早朝の帰還

3月6日金曜日。アイオロスからの連絡が舞いまま日付が変わった。
流石に携帯を持ち始めた頃のように一日に何度も電話やテキストメッセージを寄越すような事は無くなったものの、それでも一日に最低二回は連絡が入る。
それは、今日は何時頃に帰る、といった事から、お弁当が美味しかったというような、又は、ただ単にハートマークを象徴しているのだそうな「v」のサイン一つといった本当に些細な事なのだけれど、兎に角一日に二回は必ず入る。
それが、今日は一度も連絡がないまま、とうとう日付が変わってしまった。


そんな、まさかの事など、そうそう簡単に起こる筈が無い、と思いつつも、心配は心配だ。
午前二時を過ぎた頃から、何度見上げても時計の針が動かない。
ウサギたちもすっかり遊びつかれて部屋のお気に入りスポットで体を畳んでうとうとしている。
何度かこちらから電話を掛けて見るのだが、電源が切られているか、電波が届かない所かで通話モードにならない。
メッセージは残しているのにそれに対する応答も無い。
どうしようか……。
携帯電話を手の中に握ったままカラッポに感じられるリビングに居るのにも耐えられなくて、もっと狭いスペースの寝室に移動する。
枕をヘッドボードに立てて読みかけの本でも読もうとするが、文字が全く頭に入らない。
時計は、勤めて見ないようにする。
どれぐらいしたか、シーツの上に突然振動が走った。
ぎょっとして体を硬くする。
なんの事は無い。
携帯が着信を知らせているのだ。
恐る恐る表示を確認すれば、
良かった。
アイオロスからだ。
ほっとして通話ボタンを押すと、低く小さな、けれどしっかりした声で玄関を開けて欲しいという台詞。
鍵は、もちろん掛けているが、ロスだってキーは持っている。
訝しく思って、眠っているウサギたちを起こさないように忍足でリビングを横切り、ドアのピープホールから外を覗く。
ネクタイをワイシャツのポケットに押し込み、残バラ髪に真っ赤な顔をしたロスが、ドアウェイに立って居た。
「パブに寄って、この時間なのかい?」
多少口調が尖っても、この場合、許されると思う。
「サガ…寝てた? 機嫌悪い?」
寝てた? 眠れるわけがないじゃないか! と言い返そうとして、齢三十を超える大人が遅くまでパブで飲んでいたといっても、非常識には当たらない、と気付く。
私が勝手に心配して、私が勝手に起きていただけだ。
色々と、頭で理解出来る事と胸の奥で騒ぐ感情がうまく収まりどころを見つけられずに居るうちに、アイオロスは滔々とパブでの面白い出来事とやらを話し始めた。
ドア越しに。
携帯電話越しに。
ヨッパライだ。
完全に。
疑いの余地無く。
呆れていると、
「エセル、聞いてるか?」
と。
「君、鍵はどうしたんだい? 自分のを持っているだろう」
冷たく切り返すと、彼は小さく噴出して、そして、次第に肩を揺すって笑い始めた。
「ロス! 止めないか! 今何時だと思っているんだ?!」
時計は午前五時になろうとしている。
早起きの人はそろそろ起きる時間なのかも知れないが、それでも大部分の人はまだまだ寝台の中で静かな時間を過ごす時間帯のはずだ。
「ロス! 今すぐに笑うのを止めろ。君の鍵はどうしたんだ」
「それが、話せば長い話なんだがね、エセルさん。だから、はしょって、中に入れてよ。俺の鍵は玄関のクロークの中」
「……遅いなら遅いと連絡するべきじゃないのか? 鍵が無いから起きていてくれとか……」
クロークを見ると、昨日までロスが羽織っていたコートがある。
きっと、天気が少し緩んだ今日、違うコートを手にして、コートの中に鍵が入っていなかったのだろう。
いつもは私の方が遅くに家を出るので、私がきちんと起きていればロスは鍵を掛けて家を出るような事はしない。
「いや、まあ、それはさ、それも長い話になるんだよ。だから、ドア開けて♪」
「……ロス……!」
少し、理性より感情の波が高くなって、きつい声が出た。
