーをやる事が多いのも、独身だからって理由が大部分を占めている。
頑張って仕事しても、街に灯りが賑わっても、会いたい人に会えないで過ごす休日を何度も何度も繰り返すって、シンドイよな。
ごめん。
二日目の晩、急いでローマから帰ってきてみれば、ネクタイをしたままのカミュが夕食を揃えて待っていてくれた。
話があるのだけれど、と切り出せば、まずは夕食を済ませてからにしようと、「どうせまともなものを作っても食べてもいないだろう」と静かにからかわれた。
夕食の後、「少しは付き合えよ」と釘をさされて、もの凄く薄いブランデーに氷まで入れられた一杯を目の前に置かれる。
カミュの方は、ストレートを満たしたコップの脇に瓶も隣に置いている。
「話って何?」一口飲んでから、カミュがひたと視線を合わせて問いかける。
俺は、ゆっくりと話した。
音楽院の事、ずっと黙っていた事、相談しなかった事、これからどうしたいのか、これからどうなるのか、一年先の事だってはっきり言えるか分からないけれど、分かる範囲で、望む事を、全部話した。
俺は、結局、まだ足掻く。
音楽を、何処まで続けられるのか、まだ諦めない。
最初の学院時代の仲間とのカルテットに参加して、道を一緒に探すだろう。
既に数年ものキャリアの開きがある仲間との間を埋める為に、来年は賞取り競争に参加する。
設計の仕事は、これからの自分の活動を支える上で止める事は出来ない。
二束の草鞋は来年も続き、忙しさは、きっと今以上になる。
それでも、やり切れる所までやりたい。
だから、またずっと寂しい思いをさせてしまうだろうけれど、もう少し、待っていて貰えないだろうか。
カミュは一つ小さな溜息をついて、淡く笑んだ。
「……どうしても寂しかったら、こちらから会いに行けばいいだけのことだから。もう覚悟を決めたのなら、気が済むまでやればいい。──ただ」
切った言葉の続きを待つと、それは「───ごめん。何でもない」という言葉で閉じられてしまった。
そんな風にして、何度自分の胸に言葉を飲み込んで来たんだろう。
そうさせているのが自分だという自覚は十分にあるし、それを直ぐに変えられるほど信用を積んでいないのも重々承知だ。
それでも……聞きたいなぁ。その言葉の続き。
それとも、それを探し当てるのが俺の仕事かな。
だとしたら、正解率、上げたいね。
今が百パーセントが無理でも、五十年後には言葉に成る前の言葉だって当てて見せたいよ。
でも、それって老人性痴呆症への近道なんだよな。
もう今みたいな綺麗な赤色じゃない髪のカミュが、口を開くかその前に「ほいよ」と新聞取ったりしてね。
「ロスの所みたいに一週間休み、とか纏まった休暇は取れないけれど、でも、もう隠す必要ないわけだし、カミュの都合がつけば、うちはもう何時でも来てくれて大丈夫だよ。結構な惨状の時もあるけど、ピアノも待ってるし。俺も、時々は通いで顔を見に来るよ」
今まで必死でカミュの目から音楽院の痕跡を消してきた過去の自分の姿に苦笑を覚えながら言うと、「馬鹿だな。さっさと白状していれば、そんな無駄な事に神経使う必要もなかったのに」小さな笑い声と一緒に言葉が零れる。
本当に、その通りなんだけどね。
隠さなきゃ駄目だと思い込んでいたのだから、始末に負えない。
全開の笑顔なんかには程遠いカミュのほっぺたに手を伸ばす。
体を前に傾けて顔を寄せると、カミュの頭も近づいてきて、ゆっくり静かにキスをする。
カミュの頭を両手で抱き締める。
「11月、ロスに車借りてロンドンの郊外に日帰り旅行しない? お弁当持って、魔法瓶に暖かいもの詰めてさ」
「日帰り旅行って、何処に?」
「いや、カミュって博物館とか美術館とかホールとか箱の中には一人でも行くだろうけど、外の空気吸いには一人で行かなさそうだから、たまには自然の中でも歩かせなくちゃと思ったんだけど?」
くっつけていたおでこを離してカミュの目を覗き込むと、カミュの目がまん丸になっていた。
「自然の中、って……11月に??」
「紅葉が綺麗だと思うけど……どこか行きたいところとかある? やりたいこととか……カミュの誕生日のお祝いしてないから、カミュの希望が優先だよ?」
「そうだな……考えておくよ」
カミュは、ぽん、と軽く俺の肩を叩いて屈めていた背を戻して「さあ、もう寝よう。明日も早いんだろう?」と気持ちを切り替えるように少し強く声を出して言った。
「それから、明日はこちらも夜勤で帰りは夜中になるから……もう、ここへ帰って来るのはなしだ」
そのきっぱりとした口調と態度とは裏腹に、立ち上がったカミュはグラスを片付ける動作を理由に俺と視線を合わせるのを避けた。
「金曜の晩は?」
カミュに尋ねながら、コーヒーテーブルの上に残されたコースターに手を伸ばし、それを重ねて立ち上がると、
「……チケット代ばかにならないだろう。その分貯金するか早くローン返せ」
頑なな態度でもっともらしい正論を返される。
「カミュの誕生日と夏のバカンスと卒業祝い。三つ合わせれば大目に見てもいいでしょ?」
「そんな、たった一日二日の週末のために大盤振る舞いするな。……焦らなくても、すぐに11月になるよ」
「お金の問題じゃないでしょ?」
カミュが、そうやってもっともらしい理由で人の提案を蹴る時は要注意だ。
それは、本当に気が進まない時か、本当はそうしたいけれど何かがある時、どちらかだからだ。
カミュは、苛立つような、少し怒りのようなチリチリした気配をふわっと何度か身の回りに瞬かせると、
「……お前の気持ちは分かった。──頼むから」
やっぱり言葉を閉じ込めて、すっと台所に向かった。
ちらりと見えた横顔の眼に、不自然に光を反射するものがあって、俺は黙ってカミュの背の後を辿った。
シンクの底にコップを差し置いたままじっとしているカミュの背中を、そっと抱き締める。
カミュの後頭部にそっと額を突いて、「ごめんね」と囁けば、何かを堪える独特の緊張感を孕んだ沈黙がカミュの体から迸る。
その堪えるものを、全部吐き出させてしまいたくて、抱き締める腕に力を込めて、本当に会わない方がいいのか、その方がカミュにとっては楽な事なのか尋ねる。
長い、長い沈黙の後、ようようカミュが強張る顎を解いて掠れた声で言った。
「……ごめん。11月に、もっと楽しく会おう」
カミュが、俺に謝る事なんて、一つも無いでしょ?
カミュの首から力が完全に抜けるまで、ずっと抱き締めて、それから寝室の扉の前まで手を繋いで歩いて、おやすみのキスをした。
唇と、両頬、額、そして、もう一度唇に。
少し項垂れているカミュの頭を抱き抱えるようにして、その天頂に唇を押し付ける。
ごめんね。
カミュが起きた時、俺がもう居なくて。
次に会えるのが一ヵ月後でごめん。
なんだかなぁ……サガとロスのところから、うさぎ、一匹もらって来ようか……。

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