カノン・セオフィラス・シュローズベリの誕生日

最初は、何で自分だけ、と思わなかったといったら嘘になる。
それまでの12年間、どんな人間よりも長い時間を過ごしてきた片割れと引き離され、海を隔てた国に追いやられる事実は、決して軽いものでは無かった。心理学を修めた今、冷静に状況を分析してみれば、軽くトラウマになってもおかしくない出来事だったはずだ。


今思い返しても、あの時の混乱した自分の感情を見るのは、心穏やかではいられない何かがある。
片割れが、あの時の時間をどう乗り切ったのか、尋ねた事も心情を吐露された事も無いから知らないし、どう自分を保ちなおしたのかも分からない。
もし、何も苦痛を感じていなかったなら口惜しい。
もし、直ぐにあの違和感を克服できたのだとしたら、むかつく。
いつも一緒にいる事が当たり前だった日常を捨てさせられても、年に数回会う時の片割れは、相変わらずの兄貴面でこちらの面倒を見ようとした。
別々にいる事が当たり前になって、遠くから片割れが一族の長になる姿を見てこれからの人生を送るのが決定事項だと思っていたら、平気な顔をしてまたそれを捨て去る。
まったく、片割れのその自分勝手さが、腹が熱くなる程いまいましい。
忌々しいのに、結局そのフォローをしてしまうのが自分なのだ。
その、骨に叩き込まれた自分の習性が、どうしょうもなくバカバカしく、やり切れない。
それでも、自分は捨てる事はできないのだから……。
「若様、ではお誕生会の招待状は以上でよろしゅうございますか?」
大仰な名が連ねられたリストをいやいや捲り、やっと最後の紙にまで目を通した俺に、傍らでひっそりと立っていた執事が慇懃に尋ねてきた。
「良いも悪いも、こりゃ決定なんだろ? 俺が見る意味があるのかよ? 俺の意見が通るなら、今年はそんなもの中止だ。っていうか、永久に無くしちまって欲しいね」
「恐れながら、これも一つの経験とお考えになられるのがよろしゅうございます。若様は新大陸に居りました分、どうしてもご親族とのご縁が希薄でございます。今後のご結婚の事等も含めまして、お見方になって頂く方をお増やしになられる良い機会とお考えになれば、またお気持ちも軽くなるかと……」
皺の一本も動かさずに、絶対に「恐れながら」なんぞ毛ほども思っていないアーサー・ヘンリーが立て滔々と言葉を発する。
それを、軽く右手を振って黙らせると、俺は溜息をついてもう一度リストの紙をパラパラと捲った。
今俺は、週に最低一度は実家に顔を見せている。
サガのぶちかましたテロ行動(まさにテロ以外の何者でもない)によって、実家はボロボロだ。
硬い表情をなおも硬くして書斎に篭って重苦しい空気を量産する親父に、そんな親父に対する気持ちや我が子への愛情の板ばさみになり、そして、現実をどう受け止めていいのか分からないお袋。
職業がら、特に今のお袋の状態が放ってはおけなくて、車を走らせて殆ど遠距離通勤の状態だ。
と言っても、自分をごまかしきれない真実があるのもちゃんと分かってる。
12の歳に突然切り離されたお袋との関係を、今俺は嬉々として再構築しているんだ。
さりげなく様子を見るために、話を聞くために、結構俺はお袋の部屋に足を運んでいる。
「……私は、お父様がああだから無理だけれど、お前はサガと連絡は取っているのでしょう? 元気にしている? 傷付いていない?」
「お前たちは兄弟なんですもの、例えどんな事があっても、助け合っていかなければ駄目ですよ?」
お袋は、サガのカミングアウトに相当なショックを受けているが、それを自分の夫が一刀両断に切り捨て、汚物のように拒絶した事にも傷付いている。
自分たちが受け入れてやれなかった事に、サガが傷付いただろう事に、心を痛めている。
「男同士の兄弟なんて、そんなにまめに連絡を取り合ったりしないですよ。病気だとも怪我をしたとも連絡は入ってきてませんから、元気にやっていますよ」
俺はいつもそう言ってお袋をなだめる。
大学二年に上がる前の夏休み、オックスフォードに通ってるあいつから、遊びに来たらどうだと誘いがあった。
パブリックからの友人とルームシェアをしているという話は聞いていたから、どんな奴なのか見てみる事にした。
事前に教えてもらった住所に、迎えはいらないと断って出向く。
何でも、楽器OKのフラットにしたかったとかで、大分難航した物件探しだったそうだ。一軒家を数人の学生でシェアしているらしい。
しかし、ここで何かひっかかる。
一軒家を数人でシェアしてるんなら、なんであいつのところにさらにルームメイトがいるんだ??
