12月24日

これまでで一番幸せだったクリスマスは、ミロと過ごしたクリスマスだった。
ミロがローマのアパートにスタンウェイのアップライト・ピアノを入れてくれた時だ。
あの日の夜の興奮は、今でも鮮やかに覚えている。楽器が手元にない寂しさを汲んでくれたミロの思い遣りが、本当に嬉しかった。
これまでで一番最悪だったクリスマスも、ミロと過ごしたクリスマスだった。
去年、ミロにプロポーズされて、その数時間後に、振られた。
……いや、ミロにはそんなつもりはなかっただろう。多分、少しばかり、ハッパをかけたつもりだったかもしれない。
でも、その言葉で、悟らざるを得なかった。
十年かけて、彼がもとめていたのは、結局私の虚像でしかなかった、ということに。
今年のクリスマスは、ウサギ達と共に、異国の地で過ごす。
面白くもないが、去年の悲惨なクリスマスよりはよほどましだ、と自分で自分を慰めていたら、ミロからクリスマスカードが届いた。
小さなカードに、びっしり文字が書き込まれていた。
どうやって住所を調べたんだか、と苦笑しながら、ひとたびローマ音楽院に在籍していることがバレれば、講師の立場のミロなら学生の連絡先を調べるなど雑作もない、と気付く。
講師と、学生。
それが、今の我々の関係だというのに、そのカードは、ミロの精一杯の思いで溢れていた。


「一次の順番決まったよ。最終日になった」
去年の11月のことだ。
ミロから、そう電話がかかってきた。
一週間後に始まるパガニーニ国際コンクールの一次予選の話だ。1次予選は事前審査に残った59名のうち、出場辞退しなかった33人が参加する。33人を全員審査するだけでも3日かかる。
ミロの出場順は、そのうちの3日目。その日程なら、聴きにいける、と思った。
「それは、聴きにいってもいい、ということかな?」
そう問い返したら、ええ、と呆れたような声が返ってきた。
「ソレって、セミ・ファイナルに残れない可能性を心配してるってことか?」
「まあ、そうとも言うね」
「うわ、また酷い事を」
「冗談だよ。お前のイザイを聴きたいから。それに、モーツァルトも、結局どう仕上げたのか気になるし。……勿論、お前の気が散るなら遠慮するが」
「んー……カミュがスケジュールとかの調整をしなくても済むようならおいでよ。気に入りそうなホテル探しておくよ」
「いや、それはいいよ。自分で手配する。それに、本番前は、お前にも会いに行かない。終わってから、どこかで食事でもしよう」
「えっ……なんで!」
「気を散らせたくないから。私に何が出来るわけでもないし……舞台に立ったら、どのみち一人だ。余計なことを考えずに、集中したらいい」
一瞬、ミロが向こうで黙り込んだ。私の言葉を卑屈だと思ったのかもしれないし、あるいは、実は本番前に余計な気を割かずに済んでほっとしたのかもしれない。どちらの沈黙なのか、私には分からなかった。
もし私が伴奏者だったら……と、考えても詮無いことを思う。共にタイトルを目指す仲間なら、もっと違う言葉もかけられただろう……けれど、その役目を担う人物は、別に居る。
「……わかった。じゃあ、せめて一次予選の後には会える?」
思ったよりすんなりとこちらの意見は受け入れられて、それでも少し必死なミロの声が返ってきた。
「全部終わってからじゃだめなのか?」
「全部って……! それじゃ、カミュの感想が聞けないじゃないか!」
「私の感想なんて聞いても意味ないよ。審査は審査員がするのだし……私の意見を気にするより、お前は、お前の先生と煮詰めた音楽をきちんとやることに集中した方がいい」
「そうかもしれないけど……」
ぶつぶつと、何かをイタリア語で呟いているのが電話の向こうで聞こえた。文句までイタリア語で喋るとは、ますます英国籍から離れてきたな、と思う。
……緊張するから、側にいてくれ、くらい言うなら、まだ可愛気があるんだがな。
ふと浮かんだ感想に、自分で可笑しくなった。
本番前に緊張なんて、それこそ、ミロには宝くじの一等より縁のない話だ。
「じゃあ、それで決まり。お前の順位が決まったところで、会いに行くよ」
そう告げて、電話を切った。

 

