あるバレンタイン その後

「なんだ? エセル、何処行くんだ?」
シネマスコープサイズ56型液晶テレビに映る画像が大きく揺れ、自らの顔が大半を占めるような構成に画面が切り替わった時、サガは視線を完全に床に向けたまま無言で立ち上がった。


「まだ上映中だぞ? 途中離席は製作者と出演者に失礼だ。最後までちゃんと座って観賞しなさい」
「……途中離席って……」
「映画館ルール。これ常識」
新しいテレビを買ってから、アイオロスは独自に『映画館ルール』なるものを施行しているらしい事をカミュから聞いていはいたサガは、唇を引き結んだ。
耳に入ってくる音は、とてもではないが聞くに堪えられないものになっている。
「……ここは、映画館じゃないよ、ロス」
口で何を言っても勝率は悪い。それを知っていてもなお、サガはそんな事を口にして耳を塞いでしまいたい衝動を堪えながら、そろりそろりとアイオロスの側から離れようとした。
直立不動だった足を、ゆっくりと動かし、脱兎を目指す。
「でも映画館ルールがあるから」
ぐいっと伸びて来たアイオロスの腕に簡単に捕獲されてしまったサガは、必死の抵抗を試みた。
そもそも、たとえここが映画館だとしても、製作者はアイオロスだし、出演者は殆ど自分だ。
一体誰が誰に失礼だというのだろう?
「…………ステーキ、焼いてあげるから、ロス」
やっとの事で閃いた妙案と思えるものをサガは口にした。
音は、いよいよ熱の篭った切羽詰まったものになってきている。サガの耳はお湯が沸かせるほど熱くなっていた。
「ステーキ…………。フライパン一杯ぐらいの?」
「そう。一杯くらいの。小さく切らないから。それに、そろそろ夕飯を食べないと。明日からまた仕事だよ?」
部屋の中に数時間前のサガの甲高い声が響き渡り、ウサギの強い足踏みの音がそれに応えた。
サガは思わずギュッと固く目を瞑った。もう首から上はロブスターのように赤くなっている。
「そっか。じゃあ、そうするか」
アイオロスの言葉にほっとしたのも束の間。サガの体はぐいっとアイオロスに引き摺られて小さなキッチンへと連行された。
「ロッ、ロスッ?! テレビ!! つけっぱなしだよ?!! 消して……」
「BGMの代わりだ。それより、肉♪ ついでにマッシュポテトも作るか♪」
料理の最中、うさぎの掃除の最中、食事中、録画したものが全て終了するまで、リビングにはアイオロス・エインズワースが制定した『映画ルール』の下、サガの声とアイオロスの低い声が流れ続け、サガは精神的苦痛に苛まれ食事が喉を通らなかった。

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「で? どうだったんだ? 可愛かっただろう?」
ぐったりと寝具に身を横たえ、もうさっさと寝てしまおう、そう思ったサガの耳に、アイオロスの笑いを堪えたような声が届いた。
「………全然ロスの顔のアップがなかったからつまらなかった」
サガの、ぷっとふくれた物言いに、アイオロスは寝台の上で声を立てて笑った。
「そりゃ、お前、三脚立てて全体が大体入るような感じて写してるんだ。アップなんか撮れるわけ無いだろう?」
上手くしてやった、というように、さも愉快そうに笑い続けるアイオロスに背を向けたまま、サガは訊ねた。
「じゃあ、次はロスの顔を録ってくれる?」
「俺が俺の顔をヤリながら撮ってどうする? てか、撮れるわけないだろう」
「じゃあ、もう次はなし」
「なんで? サガは可愛かっただろう?」
むくれてそっぽを向き続けるサガの肩にアイオロスは手を掛けた。
その馴れ馴れしさにムッとしたサガは、くるりと振り返り、
「そうだな、君のアップがちゃんと撮れて、君が自分で自分の顔を可愛いと認めたら、私もそう思うことにするよ」
と据わった目でアイオロスにぴしゃりと言った。
2インチも互いの顔が離れていない近さで、アイオロスが少しびっくりしたような顔をした事が、サガには気配で伝わった。
しかし、心底驚いているわけではない。
むしろ、きっとサガの反撃を楽しんでいる。
だから、嫌なのだ。
もう無視して寝てしまおう。
そう心を決め、再びアイオロスに背を向けようとした時、アイオロスの手がサガの頬を撫でた。
「お前が俺のアップを撮ってくれて、それを心底可愛いと思ってくれるんなら、俺もそれに同意するのに些かの躊躇も感じないぞ? 元々俺はお前に惚れてる自分の顔は好きだからな」
 こういうことを、照れもせずに、さらりと言う。
 サガは、咄嗟に反撃の言葉も見つからず、唇をへの字に曲げた。
 十年前だったら、きっとその一言で、固い決意も雪のようにやわらかく溶けていただろう。
 ……が、流石に十年前の純真さからは卒業したサガは、その言葉の裏に潜むアイオロスの計算に気付いていた。
 百歩譲って、『お前に惚れてる自分の顔は好き』という言葉は信じてもいい。
 でも、『お前が俺のアップを撮ってくれて』という条件が絶対に満たされないと、信じて疑っていないだろう?! ロス?!..
「その言葉、勿論二言はないね?」
低く唸るように押し出されたサガの言葉に、アイオロスは
「ない」
とだけ応えた。
サガは、への字に曲げていた唇の端を逆向きに引き上げた。
「それじゃあ、次の機会があったら私が君を録ろう。言うまでもないが、それを邪魔したら、君の言葉を証明する機会は永遠にやって来ない。従って、私も自分の顔を可愛いと思う日も永遠に来ない。それでも今日みたいな悪戯をしかけるとしたら、それは君の嫌がらせだと思う事にする。結婚したから、我々の間に強制わいせつ罪は適用されないが、あまり目に余るようなら……」
滔々と、絶対に流されるものかと意志の力に支えられて続けられるサガの言葉に、アイオロスはピタリとその口に手で蓋をする事で発言権を取り返した。
「いいぞ? 頑張って撮ってくれ。そうなるとお前は騎上位だな。で、俺はお前が感じてくれてる顔を可愛いと思ってイクんだからカメラにばかり気を取られるなよ? 俺が実況中継を続けられなくなるくらい気持ちよくさせてくれ。なんだったら今週の水曜日、やってみるか? 楽しみだなぁ、俺は♪」
「今度の水曜日は、臨時休業!」
「なんでだよ? 水、金、土の約束だろ?! こらっ! 寝たふりするなっ!」
「日曜日にやっただろう! その分の振替休日!」
「馬鹿っ、アレは土曜の延長だろう? カウントするな!」
「おやすみっ!」
「こらっ! エセル!」
ゆさゆさと肩を揺さぶられながら、サガは必死で寝たふりを決め込み、アイオロスはサガの肩をゆらゆらと揺らし続ける。
そして、
横になったサガの体の上に、ずしっと重いものがのしかかり、
「おやすみ、エセル」
小さな水音と共に、サガの頬にキスが一つ落とされた。

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