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金曜日の晩から、カミュ・バーロウは結構疲れていた。


アイオロスからパーティーの話があったのが月曜の晩。
そして火曜の晩には、土曜にパーティーを行うので、少し(いやかなり)騒がしいかもしれない、と連絡の封書を準備して、アパートメントの両隣と上下のドアに挟んだ。
水曜には打ち合わせが二件あり、他にも、6月に行う六人展の準備がそれなりにデッドラインに近付いている。万端準備したと思っても、案外足りない資材がポロポロ出てきたりもする。
現在進行形だが、少し難航しているクライアント先に木曜、金曜と顔を出し、ようやく打開策を見出した。これが、カミュ・バーロウの一週間だった。
が、やっと週末の休日を迎えるという安堵を味わう間もなく、彼は帰宅するとすぐにプチを小さなキャリー・バックに入れて、チューブを乗り継いでロンドンの中心街、サザークまで移動した。
今日から一週間、エインズワース家のウサギ・シッターを、カミュ・バーロウは担っていたのだ。
既に預かっていた鍵で、付き合いの長い先輩二人の家に入ると、居間には小さな明かりが灯っており、BBCのクラシック・チャンネルが低く静かに流れていた。
ダイニング・テーブルの上にあるメモには、サガ・チェトウィンドの手による流麗な筆跡で、カミュに対する丁寧な感謝の言葉と今後一週間面倒を見るうさぎたちの近況の様子が綴られていた。
それによると、どうやらエインズワース家の二羽のうさぎはまだ換毛中で、食事は多めに、もし手が空いていれば、特にロスの毛をラバーブラシで少し梳いてやって欲しいとあった。
既に、プチ用のエクササイズ・パンはロスとえせる二羽のウサギたちの隣に設置されていた。
「ほら、久しぶりだろ?」
そう言って、カミュ・バーロウはキャリー・バックの隅で小さく丸くなっているプチを、用意されていたスペースにバッグをそっと下ろして自由に出入りできるようにキャリー・バックの留め金を外した。
ロスとエセルの二羽は、不思議そうな顔をしてカミュを見上げている。
柵の端に居たロスの頭を撫でようとすると、赤茶の斑うさぎはさっと自分の半分の大きさしかないエセルの後ろに隠れた。
カミュは苦笑して立ち上がり、キッチンに向かった。
キッチンに入って冷蔵庫を開け、今日の野菜分と束ねられているイタリアン・パセリとオーガニック・キャロットの袋を取る。耳に聞こえるのはBBCラジオと冷蔵庫の低いラジエーターの音だけだった。
ところが、人参を三匹ように適当な大きさに切り、さて居間に戻ろうとしたその時、凄まじい音が部屋に響いた。
キャリー・バッグから出てきたプチに気付いたロスが、轟然と金属の柵に向かって体当たりを繰り返し、唸っているのだ。
カミュが一瞬呆然とした隙に、プチも隣のケージでロスに向かってまるでカンガルーのように仁王立ちになってジャンプをしながら狭い柵の隙間から鼻を突き出し噛み付こうとし始め、えせるもぐるぐるとサークルの中を駆け出し始めた。
「プチ! 止めなさい! ロスも!! 今食事をあげるから……!!」
カミュは慌ててウサギのケージに小走りに駆け寄り、互いの柵の狭まったスペースを押し開けた。
その瞬間、サーキットを繰り返していたえせるの両の後ろ足がぼちゃんと犬用の水飲み皿にはまり、濡れた足を勢いよくカミュの顔に向かって払った。
カミュは咄嗟に両目を瞑った。
えせるは尚も盛大に後ろ足を振りながら走り続け、今度はロスの背中に衝突する。
「えせる! 落ち着きなさ……」
カミュが言葉を言い終える間もなく、興奮したロスが、くるりと姿勢を捩り、猛然とえせるを追いかけ始め、彼の体重で水飲み皿は音を立てて引っくり返り、カミュの足元を水浸しにした。
最初の日は、掃除はしなくても大丈夫だよ、と何度もカミュに念を押したサガの言葉も空しく、カミュは夜中に一人空しく、ペレットをぽりぽりと食むうさぎ達の横で、床を雑巾がけし、ばら撒かれた牧草を拾い集めた。

「お前は何にもしなくていい。場所だけ提供すればいいんだ」と、結構恩着せがましく聞こえる得意げなアイオロスの言葉は、朝7時過ぎに鳴ったチャイムの音で、カミュに全く正反対の啓示を与えた。
ケータリング・サービスは午後一時から準備が始まる事になっていたが、会場設営は別のグループが請け負う都合上、この時間しか都合が付かなかったとの事で、カミュが目を丸くしている隙に、どやどやと見ず知らずの人足達が腕一杯のダンボールを抱えてカミュの部屋に押し入って来た。
と、リーダーが手にした見取り図をにらんで唸っている。
「済みません、あの……80人から100人規模のパーティーだと伺っているんですが……」
何度も書類と見取り図を確認したカミュより若干年少に見えるリーダーが、眉を顰めてカミュの下に近付いた。
80人から、100人、だと?!! そんな話は聞いてないっ!!