一週間後、私は予定通り、コンクールの行われるジェノヴァの空港に降り立った。
パガニーニ国際コンクールという名前のコンクールは、実は二つ存在する。もう一方は、正式にはパガニーニ・モスクワ国際ヴァイオリンコンクールという名前で、その名の通りモスクワで開かれる。けれど、ヴァイオリニストにとってもっとも重要な三大コンクールに数え上げられるのは、このジェノヴァで行われるコンクールの方だ。
世界に名を知られる有名なコンクールとはいえ、一次予選から聴きにくる聴衆はそれほどいない。客席を埋めているのは殆どが参加者もしくはその家族で、ホールも小さな室内楽ホールだった。
これでは、舞台からこちらの姿も見えるだろう。とにかく気を散らせたくないので、一階左側の一番後ろの席に腰掛けた。
一次予選も既に三日目、曲目は課題曲とあって、一日中同じレパートリーを聴かなければならない中で、客席は少し疲れたような空気に染まり始めていた。午前のプログラムが終わり、午後の二人目までを聴いた感想は、どの奏者も皆一長一短で、光るものもあるが課題も多い、という感じだった。
どこか中だるみの印象を抱いていたのは、私だけではなかっただろう。だからこそ、ミロが午後三人目の奏者として舞台に現れたとき、観客は急に夢から醒めたように集中力を取り戻したのに違いない。
ミロはとにかく、舞台映えがするのだ。観客の視線を否応無しに彼のもとへ集めてしまう、そんな集中力が、ミロには少年の頃からあった。
一曲目は、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番から第一楽章だった。本来はオーケストラとの協奏曲だが、ここではオーケストラ・パートをピアノ用に編曲したPiano Reduction Scoreを使う。私がミロの練習に付き合ったのもこのピアノ版だ。
伴奏者と視線でテンポの確認をして、ピアノの序奏が始まる。と、その軽快なタッチに驚いた。
……これは、私が最後にミロの家で弾いたのと同じテンポだ……!
8月。バカンスで伴奏者がつかまらない、と泣きついてきたミロのために、一週間ほどローマのミロの家に滞在した。このモーツァルトの練習台もこなしたが、基本的にミロの音に合わせるのみで、極力自分の解釈が混じらないように努めた。
コンクールに挑むのはミロであるし、私が本番の伴奏をやれるわけでもない。余計なことをして、変な癖がついては困ると思ったからだ。
その自戒を、最後に一度だけ破った。七日間共に音楽を創ってきて、最後の最後に、自分をその音楽に投影したくてたまらなくなったのだ。
練習は終わり、と合意した後で、遊びと称して、一度だけミロにせがんだ。もう一度、今度は自由にモーツァルトを弾かせて欲しい、と。
明るい、澄み渡ったヴァイオリンの音色がホールに響き渡った。ホールに、電気のように緊張が走ったのを感じた。
すごく、良くなっている。8月に聴いた時よりも……。
ミロはあのときの私の解釈を取り入れ、それを更にコンクールでも使える構成に発展させたのだ。
自分がその助けになれたことは嬉しい。けれど同時に、最後までミロの側にいられなかったことを、寂しく思った。

 
続くパガニーニとイザイの無伴奏は、ミロがもっとも得意とするレパートリーだ。ノン・ミスで、世界的に有名なヴァイオリニスト達と並ぶ(私個人の感想を言えば、それを既に凌いでいる)演奏が続き、ミロは余裕で一次予選を通過した。
本当は、セミ・ファイナル(二次予選)にイザイがあれば、他の奏者とかなり水をあけられたと思うのだけれど……。
セミ・ファイナルは、ヴァイオリンソナタを一曲、バッハの無伴奏から一曲、ラヴェルやサラサーテなどの技巧曲から1曲、パガニーニのカプリッチョから2曲、更に現代曲の新曲を1曲。これだけ、まともに全曲弾き通すだけでも大変だというのに、本選に残るにはこれらが全て安定して水準以上の演奏である必要がある。
一次予選が終了すると、一日の休みを挟んですぐにセミ・ファイナルが開始された。二日間に及ぶプログラムで、抽選の結果、ミロの演奏順はなんと十二人のうち一番となってしまった。一番というのは、審査員にとっても演奏者にとっても難しい。審査員は他に比べる基準がないし、演奏者も一番に演奏して、最終奏者の演奏が終わるまで、強い印象を残し続けなくてはならないからだ。
幸いなことに、ミロはその演奏順を上手く生かすことが出来た。得意のパガニーニとバッハの出来が良かったのと、思いの外、ベートーヴェンで良い演奏をしたからだ。そのほか、ラヴェルと新曲も水準以上の演奏で、ミロ以降の奏者はつづけて厳しい点をつけられただろう、と少々気の毒になった。
こうして、客席に座って、同じプログラムが演奏されるのを聴いていると、全ての曲目で安定して好演をすることがいかに難しいかがよく分かる。ある若い奏者は、ソナタでブラームスを好演したが、バッハはあまり面白いとはいえず、現代曲でミスをした。日本人の奏者は、素晴らしい技巧力を持っていたが、プロコフィエフのソナタで曲を掴み切れなかった。そのほか、古典は得意でもロマン派の曲で精彩を欠く者、あるいはその逆など、どれかが優れている奏者は沢山いたが、どれもバランスよく楽しませてくれた奏者は、ミロの他に中国系アメリカ人の奏者だけだった。
プロで演奏活動をしていくには、どの作曲家の曲も安定して聴かせられなくてはならない。
それが、アマチュアの名手とプロの演奏家の、もっとも大きな差だろう。そしてミロは、その後者の領域に既に足を踏み入れているのだ。
彼が腕の怪我を乗り越えて、その領域にまで達したことはとても嬉しい。けれど、その過程での彼と彼の愛器との密月を思う度に、心の芯が冷たくなっていくような感覚に捕われる。
ミロは、私のことを愛していると言う……。けれど、私は、彼のもっとも大切なものからこんなにも茅の外だ。