もしかして、実家が凄く貧乏であいつが見かねて手を差し伸べてやったとか?
いや、そんなに貧乏だったら、そもそもあいつと同じパブリックには行けないだろう。
しかも、イギリス国民には大学はタダ同然だ。
すっきりしない頭のまま、玄関についた複数のインターフォンのうちの一つを押す。
待つ事数秒、家の中から足音と人の気配がして、ドアノブが回る音がした。
そして、俺の視界に広がったのは、やたらでかい男だった。
(ちゃんとサガも一緒に居たんだが、背中に隠れて見えなかった)
デケ!!!
それが、あの熊に対する第一印象だ。
貴族の世界ってのもっとも分かりやすい見てくれに、みんな高身長、ってのがある。
そりゃ代々平民よりいいもん食ってりゃ、一族全体としてデカくなる。
うちは、スウェーデン貴族のお袋も、親父と身長は10センチも違わない、お貴族様一門の中でも結構長身の極みにいる家系だが、その俺よりも、さらにデカい!
一体、こいつ、なに食って生きてんだ??!!
人懐っこい感じの豪快な笑顔に騙されて(ここ大事)、二人の部屋に案内され、ついついロンドンへの行き易さにハマって一週間も長居をした(一度実家に戻ったが最後、そう簡単には遊びに出歩けねぇ)。
ただ漫然と長いしたわけじゃない。
俺なりに、あいつが妙なもんにたかられてるんじゃないのか、見極める意味があった。
パブリックに入るまでアメリカのシカゴにいたという熊は、そのせいで、結構気が合った。
細かいことは気にしねぇし、食生活の基本は完全にアメリカンだ。
結構、向こうの友人といるのと同じ感覚で気楽だった。
ところが、時間が経つうちに、どうも妙な違和感が皮膚に纏わり始める。
熊のあいつに対する態度、砕けているし、おちゃらけているし、全然Sirの称号を持つものに対する恭しさの欠片もない、その態度。
むちゃくちゃ、既視感がある。
なにか特別な出来事が切欠になったわけじゃない。
ただ、朝食をサーブしてやるタイミングとか、新聞を渡してやる何気ないアクションや、あいつを見る熊の目つきとか……。
なんか、似てねぇか? ヘンリーに……。
仲のいいご学友、じゃあなくて、あいつ、執事を見つけてきたのか??
初めは、面倒見のいい奴だな、と思ってたんだ。まあ、これなら、あいつがのほほんと若様やってられるから楽ってのも理解出来た。
家にいるのと変わらない、その居心地の良さが、「親友」だと錯覚している理由なら、お貴族様の価値観として俺はほっとくつもりだった。
けれど……時々、妙に、熊の視線の中には、まるであいつを所有して満足しているような光も混じっていて、掴み難かった。
まさかな、まさか、自分と同じ顔して、全く同じ遺伝子持った奴が……と目を逸らし続けて数年。俺が大学院を卒業し、インターン終了後経験を積んで、そろそろUKに帰って来いと実家からも、成人してからも傍を離れないヘンリーからも煩く言われるのに辟易して荷物をまとめて海を渡ったり(まあ、親父の小言はともかく、未だアメリカを新大陸と称するヘンリーのジイ様を故国の土を見せずにコロリと逝かせたら、流石に俺も目覚めが悪いからな)、自活の手段を見つけなくちゃならなかった俺はともかく、あいつが未だに実家に戻らないのはそろそろまずいんじゃないか、とあいつに言ったらば、ド真剣な顔して「カノン、話があるんだ」と来た。
そして、長年目を逸らし続けていた事に対する爆弾宣言。
大体、大学時代ならともかく、オックスフォードで働く身分になってもあの熊と同居しているってのは、おかしいと思ってたんだ……ああ、ちくしょうっ!!