カミュは胸の中で強く声を上げた。
そして、見取り図を見せてもらって愕然とする。
自分の部屋の家具の配置が描きこまれてないし、第一、部屋の大きさが間違っている!
「あの……どうしましょう……?」
カミュの顔と、持ち込んだ機材を見比べて困惑を隠さない青年に向けて、カミュは、ため息を噛み殺して言った。
「寝室を空けます。そこに全て物を移して場所を空けますので……」と。
かくしてカミュは朝食も取らないうちから、業者の人間に混ざって家具の大移動を仕切る羽目に陥った。

怒涛の二時間だった。
次の予定ぎりぎりまで粘ってなんとか形を整えたスタッフたちは、あっという間に居なくなり、後に残ったカミュは、自室のあまりの変わりように暫し呆然自失だった。
「ガーデン・ウェディングをコンセプトに、というご要望でしたので……」
その要望を出したのは自分じゃない、と強く否定したかったし、そんな要望を出した男にも一言も十言も言ってやりたい言があったが、カミュは堪えた。言ってやりたい男は何よりこの場に居ないし、余計な言を言って作業を遅らせたく無かった。
カミュには、最初の数分で分かってしまったのだ。
こいつらは、センスが無い!!
とっとと帰らせて、自分がやった方が遥かに自分の精神衛生にいい、と。
かくして、見知らぬ侵入者達を立ち退かせてから、カミュは憤然と天井と壁にぶら下げられた馬鹿らしいレースの飾り引っぺがし、ライティングを設計し直し、電球も換え、点在する観葉植物の位置を動かし、生花を生けなおした……。

何とか出来る限りの変更を施し、自分の作品の最終確認を終えた頃には、既に時計は正午を回っていた。
急いでシャワーを浴び、服装を整え終えた全くいいタイミングで、本日二度目のベルが鳴った。
シェフと配膳スタッフがやって来たのだ。
俄かにカミュの一人暮らしの家が喧騒に包まれる。
メインディッシュの七面鳥のグリルを温めなおし、銀の大皿にはつぎつぎと色鮮やかなオードブルや冷菜が盛り付けられる。
非常に、手際のいいスタッフ達だった。
だから、カミュには、何もする事が無い。
かと言ってどこかに身をくらませる訳にもいかず、邪魔にならない程度に手を貸しながら、自分のキッチンで見ず知らずの人間たちが料理の腕を振るっているのを眺めた。
二時少し前から、アイオリアを筆頭に、徐々に人が集まり始め、ありとあらゆる物が詰め込まれて哀れな状態になっている寝室に、カミュは客人達の荷物をまとめては、人を部屋の奥へと誘導した。
途中からは、マックスとウォルトが案内係を手伝い始めたが、もはや着席する場所などありはしない混雑となってきて、カミュは一体どこまで人数が膨れ上がるのか冷や汗を覚えた。
「なあ、カミュ、これ、一体何人いるんだ……?」
「さあ……荷物の番号札は、一応80までは用意したんだが……」
「やっぱり人徳かなぁ……随分久しぶりの顔もあるじゃないか」
目を細めるアンソニーの横で、カミュもウォルトもマックスも、グラスが足りるのか、酒が足りるのか、食料は足りるのか、とどんどんと心もとなくなっていた。
人任せで自分で采配出来ないというのは、もしかして不便な事じゃないだろうか?
