皮肉なもので、実家と絶縁してから、割合に頻繁に実家を訪ねるようになった。
父はまだ面会を許してはくれないが、私が成人してからチェトウィンド卿として交わした契約を弟に引き継ぐため、事務手続きが必要になったからだ。
老ヘンリーがカノンと共にイギリスに戻ってきてくれたので、幸い、手続きの一切を父を煩わせずに済ませることが出来た。
エピファニーが終わった後、私は再度実家に戻り、最後まで残っていた契約のひとつを無事弟の手に渡した。
「こんなもん、俺が貰っても使えねえし」
クリスマスからこちら、ずっと正装でかつての私の席に座らされていたカノンはすっかりご機嫌斜めで、バーミンガムの自宅に帰宅するなりロスが土産に車で運んできたアメリカ・ウィスコンシン州の地ビール「Spotted Cow」を一瓶一気に空け、ぷいとそっぽを向いた。
アレックスがバーミンガムまで送る準備をしていたものを、わざわざ我々の狭い車に押し込んでバーミンガムまで連れて行けと言うのだから、よほど堅苦しい雰囲気に辟易していたのに違いない。
ロスは心得たもので、カノンのご機嫌取り用に、私の知らない間に大きな牛のサーロインを買ってトランクに積んでいた。それをキッチンのグリルで炙り、塩、胡椒だけでかぶりつきながらの会話だった。
「いっそお前が管理してくれた方が楽なんだけど?」
「カノン、それはそういうわけにはいかないよ……二十万ポンドの楽器だ……私が権利を持っていていい資産じゃない」
「ま、ウチは不動産と有形固定資産が潤沢にあるだけで、金融資産はそんなにはないからな。二十万ポンドと言えばお前が自由に動かせた金の五分の一くらいにはなっただろうが、俺がもし本当に爵位を継いだらそれも大した額じゃない。つーか、お前のアマティの方が時価に換算したらトンでもない事になるんじゃないのか?」
私が用意した書類の隙間から意地悪くこちらを眺めるカノンの視線に、私は二の句を継げずに黙り込んだ。
今日持って来た書類は、ミロと交わしたミロのヴァイオリンの貸与契約書だ。私は別に無償貸与で構わないと再三ミロに言ったのだけれど、ミロは有償で、出来れば最後に買い取らせて欲しいと言って来た。そういう事情で、あの楽器にはそれに付随する定期収入があり、その権利を移管するために書類を作成したのだ。
けれど、弟の言う通り、ミロの楽器がいかに名器とはいえ、骨董的価値からすると私が今使わせてもらっているアマティには遠く及ばない(音は既にミロの楽器の方が鳴るのだけれど)。アマティは既に木の寿命ギリギリの三百年が経過しており、現在も使われて手入れがされている楽器はそう多くないからだ。
「それは勿論、あのアマティも将来お前が受け継ぐものだよ。……でも、あれは私のものではないし、父上に返そうにも父上は会って下さらない。……もしお前が待ってくれるなら、あの楽器は、ちゃんとこの手で父上にお返ししたいと思っている。勿論、お前が嫌なら、すぐにでも返すよ」
そう答えながら、それもまた、あの愛すべき楽器ともう少しだけ一緒にいたい自分の我侭なのかもしれないな、と思った。もし弟がヴァイオリンを弾くなら、私は今すぐにでもあの楽器を渡すだろう。けれど心のどこかに、弟がヴァイオリンではなくピアノを選んだ事を有難く思っている自分が居る事も事実だ。
カノンは、大きく切った肉の塊をふたつほど一度に口の中に放り込んで、気の無い返事をした。
「だから、俺が貰ったって使えねえって言ってるだろ。彼女も楽器はチェロだしな。弦楽器は弾かねえと鳴らなくなるし、まあ、そっちはお前が手入れ番として持ってりゃいいだろ。問題は、こっちの話」
ひらひらと書類を振って、カノンは書類を灯りに透かした。
「なんだっけ、お前の後輩の名前。ナントカフォックス? こないだのパガニーニコンクールで入賞したって話だけど、2位ってのがビミョ〜なんだよな。1位だったら、まあ、無料貸与とかしてやっても外向けにも全く問題ないんだがな……どうせお前、今まで振り込まれた金使わずに、時期が来たら返すつもりでいたんだろ?」
「……「フェアファックス」だよ。お金は、私はミロが苦労して振り込んでくれたお金を使うのが忍びなくて使わなかったけれど……お前のものになったら、お前がどう使うかは自由だよ」
「そんな、『どうか今まで通りで』って書いてある顔で言われてもな」
カノンはちらとこちらを見て、書類をソファの上に投げ出した。
「ま、権利譲渡の件は了解した。金の振込先は、面倒だから今まで通りにしといて必要な時はお前から徴収することにするわ。そのかわり、利子もそっちからふんだくるからちゃんと増やしとけよ」
ロンドンの自宅に戻ると、カミュが既に留守宅でウサギ達のLitter Boxの掃除を済ませてくれていて、テーブルの上には夕刻少し(うさぎの)ロスの元気がなかった事、綺麗なまるいふんをするまで少し時間がかかった事がメモ用紙に時刻と共に残されていた。
あと三十分早く戻れていたら、直接会ってお礼が言えたのに、と思う端から、先週の木曜日にHRSから戻る道で聞いた話を思い出し、なんとも言えない苦い気持ちになった。
ミロがカミュを振ったというのは、本当だろうか?
