■ある週末

 土曜、午前九時。
 普段より一時間遅くにセットされたステレオのタイマーが入り、BBC Radioの三チャンネルが静かに流れ始める。英国放送協会、通称BBC(The British Broadcasting Corporation)は、クラシック音楽を中心に、ジャズや実験音楽なども紹介する音楽専用チャンネルだ。
 目覚ましのベルに起こされるのは嫌だと、ボーディング・スクール時代の同室に駄々を捏ねられて始めた習慣だったが、今ではすっかり気に入ってこの家に所謂目覚まし時計はひとつもない。その駄々を捏ねた張本人はと言えば、今ではすっかり携帯電話のスヌーズ機能なしには生活出来ない有様なのだが。
 カミュ・バーロウは、穏やかに流れてきたショパンのワルツの音に誘われて目を開けた。
 十月十八日。カーテンの向こうは明るく、天気は悪くなさそうだ。
 ブランケットを剥いでベッドから起きると、ひんやりと冷たい空気が肌を刺す。ふと吐いた息が一瞬白く濁り、秋も深まってきたなと感じる。窓際へ寄り、セントラル・ヒーティングになっている暖房の栓を捻って開け、ガウンを羽織ってリビングへ出ると、明るい光が虹彩を刺激した。
 昨日コーヒーテーブルの上に置きっぱなしにしていたMacBookを開け、メールをチェックする。
 ”Miro”と書かれたフォルダをクリックして、既に昨日開封済みのメールを開けた。


「それじゃ、明日、4時半にヴィクトリア駅で。お土産はこっちからも持って行くから、カミュはいつも通りワインと何か一品でいいと思うよ!」
 chao, と締めくくられた短いメールを読み返して、カミュはほのかに笑んだ。ここ暫く、こんなに人をわくわくさせてくれるメールに出会った事がない。浮かれている自分を自覚して、少々恥ずかしくもあるが、嬉しいものは嬉しいのだから仕方がない。
 ミロが、またロンドンにやって来る。それだけで、朝からカミュは幸せだった。
 先週末、目を赤く腫らしながらミロのヴァイオリンを聴き倒して、漸くミロに一通の手紙を書いた。イタリアで仕事に追われている恋人に気を遣わせないよう、文面には気を付けたつもりだが、早々にまた今週やって来るというのは、何かに感づいたからか。
 あるいは、本気で、シチリアの一ユーロの家を買うつもりなのかも知れないが……。
 先週、インターネットを賑わせた「一ユーロの家」には、実は購入条件がついている。二年以内に、地元の建築士、大工を雇って、地震で荒れ果てた石造りの伝統家屋の再建をしなければならないのだ。
 再建には百万ポンド程度かかるというが、それで土地付きの家が建つなら好条件であることに変わりはない。売りに出された家屋は一千戸あるというから、全部売れれば地元の活性化にかなり貢献することだろう。
 おそらく、シチリアで知り合いになった建築士に、ロンドンで顧客を探してくれ、と頼まれたのだろう。
 ピアノとヴァイオリン、二つの大きな買物のせいでミロ本人にはとても余裕があるとは思えないが、サガがわざわざミロをイタリアから呼び寄せた、というのなら、共同で別荘を立てる話はまるきり現実味のない話でもないのかもしれない、とカミュは思った。 
 ミロの人の好さは十分分かっているし、その出自から文化遺産を守る事になんの躊躇いも感じないサガ・チェトウィンド──本人はもうシュローズベリと名乗っているが──がその話に乗る事も、十分予測の範囲内だ。
 今回の帰国は、仕事の用件。そう承知していても、カミュの口元から淡い笑みは消えない。
 仕事にかこつけて、会いに来る口実を探してくれたのかも知れない、なんとなく、そんな気がしたからだ。
 カミュは、二年年上の先輩サガとアイオロスの家に呼ばれた時には、いつも手製のデザートを用意することにしている。今の時期は、スーパーにもマーケットにも、色とりどり、形も様々なスクワッシュが並ぶ。
 今回はこの時期ベーカリーの店頭を賑わせるパンプキン・パイにしよう、と定めて、Whole Foodsでパンプキンと生クリームを買い、パディントンの自宅へ戻る途中、カミュはふと思いついて、薬局の前で足を止めた。
 そういえば……。
 ミロと最後まで事に及んだのは、去年の十二月が最後。その時開封したローションは、とっくに雑菌が繁殖して危険なことになっているだろう。
 とあるサイトで開封後長期間おいたローションを使ったカップルが大変な目に遭った、という記事を読んでいたカミュは、数秒考え込んで、そのまま薬局に足を踏み入れた。
 どれほど気を付けて準備をしても、アナルセックスには常に一定の危険がつきまとう。見た目綺麗に洗浄されているように見えても、直腸内の滅菌は不可能だから、アナルに触れれば周囲はそれなりに菌に汚染される。ボトルに入ったローションも例外ではなく、短期間に使い切れば問題はないが長く放置すれば危険になる。
 以前は、そういう事を考える度に羞恥心で気が滅入ったりしたものだが、一度別れて復縁してからは一々そこで悩むのは止めた。念入りに準備して気をつければ最悪の事態は避けられるし、そうして得られる関係は、その他のどんな交わりも代替にはならない。ならば、そこで恥じることはむしろ相手に失礼だ、と結論したのだ。
 年をとった、ということなのかな。
 カミュは胸の内でそう呟き、まっすぐに生理用品の棚に向かった。
 いくつかのメーカーの商品が並ぶ棚で、昔よく使っていたローションに手を伸ばし、また別の心配が頭をもたげる。
 ……随分と久しぶりだから、もしかすると、出来ないかも……。
 本当は、アナルセックス用には、少々粘度の高い乾きにくいローションを使う方が良いが、カミュは暫く考えて、むしろ挿入時の抵抗が少ない粘度の緩めのものを手にとった。同じものを二本。ひとつは、これから家に戻り、部屋を掃除して、家を出る前に使うためだ。
 人によって様々だが、カミュは事に及ぶ前に直腸洗浄をしないと安心できない質だ。ミロは気にしないと再三言っているが、この問題はむしろ受身になる側がどう思うかの方がよほど大切で、不安で緊張していると余計な力が入って痛い上に怪我をする危険がある。女性でもシャワーを浴びた後でなければ嫌という人はいるが、後ろを使おうと思うと手のかかり方が全く違う。その気になってから延々と一時間以上も待たせるわけにもいかないので、カミュはその可能性が少しでもあると思ったら、ミロに会う前に準備を済ませることにしている。