新たにコピー用紙を細かく切り、それに番号を振りながらカミュは考えた。
決して仕切りたいわけではない。この間ミロが企画してくれた誕生日パーティのように、何も気にせずに楽しめるなら、それに越したことはない。
だが、会場がこの部屋になる限り、結局最後に皺寄せが来るのは自分のところなのだ。
だったら、せめて状況をコントロール出来る立場の方が、まだいくらかまし、というものだ。
と、玄関の方で、わっ、と歓声が上がった。
カミュは、はっと顔を上げた。
一瞬、何かの目の錯覚かと思った。
眩しかったのだ。
林立する後輩、同級生、上級生のひしめき合う頭の間から、光がさしているように思った。
「やっと来たぞ! 今日の主役の登場だ!」
「ほれ、音楽、音楽!! メンデルスゾーン! 早くしろ!」
「早くしろったって、この混雑で楽器なんて弾けないよ!」
「ラッパはみんな上向いて吹け! それで少しスペース稼げるだろ!」
何時の間に用意していたのやら、有志アンサンブルがメンデルスゾーンの結婚行進曲を奏で、座る場所もなく混雑した部屋の中央に、人垣を更に押し付けて細い花道が出来る。
その二人並んで通るほどもない細い路を、アイオロスに手を引かれたサガが、本当に幸せそうに笑いながら、ゆっくりと歩んできた。
「遂にやりやがったな、この!」
「よくチェトウィンドの実家が許したなあ……」
「いや? 許してないから、駆け落ちだ。ま、コイツも家に戻る気はさらさらなかったしな」
「エッ、じゃまさか、名前……」
「おうよ、今日からコイツもエインズワース、晴れて俺達と同じ平民だぜ?」
両側の人垣にもみくちゃにされながら、それでもさりげなくサガを庇いつつゆっくりと進んでくるアイオロスと、一人一人の祝いの言葉を心から嬉しそうに受けとって笑うサガを眺めて、カミュは心の奥深くから思った。
ああ、幸せな人の顔というのは、本当に輝いて見えるものなんだ……、と。
長い、長い間、この先輩を見てきた。
苦しみ、傷付き、ぎりぎりの場所に佇んだ彼も、幸せ一杯に微笑む彼も、様々に見てきた。
けれど、今日ほどに、これほどに幸福に輝くサガを、カミュは知らない。
「カミュ、本当にごめんよ。君の家をこんなにしてしまって……ロスがこんなに人を呼んでいると知っていたら、無理にでも外に会場をとったのだけれど……」
「いえ、構いませんよ。というか、お二人の門出に家を提供できるなんて光栄です」
真っ先にカミュのもとへやってきて、そう済まなそうに謝ったサガに、カミュは微笑みを返した。アイオロスの思いつきに振り回されるのはこれに始まったことではないが、実のところ、カミュにはアイオロスの思惑も分かっている。家の名前を捨て、エインズワースの姓を名乗ることを選んだ元シュローズベリ伯爵家の跡継ぎの同性結婚披露宴など、会場を借りて行えば三流ゴシップ誌の格好の餌になってしまう。やるならば誰かの家でやるしかなかったという事情は分かるし、その「誰か」に自分が選ばれた、という事を光栄に思う心に偽りはない。
「な? だから言ったろ? 心配しなくても大丈夫だって。こいつはこーいう奴なんだから」
「ロス!」
しかし、(本心ではそれなりに感謝してくれているのだろうが)それを悪びれもしないアイオロスの口調には、流石に眉を顰めて見せた。
「構いませんが、今度からは、企画段階からこちらにも一言相談して下さい。こっちにも準備というものが……」
「お、じゃ、また家貸してくれるのか♪」
「そういう話じゃないです!」
「まあまあ、お前にもご褒美頼んでおいてやったからさ」
「はあ?」
カミュが眉間の皺を更に一本増やしたところで、アイオロスは年長のコントラバス一団に引っ張られ、サガもヴァイオリン集団に捕まってしまった。