手をなかなかドアノブに伸ばす事が出来ない。
「今日は一体一日何処に居たんだ? 電話がちっとも繋がらなかったじゃ—」
と言いかけて、ハッとした。
何故か、玄関扉の外から自分の声が響いてくる。
どういう事だ??
「ロス……? 君、携帯の通話設定の音量が大きくなってないか……?」
「んー? ああ、スピーカーになってる」
慌ててドアノブに飛びついてドアを開けた。
二メートル以上の人間板がアルコールの臭いと一緒に倒れてきた。
咄嗟に支えようとして、支えきれなかった。
兎に角、ドアをきちんとしめて、鍵を掛け、床に伸びているロスの頬を叩く。
薄目を開けたアイオロスが口をぼんやり開いて何かを言おうとした瞬間に、またきついアルコールの息。
「ロス—シャワーを浴びるか、ソファで寝るか、どちらか選びたまえ」
「んーーーー? 今日は金曜の晩だろ? エセルと子作りしなきゃ」
「そんなお酒とタバコと化粧水のマリネと寝るなんて冗談じゃないよ。ただでさえ寝不足なのに──ああ、こちらのソファで寝るならウサギは避難させるから早くどっちか決めてくれ」
「んーーーー? シャワーかぁ……シャワーねぇ……エセル、一緒に入るか?」
「もうとっくに入りました!!」
「一人でだろ? 二人で入ったらもっと色々洗ってやるぞ?」
なついてくるアイオロスを腕で精一杯押しのける。
酔っ払いに何を言っても無駄だ。話はアルコールが抜けてから。
分かっていても、つい二言三言言ってしまう。
「結構。一体今何時だと思っているんだい? こんな明方まで一報も寄越さないで、おまけに廊下であんな大声で話して……ここの玄関の扉は結構薄くて、廊下の声はよく部屋まで聞こえると君もよく知ってるじゃないか……」
すると、ロスの茶色の目がひたと視線を合わせて来た。
そして、にっこり笑うと、
「心配した?」
と。
一瞬誰が、と言い返してやりたいのをぐっと堪える。
「とても心配した」と言ってやれば、連絡もなく朝帰りなどという悪習慣からは足を洗ってくれるだろう。
まあ、電話して朝迄酒も煙草も飲み放題、という可能性は勿論残るが、そのときは、ドアチェーンをかけて寝てしまえば良いだけのことだ。
「それは、今日泊まるとも聞いていないのに、こんなに遅くなったらもしかしたら、と思うだろう? 何度も電話したのに繋がらないし」
アイオロスの顔が傾き近づく。
何をされるのか、もちろん予測の範囲内で、その顔を片手で押しのけて立ち上がり、
「はい。そこまで。酔っ払いはシャワールームに直行」
といなし、重くて長くて大きい物体と化しているアイオロスを狭いバスルームに詰め込み、服を脱がせ、髪をガシガシ洗い、バスルームを飛び出る。
「髪は自分で乾かすんだよ!!」
そして、寝室に飛び込み、ロスが来る前に羊を数えて必死で眠った。
それなのに、土曜の朝(眠ったのが朝だから仕方がないところなのだけれど)に目覚めたのは午後一時半で、とても機嫌の悪くなっているうさぎに食事を与え、掃除をしてやっていたら、結局昨日は居間のソファで眠ったらしい(コーヒーテーブルにビールの缶が二つほど転がっていたから、あれからまた飲んでそのまま寝てしまったということだろう。先に寝ていて正解だった)ロスに不覚を取り、次に起きたのは夜の八時過ぎ。
そして、日曜こそは朝からしっかり休日の仕事を片付けよう、と思っていたのに、朝から生憎の雨で部屋が暗く……起きたのはやはり午後二時近く……。
どうしよう……完全に体内時間が狂っている……。
これではいけないと思い直して、色々やろうとするのだが、どうしても太陽の光が無くて体がすっきりとしない。
それで—力負けしてアイオロスに寝室に押し込まれ、目覚めた今が結局午前三時。
もうこのまま起きて明日(もう今日なのだけれど)は仕事に行くべきなのだろうか……。

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