 
とうに覚悟が出来ていると思っていたのに、このコンクールが終わったらミロは別の世界に羽撃いていってしまうのだと強く意識させられて、その日の夜は明方まで眠れなかった。
順調に好成績を収めている恋人に、喜びだけでなく複雑な感情も抱いていることを繕う必要もなく、ミロに会わないまま本選最終日がやってきた。
その日の朝、私は久々に剃刀で怪我をした。鏡の中であまりに不景気な顔をしている自分に苛立って、それで手が滑ったのだ。
つくづく、本選終了まで会わないと約束しておいて良かった、と思う。
ミロには、一位を取って欲しいと思う。そうして、世界中の人に、私が心から愛するミロの音楽を聴いて欲しい。その心に偽りはない。
けれど同時に、ミロの「恋人」でありたい自分が思う。
音の翼で世界に羽撃いてしまったら、きっとミロは少しずつ自分から興味を失っていくだろう、と。
今でさえ、一度音楽に集中すれば何ヶ月もの間私のことは『二の次』だ。誕生日も、たまの休日も、何もなかったように通り過ぎて、次に集中力が尽きるまで心は私の許にはない。
パブリックスクールを出て、大学が別れたときも、ミロが私に内緒で音楽院に復学していた時もそうだった。ミロは「申し訳なく思っていた」と謝って、決して忘れていたわけではないと言ってくれたけれど、それは裏を返せば、申し訳なく思ったところで彼の心を私の許に繋ぎ止めておくことはできない、というだけのことだ。
このコンクールで一位をとって、世界に名の知られる演奏家になったら、私達の関係はどうなってしまうのだろう……?
仕事の依頼が増えれば増えるほど、きっとミロは「申し訳なく」思いつつ音楽を優先するだろう。
ミロのヴァイオリンを愛する聴衆の一人としては、それで勿論構わない。
けれど、「恋人」の自分は、もう飛び立って戻らない鳥を待つのは嫌だと、ずっと昔から叫び続けている。
ミロが一位になってしまったら、私はどうすればいいのだろう?
本当は、ずっとそう自問している。ミロがコンクールを受けると言った、去年の十一月から。

 
本選は、オーケストラをバックにした協奏曲を二曲演奏することとされている。一曲はパガニーニの協奏曲第1番、もう一曲は課題曲の中から選択して一曲選ぶ。
ミロは、ブラームスを選んだ。パブリックスクールに居た頃には、どちらかといえばブラームスはミロの苦手な作曲家だった。
あれから十年以上経ったのだな、と、会場を見上げて思う。
ミロは、苦手を克服して、ブラームスも弾けるようになった。一方、あのとき止めてしまった私の時間は、今も止まったままだ。
十年も経てば、遠く離れてしまっても当たり前か……。
ヴァイオリンはよく弾けるくせに、音楽の世界に驚く程疎かったミロ。当時の私は、その彼に足りない知識を補える立場にあることを、嬉しく思っていた。けれど今は、私の方がすっかり門外漢だ。所詮アマチュアにして通じる話ではないと思っているのか、ミロは最早、私に彼の生きる世界の話をしようとしない。
今日の結果を見るまでもなく、未来は変わらないのだ、と思ったら、妙に可笑しくなった。
今日、ここで一位をとろうがとるまいが、ミロの道はもうプロの演奏家へと続いている。それなら、順位はひとつでも高い方がいいじゃないか、と。
やっと、素直にミロの優勝を望めるような気がした。

 

本選になると、観客が一気に増える。会場へ向かう人々も、それぞれに華やいだ服装で集う。自分が挑戦するわけでもないのに緊張して、十一月の空気を肌寒く感じる。
と、ホールのロビーに足を踏み入れる寸前、背後からいきなり肩を掴まれた。
「カミュ!」
押し殺した声で呼ばれて、慌てて振り返ると、そこにはまだ普段着のままのミロの姿があった。
「どうしたんだ?! もうとうに会場入りしている時間じゃ……」
思わず、再会を喜ぶ挨拶も忘れてそう訊ねてしまった。ミロはちらりと腕時計に視線をやり、出番は三番目だから、と耳打ちした。
「だってここ、音出しの場所ないしさ。ギリギリまでホテルに居た方がいいと思って」
観客の中には、勿論セミファイナルを見に来た人もいる。ミロの長い金髪が舞台で目立たなかったはずはなく、会場へと飲み込まれていく人波がちらちらとミロの方を窺いながら脇を抜けていく。
ここは邪魔になるから、脇へ、と言おうとした矢先、ミロが嬉しそうに笑って私に抱きついてきた。
「来てくれて、ありがとう!」
咄嗟に、硬直して返答に詰まった。さらりと流してしまえば挨拶で済むが、ミロはぎっちりと抱き締めて腕を緩めなかったので。
「ホテルは、どこに泊まってるの? 今日、終わったら一緒に食事できるかな?」
にっこりと笑ってそう訊かれて、漸く頭の中でまとめた言葉も霧散した。
一緒に食事って……そういうことは、結果が分かってから誘ってほしいんだが……(苦)
無論、一位がとれれば食事を断る理由はないが、ミロが納得出来ない結果に終わってしまった場合にはどんな言葉をかければ良いのかわからない。
「……あれ? カミュ、顔、怪我してる?」
私が何も言えぬ間に、至近距離から私の顔を眺めていたミロは、今朝の私の失敗の痕を見つけてしまった。思わず反射で、ミロの腕から身を捩って逃れる。ミロが、少し驚いたような、がっかりしたような表情を浮かべた。
「……今朝、剃刀が滑ったんだ。たいしたことないよ」
「珍しいな、カミュが。……緊張した?」
悪戯っぽい笑顔でそう聞かれて、脱力した。
本番前だというのに、この緊張感のなさは一体なんだ。
「ああ、お前のせいで胃が痛いよ。願わくば、さっさと楽屋に引っ込んで私を安心させてくれ」
「そんな、冷たい……」
「第一、順位が決まるまで会わないという約束だったじゃないか。……そんな拗ねた顔するな。ちゃんと、客席で聞いているから。……頑張っておいで」
最後の言葉に重なるように、胸が痛んだ。
結局、私に出来ることなんて、何もない。
そう思い知らされたくなかったから、会わない、と言ったのに、そんなことも、きっとミロは全くわかっていないのだろう。
「うん、それじゃ、また後で!」
笑いながら、楽屋口へと去っていくミロの背中で、ヴァイオリンケースが揺れていた。