今日は料理の心配をする必要がないカミュは、既に頬を赤くしているアンソニーにグラスを渡され、断り切れずにそれを受け取って、なみなみと注がれた赤い液体をじっと見つめた。
結婚、か。
もう十年以上も一緒に暮らす彼等でも、その言葉はそれなりに重いものなのだろう。
サガの実家が、それを許さなかったから、という事もあるし、二人は真剣に養子をとることを考えてもいるらしい。
カミュは、明るく笑い声を上げているアイオロスの左手に光る指輪に視線を投げた。
サガには「虫よけ」などと言ってつけさせていた指輪も、アイオロス自身がしているのを見た事はこれまでなかったのだ。
見たくない未来が一瞬見えたような気がして、カミュは目を閉じた。
人は人、自分は自分。
今更確かめるまでもない、当たり前のことが、この色々な意味で近いところに居る二人の先輩を見ていると、時折揺らぐ。
カミュは、手にしたワインを一気に喉に流し込んだ。

時間とともに順調に洒落たオードブルの数々も、シャンパンも無くなり、
「やっぱり何か買いに走った方が良くないか?」と、カミュやアイオリア等が額を付き合せてリストを作成し始めた頃、突然玄関が開け放たれる音が部屋に響き、直後に
「カミュ!! シャワー貸してッ!!」
という大声が集まる全ての人間の耳を打った。
パーティ開始直後よりは多少空いて来た部屋とはいえ、百に近い視線が一斉に無言で声の主を指した。一瞬、部屋はしんと静まり返った。
呆然とした態の侵入者に、全員があんぐりと口を開ける中、人垣が割れ、大声で名前を呼ばれた人物が顔を出した。
「カミュ!」
ほっとしたような甲高い呼びかけに、カミュの大音声が炸裂した。
「こんな所で、何をやってるんだっ、お前はッ!!!???」


イタリアに半分帰化しているような状態のミロ・フェアファックスの下にアイオロスから電話があったのは、5月が半分も過ぎた頃だった。
「披露宴に出ろ」
という言葉の意味を知ったミロは、アイオロスも呆れる程に興奮し、サガが苦笑を浮かべて止めるまで「おめでとう」を連発し続けた。
「で、パーティーっていつなの? 30日? 土曜? !!!ずらせない仕事が入ってる……!! どうしよう……!!」
「その仕事、何時までなんだよ?」
「急げばなんとか4時のフライトに間に合う……かな……」
「おっ、じゃあ丁度いいじゃないか。パーティーは6時からで、バーロウん家だから、それまでに入れれば御の字だ。来るんだろう?」
「行く!! 絶対行くから!!」
そんな会話をアイオロスと交わして、ミロはリフォームを請け負った現場から、直行でロンドン行きの飛行機に飛び乗り(飛行機は彼を待って13分離陸が遅れた)、走りに走って汗だくになってカミュのアパートメントの前に辿り着いのだ。
階段を駆け上がりながらカーゴパンツのポケットから携帯をひっぱり出して時間を確認すると、6時13分前だった。
なんとか始まる前にシャワーを浴びて着替えよう、どうやったら8分以内でシャワーを済ませられるか、段取りを組みながら、ミロはブザーも鳴らさず合鍵で玄関を開けて、叫んだ。
「カミュ!! シャワー貸してッ!!」と。
そして、直ぐに目の前に広がる異変に気付いた。
ものすごい数の人間が、恋人の家の中に詰まっているのだ。
そして、皆自分の事を凝視している。
たっぷり五秒後、瞬きをして、集まっている人間たちが、馴染みのオーケストラの面々であったり、パブリックの同窓生だったりする事実が、停まっていた思考回路に流れ出す。
次に、どうしてもうこんなに人が集まっているのだろう、と疑問が浮かんで、またもう一回青い目をパチクリ、と閉じて開く。