俺はあいつに噛み付いた。
どうかしてるぞ、と。
同性に惚れるなんてバカバカしい錯覚に陥る事も、そんな下らない事に割く時間も、お前にはないはずだろう、と。
痛みを堪えるような顔を、あいつはした。
だから、もっと言った。
そんな感情は勘違いだ、と。
珍しく、あいつの手がこぶしになって、ぎゅっとそれを握り締める。
「まあ、過去にそういう変態当主も居たかもしれないけど? 遊びにしとけよ。どうしても今切れ無いってんなら、精々発散の一手段だと割り切ってた方がいい。向こうにのめり込ませるなよ? どうせあっちも金目当てさ」
あいつの顔色が、さっと白くなった。
唇がきゅっと引き結ばれ、あいつの喉は何かを飲み込んだようだった。
何秒も、あいつは何も言わなかった。
ただ、じっと俺を見つめていた。
そして、やがて、ゆっくりと唇を開いた。
「カノン……私は、人が何を私に求めるのか、読み違えるような事はしないよ。彼は、私の財産にも地位にも、なんの価値も見出していない。そして、私は、遊びで誰かの肌に触るような事はしない」
静かで、ひっそりとした声だった。けれど、それは、鉄のように硬く、鈍く俺の体に刺さった。
そうだ。
こいつは、他人の下心に気が付かないようなバカじゃない。
やわらかな物腰の裏で、やさしい笑顔の先で、磨きぬかれた礼節の中で、こいつはいつだってちゃんと人の本質を捉えて計算している。
俺が、時に背筋の寒くなるような鋭い利口さで、あいつは何者にも操られたりしない。
それでも、若さゆえの熱に狂わされて、というのだって、あいつだって人間だ。あるに違いない。
そう思って、どこかに見えるだろうその破綻を探そうともう一度あいつの言葉を頭の中で確認して愕然とする。
遊びで肌に触る事はしない、だと???
鳥肌が立ち、背中にいやな感じの汗が浮かんだ。
それって、やっぱやる事はやってる、って事か? そんでもって、どうあがいても、熊をおまえが組み敷いているとは思えないわけで、でも、そしたらやっぱお前がカマ掘られてるって事なのかっ???!!
勘弁してくれっ!!
自分と同じ顔した奴が、自分と同じ遺伝子持った奴が……!!!!!
呆れ果てて言葉が出ない、という状態は本当にあるのだと、身をもって知った。
頭を冷やせ、と言うのが精一杯だった。
もしあいつがやられる役じゃないんなら、あいつが可愛がりたくなるようなのを見つけて来てあてがう手段なんて、いくらでもあるんだ!
だが、あの熊みたいな女って、探せねぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!