 実は、この習慣が、ミロとの間にたまに齟齬を産む原因になっていることをカミュは自覚していた。腸洗浄、といっても、やっている事は前戯にかなり近い。カミュの場合、そう頻繁にミロに会えるわけでもないので、少し慣らしておく事も兼ねているからだ。
 体はすっかりその気なのに、様々な理由で結局しなかった、となると、頭では事情を理解してもフラストレーションが溜まる。準備はしたけれど、使うかどうかは分からない、そうしっかり自覚していても、何度も続けばそれなりに辛い。
 一方、ミロの方は、他の懸念があってその気になれなかったとか、眠くてどうしても目が開かなかったとか、疲れていたとか、そういう理由で事に及べないだけだから、カミュの抱えているようなフラストレーションはない。だから、準備などしなくても良いのに、と言われればそれまでなので、カミュもその事を言葉で指摘したことはないが、あまりに何度も期待を裏切られると少しはこちらの事情も気遣え、と詰りたくなる。
 カミュが所謂「記念日」に拘るのは、そのときだけはミロの方も百パーセントその気で期待を裏切られる事がないからだが、はたして、そのことにミロが気付いているかどうかは分からない。
 さて、今日はどうなるか。
 先日結局手を出させなかったから、多分今日はそのつもりで来るだろう、と踏んではいるが、なにしろミロの事だから、何があるか直前まで分からない。いずれ、次に会うのはミロの誕生日だと思っていたのだから、今日は別に出来なくてもいい。
 そう思い定めて、カミュはキャッシャーで清算を済ませて薬局を出た。
「Hi! カミュ! ごめん、待たせた!」
 英国鉄道、地下鉄、ハイウェイバス等の中継点が混在するヴィクトリア駅の構内は広く、実はあまり待ち合わせに向いているとは言いがたい。それでもこの駅で待ち合わせるのは、ミロがよく使用するライアンエアの到着空港、スタンテッド空港からのバスがここに到着するのと、二人でよく訪ねる二人の先輩の家がカミュの家からみてその向こう──ロンドン・タワーに近いサザーク地区にあるからだ。
 午後四時半を十五分ほど回った頃、カミュが待ち合わせにいつも使用している巨大スクリーンの前で時計を見上げていると、いきなり後ろから肩を叩かれた。
「いや、大丈夫だよ。もうお土産も買ったし、今から先輩の家に行けば丁度五時五分過ぎくらいになるだろう。道が混んでた?」
 振り返ると、長い髪を三つ編みにまとめ、ストライプのコットンシャツにチョコレート・ブラウンのセーター、薄いベージュのパンツといった出で立ちのミロが立っていて、ジーンズに着古したセーターという姿しか近年見た事がなかったカミュは一瞬目を見張った。
 考えてみれば、こんな時刻に待ち合わせということは恐らく午前中仕事が入っていたのだろう。
「うん……ボンド・ストリートあたりで事故があったみたいで。少し余裕をみておいて良かった。それ、なに?」
 ミロが両膝に手をついてカミュの下げていた袋を覗き込み、それからふと顔を上げた。
「……なんか、カミュ、いい匂いがする。コロン変えた?」
 身を少し屈めたまま見上げたミロの目が少し細められたのを見て、カミュは慌てた。準備に少々手間取り、家を出る直前までシャワールームに居たので、まだ髪が完全に乾いていないのだ。
「コロンなんて使っていないよ。お前、フレグランスは嫌がるじゃないか……。これはパンプキンパイ。あと、其処の酒屋でコート・デュ・ローヌ2006年の白を買って来た。この間飲んだら悪くなかったから」
 無理矢理話題を袋の中身に移すと、ミロは「あ、ちゃんとパイ生地のやつだ、器用だな」と呟いて、それからすん、と小さな音を立ててカミュの首筋に鼻を近づけてきた。
「うーん、なんか、ハーブみたいな匂いがするんだけど……」
「石鹸の匂いだろう。まだ、アメリカで買って来たアーミッシュの村の石鹸使ってるから」
「あ、じゃ、シャワー浴びたんだ?」
 途端に嬉しそうに弾けた笑いと共に、ミロの吐息が首筋にかかる。周囲の痛い視線に気付いてカミュが顔を上げた時は時既に遅しで、長身のスチールモデルとそれに懐かれて困っている男の図はすっかり周囲の怪訝な視線を集めている。
「ミロ、くっつき過ぎだ。ほら、もう行くぞ」
 肩を叩く振りで今にも寄りかからんばかりのミロの体を引きはがし、サークル・ラインへのプラットホームへと歩き出すと、途端にミロの不満が背後から聞こえてきた。
「くっつき過ぎって! 何にも触ってないじゃないか!」
「触れてなくたってあの場所で半径一メートル以上はくっつき過ぎだよ」
「そんなことはない! ローマじゃ男二人でも肩組んで歩いてるぞ!」
「ラテンとアングロサクソンを一緒にするな」
「カミュだってフランス人のくせに!」
「イギリス国籍だ!」
 もう何百回繰り返したか分からない不毛な議論に、ふと笑いがこみ上げる。最初の頃は、真剣にそうして怒ったものだったが、今では、二人共じゃれあいの範囲と了解している。
 プラットホームに下りるエレベータでカミュは後ろに続くミロを振り返った。今この瞬間、隣の上りエスカレータを上がって来る客はいない。悪戯心が頭をもたげた。
「やるなら時を選べ。──こんな風に」
 くいっとミロの頭を手前に引っ張ってもたげさせ、軽く唇に唇で触れる。
 冷たいの横暴だのと思いつく言葉を好き勝手に並べていたミロの言葉が止まり、大きな青い目が更に三割ほど見開かれてカミュを凝視した。
「……大丈夫? どうかしたのか?」
「別に? 誰も見てなければいいんだよ。……今は、これで我慢しとけ」
 ひたひたと頬を叩いて、そのまま耳の後ろをするりと撫でる。ミロの頬が一気に赤く染まった。
「なんだよ! そっちの方がよっぽど手癖悪いじゃないか!」
 結局、サークルラインの中でも激しい攻防を繰り返し(混雑からカミュを庇ってミロが車両のドア脇にカミュを囲い込むような形になったので)、サザークにあるアイオロスとサガのアパートに足を踏み入れる頃には、二人共軽い疲れを覚えていた。
 五時五分。マナーブックにある通り、約束の時間に五分遅れて呼び鈴を鳴らすと、中から6フィート5インチの長身がぬっと顔を出した。
「おう、来たか。エセル、酒がきたぞ!」
「ロス、そうじゃなくて! ああ、二人共よく来たね。ミロは元気にしていたかい?」
