■ある帰結

 喧騒、行き交う自動車のエンジン音、突然入り込んでくる歩行者、バイクをやり過ごし、カッシア街道を北へ四十キロも進むと、ブラッチャーノの町に到着する。人口一万数千人規模のコムーネだ。イタリア共和国ラツィオ州ローマ県のコムーネの一つ。
 週末になると観光客でにぎわうブラッチャーノには、十五世紀にオルシーニ家によって建てられたオルシーニ・オデスカルキ城がある。この城でアメリカの映画俳優が、結婚式をついこないだあげたはずだ。
 ミロ・アーヴィング・フェアファックスは、愛車のスマートを運転しながら右側に広がる湖をちらちらと眺めながら坂道を下っていた。


 ローマ水道を支えるブラッチャーノ湖は、魚も美味しいし、岸辺から小山のように湖畔に積み重なるオレンジの屋祢した家々を見るのも悪くない。カミュと一緒に。
 愛器がシートベルトをして座っている助手席をちらっと見て、ミロは苦笑した。
 どうも、先週から気持ちが安定していない。
 理由は、分かっている。
 ああ、やるんじゃなかった。という気持ちと、もうこれでカミュも自分もこんな事でちょっとした気まずさを味会わなくなるのじゃないか、という希望的結論を、まるでスチール撮影のディレクターのように、ざわざわと気持ちが波打ち始めた時の自分に見せる。
 確かに、知らないよりは知ることの方がいいのだろう。人生は、一度しかないのだ。事情を知る友人たちからは、羨ましがられたり、興味津々の眼差しを向けられたりしたが──そう、もちろん彼女はとても綺麗な女性だった。コルティジャーナとして恐らく申し分の無い体と教養を持っていた。テンポのいい会話、博識な話題。
 それでも、なんで好きでもない人の体を撫で回さなくちゃいけないんだ?
 と、どんな男が聞いても叫びそうな結論が、本当の結論で…。
 思い出して、あの時自分がかいた汗と相手のそれの記憶がまた、ミロの気持ちを引っかいた。
 どんよりとした空の下で、道はなだらかに坂を下り、もう湖畔に近づいている。そろそろどこかで車を止めて人に道を聞かないと、1時間遅れではすまなくなる。ミロは適当な路地に車を止めて足を石畳の上に下ろした。
「ベンベヌート! ラフィー!」
 パッ、と開いたドアの向こうから、四十代半ばのすらりとした女性が現れミロをしっかりと抱きしめた。
「チャオ、ラウラ。お招きありがとう」
「入って! もうみんな来てるわ」
 笑顔でミロの背中を押す、メイク・アーティストのラウラ・ノーノに、ミロは苦笑して手にしていた荷物の半分を渡した。
「はい、これ。頼まれてたペコリーノ・ロマーノ」
 ペコリーノは山羊を指し、文字通り、ローマ近郊で作られるチーズのことだ。世界最古のチーズの一つで、時代はローマ帝国までさかのぼる。塩味が強く、独特の香りとほのかな甘さがある。
「うー! これでワインが美味しくなるわ! あ、でもあんたは飲まないんだっけ?」
「少しなら頂くよ」
 談笑しながら玄関を抜け、居間に向かうと、そこには既に二十人あまり人が集まってた。
「チャオ! ミロ。もう食前酒は終わっちまったぜ!」
「チャオ!」
 集まっているのはみんな、モデルだったり、服飾デザイナーだったり、その卵だったり…または彼らの友人の詩人だったり音楽家だったり。
 ミロは、足元に擦り寄ってきた真っ黒な猫に挨拶すると、すんなりとその場に溶け込んでいった。
 ワイングラスを片手に、用意された食事に舌鼓を打ち終わった頃、暖炉と反対側の壁でラップトップを開いている青年を、ミロは目にした。
「やあ、こんなところでも電波拾えるの?」
 近づいていって興味津々といった体で問いかけると、青年はちらっとミロを見上げて、
「今、三つロックの掛かっていない電波が拾えますよ」
 と、答えた。
「へぇ。何見てるの?」
「や、昨日編集部にメールで記事を送ったけれど、その返事が来ていなかったから気になって…」
 口を動かす倍くらいの早さで、青年はキーボードを操り、あっというまにメールのチェックを終えてしまった。どうやら、ちゃんと受け取ってもらえたようだな、と呟いた青年の声を合図に、ミロは自分もチェックしたいメールがあるのだが、いいだろうか? と尋ね、青年は快くラップトップをミロの手に渡した。そして、それから一分も立たないうちに、今にはミロの絶叫が響いた。
「そんな、無茶な!」と。
 一体何事かと尋ねる友人に、ミロは、明日ロンドンに行き友人のライブで演奏する予定だが、ドレスコードが黒一色、ネクタイのみ色自由というものだと、今知ったと慌てて告げた。
 彼らは、ひとしきり笑ったあと、何故それが困るのだ、と逆に問うた。
 ミロが、一枚も黒いシャツなりそれに準拠するものを持っていないのだと答えると、若いスタイリストがニッコリと笑ってその場の全員にある提案をした。
「で? 一体全体その格好はなんなんだ?」
 アイオロス・ヴィンセント・エインズワースは、一瞬開きかけた口を閉じて、ミロの頭のてっぺんから足のつま先までじっくとり眺めた後に一言言った。
 細身の黒い革のズボン、その下には靴底ある編み上げ靴。上着は薄いものを二枚は重ねているらしく、ミロの体のラインがはっきりと見て取れる。
「…なにか? お前はここで、ファッション・ショーでもするつもりか?」
 次第に眉根を寄せながら、アイオロスは、目を細めてなおもミロを見詰めた。ロンドンのソーホー地区。時間は午後七時。キングス・クラブというバーの前で彼らは待ち合わせをしていた。