すると、人垣が崩れて、目の前に三ヶ月振りに顔を見る懐かしい恋人の姿が現れた。
救われたような気持ちになって、「カミュ!」と上げたミロの喜びの声は、「何をやってるんだっ、お前はッ!!!???」という赤毛の恋人の驚愕の声に掻き消された。
「何をやってるんだって……だって、今日はサガとロスのWeddingだから……って……」
目の前に立ちはだかる恋人の呆れ果てた視線に、ミロはどんどんと小さくなっていく声で答えた。
仁王立ちしてミロを見下ろすカミュは、盛大に舌を打ち(カミュにはミロの格好が、実は半分寝巻き兼用の服である事が容易に見て取れた)、腕を伸ばした。がしっとミロの右手首を掴むと、無言で人ごみを掻き分けながらバスルームに進み、親友兼恋人を放り込む。
途中、キッチンに居るコックや、ウェイター達から好奇の視線を結構無遠慮に投げかけられたが、カミュはそれらを一切無視して進み、ミロは全く事態が飲み込めないまま、あまりにもいつもと違う内装の恋人宅に言葉を失った。
カミュは山と物が詰まれた寝室からバスタオルの類を引っ張り出し、興味津々の旧友達を押しのけて再びバスルームの扉を開けると、掴んで来たものを投げ入れてバスルームを後にした。
こんな、パーティも終盤になってから、何故わざわざやって来る?!
そもそも、コイツは今、コンクールの準備で殺人的に忙しいんじゃないのか?!
ミロに会えるのは嬉しいが、こんな日に二人揃っていたら、格好のからかいのネタにされてしまう事は目に見えている。
アイオロスがこれ見よがしにミロに彼等の立場を自慢するであろうことも、彼等と違って十年経っても一向に進展しない自分達の関係をつついてミロに余計なプレッシャーをかけるだろうことも、皆予想の範囲内だ。
だから、今日だけは、コイツが居なくて良かったと、安心していたのに!!
汗だくのミロをバスルームに叩き込んで、奮然と踵を返しながら、カミュはふと見えた自分の中の恐怖に蓋をした。
本当は、わかっている。そんなのは全て、言い訳に過ぎないのだ。
この状況を、ミロに見て欲しくなかった、本当の理由は………。
ミロは、聞いていた時間よりどうやら早く始まっていたらしいパーティーと、訳が分からないままの自分を無言でバスルームに押し込んで去ったカミュの態度に少し気落ちした。
気落ちした分、丁寧に髪と体を洗って、雫が零れない程度に髪を乾かすと、後ろで一括りにし、これだけは忘れずに、と持参したスーツ一式に着替えた。
なんとか身形を整えて、そろりとドアを引くと、表にはアイオリアやアンソニー、ウォルト等が待ち構えていてミロは早速もみくちゃにされた。
そして、カミュからは「まともな格好をしているから&どうせ飲めないのだから」と、サービスを提供する側の仕事をおおせつかり、久しぶりに会う先輩や後輩達の間を飲みものを持って行き来する具合になった。
あちらこちらに呼ばれながら、酸素が薄い部屋の中を縫って歩き、新郎&新婦からのご要望だ、と呼ばれてカルテットに参加する。
あっというまに時間は過ぎて、これからコッツウォルズのコテージで一週間のんびり過ごすという二人を見送り、ミロはようやく深い溜息を吐いて体の緊張を解いた。
全て業者が片付けにやってくる、というのでみんな手持ち無沙汰にだらだらと残り物を摘みながら帰る支度を始めていた。
ミロは、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを一杯コップについで喉を潤し、ぼんやりと急に寂しくなってしまった部屋を眺め、そして、はっとして声を上げた。
「カミュ! こないだのカミュの誕生日の時、何か凄くいいものロスにもらったんだろう? 今度来た時に聞かせてくれるって言ったじゃん、聞かせてよ!」
