僥倖

どうもここ二週間、バカンス熱がヒートアップしていたミロが、とうとうロンドンに来ると言い出した……。


頼むから、集中してくれっ!! 来月だろう?! パガニーニ!!!!!
思わず叫んだ。
なんで私がこんなに胃の痛い思いをしなきゃいけないんだっ??
普通は、当事者がもっとシリアスに、切羽詰るもんじゃないのかっ??
すると、ヘッドフォンの向こうから、溜め息と気まずさの混じった「だって……」が聞こえた。
「その……凄く、カミュに会いたくなったんだもの……会いたいというか……触りたいというか……本当は、その、やりたい、んだけど……」
一気に背中の力が抜けた………。
「アレ」を聞いて、そういう気になってもらえたのなら、経過結果の枝葉は考えずに、嬉しいと思う。
私だけが熱を持て余したわけではないのなら、それは矢張り嬉しい。
それなら、いっその事、ロンドンに来てもいいと言って、私が昼間に仕事をしている間楽器の練習をして貰って、ちゃんと食事を摂らせて、夜は、ミロの希望に添えばいいのかもしれない。
それが、いいのかもしれない。
自分の希望とミロの希望と、摺り合わせれば……。
少しの後ろめたさを感じて、けれど、やはり会えるかもしれないと思うのは嬉しくて、それなら、三日くらいなら来てもいい、と言おうとした時、またミロの悄気た声が耳に届いた。
「カミュはバカンスって馬鹿にするけど、本当にみんな居なくなるんだからな?
……ローマに居るのなんて観光客だけだよ……
……特に15日から一週間、本当に、本当に、みんな居なくなるんだから……
デスもナポリに行くって言うし……師匠だって居ないし、練習に付き合ってくれる伴奏の学生だってみんな居ないんだから俺だってカミュの所に行きたいよ……」
伴奏者が居ない、その言葉を聞いたとき、考えるよりも早く言葉が出ていた。