「凄いね。黒一色でも素材や着合わせでこんなに豊かな感じになるんだ。少し前衛的だけれど、ミロがそれに負けていないから、圧巻だね」
 のんびりと後輩を称える感想を口にするサガ・エセルバート・チェトウィンドにも、アイオロスはきつい視線を投げた。サガは昨日のうちに借りた黒いカッターシャツを身に付け、クローズの看板が掲げられたドアの前に立っている。そして、その緑の瞳はこれから始まる『ライブ』への軽い興奮に輝いていていた。
「その見栄同様にまともに弾け」
 本当に、頭の先からつま先まで、全身黒尽くめのシュラ・アレクサンダー・コーツがそっけなく言った。バーの店主が時間を三分過ぎてもまだ現れないのだ。そして、通りの角から、やっと最後のメンバーが走り酔ってきた。
「済みません! 遅れてしまって………ミロ?」
 カミュ・ルーファス・バーロウは、一瞬遅刻の罪悪感を忘れてミロに見惚れた。
「カミュ、ごめん。その、着替え、買っておいて貰えた?」
 自分を見つめたなり、固まってしまったカミュに、ミロは済まなそうに尋ねた。
「え…? あ、ああ…一応…でも、着替えるのか?」
「もちろん! こんなんじゃ、楽器弾けないよ」
 苦笑して答えたミロに、似合っているのに、と言い掛けた言葉カミュの言葉は、音になることは無かった。丁度その時、店主とバイトのバーテンがやってきたからだ。鍵の掛かった扉を店主が開け、彼らは足元に積み上げていた機材の搬入に取り掛かった。
 コートを店の奥のソファーに積み上げ、バタバタとエナメルのボックスを開け、ドラム・セットやアンプを組み立て繋いでゆく。サガはこのへんの組み立てになるとまったく訳が分からないので、大人しく他の者の指示に従って懸命に役立とうとするのだが、なかなか上手く立ち回れない。シュラはもくもくとドラムを組み立て、カミュは初めて触る店のグランド・ピアノの音を確認する。
「おい! 着替えは後にしろ。時間が押しているんだ。まずはとっとと組み立てろ、アンプ!」
 カミュから手渡された包みを持ってレストルームに行こうとしていたミロに、アイオロスの罵声が飛んだ。
 ミロは、しぶしぶ包みをソファの上に置いて、着ていたジャケットを脱ぎ、アイオロスの側に行った。
「うわっ! これ、汚いじゃん!」
「いちいちコード磨くアホがいるか!」
 遠慮のないやり取りの果てに、ミロはもう一枚上着を脱いだ。借り物の、それなりに高価なものであるらしいのだ。
 ノースリーブの薄いタイトな生地で作られたボディーに、襟回りにはシフォンだろうか、高く巻かれている。ああ、本当に、この子は容姿に恵まれた子だな、とサガは微笑んだ。髪も、いつもはただ一括りにしているだけなのに、今日はちゃんと綺麗に櫛を入れられて細かな編みこみが額から側頭部を飾っていた。友人たちによってたかって「やられた」と話していたが、少々奇抜ではあるものの、人を感嘆させる説得力がある。
 カミュも、かなり見惚れていたようだったけれど、そう思ってサガはピアノの方を振り返った。
 特にピアノに負担の大きい演目だから、ベースの二人のように軽口を叩くゆとりはないのだろう、カミュは既に一心にピアノに没頭している。
 先週、少々、否、自分にとってはかなり印象に残る誘いをミロから受けだが、その後、二人の間に変わった様子は見られない。
 勿論、よほどの事でなければカミュはそういう事を表に出す方ではないが、少なくとも、カミュがミロに見惚れるなら、それはそれで二人の関係はまだ平和なのだろう……
 そう結論付けて、サガは再びアイオロスに歩み寄り、次に自分に出来る事は何かと問うた。
「いいよ、そこら辺にある椅子引っ張ってきて座ってて。それか壁際のソファーでもいいけど、今あそこ機材を置いてるから、お前が座ったら邪魔だし」
 アイオロスが指示を出すのも面倒だとばかりに上の空で答え、サガは小さく溜息をついて楽器をケースから取り出した。
「もう一回、やってみて。うん。…ドラム、もう少し音下げて。ベースがこもってよく聞こえない」
 ボツボツと人の入りだしたクラブの奥、バーのカウンターに寄りかかってミロは大きな声を出した。
 狭いクラブの入り口には、小さな机が用意され、入場料を取る場所が出来上がっている。今はアンドリューが座って、チケットを渡し、支払済みの客の手などに蛍光塗料のスタンプを押して支払済みの客かそうでないかを判断できるようにしていた。
「よう。来たぞ!」
 パブリックの先輩、後輩、同級生などの顔も見え始める。
「いつから始まるのだ? チェトウィンド」
 いつも通り、ムウ・フロラン・アリソンとドウコ・ジェファーソン・オルグレンを従えたシオン・メリベル・ハーシェルが、サガを見つけるとつかつかと歩み寄り、開口一番言った。
「まだ、私たちの前に、詩の朗読が一つあるのでもう少しかかると思いますよ。お客さんの入り具合も見ているようですし…」
 品良く微笑みながらサガはシオンに返した。シオンは、フン、といいながら、一番ゆったりとした壁際のソファに近寄り、言った。
「チェトウィンド! 一体いつまでこんなものを床にばら撒いているつもりだ? 演奏するという気構えがなっておらんぞ!」
 シオンの指差した先には、空の機材ボックスや、運搬に使用した梱包材が散らかっている。背中に緊張を走らせてサガが駆け寄ろうとした矢先に、ミロが直ぐにシオンに走り寄って、力任せに荷物を持ち上げてステージの脇にこれでもかと押し詰めた。