実家に戻りたくない一心で、なんとか策を弄するうちに、あいつはとうとう親父とお袋に核弾頭落とした。
いや、お袋たちのショックは、自分たちの目の前で自殺するあいつを見たって言うほうがむしろ近い。
その歳になって、親を泣かせるもんじゃないだろ、兄貴……。
何度見ても減りなどしないリストをとうとう机の上にバサリと捨てると、ヘンリーの咎める視線を感じる。
「リストはこれでいい。けど、日付をずらしてくれ。誕生パーティーは5月30日じゃなく、イヴだ。当日は、家族水入らずで過ごすから、と適当に理由をつけてごまかしとけ」
ヘンリーが、ちらり目を動かした。
「それから、事前にさりげなく、シュローズベリ夫人の体調が最近優れないことも。当日のお気遣いは無用だが、無神経に詮索の言葉を口にするのはご遠慮頂くと釘を刺しておくのも一緒にやっとけ」
溜息を吐いて、「以上だ」と言うと、ヘンリーは深々と了承の意の礼を取った。
皺の刻まれた長い指が、俺の捨てたリストの束を掬う。
空をにらんでいた俺は、なかなかヘンリーの去る気配が無い事にふと気付いた。
その、緊張の緩んだ一瞬の隙に、ヘンリーの静かな言葉が部屋に流れた。
「若様、ヘンリーは、若様がシュローズリ家の当主たるご器量になんら不足も遜色もないと存じておりました。……成長なさいましたな。若様は、サガ様とは異なった方法で、当主としての路を違わず進んでおられる。爺は誇りに思いますぞ」
ヘンリーは足音を立てない。扉が閉まる音だけが、乾いた軽い音を立てて、後は静寂が部屋を満たした。
金曜の昼まから、準備と土曜は見たくも無い親戚連中の顔を見て、腹の探り合いをしながら形ばかりの「お祝いパーティー」とやらをやり過ごす。
去年までは、あいつに押し付けていたもの全てが俺のところにおっかぶさってくる。
深夜、泊り客が全て納まる場所に収まり、使用人の労をねぎらい、わずかばかりの返礼を贈り、やっと自室に戻った時、アレックスが部屋のドアを叩いた。
「奥様が、もしまだお休みでなければ、と御呼びでございます」
深々と俺の前で礼を取るアレックスに、もうお前は下がっていいと言って母の部屋を訪ねた。
母の部屋には暖かな紅茶の香りが漂っていて、知らず溜息が零れた。
「今日は、ご苦労様でしたね」
とお袋に微笑まれ、椅子を勧められる。
俺が腰を落ち着けたのを確認してから、優雅な動作でお袋は俺の前に茶器を揃えた。
ああ、なんだ。あいつの所作の優美さは、この母親譲りか、と俺はそんな事を考えた。
たわいもない事を暫く話していると、お袋はやがてそっと席を立ち、繊細な書き机の引き出しをするりと開けると、綺麗に包装された包みを取り出し、俺に差し出した。
「カノンから、あの子に渡してもらえないかしら? お兄様が古い蔵書を整理なさっていて見つけられたそうで、あの子がそうしたものに興味を持っているのなら、とお譲りくださったの。きっと、喜ぶと思うから……お母様は、変わらず愛していますよ、と伝えて頂戴……」
お袋は、俺がその包みを受け取ったのを確認すると、俺の額に二度キスをし、「誕生日おめでとう。あなたたちが私の息子として生まれてきてくれて、私は本当に幸せよ」と囁いた。
すっかり酔いも冷めて自室に戻れば、扉の前には下がらせたはずのアレックスが居て、しかもなにやらでかいバスケットまで持っている。
思いつめている表情に、入室させ、用事を尋ねれば、殆ど半泣きの体で、抱えてきたスイーツをあいつに渡してくれないか、と、これまた俺を宅配扱い。
「無礼は重々承知しております。しかし、尋ねても父は私には若様のご住所は教えてくれませんし、かといって旦那様にお尋ねする訳にもまいりません。
突然、何故若様が旦那様から義絶を言い渡されたのか、私にはそれすら分かりません。