 
ファイナルは、まず自由曲の審査から始まる。
今年の自由曲は、ベルク、ブラームス、ラロ、ショスタコーヴィチ、メンデルスゾーン、カザドフスキーの協奏曲の中から一曲を選ぶ。
正直なところ、ミロが選んだブラームスは、この中でもっとも難しい曲だろう。
難しいというのは、技術的な話ではなく、審査員にけちをつけられない演奏が難しい、ということだ。
ベルクのような曲は、難解で技術的にも大変難しいため、悪く言えば「ある程度弾けていればそれなりの評価がもらえる」と言える。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲は名曲だが、派手ではない。しかも、そのくせに技術的な難易度もかなり高い。
若い奏者は敬遠するだろうこの曲を選んだのは、年齢に見合った音楽性をアピールする戦略か……
ふと、夏にミロの家で聞いたブラームスが耳の奥に蘇って、どきりとした。
……まさか、あんなベタな演奏はしないよな? 本選では。
一人目がベルク、二人目がラロと続き、ミロの番になった。
ラロはともかく、ベルクが高得点を狙える演奏だった。というより、一人目があまりにも良い演奏をしたので、拍手が鳴り止まず、二人目は多少そのプレッシャーに引き摺られたように見えた。
ミロは大丈夫だろうか。
心配しても仕方がないのに、緊張で胃が縮こまるように感じた。気がつけば握っていた手に汗をかいていて、呼吸が浅い。
こちらが緊張した分だけ、奏者がリラックスしてくれるなら、いくらでもするが……。
コンクールの本選なんて、見にくるものではないな、と苦笑した。
ミロは、ヴァイオリンを左手に下げて颯爽と現れ、オーケストラの前で一礼した。
緊張している様子は見えない。今までだって、ミロが緊張している姿など、見たことがない。
少しほっとして、肩を下ろした。
オーケストラの前奏が始まり、プロの演奏家でさえ「投身自殺をするようだ」と表現する音の跳躍がつらなるヴァイオリン・ソロが始まる。
悪くない。
思わず、演奏に引き込まれた。
ミロの音は、甘さも爽やかさもある透き通った音色で、その豊かさに思わず緊張を忘れた。
その時だった。
いきなり、何かが弾ける音と共に、舞台が暗闇に包まれたのは。
客席がざわめき、オーケストラの音が止まった。
ソリストはともかく、オーケストラは楽譜が見えなければ演奏不可能だ。
またか……!
十年以上前の記憶がフラッシュバックした。
我々の学年の最後の演奏会の本番でも、停電が起きた。
だが、あのときは、まだ始まる前だから良かった……
今度は、コンクールの本選だというのに!
一度途切れた集中力を取り戻すのは、とても難しい。
折角よいスタートを切れたというのに、やり直しで失敗すれば精神的に弱いと叩かれ、成功してもやり直しのチャンスを貰って運がよかった、と片付けられてしまう。
29歳だ。
こんな年齢で、ファイナルに残るまでの道のりが、どれほどのものだったか。
ほとんどのコンクールが30歳以上の奏者の出場を認めていない中、チャンスはもうそんなにない。
何故、ミロの時に限って、と、天を呪いたい気分だった。
一分後、舞台の照明が復旧し、もう一度最初からやりなおしのサインが出される。
ミロは、二度目も悪くない演奏をしたが、最初数小節、観客の集中力をひきつけるのに時間を要した。
観客も増えるファイナルでは、本人の集中力だけでなく、オーケストラや観客までも含めた全体の集中力が演奏の印象に大きく響く。
観客の集中力を維持出来る力も、評価のうちだからだ。
それでも、第一主題が始まる頃には、客席もおちつき、ホールはミロを中心にまとまりつつあった。
それから一分後。
再び、舞台照明が落ち、演奏は中断された。
ホールの整備係は何をやっているんだ、と、客席の薄暗い照明の中怒りで悪態をついてしまいそうになるのを、必死で堪えた。
イギリスも、決してライフラインの整備がよいとは言えないが、国際コンクールの本選でこんな失態など犯さない。
これだからラテン系は、と怒りが邪魔して、三度目の演奏がどう始まったか、あまりよく覚えていない。
そもそも、いつまた照明が落ちるかと、はらはらして演奏を聴くどころではなかった。
観客も私と同じ気分だったのだろう。
二度目の中断後は、客席の集中力が戻るのに更に時間を要した。
舞台上のミロは、むしろこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
審査員は、国際的に名の知れた名手ばかりだ。このような事故が審査に影響しないよう、はからってはくれるだろう。
自分はやれることをやる、と割り切っているかのようだった。
一楽章も中盤に差し掛かった頃、ついに三度目の事故が起きた。
流石に、客席はもう黙っておらず、審査員も立ち上がって対応の検討を始めた。
私は、上着をとって座席を立った。
最早、このホールの照明係に任せてはおけない、と思ったからだ。
二回ともすぐに復旧したということは、舞台照明用のブレーカーが落ちたに過ぎない。ならば、電力量の計算が間違っているか、電力を供給する発電所が不安定なのか、どちらかだ。
前者なら問題外、後者ならすぐに発電所に問い合わせて状況を確認後、使える電力量を再計算してこの建物で使われている電力の再配分をすれば良い。その程度の対策がとれない照明技師など、くそくらえだ。
座っている他の客に謝りながら席を抜けて、通路へ出たところで、ミロが指揮者と何か相談しているのが見えた。指揮者は頷き、スコアの一ページ目へ戻ろうとした。その時、審査員席から声が上がった。
「Nein, No, No!」
一楽章の最初に戻ることは許可しない。続けて、そうドイツ訛りの英語が聞こえた。
もう一度、最初からやり直せば、ミロは特別に二回のオーケストラ合わせのチャンスを貰ったことになる。
公正な審査のため、それは許せない。そういうことなのだろう。
けれど、この状態でそもそも公正な条件と言えるのか。
いい加減にしろ、と叫びたいのを堪えて、出口へ向かおうとしたとき、コンクールの主催者が舞台上に現れた。
「電力量が不安定なので、舞台の照明はおとし、代わりに客席の照明を明るくして、コンクールを続行します」
その程度の対策なら、最初の停電後にとれたんじゃないのか?!
本気で、怒鳴りそうになった。
実際、おそらくそれで十分なのだ。スポットライトを含む舞台照明は、強い照明を使うため、電力量がばかにならない。
客席照明と舞台のバックライトだけでも、舞台上の楽譜は見える。演奏は可能だ。
それでも、もし万が一もう一度照明が落ちたときのために、主催者側に私が照明デザイナーであることを伝えて対策をねじ込もう、と決めて、出口への階段をのぼり始めた。
その時、一際冴え渡るミロの音が、ホールの暗がりを切り裂いた。
思わず、はっとして振り返った。
ミロが、演奏の合間にこちらを見た。
行くな、と、その音が訴えているような気がした。
ミロが、客席を去ろうとした私に気付いていたのかどうか、分からない。
けれど、私はその場で動けなくなった。立ったまま、舞台上でミロが演奏している姿に釘付けになった。
一楽章は、客席を巻き込んだ熱気のもとに無事終了し、続く二、三楽章でもミロは好演して、観客を味方につけた。