 シオンは、その後輩の姿を見て、心底唖然とし、そしてゆっくりと、キングス・イングリッシュで問うた。
「フェアファックス…、君は、それで、本当に楽器を弾くつもりなのかね?」と。
「うー、時間が無い! 急がないと! て、カミュ、これ、ヤバイ、ジッパー引っかかった!」
「何をやっているんだ、お前は…。てっきりもう着替えないのかと思ったぞ…」
「そんな、着替えるって言ったじゃん」
「そのわりにはのんびりしていたからな」
「だって、なかなか話が切り上がらなくて…」
 クラブの小さな控え室を借りて、カミュはミロの着替えを手伝っていた。セッティングも終わり、さあ、後は客の入りを待つだけだ、という段になって、ミロは数人の同級生やオーケストラの管パートの人間とおしゃべりをはじめ、詩の朗読が始まるまでそれは続いたのだ。
 胸元のジッパーをカミュの手に任せたまま、しきりに他の作業をしようと動くミロの手を、カミュはぴしりと叩いた。
「動くな。全く、どうやったらこんなにへんな風に食い込ませる事が出来るんだ?」
「動くなって、言ったって…靴、履き替えないと…」
「借り物だから丁寧にやれと言ったのは、どこの誰だ?」
「…分かった。止まる」
 カミュは少しミロの胸元に屈みこんで、布を食って動かなくなったジッパーを動かそうと手元に神経を集中させた。そして、食い込んだ布目の方向を見極めようと首を傾げた時、突然上向いた耳に吐息と熱を感じた。
「………ミロ…、何をやっているんだ、お前は?」
「何って、動いてないよ。じっとしてるの暇だし…」
 ミロは、カミュの顔に自分の顔を近づけると、そっと彼の耳をあま噛みし、その耳朶を舐めたのだ。
 予想もしなかったタイミングで、不意をつかれたカミュは内心動揺したが、その時目に写った机の上のデジタル時計の数字を見て、辛うじて踏み留まった。
 まったく、この時間の無い時に、何を考えているんだ?
「……止めろ。でなければ、自分でやれ」
「分かったよ、離れる…」
 思わず強く返してしまったが、帰って来た声は明らかに気落ちしていて、カミュは些かの罪悪感を感じた。漸く咬んだジッパーを解いて顔を上げると、矢張りミロは少し俯いていて、所在無げに立っている。カミュは溜息を付き、その俯いた顎を持ち上げて軽くキスをした。
「そういう事は、コンサートが終わってからにしろ。」
 多分、嫌われてはいないのだ。
 微かに残ったカミュの唇の感触に意識を集中させながら、ミロはカミュから素早く渡される衣服に袖を通していった。
 最初から、カミュは「気にしない」と言っていた。カミュがそういうのなら、本当にそうなのだろう。恋人であるカミュに宣言してわざわざ女性の所に行ってセックスをして来た。その事は、カミュにとって、自分に嫌悪感を持たせる事ではなかったのだ。「後にしろ」、とすげなく返されるのはいつもの事だし、それ以前にカミュは寧ろ、自分が女性と事に及んだ後、自分のカミュに対する気持ちが変化する事を心配している。
 そんな事、在るわけが無いのに…。
 ネクタイを結ぶ事に集中する振りをして、俯いて溜息を零した。と、直ぐにカミュの手が伸びてきて、カミュの指がミロの顎をぐいと持ち上げた。
 え、と思った次の瞬間には、顎の下でシュッと布の擦れる音がした。カミュがミロのネクタイを結んでいるのだ。
「さっさとカフスを付けろ」
 ミロはカミュに急かされカフスに手を伸ばした。そして、ゆっくりと自分の腕を持ち上げると、カミュを両腕の中に囲んで、カミュの背中の向こうでカフスを止めた。
 出だしの一曲目は、アイオロスのベースでJ.S.Bach “Italian Concerto” BWV971 1st だった。シュラの刻む確かなドラムの音、カミュの軽く転がるようなピアノ。そして堂々としたベース。各人それぞれに格好いいが、やはり一番にカッコイイのはピアノのカミュだろう、とミロは思った。ミロはじっとカミュの演奏をステージの袖から見詰めていた。そして、楽器を弾いている恋人を見て、彼とセックスがしたい、と思った。思ってから気が付いた。楽器を弾いている人間にこんな事を感じたのは初めてだ、と。
 堪らない。
 と、ミロはなおも視線を外さずにカミュを見詰めながら思った。多分、アイオロスやその他の男が言う「いい女だな」とか「あいつとやってみたいな」という感覚は、こういう事を指しているのではないかと、ミロは悟った。
 カミュは、既に自分の恋人だ。何度も彼とはセックスしている。けれど、こうして彼を見ていると「そういう気分にさせられる」。
 堪らない…。
 ミロは息を深く吸って、首を少し右に傾け、そのまま肩こりをほぐすように首をぐるりと回した。その時、ちらりと隣で同じように出待ちをしているサガを見て苦笑した。サガは、一心にベースのアイオロスを見ていた。澄んで大きな緑の瞳が、「大好きなもの」を見ている興奮に輝いている。
 ミロは、もう一度カミュに視線を戻した。そして、もう一つ気が付いた。今の自分は、サガのように純粋に「好きな相手を見ている喜び」でカミュを見ている訳では無い、という事に。ミロは、もっと先の事を考えてカミュを見ていた。彼の体に触りたい、そして彼にもそう思って欲しい。彼を、自分のもとに引き寄せたい。思いを密かに相手に伝える視線、それを秋波と言うのだったか、ようやっとミロは時々アイオロスの中にはっきりと見る、そしてカミュの瞳に浮かび、そしてがっかりしたように消えていくその「色」に合点がいった。