私が無責任に心行くまで勉学の道をお進み下さいなどと申し上げたのがいけなかったのかもしれません。
しかし、これではあんまりにも若様がお可愛そうです。
今日この日に、奥様に御面会する事も適わず、誰からも若様はご誕生をお祝い申し上げる言葉を捧げられないなど……どんなにか若様はお辛い日をお過ごしになられる事か……!!」
見ると、日付がもう変わっている。
「ああー、まあ? お袋に会うのにこの家に帰って来んのは無理だが、今日はあいつ、なんかパブリックの同窓とかが100人くらい集まって盛大に祝ってもらうみたいだぜ、誕生日」
なんで勘当されたのか、そりゃあアレックスには言えねぇだろうなぁ、親父もヘンリーのジジイも、と内心に思いながら真っ赤な目をしたアレックスを宥めると、今度は本当にアレックスは涙を流して声を詰まらせた。
「……若様は……良いご学友に恵まれて…………」
そのご学友の一人が、なんもかもの原因なんだがな! とは、我慢して言わないでおいた。
何度も「申し訳ありません」を繰り返すアレックスを、なんとか追い返して、俺はやっとネクタイを外して寝台に飛び込んだ。
そもそも、四月には、あの熊から連絡が来ていたのだ。
シュローズベリ家が正式にサガを排斥するにあたり、こちらも正式な手続きを進めている、と。
その時に、あいつの証人になるつもりは、あるか、と。
誰がなるかと、怒りの電話を叩きつけたら、あいつは笑ってそう言うと思ったと、さらりと受け流し、なるべく伯爵家の名前が流出するようなヘマはしないよう細心の注意を払って事を進めるので成功を祈っていろと言われた。
潰れてしまえ、そんな手続きは! と思ったが、それでうちの名前が出るのはしゃれにならないくらいまずいので、ひやひやしながら俺は動向を伺っていた。
金曜の晩、携帯のテキスト・メールに簡潔なサインと、明日披露宴をするので暇なら来いというメッセージが熊野郎から入っていた。
誰が行くか、くそったれっ!! ってか、披露宴ってなんだ、披露宴って!!!!
と思ったが、バカバカしいので返事もせず無視した。
そして、月曜の朝一番で仕事が入っていると言い訳をして、実家をそうそうに後にし、今俺は、ロンドンに居る。
テキスト・メールにあった住所の前で、車を止めて、ただ待っている。
七時には新婚旅行(何が新婚旅行だ!!)に出発するから来るならその前に顔を出せ、と書かれていたから、夕方からじっと車を路駐してその中で不貞寝している。
腕時計が、小さく七時を告げた。
それから数分して、アパートメントの正面玄関が開き、オレンジ色の光が道にさっと伸びた。
玄関からも、二階の窓からも、大勢の人間が顔を覗かせ手を振っている。
冷やかしの口笛と、聞きたくない名前と下品な言葉が暫し通りを賑わせて、人間の皮を被った熊がそれに手を振って応えたり。
見ていて非常にむかつく光景だった。
ルームミラーに、大きな籐のバスケットと紙袋に突っ込んだお袋からの預かり物が、映っていた。
さて、どうするか……と腕組みして考えると、熊野郎に何か囁かれていたあいつが、急にこちらを振り返って、左右も確認せずに道路を突っ切って来た。
こら、熊!!なんて真似をあいつにさせるんだっ!!
と、俺が慌ててる間に、とっくにあいつは運転席の扉の窓に顔を近付け呟いていた。
「カノン……」と。
熊は相変わらず道路の反対側で、こっちに背を向けて携帯を弄っている。俺は、しぶしぶドアを開けて道路に足をつけた。
目の高さも、髪の色も、眉毛の形も、目の色も、何もかも鏡の中の自分と一緒だ。
そんなあいつの顔を見て、バックシートを顎で示してぶっきらぼうに言う。
「お前に預かり物だ。アレックスと……お袋からだ」
サガは一瞬息を呑んだ。
そして、俯く。
そんな顔をするくらいなら、捨てなきゃいいんだ、お前は!!