 

おそらく、このまま、ミロがパガニーニでも失敗しなければ、順位は入れ替わっていたかも知れない。
折角ブラームスの試練を乗り切ったというのに、ミロは、得意なはずのパガニーニでミスをした。
繰り返しを忘れて、先に進んでしまったのだ。
直ぐに気付いて、立て直しはしたが、ミロの次に演奏した中国系アメリカ人の奏者が完璧な演奏をしたために、総合得点で彼に届かず、結局結果は二位となった。

 

二位という結果を、自分の中でどう処理したら良いのか、ずっと考えていた。
一位なら、諦めもつく。三十台を目前に、パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールという若いヴァイオリニストの登竜門とも言うべきコンクールで優勝という奇跡を起こせば、どんなレーベルも放ってはおかない。
ブラームスでの照明トラブルも、彼をプロの演奏家として売り出すのに格好のエピソードになっただろう。
しかし、結果は二位で、しかもミロはこの結果に納得していなかった。
また、どこかのコンクールを狙うのか、それとも、どこかの音楽事務所と契約を結び、プロのソリストとしての活動を始めるのか……
ミロ自身も、迷っているように見えた。
結局、私に出来ることは、そんなミロを遠くから見守ることだけだった。
クリスマスが訪れる頃には、私は私達の関係について、ひとつの答えを出していた。
ミロが私に恋人であることを求める限り、そのようにしよう。
たまに会いたくなったら、立ち寄れる場所であればいい。
けれど、一緒には暮らせない。これ以上、私を置いて、音楽の世界に羽撃いていくミロを間近で見ていることは出来ない。
どんなに繕っても、自分自身を説得しても、もうこれ以上は駄目だと、分かってしまった。

 