 こういう気持ちの時に、人の目の色はあんな風に変わるのだ、と。
 コンサートは、凡そ成功した。途中、何箇所か各人が軽いミスをしたが、客の反応は上々だった。アンコールに二曲応えてから撤収作業を行い、次のバンドの演奏を数曲聴いた後、演奏者とその友人達はクラブを後にした。大きな機材はアイオロスの車に押し込み、他の面子はチューブで独身の独り暮らしであるカミュのアパートメントに集合し、打ち上げを行う段取りになっていた。
 オーケストラの先輩後輩、アイオリアをはじめとするカミュとミロの同級生が集まり、狭くはないが、決して広くもないカミュの部屋に集った。
 過去の彼らの演奏会のビデオやオーケストラの演奏がエンドレスで流され、打ち上げは盛況を極めた。
 午前一時を回る頃、マイケル・ガーネットが撃沈し、後はなし崩しに人が鼾をかき始める。カミュのベッドはアンドリューとスチュアートに占領され、ソファーではアイオリアが鼾をかいていた。シオン、ドウコ、ムウは午前二時を回った頃キャブを呼んで帰宅し、その先輩組を見送った後、緊張の糸の切れたサガがうとうとし始めた。
「サガ先輩の寝場所、用意しましょうか?」
 小声で訊ねたカミュに、アイオロスはいいや、と返してアームソファに移動し、サガを呼び寄せ自分に凭せ掛けるようにしてサガを眠らせた。片腕がそれで塞がっても、もう一つの腕はしっかりバーボンの瓶を抱えている。
 カミュは、軽く溜息を付いて辺りを伺った。
 ミロは、窓際の壁の下で、ベースと金管の人間の間埋もれるようにして眠っている。
 例によって、例のごとく、正気で立っているのはシュラと自分だけである。アイオロスは今回は起きていてまだ酒の入ったグラスを片手に煽っているが、隣ではしっかりサガがアイオロスに寄り掛かって安らかな寝息を立てている。アイオロスは、決して動いてサガを起こすような事はすまい。
「バーロウ、座れるだけの隙間を床に作って仮眠だ。朝になったらこいつら全員たたき起こして掃除をさせる」
 シュラは既に、散らばった空き瓶を足でかき分けて、僅かに絨毯の見える隙間を作っていた。
 一見、どう見ても付き合いの良さそうな顔には見えないのだが、奥方も居るのにこうして毎回、シオンのようにキャブで帰らず翌日の片付けの指揮をするというのは、思いの他実は付き合いの良い性格なのかも知れない。
 カミュは、シュラに倣い、もくもくと床に散らばった食い糟や瓶、二日早いクリスマスのプレゼント交換で散らばったちぎれた包装紙などを祓って、床に腰を下ろし壁に背を預けて目を閉じようとした。
 ふと、ミロの寝入った姿が目に入り、そしてサガがアイオロスに凭れて眠る姿がフラッシュバックする。
 瞬間、カミュは僅かに耳に熱を感じた。
「まだ眠いのか? 飛行機の中で散々眠っていたくせに」
「眠いよ…。全然たりない。カミュこそ眠くないのか? うー…、今日起きたの何時だっけ?」
「八時だ。そんなに早い時間じゃないだろう」
 フィウミチーノ空港のロビーに降り立ち、立て続けにあくびを繰り返すミロに、カミュは少し冷たく返した。
 昨晩のクラブで、少し接触をしたきり、打ち上げではミロは常に他の人間に囲まれ、ろくに話す事もなかった。その後、カミュの部屋の掃除をみなでやった後、ミロのたって希望である「クリスマスをローマで」を実行する為に、一路空港へと向かったが、飛行機の搭乗を済ませるや否や、隣のミロは深い眠りについてしまった。
 そして、いざローマに辿り着いても、こうしてあくびを繰り返すばかりだ。
 この分では間違いなく、アパートに着いたら即ベッドに沈没してしまうだろう。
 未だに何故自分をローマに来させたかったのか理由が分からないカミュは、ほんの少しだけがっかりした気分を味わっていた。
 行きに空港の駐車場に車を止めて来たというミロに従って、メトロには乗らず車で市内まで移動した。怪しまれた運転も、流石に緊張感があってか危なげなくミロは運転し、事務所から少し離れた駐車場に付くまで安全に走行した。
 ローマの土曜の午後はそれなりに賑わっていて、道々のショーウィンドーの飾りつけもクリスマス用に美しく意匠が凝らされている。
 ミロの事務所の前に二人が辿り着くと、ドアの向こうのカーテンは閉じており、小ぶりのリースがドアにぶら下がっていた。
「カミュ、目、瞑ってて」
 ミロは、カミュの頬に軽くキスをしてから囁いた。カミュは一瞬、通りを歩く人が居なかったか神経が張ったが、次の瞬間には、言われた通り目を閉じた。
 鍵が鍵穴に差込まれる音。施錠が動く金属音。ドアノブが回る音。通りを行き交う人の足音。まだ分かるとは言いがたいイタリア語の会話。
 実に、様々な音があるのだな、と思った時、カミュは肩に重みを感じた。ミロの腕だろう。そう思った瞬間に、
「入って」
 と、また囁かれた。
「まだ目を開けてはいけないのか?」
「まだ。もう少しだから」
 カミュは、ミロの腕に押されるようにして、事務所に入った。入って直ぐに、ミロがドアを閉める為に独り立たされ、また次の瞬間には再び部屋の中を目を瞑ったまま案内された。
 一体いつまで、どこまでこのままなのだろう?
 大分歩いたように思った時、ミロがカミュの右手を取った。そして、その手を前方にのばさせる。
 カミュの指先が、何か、冷たく硬いものに当たった。
 テーブルだろうか?