 キッチンから慌てて飛び出して来たサガに、カミュは丁寧に招待の礼を述べて持って来た手提げ袋を渡した。
「いえ、このくらいしかお役に立っていませんから。これ……2006年のローヌワインです。もうちょっと熟成させてもいい感じですけど、この間試飲したら悪くなかったので」
「いつもありがとう……カミュの見立ては外れないから、嬉しいよ。そっちは、パンプキンパイ?」
「今の季節にはやはりこれかと思いまして。ただ、ミロが塩味の効いたペーストのパイがあまり好きでないので、これは甘く煮てフィリングにしていますが」
「あと、俺からはコレ。イタリアのドライトマトと、プロシュット」
 えっ、ドライトマト……! と一瞬カミュは凍り付いた。以前、ミロから貰った二袋のドライトマトのうち、一袋は実はこっそりサガに手渡していたのだ。確かに味は良いのだが、塩味がきつく、そう沢山一度に消費できるものではない。そういうわけで、実は家にはまだ少し残っている。事情は、恐らくサガも同じだろう。
 どう反応するか、と息を飲んでいると、サガは流石に、そんな事情はおくびにも出さず、綺麗に笑って礼を述べた。
「有り難う。早速サラダに少し混ぜようか」
「ピザやパスタに使っても美味しいよ」
「おー、肉だ!」
 アイオロスが割って入り、やはりクリアパックに真空詰めにされたプロシュットの包みをつまんでぷらんとぶら下げる。
「……なんだか、紙みたいにうすっぺらいな……」
「……ロス……これは、そういう食べものだよ? 高いんだよ?」
 サガが溜息をついてそう宥めると、アイオロスはふん、と鼻を鳴らした。
「生ハムくらい知ってるぞ。俺が言いたいのは、なんで高い金払って薄い肉を食わねばならんのか、ということだ」
「それは、手間がかかっているのと、味が良いからだろう……」
「あと一インチほど厚かったら、きっと美味いと思うがな」
「そんなの、塩辛くて食べられないよ。……君には、プロシュットの価値は一生分からないかもしれないな……」
 サガは再度溜息をつき、君の所は良いね、ミロがバランスよく何でも食べてくれて、とカミュにそっと漏らした。カミュはそのかわり不味いものは絶対食べないですよ、と返答しかけて、その言葉を飲み込んだ。
 何を作っても「肉!」としか言わないパートナーよりは、美味しいか不味いかの区別はしてくれる相手の方が、まだいくらか張り合いがあるだろう、とサガの境遇に同情したのだ。
 特大のサーモンをメインにしたディナーを囲みながら、ミロがシチリアの別荘計画を語り、すっかり乗り気になったアイオロスが食後に人集めの電話をかけまくっている頃。
 サガがカミュのもとへきて、にっこりと笑った。
「それで? そろそろ、どの子にするか見る?」
「えっ……?どの子、って……」
 思わず芸の無い返答をしたカミュに、ミロが慌てて口を挟んだ。
「あっ……その話!」
「なんだ、まだ何も話していないのかい? ミロ」
 急に口をぱくぱくさせて焦り出したミロの様子に、カミュは隣に腰掛けたミロを凝視した。
「何かあるのか? ミロ」
「うん……その、実は、今日ここに来た本当の目的なんだけど……」
 イタリア別荘計画以外に何か目的があったのか。
 やや驚いてミロの言葉を待つうち、カミュは今迄わざと考えないようにしていた違和感に気付いた。
 イタリアの別荘計画は、別に電話で話せば済むことだ。第一、サガとアイオロスにしたって、決して家計に余裕があるわけではなく、食事中に結論したように、クィーンズベリ時代の友人達数人の共同出資で漸く手が届くかどうか、というレベルだ。
 そんなあやふやな話をするために、忙しい仕事を繰り上げてわざわざロンドンまで来る必要があったとは、到底思えない。
 とすれば、本当の理由は──
「カミュ」
 ミロが大きく深呼吸をしてカミュの方へ向き直り、じっとカミュの両目を見つめた。
「唐突だけど、うさぎ、飼ってみる気ない?」
「……えっ……?」
 何故ウサギ、という言葉も咄嗟に吐けず、カミュは呆然とミロを見返した。
「勿論、別にウサギでなくちゃ駄目、ということじゃなくて、ウサギにしたのは、サガとロスが飼ってていろいろ相談できるから、というのと、サガが引き取り手を探してるから、という両方の事情からなんだけど……」
 ミロはそこで言葉を切り、言葉を探すように少し視線を泳がせた。
「……カミュも忙しいし、家空けることが多いから、動物は無理だろう、って思ってたんだ。でも、これからも俺は頻繁にはロンドンに来られないし、その間ずっと一人であの部屋にいるのは寂しいかと思って……。そうしたら、サガが、カミュの出張の時はウサギを預かるって言ってくれたんだ。それなら、もしかしたら、カミュも生き物と一緒に暮らしたいと思うかもしれないと思った」
 電話の子機を右手に持ったアイオロスが、へえ、といった表情でミロを振り返る。
「勿論、今すぐでなくてもいいし、じっくり考えたらいいと思うんだけど……きっと、楽しいと思うよ? あったかいのがすり寄ってくる感覚って。ホントは、俺が欲しいくらいだけど、俺の方は多分かまってやる時間がないからな……」
 ぽつぽつと語るミロの落ち着いた姿を見て、カミュはミロの気遣いを悟った。
 やはり、先週の自分の失態は、よほどミロに衝撃を与えたのだろう。ミロは、現状で出来る事、可能性を冷静に考えて、小さな生き物をプレゼントする事が解決になると結論した。そして、ひそかにサガとコンタクトをとり、準備を勧めてくれていたのだ。
 まだ、飼うと決めたわけでもなく、折角のお膳立てが無駄になってしまうかもしれないのに。
 カミュは、ミロが自分のことをそのように真剣に考え、解決法を示唆してくれた事が嬉しかった。生き物を家に迎え入れるのに不安が全くないわけではないが、幸い、近くにサガとアイオロスが居る。犬猫では大家に嫌われるかもしれないが、ウサギなら隣人に迷惑をかける事はない。
 飼ってみようか。
 カミュは大きく息を吸い込んだ。
「……うん。一匹、貰うことにするよ」
 ミロの両目がぱっと輝き、ぐいっとカミュの目を覗き込み、その瞳を強く確認する。
「えっ……ホント? 本当に、もう決めたのか?」
 カミュは、ふわりと笑んだ。
「うん……私も、その方がいいと思う。ウサギなら、昔飼った事があるから、大体のことはわかるしね。……それに、お前が結んでくれた縁だから」