俺は、サガをそのまま無視してリアドアを開けると、バスケットと紙袋をサガに押し付けた。
「バスケットはアレックスからで、お前の好きなシフォンケーキの詰め合わせと、その他もろもろのスイーツだ。お袋からは、スウェーデンの伯父貴んとこから珍しいカビの生えた本が見つかったからお前にくれてやるとよ……誕生祝だそうだ」
「……ありがとう……わざわざ届けてくれて……」
受け取るサガの手に、少し、力がこもった。
「アレックスの間抜け野郎が生ものなんか寄越さなけりゃ郵送してやったさっ。それをあいつ、申し訳ございませんとか言いながら、日持ちのしねぇもの寄越しやがって!! 俺はお前のパシリかってんだ。そんな間抜けだから、アメリカから帰ってきたヘンリーの爺様に実権奪われんだ。って、まああいつは最初っから形だけの執事か」
「カノン、そんな言い方にアレックスに失礼だよ。アレックスは私たちとそれ程歳が変わらない。老ヘンリーと比べるのは公平ではないよ」
さっきまでの萎れた様子はどこへやら、とたんにサガは兄貴顔になって説教の真似事を始めた。
サガの小言は長い。
教育係だった筈のアレックスはちょっと睨めば直ぐに切り上げるのに、サガのこの長説教はヘンリーのジジイにそっくりだ。
むかついたので、
「……全部、済んだのか?」
と、カウンターアタックを仕掛けたつもりで、その返答に俺の方が凹んだ。
「ああ、全部終わった。……苗字もエインズワースの名を使わせて頂くことにしたよ……これから先、何があってもこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかないから……」
覚悟していたとは言え、シュローズベリの姓を捨てたと、サガの口から聞くのは、痛かった。
俺が眉を顰めると、サガは少し慌てたように早口で、「でも、仕事の方ではこれまで通り旧姓で通して行こうと考えているのだけれど……いいだろうか? 既に発表してしまった論文や研究の都合があって……」と声を窄ませた。
「別に、やばいことの研究してる訳でもなし、あんなマニアックな世界に通じている人間がそうそういる訳でもなし、いいんじゃねぇの?」
少しだけ、サガ・シュローズベリという人間が、まだこの世に残っている事に安堵して、けれど、それを絶対に悟らせないように、どうでもいいといった風に俺は応えた。
すると、サガは、少し微笑んで、
「これからは、お前がロード・チェトウィンドだよ……」
そう言って、「誕生日おめでとう」と言い、柔らかく俺の背を抱いた。
「まさか、今日カノンに会えるとは思っていなかったから、誕生日プレゼントはバーミンガムの家に送ったんだ。今日はロンドンに一泊するのかい? それともこのまま戻るのかい?」
人の気も知らずに、能天気に俺の帰りの心配をしてくるサガを手で黙らせた。
ああ、畜生!
こいつが、双子でも、妹や姉貴だったら、幸せになれよ、って言ってやるさ!!!
いや、妹だったら、断固として熊になんぞやらねぇ!!!!!
くっそっ———!!!
「俺は、お前へのプレゼントなんて準備してねぇぞ!」
俺をハグしたのりで、いつもよりずっと近い距離に居るサガを押しのけて運転席に戻る。
なんでこんなに腹立だしくて、口惜しくて、虚しいのか、自分でも訳が分からない。
俺が、ロード・チェトウィンドになる事が、お前への一生分の誕生日プレゼントだ、など、口が裂けても言ってやらねぇ。
お前が捨てたものを、俺が拾ってやるんだなんて、一生言わない。
けれど、お前は、いつだって「捨てる事の出来る側の人間」で、俺はいつだってそんな度胸も傲慢さも持ち合わせちゃいない。
捨てられるのは、お前がいつもそれ以上のものを手にした「王」だからだ。
その傲慢さで、生まれつき人の上に立つことが出来る「者」だからだ。
だから、お前には、ちゃんと分かりやすい形で「王」で在って欲しかった。
それなのに、お前は目に見える王たる証を全て捨てると言う。
万人の目に、それは王者の転落と見えるだろう。
そして、おまえすら、自身はもはや「王」では無いと言う。
けれど、俺は知ってる。
俺は違えない。
お前は、もはや誰にも引き摺り下ろされない、正真正銘の「無冠の王者」になったんだって事を。