ドウコと話をしていたカミュが、ぱっと振り向いた。
その顔には、「信じられない!!」という表情が張り付いている。
少し萎んでいた部屋の空気が、途端にまた賑やかになった。
「なになに? こないだの誕生日? 何貰ったんだよ?」
「なんか、凄く貴重な録音だって言ってた!」
カミュの表情に、虚を付かれたミロだが、ざわめき始めた周囲の調子に気を取り直し、期待で一杯の明るい答えを返す。
彼は彼なりに、次にカミュに会ったらと、楽しみにしていたのだ。
当然、場は、盛り上がった。
下級生、同級生、上級生が一気にカミュに聞かせろと迫る。
カミュの目は、見開かれた。そして、次の瞬間、ビシッと音を立てる勢いで眉間に深い皺が刻まれた。
シオンとシュラを足して2で割ったかのような厳しさと重苦しさで、一言、
「紛失した!!」
とアルコールが回って鈍くなっている一堂を一喝した。
「……え……だって、こないだ聞かせてくれるって言ったじゃん……」
口答えをするバカが一匹……とは、第117期以下、カミュ・バーロウを団長として冠した経験のある団員の総意だ。
どうして、こう、このコンマスは団長の逆鱗を逆なでするのか……。
すっかり恋人に無視されてしょげかえっているコンサートマスターに同情する空気は極めてゼロに近かく、寧ろテキパキとクローク代わりに使っていた寝室から番号札と照合して荷物を引き渡す指揮を始めた第117期の団長を補佐する方が先決と、空気は引き締まった。
狂いなく、全ての持ち物が持ち主の元に返り、次々にカミュ・バーロウの玄関から人が去っていく。
「業者の撤収が終了するまで残ってもいいんだが……」
とカミュに気遣いを見せたシュラ・コーツも、アンドリュー・シーファと共に去り、最後まで残っていたアイオリアも消えると、部屋は、本当にカミュの部屋はガランと静まり返った。
林立する空っぽのグラスや、積み重ねられた大皿が、さっきまでこの部屋の中に溢れかえっていた友人たちの残像だけを微かに留めていて、ミロの胸に寂寥感を運ぶ。
溜息を吐いて閉めたドアに鍵を掛けたカミュをじっと見つめていると、ミロの頬にカミュの指が触れ、軽くキスが落とされた。
色々と、言いたい事が沢山あるのに、喉が詰まってミロは言葉が探せないでいた。すると、代わりに腹が、「ぐー」と情けない音を立ててカミュの失笑をかった。
「生の麺じゃなきゃ嫌だ、とゴネないんなら、何か簡単にパスタでも作ってやるよ」
そう言われて、ミロはカミュと並んでキッチンに入る。
2時から始まっていたパーティーに、6時ギリギリに駆け込んでもまともな食事など何も残っていない。
ぽつり、ぽつりと会話をしながら、少しずつ調子を取り戻しながら、二人は一緒に料理を作り、キッチンで即席で作ったナポリタンを食べた。
「サガ、凄く、綺麗だったよな……」
とミロが呟けば、そうだな、とカミュが返す。
「凄く、本当に、幸せなんだな……」
とミロが言えば、「ああ、そう言っていたよ」とカミュの声が応える。
「ジョシュアに、散々嫌味を言われた。コンクールに出るっていうのにこんな所で何をやってるんだって」
とミロが苦笑すると、カミュも苦笑してその通りだ、と溜息を付いた。
本当に、こんなところに来ている場合ではない。
でも、今日は、ただミロを気遣っているだけではない自分の都合に気付いているから、強くも言えない。
カミュは、またひとつ溜息をつき、「でも、サガ先輩はお前の顔を見られて喜んだだろうな」と呟いた。
「そうかな?」
「それはそうだろう。サガ先輩は、お前のことは特に大切に思っているみたいだから」
「……それじゃ、カミュは? 俺が来ても、あんまり嬉しそうじゃないけど……」