 思いがけない柔らかな笑顔と素直な言葉に、ミロは思わずカミュの首に腕を回して力一杯抱き締めた。額を会わせて、「よかった」と呟き、小さなキスをカミュの唇に繰り返す。
 カミュは、笑って、その小さなキスに応えた。
 ……おや。随分と……。
 隣でアイオロスがすっかり電話リストを放棄してその光景に見入っていることを気にする素振りもないのは、ミロならば特に珍しいことでもないが、それにカミュが抵抗しないのは相当に珍しい。
 そうサガは思い、いつも一人でこの家を訪れていたこの物静かな後輩の心中を慮った。
 彼等が最後に二人でこの家を訪れたのは、実に一年以上前のことになる。その後、ミロはイタリアでの仕事が忙しくなり、サガが夕食に誘うのは専らカミュのみ、という状態になった。
 たまの休みに楽しく過ごしてもらおう、というのが目的であっても、アイオロスは人前で遠慮などしないし、相手がカミュとなると、何故か余計に露悪的に自分達の関係を見せつけようとする。
 そのくらいのことで揺らぐカミュではなかったが、それでも寂しくはあったのだろう。こんなにミロに素直に甘えるカミュを、サガは見た事がなかった。
 それにしても、いつまで二人の邪魔をしているのやら。
 サガは、しつこく後輩二人の様子を伺ってリビングから離れないアイオロスに合図を送った。
「ハイ。君は、こっちで皿洗いを手伝ってくれ」
 すると、アイオロスは心外だと言わんばかりに両手を広げて抗議を始めた。
「何を言うんだエセル、俺は電話中だぞ?」
「していないじゃないか、電話」
「これからする! たくさん」
「後にしなさい。ほら早く」
「なんでだよー! ウォッシャー・マシン使えばいいだろう?! お! なんだったら記念撮影して売ってやるか?♪」
「ウォッシャーマシンは故障中。食べた分働かないと太るよ」
「あっ……痛てててて! こら、耳を引っ張るな!」
 サガが強引にアイオロスをキッチンに連れ去った後、ミロは漸く腕を解き、カミュの手をひいてウサギのエクササイズ・パンが置かれている一角へと移動した。
「この茶色の、足に白いスポットがある子が一番好奇心が強いって。白にブチの子は、おっとりしていて食べるのが好き。もう一匹の茶色は三匹の中では一番強いみたいだけど、人間にはちょっとシャイだってサガが言ってた。みんな女の子だよ。どの子がいい?」
 ミロが一匹ずつ指差すのを見ながら、カミュは三匹の若いウサギ達を観察した。
 三匹は同じエクササイズ・パンに入れられていて、茶色の二匹はまるで双子のように寄り添っている。ウサギにも、自分達の容姿が似ている事が分かるのだろうか。この二匹はいつ見ても寄り添っていて、白い一匹だけがのんびりと草を食べている事が多い。それでも、彼女は多少マイペースなだけで、他の姉妹達と仲良くやっていないわけではなく、その証拠に今も三匹が並んで仲良く体をくっつけながら寝そべっていた。
 この中から、どれか一匹を、他の姉妹から引き離すのか……
 そう思うと、急に、カミュはどれも選べない思いで胸がつまった。
 これまで一緒に育って来たものを、たった一匹だけ引き離されて、知らない場所に連れていかれて、寂しくはないだろうか。
 折角今、こうして身を寄せあって眠っているのに……
 選びかねて、ふと視線を反らした先に、小さなグレーのウサギがいた。この三匹の母親で、アイオロスが溺愛するえせると、昨年亡くなってしまった一番最初の茶色いウサギ、ロスの娘だ。
 この小さなうさぎは、非常に警戒心が強く、未だにサガでさえ容易には触らせてもらえないと言う。更に、子育て中に攻撃的になり(これは母ウサギの特性なので仕方がないことなのだが)、自分の母親であるえせると、娘達の父親である二代目の雄ウサギのロスの毛を血が滲むほど噛み付いて毟り、以来この二匹から徹底的に攻撃されるようになってしまった。
 以前は母親に甘えていた彼女が、今は誰からも攻撃されてひとりぼっちで一番隅のケージに収まっている。その寂しそうな姿に、カミュは惹かれた。
「……母親のプチは、だめなのかな」
 思わずそう呟くと、ミロがぎょっとしてカミュを振り返った。
「え? この子は、サガ達のうさぎだろ? アダプションに出していないと思うけど……」
「でも、他の二匹と険悪になってしまって、一匹だけ仲間はずれにされていると聞いたよ。この若い娘達は、いずれ新しいホストファミリーに貰われていくだろうけど、プチはずっとこの家にいて、他の二匹の仲の良いところを遠くから眺めるだけしか出来ない。……勿論、それでも彼女が幸せなら良いんだが……」
 常に無く感傷的なカミュの物言いに、ミロははっとして黙り込んだ。
 カミュは、プチに自分の立場を重ねているんだ。
 仲の良い二匹は、名前もアイオロスとエセル、と名付けられていて、この家の住人たるアイオロスとサガは、お互いパートナーの名前を持つウサギを溺愛している。サガはプチの事も勿論愛しているだろうが、頻繁に撫でてくれ、何か野菜をくれと強請りにくる(二代目)ロスやえせるに比べ、自分から近づいてこないプチとはどうしても関係が薄くなるらしく、あまり話題にならない。
 いつも一人の者同士、うまくやって行ける、と思ったのか。ミロは再度それなりにスペースのあるパンの隅の隅、ケージとダンボールの隙間の奥に潜り込んでいる灰色の小さなうさぎに視線を戻した。見開いた大きな目が飛び出している。そろりと手を伸ばすと、さらに体を縮こませる。その警戒心の塊といった様子に、ミロは自分の心配を言葉にしてみた。
「この子は懐かないんじゃないかな……」
 懐かない、意思の疎通の図れない動物を可愛がり続ける事は難しい、とミロは考えている。それなりに動物には好かれると自負のあるミロにも、相手は一向に警戒を解かない。カミュの寂しさを紛らわしてくれるような可愛さを、この小さな動物が見せてくれるのか、疑念が首をもたげる。
 しかし、念を押してみても、カミュの気持ちは動かなかった。
 まるで長い耳が無かったらチンチラのような、灰色の生き物は、もしかしたら、生涯に一人だけにしか、気を許さないタイプの動物かもしれない。そして、カミュと一対一で暮らしたら、もしかしたら……。
 ミロは「わかった」と微笑んでサガの居るキッチンに向かった。二、三の短いやり取りのあと、サガがキッチンから慌てて飛び出して来た。
「カミュ、プチがいいって、本当なのかい?」