そうして迎えたクリスマスで、ミロは私が昔ミロに渡した指輪から二つの指輪を作り直し、シビル・パートナーによる結婚を申し込んできた。

「今度はカミュの番だ」と、そう言われたとき、口惜しさなのか、悲しさなのか、怒りなのか、よく分からない感情が胸を塞いで、何も言えなくなった。
ミロは、世界で通用するタイトルを手にした。だから、今度は、私が音楽をやり直す番だ、と。
生活の面倒はみるから、安心して音楽に打ち込んでもらって構わない。いままでの恩返しをするから、と言われて、頭が真っ白になり、差し出された指輪を力任せに押し返した。
恩返し、ってなんだ。
ミロは、私に何一つ、手伝わせてくれなかった。
それどころか、音楽を再び始めたことまで、黙っていたというのに。
「嫌だ」
声が、軋んだ。
「これは、受け取れない。一緒には、暮らせない」
私の拒絶など、まったく予想していなかったのだろう、ミロは目を見開いて固まった。
それから、延々と押し問答が始まった。
「……なんで? 一緒に暮らせないって……どうして?」
「今までだって、一緒になんか暮らしていなかった。これからお前は忙しくなるのに、呑気に同居生活なんて楽しんでいる暇があるのか」
「だからじゃないか! いままでずっと別れていたから、一緒に暮らすんだろう? 今までは、とてもカミュの分までは稼げなかったけど、二位でも賞をとれたお陰で、これから少し仕事も増えるし……忙しくなるからこそ、側にいて少しでも会える機会を増やした方がいいだろう?」
「だからって、なんで私が自分の仕事をやめて、お前の家にいかなくちゃならないんだ?」
「いや、やめなくたっていいよ! カミュが今の仕事も続けたいなら、イタリアでやればいいじゃないか。でも、カミュ、本当は、音楽やりたいんだろう? 本気でやろうと思ったら、やっぱり暫くは仕事なんか出来ないよ。仕事しなきゃ生活出来ないっていうなら、俺がなんとかする。そのためにも、シビル・パートナーになってくれれば、色々助けられるし……」
「……今更、勝手なことを言うな!」
屈辱で目の前が真っ赤になったように感じた。
今からピアノを始めて、どれだけ必死になったとしても、演奏家になどなれはしない。
私よりも、誰よりも、ミロ自身がそう知っている。
第一、ミロ本人は大して私のピアノそのものに興味はない。
それなのに、ただ私の自己満足のために、今から音楽をやれと?
どのくらい、そんな会話を続けただろう。
私を宥めるように、説得を試みていたミロの青い瞳が、段々と厳しくなり、鋭く光った。
ごまかし無しの本心を言うとき、ミロはこういう目をする。
その目を見た瞬間に、胸が苦しくなり、息が詰まった。そして、ミロは、ゆっくりと私を見据えたまま、言った。
「……今更、にしたのはカミュだろう? 本当は、カミュが、ずっとピアノを諦めきれていなかったんじゃないか。諦められないのに、無理に諦めようとして、今までずるずると引き延ばしてきたんだ」
「何……だって……?」
「どうして諦めるんだよ。カミュにとって、大事なものなんじゃないのか? あのとき……クィーンズベリでも、カミュは諦めた。そして、また諦めようとしてる。カミュ、もう趣味でもピアノ弾かなくなっただろう? どうしてそんなにしてまで切り捨てるんだ? 大切なものなのに……」
どうして、ミロは、いつも本当のことしか言わないのだろう。
こんなに、どんな時も正しくて、こちらの気持ちなど何も分かっていなくて、度し難いほど傲慢な人間を、私は他に知らない。
「どうしてだか、分からないか」
自分でも、こんな恫喝するような声が出せるとは思わなかった。
「……私が音楽を続けていたら、とうに、お前との関係は終わっていたよ。……お前が音楽家で、私がただの聴衆だったから、続いたんだ」
ミロは、その瞬間、顔を強張らせて硬直した。けれど、次の瞬間には、強い口調で反論した。
「違う。大切なものを諦めなければ続かない関係なんて歪んでる。それも、一方的に、カミュだけが諦めるなんて……。こういうことは、give and takeだ。どっちか一方だけが我慢したり、無理をしても、結局そんなものは続かない。ほかでもないカミュがずっと、そう言ってきたんじゃないか。それなのに、どうしてそんなに頑に、無理を通そうとするんだ?」
ああ、まただ。どうしてこいつは、こういう正論を吐く時だけ頭がまわって、昔の私の言葉を引き合いに出してくるんだろう。