「目、開けていいよ」
 ミロの声がして、カミュは、ゆっくり瞳を開いた。
 目の前に、黒光りする、
 一台の、
 アップライトのピアノがあった。
「!」
 カミュは、息を呑んだ。そして、目の前の物質を凝視した。
「ミロ…」
 呟いて、それでもまだその黒い楽器から目が話せなくて、そして言葉が続かなかった。
「それが、欲しかったんだ。で、ちょっと仕事を増やして、少しみんなに心配かけて…それから、これ、指輪のお礼も出来なかったんだけど…」
 ミロは、左手に嵌めた結婚指輪を目の前に掲げて苦笑の形に唇の端を上げた。
 その瞬間、何かがカミュの中で弾けて、それが溢れた。
 クリスマスに、ミロが見せたかったもの。
 下らない喧嘩をして、来るのを止めようと一度でも考えた事を、心から後悔した。
 ミロが「モデルの仕事を増やした」と言い出したのは、今年の春だったか。
 その頃から、ずっと、このために準備をしていてくれたなんて………
 カミュは、ミロに抱き付き、強く抱きしめた。そして、性急に自分の唇をミロのそれに押し付けると、進んで舌を伸ばしミロからもそれ相応の反応を期待した。
 けれど、ミロの唇は硬く合わさったまま、カミュの舌に応える動きはなかった。
 カミュが、少し、怖いような不安を感じて顔を離してミロを見詰めると、今度ははっきりと苦笑を浮かべたミロの顔が目の前にあった。
「ごめん。暫く、カミュとはキス出来ないんだ…」
 その瞬間、カミュの背筋にひやりと冷たい戦慄が下りた。
 矢張り。
 駄目なのか?
 ミロが女性と関係を持った事に対する嫉妬の感情は、自分でも不思議なほど、全くといってない。
 そんな事は、些事に過ぎない。もっと重大な事が何時も目前に在って、其処から目をそらす事は出来なかった。
 ミロに触れる事が出来なくなるかも知れない。
 自分でも何度もその可能性を考えて、覚悟はしていたはずなのに、その衝撃は予想外に重かった。
 昨日のミロの様子から、多分大丈夫だろうと、安心しかけていたのに。
「それは……何故?」
 焦らされるよりも、早くとどめを差して欲しい、とカミュは思った。
 希望であっても、不安であっても、とても長くは持ちこたえられそうになかったからだ。
 だが、ミロは、少し複雑な微笑を浮かべてカミュの頬に優しくキスを返した。
 それから、心底申し訳なさそうに言った。
「いや、一応、みんな大丈夫とは言ってたけど、まだ潜伏期間のキャリアじゃ分からないし、疑うっていうのともちょっと違うんだけれど…カミュに何かあったらオレがイヤだから…。三ヶ月、待ってくれる? ちゃんと検査受けに行くから」
 その瞬間、体中で止まっていたように感じた血流が、一気に巡り出したのを、カミュは感じた。
 そういえばミロは、暫くは出来ないと、前にも言っていたか………
 そんな事、こちらはとうに忘れていたというのに。
「楽器が側にないのって、カミュ、辛いだろう? いつかなんとかしてあげたいと、ずっと思っていたんだ。一緒に見に行くのも楽しいけれど、どうせならプレゼントしてあげたいと思って…アップライトで悪いんだけれどね」
 その言葉に、また堰止められていた思いが溢れ出した。
 本当は、いつも、羨ましかったのだ。
 手元に愛器があり、毎日でも楽器を奏でる事が出来るミロが。
「うん……本当に、嬉しい。有り難う……こんなに嬉しいクリスマスプレゼントは、初めてだ……」
 カミュは、両手でミロの顔を挟んでその顔にキスの雨を降らした。ミロはくすぐったそうに、そして、とても幸せそうに柔らかな笑い声を上げると言った。
「弾いて見てよ、カミュ。あと五秒以内に弾かなかったら、このピアノ、拗ねて消えてしまうよ」
 カミュは、高鳴る心臓を押さえて、ゆっくりとピアノの蓋を開け、そして、再度強い衝撃を受けた。
「これ……スタインウェイじゃないか……!」
 カミュは呟いた。世界で最も有名なピアノ・メーカーであり、「神々の楽器」とも称される世界屈指の高級ピアノ製造業者の金色の竪琴のマークが、空けた蓋の内にはっきりと現れている。
「メーカーは、メーカー。楽器は人が弾いて決まるんだ。弾いて見てよ。なるべく、カミュの好きなタイプの音が出るものをと思って探したつもりなんだけれど…」
 一体、これがいくらの出費になったのか、色々聞きたいことが喉まででかかったが、カミュは意志の力でピアノの椅子を引き、腰掛、静かに指を白鍵の上に重ねた。冷たい。
 けれど、
 指を下ろせば…
 小さな設計事務所の中に、Gの音が澄んで響いた。
 後は、夢中だった。カミュは夢中でピアノを弾き、そして感嘆した。グランド・ピアノではないが、響きが綺麗で反応が良い。少しタッチを変えれば直ぐに音がそれに現れる。
 ミロは中古だと言ったが、中古でも数百万は下らない楽器だ。一生触れる事もないだろうと思っていた。
 まだ自分の楽器の返済も終わっていないのに、ミロは一体どれほどの無理をしたのだろう?
 ふと気が付くと、カーテンの向こう側はすっかり暗かった。時計を見ればもう夕刻の六時を回っている。そして、ミロの姿が見えない。
 どこに…?