「あ……はい。勿論、先輩達がよければ、ですが……他の二匹と険悪になっていると、以前伺ったので」
「それはそうなのだけれど……兎に角神経質な子だから、何事にも時間がかかるよ? 私としては、この子は一頭飼いの方が幸せな子だと思うから、カミュが可愛がってくれるのなら願ってもない事なのだけど……」
 サガはそう言って、プチのエクササイズパンの中に入り、隅で怯えている小さなウサギを胸に抱え上げた。
「抱いてみる?」
 カミュは腕を伸ばし、そのグレーの小さな生き物を両腕に抱え込んだ。
「気をつけて。急に正気付いて暴れ出すから。お腹の部分を胸に密着させるようにすると、あまり暴れないよ」
「少し、震えているようですね」
「知らない匂いだからね。でも、神経質な割に、案外臆病じゃないんだよ。抱かれるのも怖いというよりは、嫌なだけのようだし。なにしろ、五時間の手術を耐え切った子だから、生命力はあるんだ。爪を自分で噛む癖があって、爪切りの必要はないのだけど、その分爪が尖っていて暴れると怪我をするから、触る時は長袖でね。ウサギ相手には結構激しい喧嘩もするけれど、人間は絶対噛まないから大丈夫だよ」
「なんだ、そいつ連れて行くのか。どうせなら手術の前に連れて行きゃよかったのに──いでっ!!」
 アイオロスが隣から口を挟み、即座にサガに額をはたかれた。
「そうだ、随分手術費用がかかったんでしたね。一部負担しましょうか」
「気にしなくていいよ。そうだな、それが残る心配と言えば心配だけど……なにしろ大きな手術をした子だから、これから年をとったらもしかしたら体調を崩すかもしれない。動物は保険がきかないから、一度体調を崩すと痛い出費になることがあるよ。……まあ、それはどのウサギでも同じだけれど……」
 とにかく、まずは連れて帰って様子を見て、もし合わなければ戻してくれて構わない、とサガは笑い、それから一度寝室へ姿を消して何やら大きな包みを持って戻って来た。
「ほら、ミロ、これだよ」
「ありがとう」
 プチをエクササイズ・パンに戻し、背後を振り返ると、ミロが包装紙のセロファンをきれいに剥がしている。その中から覗いた文字に、カミュはあっと声を上げた。
「これ……!」
「その子の新しい家。今日、連れて帰るって言うかも知れないと思って、注文しておいたんだ」
 ミロは悪戯を隠していた子供のようにはにかんで、こんなんじゃ、これまでのお詫びには足りないと思うけどね、と付け加えた。
「ありがとう……!」
 やはり、今回の帰国の本当の目的はこれだったのだ。そう確信して、カミュは心から笑った。ミロが何かのついでではなく、臍を曲げたカミュへの弁解のためでもなく、自分の意思でカミュのためにロンドンまで来てくれたのは随分と久しぶりのことだ。負担になることと分かっていても、嬉しいのは隠しようもない。
「どういたしまして。カミュが喜んでくれれば、それが一番嬉しいよ」
 返すミロの声には、ほっと安堵の色が滲んでいた。
 八時半ごろ、ミロとカミュの二人はアイオロスとサガのアパートを辞した。
 左手に大きなウサギケージ、右手に数日分のペレットが入った袋を抱え、更に明日の着替えをつめた鞄を背負ったミロと、サガから借りたキャリーケージ(ウサギつき)と、数日分の牧草、猫用トイレのセットを運ぶカミュの姿は衆目を集めたが、カミュはそれを気にする風もなく、時折ケージの中のウサギに上機嫌で話しかけていた。
 アパートに辿り着くとすぐ、カミュはリビングの模様替えをして、部屋中の温度を測った後、冬でも冷気が吹き込まない一角にミロが用意したプチのケージを立てた。
 ウサギは、慣れない場所で大変なストレスを感じる生物だ。実際、自然界で慣れない場所に連れて来られる事は敵に捕まった時であろうから、それは即死を意味する。常に捕食される宿命のウサギは、そのために自衛本能を身につけている。つまり、もう助からないと思ったら心臓を止めてしまうことが出来るのだ。
 ストレスを少しでも減らせるよう、サガはカミュにプチが使っていたトイレを渡した。自分の匂いがついているものがあれば、少しは安心出来るからだ。
 牧草を沢山と水、皿にペレット、プチが好きだという人参のかけらを入れ、ウサギを新居に移し、様子を見る。プチは与えられた餌に口をつけず、小さく縮こまって怯えていた。
「何もしないから、今日はゆっくりお休み」
 カミュはそう声をかけて、ケージを薄いブランケットで覆った。
「今日は遊ばないの?」
 ミロが後ろからカミュの肩越しにそう尋ねた。リビングは広いし、ここにはプチを追いかけるウサギもいない。折角カミュの子になったのだから、少し相手をしてやったら、と思ったのだ。
 しかし、カミュは笑って振り返った。
「だめだよ。最初二週間がとても大事なんだ。ここが安全だとわかるまでは、極力ストレスを抑えないといけない。よく、子ウサギを死なせてしまう子供がいるけど、殆どは二週間以内に弄り回してストレスを与えすぎた結果だよ」
「ふーん……犬とはかなり違うなあ」
「捕食される生き物だからね。人間が思うほど、狭い場所でストレスは感じないし、安全な場所であれば二週間くらいは平気で隠れていられるんだ。それに、トイレの躾のためにも、最初一週間はあまりケージから出さない方がいいんだよ。その前にフロアで遊ばせてしまうと、まだトイレが決まっていないから、絶対に家の外にトイレを作るよ」
「へぇ………」
 ミロはまじまじとカミュを見つめ、「そんな事いつ知ったの」と尋ねた。まったく、カミュは色々と物知りだと半分感心、半分呆れたのだ。すると、悪戯っぽい笑みが返って来た。
「全部サガ先輩の受け売りだよ。遊びに行く度にいろいろ話を聞いたからね。お陰で、お客さんがウサギを飼ってたりしても遜色なく会話ができるよ」
 それで契約一本とったけどね、と言われて、ミロは「何が幸いするかわからないなあ」と呟いた。
 しかし、カミュがうさぎと遊ぶのでなければ、もう遠慮する必要はないはずだ。
 ミロはそう考えて、壁の時計を見た。時刻はまだ十時。まだ十分に、時間はある。
「それで? それじゃあ、今日は、もう他にすることはないんだ?」
 ミロは、ブランケットを洗濯バサミで止めているカミュの背後から、そっと腕をカミュの体の前に回した。
 先週の木曜日には、抱き締めても結局その先には進ませて貰えなかったが、今日は大丈夫な気がする。