「どうしても何も、それでずっとうまくやってきただろう?! お互い、たまに会って、楽しく過ごして……お前も音楽と恋愛を両立できたし、私も、もうそれも悪くないと思っている。実際、結婚しないでお互いの仕事を尊重しながら、ずっと付き合いをつづけているカップルもいる。どうして? 聞きたいのはこっちだ。何故、今更、シビル・バートナーという形に拘るんだ? 私が一方的に無理をしていると思うなら、お前の提案は、その私にまだ更に無理を押し付けることだ。まだ私と恋人という関係を続けたいと思うなら……」
もう、どんな遠慮も腹の中に溜めておけなくて、つい言いたいことを思い切りぶちまけた。
「せめて、その形くらいこちらに選ばせろ。同居はしない。結婚もしない。たまにロンドンに来るなら、そのときはお互い仕事を忘れて相手のことを考えることにする。……それが、こちらが譲れる最大限のラインだ」
多分、私は、本気でミロの事を睨み付けていたと思う。恋人という関係には相応しくない、敵意を持った眼差しで。
ミロだって、まさかプロポーズしてこんな目で睨み付けられるとは想像していなかっただろうし、私がミロに合わせてやっていた、といわんばかりの捨て台詞には、傷付き、腹も立っただろう。
「そんな無理、最初から、する必要なかったんだ。……結局カミュはピアノから逃げているだけじゃないか。十三年前も、今も。そうしてコンプレックスを溜め込んだまま、上辺だけ繕った恋人関係なんて、こっちから願い下げだ」
頬を紅潮させて、そうミロが言い放ったとき、ようやく、何か憑き物が落ちたように、心がすっと冷えた。
……これが、ミロの本音だ。
無理して、扱いの難しい恋人のご機嫌とりなどしたくない。
当たり前だ。私がミロの立場なら、とうにこんな難しい相手との付き合いなんて、諦めている。
面倒臭くなったんだ。
そんな言葉が閃いて、それが真実なんだと、わかった気がした。
ミロは絶対認めないだろう。今も私のことを本気で想っていると言うだろう。
けれど、無意識の彼は、もう私との関係を持て余していて、私達の間に横たわる深い闇を覗き込みたくはないのだ。
だからこそ、ミロは事あるごとに、音楽を理由に私から逃げた。
音楽を言い訳にして、私の中の闇と本気で向き合うことを避け続けた。
なんだ。自分はとうの昔に、愛想をつかされていたんじゃないか。
お互いに、純粋ではない感情に縛られて、お互いを見誤った。
私は、所詮望んでも手に入れられないものを望み続け、ミロは、私への罪悪感から自分の本心を偽り続けた。
そんな関係、どんなに繕ったって、これ以上続けられるはずがない。
「……わかった。じゃあ、もう止めよう」
そう思ったら、ばかばかしくて、まがりなりにも4年続いた関係の終わりだというのに、自分でもおかしくなるほど落ち着いた声が出た。
出来ることならさっさと別れて、もうミロの顔を見ていたくもなかったが、既に時計の針はクリスマス当日にさしかかり、ロンドンの交通機関は全てストップしている。
お互い、逃げるにも逃げ場はなく、そのまま私は寝室に籠って朝まで過ごし、翌朝ミロが起きる前に親に迎えにきてもらって実家へ戻った。
何も、伝わっていなかったんだ……。
閉め切った真っ暗な部屋の中で、涙が溢れた。
ピアノを諦めてしまってから、この十三年、どんな思いでミロの側に在り続けたのか。
ピアノは、私の、たったひとつの言葉だった。口で語るより、何より真実の言葉だった。
そして、その言葉は、結局ミロには伝わらなかった。
私はミロのヴァイオリンを聞くだけで、ミロが何を思っているか、手にとるように分かるというのに、私のピアノは、ミロにとって、私が口で語る見栄や偽りに汚染された言葉に勝るものにはならなかった。
ポールやジョシュア、他の仲間達には確かに伝わっていたと思えるのに。
ミロにだけは、どうしても伝わらなかった。
自分が弾けないことが悲しいのではなく、自分の声がミロに届かないことが悲しいのだと、
その悲しみに捕われないために、敢えてピアノから遠ざかっていたのだと、
結局、最後まで、ミロは気付かないままだった。
あまりに悔しくて、夜も眠れない日々を一週間も過ごした。
そうして、嵐が去った後、明方に、やっと本当の自分の望みに向き合うことが出来た。
もし、ミロが本気で私のピアノに惚れ込んでくれたら。
私がミロのヴァイオリンに心を打たれるように、かつて、ミロが私の少年時代の声を聴いて夢中になってくれたように、そんな風に私のピアノをミロが認めてくれる日がきたら……
そのときは……。
そして、強引にミロとの関係を終わらせ、それでも結局ミロの好意に助けられて、なんとかぎりぎりの成績でローマ音楽院のピアノ科へ入学した。