 そう思って慌てて居住区に繋がる階段のドアに目を向けかけ、事務所のソファで寝込んでいるミロ姿が見つかった。
「ミロ、こんな所で寝るな。寝るのなら上に、」
「ん? あ。うーん。でも、音が気持ちよくて…。カミュ、ここ上には音聞こえないし、隣も事務所だから何時まででも弾いてて大丈夫だよ…」
「だからと言って、こんな所で寝たら……」
「今週、よく寝れなかったんだ。なんか弾いてよ。なんでもいい」
 いうだけ言って気が抜けたのか、ミロはまたすうっと青い目を閉ざして眠りに落ちていったようだった。
 弾けと言われても、お前、もう寝てるじゃないか…。
 カミュは溜息をつき、自分が着て来たコートをミロの上に掛けた。
 さて、何を弾こう?
 既に寝息を立てているミロから、返事は返らない。
 カミュは暫く思案した後、ミロが穏やかな眠りの中に居られるよう、ドビッュシーの「月の光」をそっと彼にプレゼントした。
 そして、その晩は少しドキドキしながら深夜までピアノを弾き続け、結局どこからも苦情が来なかった事に安堵しつつ、寝惚けたミロに肩を貸して部屋までの道を辿らせた。そうしてミロをベッドに寝かせると、自分はマットを床に敷いて倒れこむようにして眠りに付いた。
 翌日。
 カミュは、明るい光の中で目を覚ました。
 昨日の幸福。あれは、夢だったのではないだろうか?
 ベッドの上を見れば、まだミロは心地よさげな寝息を立てている。
 カミュは着替えをまとめ、ミロを起こさぬようそっと部屋を出た。
 事務所への階段を駆け下り、扉を開く。スタインウェイは変わらずそこにあり、再びカミュの胸に幸福を運んだ。
 カミュは手早くシャワーを浴びると、ミロが起きるまでと言い訳しつつ、再びピアノの前に腰掛けた。
「気に入った?」
 一時間後、ミロが降りて来て、首だけをドアの向こうから覗かせて尋ねた。
「もちろん!」
 と、即答で強く返すと、ミロは満面の笑みで顔を引っ込めた。それから、数十分後、シャワーを浴びてきたらしいミロが彼の愛器を持って降りてきた。
「一緒に弾かない?」
 ミロの提案に、カミュは大きく笑んだ。
 上の階に二人で戻り、あれでもないこれでもないと楽譜をあさりながら、数曲分を持って降りて二人で合わせる。なんど繰り返した頃だろう。正午のカリヨンが聞こえて暫くたった頃、ミロはカミュの耳を軽く歯で噛んで引っ張った。
 なに?
 と問い返すカミュに、ミロは素直に別の事をして遊びたい、と言った。カミュは、ミロの髪に指を潜り込ませながら、梳いた。
「いいよ。上に行こう」
 フレンチ・キスは禁止。
 そういう条件を二人で確認して、カミュはミロに押し倒された。顔中に降るミロのキス。自分の体に触れるミロの手の感触。
 漸く、ああ、大丈夫なんだ。と、実感した。
 本当に相手を欲しいと思っているかなど、肌に触れる手にこもる意思で分かる。首筋を強く吸われる感触に、一瞬浮遊感を味わう。昨日からずっと続く、言葉では言い尽くせない感謝の念と喜びの感情をどうにかして外に出したくて、カミュはミロの体を強く抱きしめた。
 ああ、キスがしたい。
 言葉が頭に浮かんだ。意識したそれは、もっと強い力を持ってカミュの情熱を支配した。
 今、この人とキスがしたい。
 カミュは、ミロの頭を引き寄せると、ミロの顔のあちこちに唇を強く押し付け、そして、最後に唇に辿り着いた。
 舌を長く伸ばして、ゆっくりとミロの唇を舐める。何度も。
 そして、それでもミロの唇が貝のように閉ざしたままなのを知ると、ゆっくりとミロの乳首から腹、そしてその下の性器に手を伸ばして刺激を送りながらもう一度ミロの唇に深く自分の唇を押し付けた。
「カミュ、約束…」
 食い付かれているようだと思いながらミロはカミュの顔から自分の顔を剥がして、小さく抗議した。
 すると、酷く真面目な表情で、カミュは言った。
「唾液で感染する性病というと、私はAIDSしか知らない」
 見詰められて、ミロは頷いた。
「そして、お前がAIDSのキャリアになった場合、そして、もし発症してしまった場合、一人で残されるのはごめんだ」
「キャリアになっても全員が発症するとは限らないし、発症までの時間もにも個人差がある。オレが発症しなくても、カミュが発症したら? 残されるのは、オレだ」
「その時は、ご希望なら責任を持ってキスしてやるよ」
「オレの目標は百歳ぐらいまでカミュと一緒に暮らしたい、なんだけれど…」
「ミロ……お願いだから。……今、キスしたい」
 ミロとカミュの視線はとても近い距離で一つに結ばれて、暫く動かなかった。やがて、ミロが、ゆっくとりカミュの上に墜落し、カミュは喜んでそれを迎えた。深く差し入れた深さにも足りなくて、なおもミロの頭を自分の唇に押し付ける。遠慮がちなミロの舌の動きに、こうして欲しいと自分で示した。それは、きちんと返されて、それがカミュをさらに喜ばせた。唇が離れた時に、思わず高い喘ぎ声をだしてしまうほどに、カミュはミロとこうして裸で抱き合えることを喜んでいた。そして、自分の腰をぎゅっと、ミロの腰に押し付ける。すると、ミロの手が伸ばされて、柔らかくカミュの性器を包んだ。
 もう一度、吐息を漏らしてから、カミュはミロの腕を止めた。
「だめ?」
 ミロはカミュの頬にキスをして尋ねた。
「違う。いくのなら、ちゃんとしていきたい」
 一瞬、ミロはカミュの言葉の意味を考えたが、直ぐに、
「指じゃだめ?」
 と、返した。カミュは、また一度、辛そうに息を吐くと、ミロの腰を強く引き寄せて言った。
「指は、嫌だ。きちんと、して欲しい。……最後まで」