 カミュ本人が先週よりよほど落ち着いているし、これからは、カミュ一人じゃない。
 返事は、少し人を食ったものだった。
「それは、明日のお前のフライト時間によるな」
「うーん、スタンテッド空港二時?」
「それなら、ここを出るのは十一時か……」
 カミュはミロの腕の中で振り返り、くすりと笑ってミロの鼻にキスをした。
「いいよ。じゃ、シャワールームに行こう」
 ミロは、実は事に及ぶ前にシャワーを浴びるのはあまり好きではない。シャワーが嫌いなのではなくて、すぐに抱き締めたいのになかなかそうさせてもらえないのが嫌なのだが、最近、少しシャワーも悪くないな、と思うことがある。
 何故なら、シャワールームは明るいからだ。
 とにかく、カミュの造形が好きなミロにとって、明るい場所で存分に恋人の顔や体を眺められるのは嬉しい。ベッドルームはカミュがランプをかなり暗めに設定しているので、全く見えないわけではないが、あまり細かい部分は見えない(勿論それが目的なのだが)。
 久しぶりに見るカミュの体は、少し痩せたように見えた。そのことに痛い思いをしていると、カミュは腕を首に絡み付け、じっとミロの目を覗き込んで来た。
「……お前、やっぱりまともに食事をとっていなかったな?」
「……え?」
「随分痩せた。まあ、肩とか、腕とか、筋肉が着いた部分もあるみたいだけど……」
 ヴァイオリンを弾いてついた筋肉だ。そのことにミロが少し嬉しく思っていると、カミュはミロの反応には構わず、唇を喉から胸、腹部へと滑らせてバスタブに膝をついてしまった。
「ちょ、ちょっと待て! カミュ!」
「今更待てもあるか」
「そうじゃなくて!」
 慌ててミロも膝をつき、視線の高さをカミュに合わせる。折角ミロを楽しませてやろうとしたのに水をさされて、カミュの眉が少し上がる。
「そうじゃなくて。……あのさ、今日は、俺に任せてくれない?」
「……?」
「カミュは何もしなくていいよ。久しぶりだから、カミュがうっとりしてる顔が見たい」
 そう言ってミロはカミュの首筋に自分の唇を押し付け、舐めた。
 そういうことを、真顔で言うな。
 カミュは内心そう突っ込んだが、それは声にはならなかった。カミュだって、ミロのセクシーな表情にはどきりとするし、見たいという願望もあるのだが、それは常にその先の快楽にもリンクしたものだ。けれど、ミロのカミュに対するそれはもっと純粋で、それがカミュにはなんとも照れ臭い。
 とはいえ、ミロが自分を大事にしてくれる事が嬉しくない筈がなく、ミロがそれで構わないと言うのなら照れと遠慮は封じ込めてしまおう、というのが、目下、ミロにこの手の申し出をされた時のカミュの対処法となっている。
 だが、今日は少々事情が違った。
「その……ミロ、申し訳ないんだが……」
 少し俯いて、普段ならすぐに了承する筈の申し出に首を縦に振らないカミュに、ミロは少し目を見開いた。カミュの体に寄せていた顔を引き戻して相手の瞳を覗く。
「………。」
「……どうしたんだ? カミュ」
 俯いてしまった頬を優しく撫でて顔を上げさせる。と、カミュは一つ小さく溜息を零した。
「その……。もしかすると、今日はできないかもしれない」
「えっ……?」
「いつも通り、準備はしたんだが……時間があいてしまったためかな、思うように緩まない」
 甘い雰囲気もへったくれもないな、とカミュは自分の言葉に落ち込んだ。もしかしたら、ミロを満足させてやれないかもしれない、そう思って、今日はなるべく口で満足させてやろうとしたのだが……
 恋愛は、二人の関係だから、なかなか一人の希望ではうまくいかないところが難しい。
 ミロは、数秒ぽかんと口を空けていたが、そのあとすぐに吹き出した。カミュは真面目だ。こういうところまでとことん真面目なのが、大好きな所なのだが……
 シャワーの雨の中、小さなバスタブに座り込んで、いい年の男二人が深刻な表情でセックスが出来るか出来ないか、なんて話をしているのは、冷静に想像すればかなり微笑ましい光景だ。そんなに悲愴な表情で悩む事じゃない。
「そんなの、お前の所為じゃないだろ? 十ヶ月も干した俺が悪いんだし。そもそも、本来そういう用途で使う場所じゃないんだし。そんなの、気にする事無いよ……」
 カミュの濡れて鮮やかになった赤い髪の毛を引き寄せ、湯で血行の良くなった白い顔に何度もキスを落とす。
「二週間後にはまた会えるし。それよりも、無理して気持ちいいふりとかするのはナシだよ? こうやって触れるだけで俺は嬉しいし、それはカミュだって同じでしょ? だったら、それでいいじゃないか。嬉しいし、楽しいし、ドキドキするし……」
 ね? と青い瞳が赤い瞳を覗き込むと、
「……それじゃ、駄目だったらその時は……」
 赤い目を伏せて、なにやら思案しながら真剣に何か代替案を探し始めたカミュに、ミロは驚いて言葉を続けた。
「カミュ! いいって! 本当に、そんな事考えなくったって……! 大丈夫! カミュが本気で気持ちいいって顔してくれたら、それだけで物凄く俺も感じるし、気持ちいいから! そんな、心配ばっかりしなくってもいいよ……」
 だらん、とカミュの肩に回した腕に体重を掛け、その顔を覗き込むと、まだ困ったようなカミュの表情が見える。
 ミロは、カミュの肩を引き寄せておでことおでこをこつんと合わせると、駄目押しとばかりに改まった口調と、でもそれを裏切る崩れそうになっている口元を引き締めて、言った。
「ほんとにね、カミュが気にする事は何にも無いんだよ……?」
 だからよろしく、と頬にキスされて、カミュは黙り込んだ。ミロがそう言うなら、そうするのが一番なのだろう。ミロの言葉は、たまに翻訳が必要なことはあるが、裏に異なる希望が隠れていたりすることはない。
 カミュはミロの首筋に両腕を回し、ゆっくりと深いキスをした。その瞬間、この十ヶ月間抑え込んでいたものの枷が外れ、カミュは強い震えを首筋から脊髄に感じた。
 吐息が甘くなった。
 ミロは、カミュの最初の変化をその吐息で感じた。普段、カミュの纏っている空気は落ち着いて清々しくて、どんな意味でも色気とはほど遠い。
 それが最初に崩れ始める兆しが呼吸だ。カミュが本気で感じ始めると、吐息が甘くなる。抱き合っていても結構冷静に相手を昂らせる計算をしている事が多いカミュは、ミロの体を弄っている時にはなかなかそういう息を吐いてくれない。