 

 

国際的に有名な音楽院の実態は、ある意味とんでもなく、ある意味予想通りの出来事のオンパレードだった。
ミロが私の録音テープを持ち込んでコネを作ったピアノ科の教授は、何人もコンクール上位入賞者を出した名物教授だ。
入学して初めて分かったことだが、彼女は、見込みのある学生を時間外レッスンまでして扱き倒す一方で、それ以外の学生のレッスン時間を極限まで削ることでも有名だった。
教授一人あたり面倒をみなければならない学生数が決まっているから、優秀な学生により多く時間を割き、ものになりそうにない学生のレッスンには20分遅刻して現れた上に、5分前には終了する。3回に1回は、ヴァリエーションの豊富な様々の理由により、レッスンがキャンセルされる。
要するに、そういう扱いをしても良心が痛まない学生として、特別に入学させてもらえた、というわけだ。
何か裏があると思っていたから、そんなには衝撃を受けなかったが、やっぱりな、と苦笑を誘われた。
もっとも、今の私はまだそうされても仕方がないレベルだし、3回に1回でも休みを貰えたお陰で進度が遅く、なんとか課題をこなせるという有様だから、今はもうこれはこれで幸運だったかもしれない、と思っているが。
これ以上、何もミロに頼りたくない、という思いと、まともにレッスンも見てもらえない現状を知られたくない見栄もあって、私は目立つ髪の色を茶色に変えて大学に通っていた。お陰で、たまに学内でミロの姿を見かけることがあっても、気付かれることなく学生生活を送ることができた。
専門が異なれば、意外に交流がないものだ、ということも知った。
楽器によるかも知れない。弦楽器などは、弦同士の繋がりがあるだろうし、管楽器も教授同士がアンサンブルなどを組んでいる事が多いから、もう少し横の繋がりがあるだろう。けれど、ピアノ科は殆ど孤立していた。
副科は、本当は弦楽器をやりたかったが、とても今から新しい楽器を始める余裕などないと諦めて声楽にした。
もっとも、弦にしていたら、流石に合奏などでトレーナーもつとめるミロに見つからずにいることは出来なかっただろう。
練習室などの建物が弦楽器とは異なることもあり、それほど神経質にならなくても、ミロの姿を見ることは殆どなかった。
思いもかけない、というか、もっとも望まない形で、この状況が崩れたのが、先週の水曜日のことだった。
副科の声楽の期末試験の日のことだ。
課題曲でイタリア語の歌曲を2曲、自由曲を何か1曲、声楽科棟にある小ホールで、教官の前で歌うこととなっていた。
初級学年の最初の期末試験など、まず外部から聞きにくる人間などいない。
事前に引かされたくじの番号で、私の順番は午後の最後と決まった。
私は、自由曲でファゴット専攻のマリオ・カッシーニとデュエットで歌うことになっていたため、その日の最後のプログラムは、そのデュオということになった。
私と同じく聖歌隊出身のマリオの提案で、曲はヴァヴィロフのアヴェマリアをファルセット(男声の裏声)でやることになっていた。
試験というよりは余興の見せ物に近いが、たいして好きでもないイタリア歌曲を歌うよりは、よほどいい。
久々にデュオがやれる、という魅力に抗えなかったこともある。
けれど、結論を言えば、せめて普通の声域のデュオにしておくべきだった……。
予想通りの大喝采で我々の発表が終わり、教授の解散の一言が放たれた後、ヴァイオリンケースを肩に担いだ人影が、転げ落ちるように舞台に駆け寄ってきて、舞台を降りた我々の前に立ちはだかった。
よれよれのシャツとジーンズ、ダッフルコートといった出で立ちは、誰がみてもヴァイオリン科の貧乏学生に見えただろう。
実は学生ではなく、講師だと知っているのは、多分教授をのぞけばあの場では私だけだったに違いない。
マリオは、突然現れて、穴のあくような視線で相方を見詰めている人物に、明らかに不信感を抱いていた。
「……カミュ、だよね?!」
瞬きもしないでこちらを見ているミロに、私は渋々、相づちを打った。
「……どうも。久し振り。」
「……なんで?! うちの学生?! ……ってか、なんで、茶色?! ええええ?! 勿体ない!!」
ああ……色々、説明するのが、面倒くさい……。
学生はともかく、教授がまだホール内にいる。あまり、ミロとの関係を知られたくなかった。
何と答えればいいのか、返事に窮していると、マリオが横から口を挟んできた。
「茶色??」
「……ああ、実は、この髪、染めているんだ」
「へえ! もとは何色?」
「赤。変なところで目立ちたくないし、面倒ごとを避けるにはこれが一番手っ取り早いから」
「面倒って! そんな理由で……!」
またミロが大声を上げ、私の指導をしてくれている教官が振り返った。
「ミロ、声が大きい」
「あ、ごめん……でも、どうして教えてくれなかったんだ?! もう9月から三ヶ月以上もたってるのに……何処に住んでるの?」
「何、知り合い?」
「ああ……うん。実は、パブリックスクールの同級生で……」
「ええっ?! じゃあ、君もイギリス人なのかい? 随分イタリア語上手だね!」
マリオにそう言われて、漸く気付いた。……なんだってこいつは、私に喋るのにまでイタリア語なんだ?!
「彼は、イタリア人とイギリス人のハーフなんだ。イタリア語は、英語より上手に喋るよ」
「えっ……そんなことないよ、カミュ……」
面倒なことになった。
このまま三人で食事でも、なんて馬鹿げた展開だけは絶対に避けたい。
マリオは話が長いし、ミロは2月からこれまでの事を全て根掘り葉掘り聞くまでは、絶対に離してくれないだろう。
「二人共、申し訳ないんだが、このあと先生に呼ばれているんだ。試験が大分延長して遅れてるから、また後で」
営業スマイルを大判振舞して、その場を離れようとしたら、必死なミロの声が縋ってきた。
「じゃあ、そのあとでいいから! どこかで、夕食でも……!」
「ごめん。まだ専門の試験が残っているし、今余裕がないんだ」
「それじゃ、試験終わったあとでいいよ! クリスマスは?! ロンドンに戻るの?」
「ロンドンには戻らないけど、ローマにも居ないよ」
「何処に行くの!」
一体、何故ミロがこんな声楽科の試験会場などに紛れこんで来たのか。
声楽科の教授に用事でもあったのかも知れない。けれど、わざわざホールに足を踏み入れる理由がわからない。
そう思って、漸く気がついた。
多分、ミロは、ファルセットのデュオが聞こえたから入ってきたのだ。
ミロは歌曲にはあまり興味がないが、高音声部(ソプラノ、アルト、ボーイソプラノなど)の宗教曲にはかなり執着がある。
それで、ふらりと立ち寄ってみたら、見覚えのある姿を発見した、というわけだ。
それにしても、ミロにファルセットなんて、聞かせたことはなかったのに……。
私の歌だけは、何があっても忘れないのだな、と思ったら、急に悔しさがこみ上げてきた。
「講師という立場で、学生のプライベートを根掘り葉掘り聞くのはどうかと思いますが? フェアファックス先生?」
ミロの、開きかけた口がそのままの形で止まった。
「えっ……講師?!」
マリオが、私とミロの顔を交互に見比べた。
「だって、同級生って……」
「そう。でも彼は講師で、私は学生だ」
「……君、実は結構年齢いってるんだ……いくつ?」
「もうすぐ大台。……安心した?」
「いや、そんなことは……確かに、僕も、年齢かさんでるけどさ……僕、一度証券会社に努めたんだ。でも、やっぱりファゴット吹きたくて……」
「管楽器は、ピアノよりはまだ遅れても見込みがあるから、君は大丈夫だよ」
「カミュ!」
遂に、ミロが私達の会話に割って入り、私の両肩を掴み、今度は英語でまくしたてた。
「講師とか、学生とか関係ないよ。友人なら、予定聞いたっておかしくないだろ?」
友人、ときたか。流石に、もと恋人、と言わない分別はあったらしい。
「……たとえそうでも、周囲はそうは見ない。あの学生だけ講師に贔屓されている、という視線は、はっきりいって困るんだ。……学校では、私はお前のことは講師として対応する。お前も、私に馴れ馴れしい口をきくのはやめてくれ。──それに、私はまだ、お前に連絡したつもりはない」
ミロの手を肩から外し、早口に英語でそう答えて、その場を離れた。

そんなわけで、ミロにローマ音楽院に在籍していることがバレて、今日で一週間になる。
ミロは、その後、私には接触して来なかった。
流石に、あそこまではっきりと邪魔者扱いすれば、近寄って来ないだろう。もしかしたら、私に未練があったとしても、諦めたかも知れない。
そう思っていたら、ミロのクリスマスカードが届いた。
ずっと心配していた、ということ。
無事、音楽院に入れて良かったと思っていること。
同じローマにいると分かって、嬉しいということ。
馬鹿だな、と思う。
こんなに邪険に扱っているのに、それでもこんなカードを送ってくるなんて……。
手元にあったカードの束を引き寄せて、一枚新しいカードをとり、ひとことだけペンを入れて、封をした。
「メリー・クリスマス
心配してくれてありがとう。これからも、良い友人でいられますように」
明日はクリスマス・デー。
バチカンのクリスマスを見てこようと思う。

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