「そんな事はないよ。それは、会えれば、何時だって嬉しい。……でも、ただ手放しでは喜べない理由もある。正直、ちょっとアイオロス先輩には文句を言いたい気分だ。パーティの開始時間の嘘を教えてまで、先輩がお前を呼んだのは……きっと、この家を会場に使う事の埋め合わせだろうから」
「なんだそれ?」
「言葉通りだよ。一人後片付けの人足をイタリアから呼んでやったから、まあ家を貸せ、と」
「それが何で喜べない理由なんだ? お前が一人でこの後片付けするくらいなら、いくらでも喜んで手伝いに来るけど?」
「……人のパートナーを、勝手に都合良く人足代わりに、ホイホイ呼ばれてたまるか」
時計の針はもう9時を回っている。
「回収に来るの、遅いね……」とミロが呟き、カミュの瞳を見つめると、自然と引かれ合って互いの距離が狭まった。
「♪♪♪」
ミロの体はビクッと跳ねた。突然の音の正体を探すと、カミュがサッと動いて胸のポケットから携帯を取り出し、窓辺に移動する。
一言二言で済まなかった電話を終えて戻って来たカミュの顔は、険しかった。
「どうしたの?」
と心配してミロが尋ねると、「ケータリング会社からだ。仕事が押してこちらに来るのが遅れるそうだ」
ミロは、悪化したカミュの機嫌と片付かない現状を見てがっくりと肩を落とした。
結局、業者からの撤収スタッフがカミュ宅を訪れたのは10時半を過ぎた頃で、自前の機材のみを引き上げて去って行った。
時間が間に合わず、朝に訪れたのとはまた別の班がやって来てのクリーンアップは、兎に角自社の機材を持ち帰れと言われただけだど主張するスタッフと、現状復帰をするまでがプロの仕事だろうと冷たく蔑むカミュの間で押し問答になった。
それを、何とか「自分が手伝うから」と宥めて業者を帰らせたところ、カミュの機嫌はまた下がり、ミロは天を仰いだ。
カミュが業者に食い下がった理由の一つに、自分に負担をかけさせたくないという思いがあると、ちゃんとミロは理解している。だからこそ、自分の事でカミュが人に対して強く出る態度はを見るのは嫌だった。カミュは、滅多にそんな態度は取らないし、また、進んで取りたがる性質でもない。その無理を、ミロは取り去りたかったのだが……。カミュには、睨まれてしまった。
それでも、そんなカミュの視線には気づかなかった振りをして、ミロは朗らかに「さっさと始めよう」とカミュに声を掛けた。
寝室のベッドの上にまで重ねられた家具を、一つ一つ二人で丁寧に戻していく。「しっかり持て!」「もっと静かに置け!」、と檄を飛ばすわりに、自分の指にかかる負担や怪我を気にして注意を払ってくれているカミュの気持ちも、ミロはよく知っている。
だから、こんな時、ミロは決して「機嫌をなおせよ」、なんて単純な言葉は言わない。
カミュと二人でやる事なら、料理だって掃除だって、洗濯だって、なんだって楽しい。
心からそう思うから、自分に引きずられてくれるくらいの笑顔で、楽しく家具を運ぶ。低く、カミュの好きなジャック・ルーシェの音楽をかけながら。
そうしていくうちに、やがてカミュの表情も少しずつ柔らかくなり、全部の作業が終える頃には「いつもの」ミロと二人でいる時のカミュに戻っていた。
なんとか2時前に現状復帰を果たし、寝室のベッドもようやっと使えるようになり、カミュはミロにシャワーを先に使うよう促し、何時の飛行機で帰るのだ、と尋ねてきた。
ミロの心臓が、一度強く跳ねた。
「……大丈夫。そんなに慌ててない」
そう言うと、ミロはカミュの唇に自分の唇を重ねた。「疲れてるんじゃないかのか?」というカミュの問いかけを無視して、ミロはカミュの体を煽った。
カミュの腕が首から背中に回り、そしてミロの頭を抱く。
「一緒にシャワー浴びよう……?」