 カミュは多分所謂「上手い」人間で、ミロも結構あっけなくカミュの手や口に陥落してしまう事も多いが、本当にミロが興奮するのはカミュがそういう甘い息を吐く時だ。他の人間にどう映るかは知らないが、ミロにはそういう時のカミュは世界で一番艶っぽく、綺麗に見える。
 首筋に沿わせていた唇を少し離してカミュの表情を盗み見ると、十ヶ月ぶりに衣服を挟まずに触れた恋人は目を閉じてミロの腕に頭を預け、ひそやかに息を乱していた。
 うわ……やっば……ペース早すぎ……
 まだ、キスくらいしかしていない。普段のカミュが本当に照れを捨ててくれるまでの時間を考えると、殆ど一瞬に近い。
 任せろといったから、本気で任せてきたのだろう。普段だったら、何かをすればかならずお返しにこちらにも触れて来る手は、ミロの背中に回されたままだ。
 一応、ここにいるのはシャワーを浴びるという名目なので、シャワーヘッドをとり暖かい湯を全身にかけてやる。カミュが気にしている部分も丁寧に手で撫で付ける。
 その途端、つめた吐息が、まるで口紅をひいたみたいに赤く見える唇から零れ、睫毛が震えた。
 すごい配色だな。
 金髪碧眼が美人の代名詞だと思っている人間に、見せてやりたい、と思う。赤毛の人が持つ肌の白さと唇の赤さが、上気したらどうなるのか。こんなに艶かしい色は他に知らない、とミロは思い、ふと遠い記憶に思い当たった。
 パブリックの頃に、同級生の家で見た一本のアダルトビデオだ。
 カミュと同じ赤毛で、その上少しそのころのカミュに顔も似ていた。思えばあれがカミュを特別に意識し始めたきっかけで、暫くカミュの顔をまともに見られずに困ったものだ。
 あれもたしか、バスルームものだったな、と思い、ミロはもう大分力の入らなくなっているカミュの体をバスタブの淵にそっと立てかけた。耳の後ろから、首筋を辿り、胸の突起から腹部へ、丹念にキスを繰り返す。カミュは目を閉じたままで、ミロの頭から首筋に両手の指を這わせ、柔らかく息を乱している。時折指にこもる力が、カミュの体に走る快感をダイレクトに伝えてくれて、それがミロには嬉しい。
 少し、昔のビデオで見た事をやってみたくて、ミロはカミュ手を外して体を起こし、カミュの左足を抱え上げて自分の右肩にかけた。カミュがうっすらと瞼を開き、ミロを見下ろす。一瞬、戸惑ったような色を浮かべた瞳をミロが強く見返すと、その赤い瞳は諦めたように再び睫毛の向こうに隠れ、自由になった両手で支えていた体の力を抜いた。
 一番敏感な部位にぬめる舌の感触を感じて、カミュは切羽詰まった声を上げた。自分ばかりがどんどんコントロールを失うのは正直本意ではないが、今日はミロに任せると決めた以上、下手な我慢はミロを傷つけるだけだ。けれど素直に溢れた声は自分の感覚も刺激して、快感の強度を増す。
 ゆるゆると首を振って刺激に耐える様子のカミュに、ミロは強烈な視覚的興奮を覚えた。こんなの、昔見たビデオの比じゃない、と。惚れた欲目でもなんでもいい、とにかく、あのAV女優よりカミュの方が数倍綺麗だし色っぽい、と断言できる。
 陽に曝されることの無い場所は、皮膚が薄く、柔らかく、頼りない。カミュに言ったら呆れられるか、変な目で見られるかもしれないが、ミロは、カミュの陰部が好きだった。まだ少し縮こまったままの陰茎にそっとキスをしてから先端を口に含む。
 カミュの腹部が跳ねた。その皮膚を一撫でしてから、ミロは体をカミュの左側に寄せて、その股関節の辺りに肩を合わせるとそのまま斜めにバスタブの中に身を横たえて、頬を完全に恋人の下腹に乗せた。カミュの左腿の下に右腕を潜り込ませる。口の中に軽くカミュのものを含んだまま、指を伸ばしてカミュの胸を探る。
 足掻くようにバスタブの淵を彷徨った長く形の良い右足を左腕の肘で押さえつける。そして、左手で目前に並んでいる睾丸をゆっくりとマッサージをするように揉みしだく。
 息を呑むような、悲鳴を押し殺すような鋭い音が一度カミュの喉から漏れた。緩やかな出力に調整してある温水の雫がひっきりなしに白いバスタブの肌を叩く。ミロは、きゅっと小さく硬く存在を主張している乳頭の周りをゆっくりと丸く指で円を描きその中心を押し潰すようにして刺激を与え続けながら、口の中では温まった性器をしゃぶった。右手でも、決して急かす動きではないが、絶え間なくゆっくりと精嚢を揉んでいる。
 カミュの左手が、縋るものを求めて宙を泳ぎ、そのままタイルの壁を打った。
 狭いバスタブの中では、身を捩ることもままならず、快の感覚を思うようには逃せない。そのうねりは出口を求めて体内を荒れ狂い、最後に声帯に辿り着いて甘い呼吸音に変わる。息をつぐ度、微かに混じる甘い音にカミュは頬を染め、ミロはより濃密な刺激を送った。
 もうそろそろ、攻めても大丈夫かな。
 硬く立ち上がり出した性器を、何度か口を窄めて扱いた後、ミロは次に陰嚢に唇を寄せた。二つある塊のうちの一つを口内に含み転がした。それを交互に繰り返しながら、右手はカミュを驚かせないようにゆるゆると奥の菊座を目指して進む。
 しっかりと口を閉ざしている襞の焦点に指の腹を押し当てた時、カミュの腰が少し、押し付けるようにして動いた事にミロは目を丸くした。続いて、力の抜けたカミュの両の手が、濡れてピタリと頭蓋骨に張付いているミロの金髪を挟み込んだ。
「……ローション、後ろの棚にあるから……」
 カミュの言葉に、ミロは一瞬沸いた身を離し難く思う気持ちを抑えて、上半身を持ち上げるとカミュの赤く染まった唇に軽くキスを落とし体を捻って棚を探った。
 随分前に一度使って、粘度の弱さにそれからは使用を止めていた見覚えのあるボトルが目に止まった。使いかけだ。一瞬、ミロは違和感を覚えた。カミュは、このようなものを無造作にシャンプーのボトルの横に置いておくような人間だっただろうか? しかも、アナル・セックスには向かないそれを、何故……
 しかし、今それを追求する時間はなく、ミロは迷わずそれに手を伸ばした。
「寒くない?」
 再びカミュと向き合った時、ミロはカミュに尋ねた。
「……いや、大丈夫」
 潤んだ瞳で応えられて、ミロは自身の中心がカッと熱くなるのを感じた。自覚すると少し気恥ずかしくなって、それを誤魔化すような笑みを浮かべてカミュの体に屈み込んで唇を合わせた。緩く開いていたミロの歯列をこじ開けるような、飲み込まれるような口付けが返ってくる。それに応えるように深いというより、その舌も歯も口の中も自分の物だと主張するような原始的な咬合を繰り返し、その間にミロはゆっくりとボトルのキャップを外した。