「じゃあ、私が代わりに練習に付き合ってやろうか?」

言ってしまってから、さっと血の気が引いた。
私ではとても相手にならないのではないか。
ミロはそう思うのではないか。
そして、それをはっきりと言われるか、それとも、そんな告知をする事を躊躇うミロの言葉を自分は聞くのか……。
体の全部が耳になって、まるで有罪判決を聞く被告人になった気がした。
馬鹿な事を言った、そう思った……。
が、
「ほんと?! そうして貰えるんなら、凄く助かる!!」
明るく、なんの迷いもない返事が返ってきた……。
平常、私たちはスカイプの会話でカメラをONにする事はない。ミロが気恥ずかしがるし、互いの顔が見えるといらないものまで伝わる事が煩わしく思える時があるから。
そして、今日ほどそれで良かったと思った事はない。
ミロの一言、打てば響くように返った一言、その中には、私が恐れた冷たい宣告も、生き埋めにされるような生暖かいやさしさも、どんな躊躇も無かった。
それが、こんなに嬉しくて、泣きたくなる事だなんて、ミロにはきっと分らない。
顔を、見られなくて良かった……。
歯を食いしばりながらそう思う。
スカイプの音声は続いていた。
「楽譜、どうする? ファックスして送る? カミュ、どのくらい時間ある? いつこっちに来る?」
息を静かにすって、自分の内心の動揺を悟られないように気持ちをしっかり持ってから言った。
「何曲くらいあるの?」
「んー? Preliminary Stage でモーツァルトのヴァイオリンコンチェルト3番1楽章、と、パガニーニのカプリスから1曲、それからYsayeの4番。後ろふたつは伴奏いらないけど。Semi-finalでベートーヴェンのヴァイオリンソナタ8番、 バッハの無伴奏ソナタ2番からうしろ2つ、ラヴェルのツィガーヌ。あとはパガニーニのカプリスと新曲だけど、この新曲はピアノが凄まじい曲だからいいや」
ここまでで、私の頭はすっかり飽和していた。一体何曲弾くんだ……まあ、コンクールだから、当たり前だが……。しかし、それで本当に遊ぶつもりなのか?!
「で、もしFinal に残るって信じてくれてるんなら、ブラームスとパガニーニのヴァイオリン協奏曲
があるから、そのオケ版ピアノ譜もあるよ?」
最後の言葉には少しこちらをからかう様な響きがあった。普通はコンクール一ヶ月前といったらもっと目の色が変わっているものだろう……と思いつつ、そのマイペースさがミロの武器だった、と学生時代を思い出す。
震える息を、喉の奥で止める。それを飲み込んで、下腹に力を入れる。
思った通りに、きちんと安定した声が出せるように。
「Finalまで残るつもりでやるんだろう? それだったら、Faxで送るのは本選一次のモーツァルトのピアノリダクションと、セミファイナルのツィガーヌ。ベートーヴェンは持っているからいい。ファイナルは、パガニーニはヴァイオリンが主役だからいいとして、ブラームスだけど……これもファックスで送ると大変な枚数になるからいいよ。こっちで簡単に手に入るだろう」
「え……マジ、全曲やる気?」
「私の手が追いつくところまで。なにしろブランクがあいているから、今から実家のピアノを借りてやるにしても、正直どこまで弾けるかわからない。一次のモーツァルトとセミファイナルのベートーヴェンまでは仕上げていくと約束するが、それ以上はそっちに行ってから調整になるかも知れない。とくに、ブラームスのピアノリダクションは一筋縄ではいかないし……伴奏者はつれて行けるのか?」
「いや、向こうで伴奏者がつく」
「ということは、伴奏者の印象は点数に入らないということか……それならまあ、本選はまだ一ヶ月先だし、私でも練習台くらいにはなるだろう」
コンペティションによっては、伴奏者をつれて行かなければならない場合があり、その場合には伴奏者との息がどれだけ合っているかも評価に含まれる。もし伴奏者を連れて行くのなら私の癖をつけるのはまずいと思ったが、そうでないなら、と少し安心した。
もうずっとピアノに触っていない。
詰まらない感傷で触れなかった。
今も、全くわだかまりが無いと言ったら嘘になる。きっとミスも多いだろうし、ミロが弾きやすいような伴奏になるまで練習する時間もないだろう。
それでも、伴奏者もつからまらず、本選前の大切な時期に一週間無駄に過ごすよりはいい、と思ったのだ。
ミロは、ヴァイオリンを続けていたことを、三年間も見事に私に隠し通していた。ミロにはミロの理由があったと理解しているし、その根底にあったのは、私への気遣いだということも分かっている……けれど、その隠蔽の末に到達した音楽が証したのは、彼が音楽の道を歩むのに、私の助けなど全く要らないという事実だった。
当たり前の事だったのに、その衝撃が大きすぎて……去年のミロの誕生日以来、ピアノが弾けなくなった。
今も、こんな事情でもなければ、ミロは私の助けなど必要ないのだろう。
そう分かっていても、ミロの歩む道に自分のピアノが僅かでも交叉出来ることが、どうしようもなく嬉しくて、胸が痛い。
「でも、カミュ……」
ミロは、何か言いかけた言葉を飲み込んだようだった。そして飲み込んで直ぐ、言い淀んだ一瞬の空気を吹き払う明るくしっかりした声で、
「ありがとう、助かるよ! じゃあ、渡航費は半額俺持ちで、残りはもし賞金が手に入ったら美味しいワインでも探すよ!」
と言った。
一瞬、私の伴奏を歓迎したのを後悔したのじゃないか、そして、それが私を傷つけると知ってそんな事を言ったのじゃないかと思ったけれど、それでも構わないと思い直した。
自分程度の伴奏者でも、居ないよりはいい。そして、そう思わせるくらいには、仕上げてみせる。
あと5日で……
「それじゃ、15日に行くから。それから一週間、そちらに世話になるよ」
「え、ホントに一週間居るの? じゃ、その前から来るのは駄目?」
「駄目。こちらで暫く勘を取り戻さないと、使い物にならないよ」
「こっちにもピアノあるよ?」
「キィが軽すぎるんだ。そのアップライトはいい音だけど……鈍った指を鍛え直すにはグランド・ピアノの方がいいから。まあ、あまり期待しないで待っていてくれ」
ミロには言わなかったけれど、本当は、ロンドンだってこの夏の盛りに仕事なんて殆どない。ここ二週間ほどは九月からの仕事の企画を練ったり、企画書の整理をしたり、大企業が休みの中どうしても急を要する仕事を請け負っていただけだ。15日からの一週間には二、三件現場の下見の予約を入れているけれど、それは日時をずらして貰うことが出来る。
これから、家に電話して、15日までピアノを使わせてもらえるように頼んで……と考えて、ふと可笑しくなった。
もうピアノなんか弾きたくないと、つい昨日まで思っていたのに、既に頭にはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の最初の主題が溢れていて、明日の朝には楽譜を買いに行かなければ、などと考えている。一瞬、デュオの機会を探して先輩や仲間達に声をかけていた、無邪気に音楽を楽しんでいた時代に戻ったような気がした。
「それじゃあ、また明日電話するよ」
「うん、お休み」
とりとめのない会話を交わし、いつもの挨拶で通話を切る刹那、ヘッドセットを外しながら、息だけで「Thanks」と告げた。

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