カミュの耳に囁きかけて、ミロはカミュを誘った。
バスルームで一度、あとはベッドに移って、ミロは三ヶ月分の愛情をカミュにそそいだ。
途中何度も「直接触るなと言っただろう!」とカミュに諌められても、ミロは容赦なくカミュの両方の性の感覚を刺激した。
滅多に、といより、初めてに近い強引さで有無を言わせないリードに、カミュの理性の欠片は微かな違和感を訴えたが、体は溺れたがっていた。
その様子を、注意深く読み取って、ミロはカミュを追い上げた。
押えつけられた体を跳ね上げて、全身を痙攣させながら、やがてシーツに沈んでいくカミュの体をしっかりと抱きしめて、ミロはもう殆ど意識が無いだろうカミュに向かって囁いた。
「いつか、自分達も…………」と。
すると、ふっとカミュの瞼が開いて、虚空を見つめて唇が声を漏らした。
「駄目だ……音楽家のお前とは…………一緒には、生きていけない………」
すーっと一筋、暖かな水がカミュの目尻から滑り落ち、それに呼応するようにカミュの薄い瞼も下ろされた。
自分の体の下で、意識を手放したカミュを、とうとうの本音を漏らしたカミュを、ミロは痛ましい思いで見下ろした。
とうとう言われた。いつか、そんな事を言われるのじゃないかと内心びくびくしていて、今、ついにその時が来た。
それだけの事だ。
そっと、カミュの体から自分の果てた性器を引き抜いて、ミロはカミュの体の汗をぬぐってやると幽かな音も立てないように羽根布団をかけた。
ヘッドボードの時計を見ると、もう直ぐ4時になる。
静かに床に落ちたバスタオルを拾って寝室の扉を閉める。汗だけシャワーで流し、服を着る。
朝一番の飛行機に乗るために、4時半にはカミュの家を出なくてはならなかった。
けれど、それを言ったら、きっとカミュはまた色々気を使うから……。
起きたら自分が居ないのと、家を後にするまで一緒に過ごすのと、どちらがカミュにとっていいのか、随分考えたが、幸福に輝いていたサガの顔を見て、前者に決めた。
あれを見て、カミュがただサガの幸せを喜んだだけだとは、到底思えない。
どちらにしても、寂しい思いを押し付けてしまうなら、今日味わった寂しさの分だけは全部埋めて行きたい。
そう思ったのだ。
リビングのローテーブルの上に、「会場準備、色々お疲れ様でした」、と書いたメモをミロは残した。
どう考えても、このライティングや全体の醸し出す雰囲気は、カミュが作ったに違いないと、確信がある。
生憎の人込みで十分な空間が取れず、人がある程度はけないとその全体像は見えてこないのだけれど……。
この空気はカミュの作品だと、ミロには分かった。
きっと、知らない人が(しかもカミュのセンスと大分違う種類の人間が)沢山カミュの家を出入りして、1日気持ちが落ち着かなかっただろうな、とミロはカミュに同情を覚える。
そういう所は、ほんとうに自分よりずっと神経が細かいのだ。
いつも人の事を動物扱いするけれど、逆立った毛を必死になでつけてそ知らぬ顔をしているスマートなレッド・フォックスが頭に浮かび、ミロはまだ明けないリビングでくすりと笑った。
「いつか、自分達も…………」
とは、サガとアイオロスの「婚姻」を指すのではなく、あの幸せで輝いていたサガの表情を作るもの、それを、二人で手に入れよう、そういう意味だった。
けれど、カミュの中ではもう応えは既に出ていて、その答えを奪ってカミュを自分の傍に留めておくことは出来ない……ミロは深く深く自分の胸のうちを覗き込んだ。
メモに、また今晩電話する、と付け足して、ミロは、そっと群青色に染まるロンドンの街の中に潜り込んだ。

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