 後ろ手に自分の指の上に液体を受けるように流してから、その温度を確認してカミュの肛門に押し当てる。ミロの記憶より粘度の低かった潤滑剤は、あっという間にカミュの体を伝って流れ落ちてしまう。今度はカミュの体の上に直接掛けるようにして液体を注ぎ、性器から陰門に掛けて全体を刺激すると、下腹に響く甘い声が立て続けに上がり、少しミロは目を眇めた。
 今すぐにカミュの中に自分の性器を入れてしまいたい欲と、自分の希望通り自分に全てを委ねて痴情の有り様を曝け出してくれる恋人をとてもいとおしく思う気持ちがせめぎ合う。
 無理を要求しても、今のカミュなら喜んでその無理に沿おうとするだろう。それだけは、避けなくては。
 そうもう一度強く自分を諌めてカミュの体の上に自分の体を合わせると、吐息と共に体全体で絡みつかれる。首も、腕も、両の太股の内側も、ぴたりとミロの体に押し付けられて、ミロは一瞬眩暈を感じた。
 カミュの耳に自分が酷く感じている事を伝える為に唇を寄せる。互いの立ち上がったものがぶつかり合い、体も震える。白く長い首筋に何度も噛み付くように歯を立て、皮膚を吸い、その度に震えるカミュの体や、漏れる声に皮膚を粟立たせた。
 左手で繰り返し探ったカミュの内部へと続く門は、なかなか柔らかくならなかったが、じれたように腰を押し付けて来るカミュの動きに助けられて中指の第二関節までは潜り込ませる事が出来た。しかし、何度かローションを足しつつも、狭く無理な体勢のせいかそれ以上にはなかなか緩まず、結局はミロはたった一本の指をカミュの体内に飲み込ませたままの状態でカミュに請い、カミュの手淫によって二人で吐精の高みに登った。
「髪だけは乾かさないと。お前は特に長いから」
 何度も互いの唇を貪り、冷えてきた体を再び湯で暖め、場所を移す段になって、カミュはそのまま寝室へカミュを引き込もうとしたミロのガウンの袖を引いた。
 常なら面倒がってカミュの手をすり抜けようとするミロは、素直に洗面台の椅子に腰掛けたが、その正面に立ってドライヤーをミロの髪に当て始めたカミュのガウンの紐をさっさと解き、吐精して大人しくなったカミュの性器に唇を這わせつつ後ろの入り口にも指先を入り込ませた。カミュは数分の間それでも耐えてミロの髪の世話をしていたが、ミロの空いた右手が肌を這い上がり胸の小さな突起を弄び始めるに及んで遂に降参し、ミロはいつもなら「生乾きだ」と睨まれる段階で寝室に移動する許可を勝ち取った。
「何時くらいまで付き合ってくれるの?」
 寝室に移ってもタオルやローションの準備をしていたカミュを漸く寝台に縫い付けて、ミロは尋ねた。
「朝9時に起きられるくらいまで、かな」
 カミュもまだそう簡単に眠るつもりはないらしい。多少不親切な答えを返しながらも、自分に覆いかぶさるミロの体からガウンの紐を解き、皮膚に指を這わせてくるカミュにミロは苦笑した。
 考えてみたら、カミュが朝9時に起きる必要は無いわけだし。
 明日は仕事がないと言っていたから、少しくらい無理をさせても大丈夫だろうか?
 今日は心底甘えてくれるつもりらしいカミュの嬉しそうな様子に、ついそんな欲が湧いた。
 熱心に口付けを交わし、浴室よりずっと体の自由がきく寝台の上で、恥も外聞も無く互いの体に対する執着を露にする。誰も知る必要は無い。誰も知る事もない。だからこそ全てを曝け出せる。それを、恥とも思わない。
 とはいえ、十ヶ月のブランクは予想以上に大きく、ミロはカミュに請われる度にまだ無理だと宥めなくてはならなかった。
 気持ちはもう十二分に昂っているのに、どうしても最後のプロセスにまで至らない。
 カミュの潤んだ瞳に、ただ快楽の為ではない悔しさの涙が滲み、何度解そうとしてもなかなか高ぶった自分の性器を飲み込むまでには至らないカミュに、ミロはこの日二人が付き合い始めてから初めての提案をした。
「性器以外のものを入れたら、カミュ、やっぱり怒る?」
 カミュは一瞬声を飲み込み、それから、少し乱れた息の間からゆっくりと尋ねた。
「……何を?」
 ミロはカミュの性器から窄みにかけての刺激を繰り返しながら、少しバツが悪そうに言った。
「いや……ロスが、帰りがけに、一年近くも開いて直ぐに出来ると思うなって、所謂、ディルド、みたいな物をくれて……」
 カミュは絶句した。確かにアイオロスには既に長い間ミロと関係がないことを知られていたが、そんなものを密かに用意していたとは想像もしなかったからだ。
 いつもの調子でからかうつもりなのか、それなりに心配してくれた結果なのか。
 六月にデジー・ギネスから思いがけず聞かされたミロの秘密と、その時のアイオロスの眉間に皺の寄った表情がふと浮かんだ。
 なんとなく、後者のような気がする。あの人は、人をからかう癖はあっても、人の痛みに決して鈍感ではないから。
 カミュはミロの首に腕を絡ませ、上気した頬の色が見えないよう耳元に唇を寄せて囁いた。
「……じゃあ、見えないようにしてくれ。ミロに抱かれていると思えるように。」
 
 
 
 翌日、結局明方空が白み始める頃まで起きていた二人は、カミュがセットしたBBCのラジオをミロが消してしまったことで大幅に寝坊し、朝から台風のような騒ぎに見舞われた。
「えーっこのラジオ、スヌーズ機能ついてないの?!」と喚くミロをシャワールームに追い立て、サンドウィッチを作り、小さな魔法瓶にコーヒーを入れてやり、鞄につめてミロを送り出したカミュは、顔を洗おうと立ち寄った洗面所で見つけたミロの忘れ物に思わず肩を落とした。
 アイオロス先輩からのプレゼント……。
 単に忘れただけなのか、それとも二週間後までに問題を克服しておいて欲しい、という希望がミロにそれの存在を忘れさせたのか。
 まあ、いいか。
 こんなものが空港のX線検査で映ったら、流石のミロも恥ずかしいだろうし……。
 カミュはそれをバスルームの棚に仕舞い、今日からパートナーとなるちいさなウサギのケージへと歩み寄った。
「お早う、プチ、これからよろしく。」  
 
 

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