 ミロが、困って視線を揺らすと、カミュは腕に力を入れてミロの下から抜け出した。クローゼットの下の引き出しからコンドームの袋を数個つまみ出し、さっさと袋を破ると薄いゴムの膜をミロの性器に先に被せ、さらにもう一枚を、今度は硬く伸び始めたミロの性器全体に被せる。そうして、ミロが諦めてなすがままになっているのを見届けると、口に銜えた。
 ミロは、驚いてカミュの顔を自分の股間から外そうとしたが、間に合わなかった。徐々に息が上がり始めたミロは、眉を顰めてカミュに言った。
「カミュ、やるならシックス・ナインがいい」
 カミュは一旦ミロの性器から唇を外し、ミロに促されるまま横たわった。そして、ミロが体の向きを変え、自分の性器が同じように口に含まれた事を感じると、もう一度カミュもミロのものを口に含んだ。
 裸で抱き合っている時、カミュは明確に自分の意志を口にする。感じている事や、して欲しい事など、きちんと言葉にして、そして態度にして伝えてくれる。それが、ミロにとってはとても嬉しい事で、カミュとセックスをして感じる一番幸せな部分でもあった。
 いつだったか、ミロはそうカミュに告げた事がある。そして、普段そっけなく扱われているのが払拭されるようで嬉しいのだろうな、とも付け加えた。
 するとカミュは、常識と良識と普通の範囲で日常的に、それなりにミロに働きかけているが、ミロが全くその手の事に気付かないだけだと返した。その後、それはちょっとした口論にまで発展した。
 「気付くか、気付かないか」、「相手の思惑に敏感か、そうでないか」、そういった話に事が及ぶと、決まって最後にカミュは自分から話を打ち切り、やるせなさの色を瞳に湛える。それを見ると、ミロは尚も言い募ってそれを否定したくなるのを抑えるのに骨を折る。
 一度や二度では無く、そんな事が多々あった。その度にカミュは何かを飲み込み諦め、ミロはそれに気付いて苛立つ。
 先週、わざわざカミュではない人間と性交渉を持った結果としてミロが得たものは、それなりに経験の豊かな人間と事に及んだのでいわゆる「手管」というもののようで、その実「意志」だったのかもしれない。
 好きだから、抱く。
 好きだから、触る。
 気持ちよくさせたいから、相手の反応を見る。
 それだけではなく、互いが行う全ての行為に、相手に対して「自分に溺れさせる」という意思が働いているのだと知った。それは、気持ちのままに素直にカミュとセックスを繰り返していたミロにとって、非常にきつい色を放って目の前に現れた。ミロの気持ちを、自らに向けさせる為に放たれる視線、腕の動き、指の動き、舌の熱。そこまで露骨に、と一瞬引きかけたミロを引き戻したのは、けれど彼らのその強い「意志」の他に無かった。
 溺れさせられものなら、溺れさせて見たい。
 自分に。
 カミュが、溺れるなら。
 ミロは、カミュの性器を口で刺激しながら、ローションで濡らした手でカミュの会陰部を暖めた。マッサージするようにゆっくりと皮膚の上から少し内側に押し付けるようにして掌を動かした。
 男性の会陰部は睾丸とアヌスの間の部分であり、会陰部を押さえることで間接的に前立腺を刺激することができる。前立腺は、男性の性感帯としてよく知られているが、それは男性のみに存在する生殖器で、膀胱の真下にあり、尿道を取り囲むかたちで存在している。隣には精嚢があり、前立腺自体の大きさはクルミほどで重さは数グラム。直腸から入って四〜五センチほど所を指で探るとコインぐらいの大きさで硬い部位にあたる。そこが前立腺だ。この器官の役割については不明の部分が未だに多く、主な働きとしては前立腺液の分泌。精嚢から分泌された精嚢液を精巣で作られた精子と混合し精液を作り、射精における収縮や尿の排泄なども担うとされている。
 男性同士のセックスにおいて、「前立腺」を刺激する、という事は良く知られているが、それは直接直腸内に刺激を送らなくとも、こうして会陰部を刺激する事でも同様に感じる事が出来る。
 ミロは、ゆっくりと上下に掌を動かした。カミュの性器が次第に硬くなり始めると、会陰部も同じように弾力が変化する。そこをさらに体の中を押すように緩めたり強めたりしながら刺激を続けていると、カミュの上ずった声が中止を求めてきた。ミロは銜えていた性器を外し体の向きを変えてカミュと対面した。その間も左手はカミュの会陰部に添えたままだった。
「ちゃんと、したい、と言った」
 目前に来たミロの顔を見るや、カミュは言った。ミロは、そのカミュの唇を念入りに舐めると言い返した。
「ちゃんと、気持ち良くする、と誓うよ」
「そんな事を言ってるのじゃ…」
「しーっ。黙って」
 ミロは、唇を少し突き出して、「しぃー」と囁いてカミュの唇に口付けた。舌の動きと左手の動きを合わせるようにしてカミュを宥めていると、暫くしてようやくカミュの抵抗するような雰囲気が消えた。暖かくなったローションの上から肛門に向かって指を滑らせると、窄みの手前に窪んだ箇所がある。そこを指先で押し込むと、カミュの首が仰け反った。掌で会陰部をマッサージしながら、窪みを押す、という事を繰り返すうちに、カミュの息は浅くなり、腕に籠もる力が増していった。
 ミロは、微笑んでカミュを見詰めると、耳元に口を寄せて呼吸を深く取るように指示した。カミュの腰から大腿にかけてが痙攣し、口が言葉を捜して開いたが、そこからは短い吐息しか零れなかった。いつもと違う感覚に、なんとか待ったをかけたかったカミュだが、耳に直接吹き込まれるミロの呼吸の音と、「深呼吸して」という音の響きに背骨が痺れて言葉が探せない。
 ミロの左手はゆっくりと動き続け、そして、その内の一本がとうとう直接的に腸壁の向こうからカミュの前立腺を押した。堪らずカミュは喘ぎ、ミロは愛しさにカミュに口付けた。
「もう少し、頑張れる?」
 これほど焦らされた経験がないカミュは、思わず朦朧と、Yes, と答えた。
 本当に?