ふと、ミロに直接きいてみようか、と思った。今日は丁度話す事もあるし……
ロスがコンピュータに向かっているのを見て、そっとキッチンに携帯を持ち込み、イタリアの番号をみつけてプッシュホンを押した。何分プライベートな話だし、ロスは何故かあの二人のことになると何かと茶々を入れようとするので、ロスが聞いていないところで電話した方がいいだろう、と思ったのだ。
ミロはあまり夜は家に居ないと言っていたけれど、今日は呼び出し音が三回ほど鳴ったところで「pronto!」と返事が帰って来た。
「ああ、ミロ? 私だけれど……」
『えっ?! サガ?! 待って! 今かけなおす!』
いや、このままで、という私の言葉は、そこまで聞かなかったらしいミロの受話器を置く音に遮られた。
まずい。家の電話にかけられてしまったら、会話がロスに聞こえてしまう。
慌ててもう一度リダイヤルをかける間に、何故かロスが空けているラップトップ・コンピュータの方から電話の着信音がした。
ああ……最悪だ……よりによって、ロスのアカウントにSkypeとは!
『Hello! サガ?』
「なんだお前、これ、俺のアカウントだぞ」
ロスが呆れたようにそう呟いた。
『あれ? そうだっけか?』
「相変わらずいい加減な奴だな。で、うちのエセルになんか用か」
『いや、サガの方から電話貰ったんだけど……いや、俺もサガに聞きたい事があるけど……』
歯切れの悪い呟きがコンピュータのスピーカーから聞こえて、カミュの事だな、と直感した。
どうやら、ミロの方は、この件をロスに知られる事をそれほど気にしていないらしい。が、カミュは間違いなく気にするだろうし、実際被害を被るのは殆どの場合カミュだ。
もっとも、それも、二人が恋人として今も続いていれば、の話だけれど……。
「いや、用というほどのことでもないのだけれど……一応、伝えておこうと思って」
私は、とりあえず差し障りのない話題として、ミロが使用しているヴァイオリンの所有権が私から弟に移ったこと、貸し出しの条件は今までと同じで構わないと確約を得た事を簡潔に伝えた。
ミロは丁寧な感謝の言葉と共に、カノンにもお礼を書きたいから住所を教えてくれ、と伝えてきた。
『それで、サガの方の用件は終わりかな?』
ヴァイオリンの話が一区切りつくと、ミロは、そう遠慮がちに訪ねてきた。本当は、他にも話したいことはあったけれど、ロスが一緒に聴いている場でこの話題を持ち出すのは良くないと判断し、私はそれだけだ、と返答した。
ところが、ミロの方が、溜息をついてその話題を持ち出してきたのだ……。
『あのさ、……カミュが今何をしてるのか、本当に知らない? ずっと電話しても出ないし、メールの返事もないし……Skypeもオンラインになってないし。もしかしたら、風邪でもひいて寝込んでるのかもしれないと思って……』
途端にロスの眉間に皺が寄った。
「はあ? バーロウなら、ほんの三十分前までここに居てウサギの世話をしていったはずだぞ? 携帯には電話してみたのか?」
『勿論したよ! でも何時も留守録になって、伝言も残してるし、携帯にもメッセージ入れてるのに返事がないんだよ』
「そりゃお前、モロ避けられてるってことじゃないのか」
スピーカーから、盛大な溜息が聞こえた。
『……やっぱり、そうなのか……』
「ミロ、何か心あたりはないのかい? カミュが音信不通になってしまうような……」
ロスの横から身を乗り出して口を挟んだ。やはり、この感じは「ミロがカミュを振った」という状況からはほど遠いように思える。
『……まあ、あるといえばある……というか、つまり、振られた、ってことなんだろうな……』
「えっ……ちょっと待ってくれ。カミュは、君に振られた、と……」
つい口走ってしまって、思わず息を飲んだ。
アイオロスが、にんまりと笑っている。
「エセル。お前なんか、楽しいこと隠してるな? そうか、こないだのHRSか」
「……ロス……。彼等は真剣なんだ。下手な口出しは……」
『えっ?! えっ?! 俺、カミュを振ったりなんかしてないよ!! そもそも、プロポーズ断られたの俺の方だし!』
「ほほう? お前も、このエインズワース家に倣って家を持とうとしたんだ? あんな性格悪い奴と?」
『カミュは性格悪くなんかないだろ! 第一、ロスと似てるじゃん、カミュ。……って、そんな事じゃなくて! 何でカミュ、俺に振られたなんて思い込んじゃったんだ?!』
「ミロ、誤解なのなら、なるべく早く解いた方がいいと思うよ? ……その、カミュから伝言なのだけれど……、当分君と連絡をとるつもりはない、と……」
何やら、理解不能のイタリア語がスピーカーの向こうから聞こえた。どうやらミロの方は完全に誤算だったようだ。
けれど、あのときのカミュは、もう少し冷静に状況を判断しているように見えたのだけれど……。
『取り敢えず、そっちに行くしかないか……でもカミュ、会わないとなったら、絶対に会ってくれなそうだしな……連絡入れずに家で待ち伏せ、ってのもかなり危険な賭けだし……』
「それより前に、こんなところで油打ってないで、チャットでも仕掛けてみたらどうだ? 今Skypeオンになってるぞ、あいつ」
ロスが呆れたようにそう口を挟んだ。たしかに、カミュのアカウントは今オンラインだ。
『えっ?! ウソ! オフラインだろ?! 灰色になってるけど……!』
「いいや? ちゃんと見えてるぞ。あ、もしかして、お前、アカウントブロックされたんじゃないのか?」
『ええっ?!』
「ブロックされると、オンライン状態も見えなくなるぞ?」
スピーカーの向こうで、何かが崩壊する音が聞こえた……。
……大丈夫だろうか……ミロ……(汗)