 答えてしまってから、駄目かもしれない、と感じた。
 ミロはどちらかというと、いたずらに前戯を長引かせる方ではない。二人の体の関係は、出来得る限り近くに寄り添うことが目的であって、だから準備が出来れば自然に繋がりたいと願う。そうして、一度繋がれば離れる事を惜しみ、繋がり合ったままいつまでも抱き合っている。それは時折、快楽の波が去った後のカミュに違和感を感じさせる事もあったが、お互い、体の満足よりその象徴的な形に精神的に満足しているようなところがあった。
 だから、こんな風に、とうに準備の出来ている体を焦らされた事はなかった。早く、と急かしそうになるのを、別の意識が引き止める。
 そうではなくて。
 閉じていた瞳を開ける。
 今ミロの瞳に浮かんでいるのは、きっと今迄に何度も自分の瞳に宿っていたであろう、埋み火のような熱だ。
 ただ相手への愛情を伝えるだけではなく、それと同じ強さ、もしくはそれ以上に強い感情を相手に要求する、そんな原始的な熱。
 自分を思う事、求める事以外に何も考えられないほど、強く求めて欲しい、と。
 初めて見るミロのその瞳の色に、カミュは言葉に尽くせない喜びを感じ、安堵した。
 相手に強い愛情を乞う事に、二人にはそれぞれに遠慮がある。特にミロは、そのことに強い不安を抱いているようで、時折カミュがそのことを欲しても、どうしていいのか分からない、という戸惑いを見せていた。
 でも、それが許される瞬間も、これからは、きっとあるのだろう……。
 ミロが与えてくれる愛撫に、いつまでも身を任せていたい。出来ることなら。
 そうして、ミロの愛撫に溺れる自分に、溺れて欲しい。
 でも、多分もう、そんなに長くはもたない……
 
 ミロは掌の付け根で会陰部を強く押しながら、指を直腸に潜らせて行った。一瞬、ミロの指を受け入れるために、カミュの足の力は緩くなったが、それも最初のうちだけで直ぐに足の間にいるミロの体を締め付ける向きに変わった。
 制御できない涙が流れ始め、下半身に射精時に感じるものとは違う痙攣を感じた時、カミュは突然叫んでいた。両足が硬直したように伸び切り、心臓が弾かれる。それなのに、射精時の快感は数秒も立てば落ち着くが、その兆候が一向に見えない。まさか、という思いにカミュが打たれた時、ミロはピンと伸ばされたカミュの足を折り曲げ、今まで指二本を入れていた場所に三本入れて、親指で会陰部の薄い皮膚を愛撫しながら挿入を繰り返した。そして、カミュの直腸の入り口に自分の性器を宛がうと、ゆっくりとそれを埋め込み始めた。そして、ゆっくりと体を倒してカミュ上に覆いかぶさる時、ミロの腹部にカミュの性器が触れ、カミュは射精した。
「一度ドライオーガズムに達しても、前立腺を刺激し続ければ、何度も次々にドライオーガズムに達せるんだって…」
 ミロは、悪戯を告白する子供のような笑顔を浮かべて言うと、カミュの目尻から流れている涙を舐め取った。そして、カミュの唇にまたキスを一つ落とすと、ひたとカミュの目を見詰めて、
「ずっと、カミュが抱きたかった」
 と、言った。そして、カミュの額に自分の額を合わせて鼻先をくっ付けると、
「好きな人とするのでなければ、本当に、意味の無い事なんだって、良く分かったよ」
 と告げ、力強く、腰を動かし始めた。
 その日、カミュの箍は完全にかつて無いほど外れ、翌日の昼、もそもそと二人で起きだしてほぼ二十四時間ぶりの食事にありつくまでそれは続いた。
 食事の席に着き、始める前に、もう一度お互いの舌を舐めあってナイフとフォークを手にした時だった。
 ミロが、真面目な顔をして言った。
「ゲイのセックスが排泄器官を使っての行為だから異常者扱いされるって事があるだろう? でも、考えてみたら、セックスって男とやるのも女とやるのとでも、どっちでも排泄器官にかたっぽの性器を挿入しているんだよな。女性の方は、子供の排泄器官で、男の場合は、日々の排泄器官だけれど…」
 カミュの手が止まった。フォークがテーブルの上に戻される。
「カミュ、食欲ないの? どっか辛い?」
 黙りこんでしまったカミュに、ミロは焦って尋ねた。
「いや……、その…。……それに対するコメントは、食事が終わってからでいいかな…?」
 カミュが、ようようの体ので返事をすると、ミロは一瞬何を言われたのか分からない、という表情を浮かべ、また暫くしてから、
「ああ! いや、そんなコメントなんていいよ。別に。ただそう思っただけだって話だから」
 と、慌ててカミュの礼儀正しい対応に応えた。
 その答えを聞いて、カミュの肩は本人の感覚では三メートルは落下するような気分を味わった。
 それなりに、色々学んで来たかと思えば………。
 本質は、全く変わっていないじゃないか、と。
 そんな、平和なクリスマス・イブの清々しい朝だった。

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