九月以降、たてつづけに続いた出張が漸く終わり、ロンドンの我が家に戻って来た。
八月中旬に(二代目)ロスをひきとってから、一月もしないうちに家を出てしまった私にアイオロスは不平を鳴らしたが、さて、家の扉を開けてみると、以前より随分スリムになった白地に茶色のブチのウサギが、びっくりしたように後ろ足立ちでこちらを見詰めていた。
後ろ足で、立てるようになったのか。
家に来たばかりの頃は体が重くて数秒立ち上がるのがやっとだったのに、減量と運動がきいて随分身軽になったらしい。どこか悲しそうだった瞳も、きらきらと輝いている。
人がせっかくつけた名前を一度も呼ばず、「肉」だの「ハム」だのと呼んでいたわりには、随分彼を可愛がってやったらしい。アイオロスは口では何と言っても、彼の手を必要とするものに対しては面倒見がよい。私の居ない家で、ウサギを撫でながら一人で晩酌している姿が目に浮かび、思わず口が綻んだ。
実は、この出張の合間に、実家に戻って来た。
出張先が丁度北の方だったから、素通りというわけにもいかなかったし、無理矢理引き延ばし続けてきた問題にそろそろ手を打たなければならなかったからだ。
久し振りに両親と共にした晩餐の後、私は人払いを願い、私の持つ爵位を返上したい旨を告げた。
そうして、何故そうしなければならないのかも。
父は、驚くほど冷静に私を見ていた。とうに私の考えなど見抜いていたのかも知れない。
そして、ただ一言冷淡に告げた。「卿が絶対に許されぬと承知している事を、何故私が今更繰り返す必要があるのか」と。
家に軟禁されるかもしれない、と危惧していたが、状況はそれよりも厳しかった。翌朝、前日と全く変わらない父の様子に、私はこの話が完全になかったことにされた事実を悟った。
母は、体調が悪いと姿を見せなかった。私は、寝室に母の好きなクレマチスの花を届けてくれるよう頼んで次の会議場へと向かった。
父の言うように、絶対に許されぬ事だと分かっている。
けれど、この家での生活もまた、絶対に手放せないものだ。
本気で爵位を返上するなら、もう十年早くに降りなければならなかった、それも十分分かっている。
それでも、カノンを、ただ家の都合に振り回されるだけの存在にしたくなかった。
そうして、何十年も身内を欺いて、結局弟を生贄に差し出そうとしている私は、きっとまともな死に方は出来ないだろう。
ロスの頭を撫でながら、そんな事を思い返していた矢先、暗がりに沈みかけていた部屋に明かりが灯った。
「なんだお前、そんな暗い所でウサギと喋ってるのか、暗いヤツ」
アイオロスが、片手にかじりかけのチーズバーガーを持って、玄関のポーチに立っていた。
「お、ハム、今日もご機嫌だな。これ、食うか?」
アイオロスが屈んでチーズバーガーを差し出すと、(ウサギの)ロスは私の手を離れてアイオロスに駆け寄り、チーズバーガーに鼻を近づけた。
「ちょっと……ロス! そんなものは与えては駄目だろう! まあ、食べないだろうけれど……」
「それが、こいつ、食うんだよな」
「え?!」
まさか、と言いかけた次の瞬間、(ウサギの)ロスはトマトケチャップの染みたバンズとチーズの屑を齧り取り、もくもくと口を動かし始めた。
……ウソだろう?! あの何でも食べるえせるだって、そんな油臭いものは……!
「こいつ、アメリカンでな。チップスも食うし、アイスもお気に入りだ。そういや、コーラも飲んでたな」
「……私の居ない間に、そんなものを食べさせていたのか?!」
「食わせてたんじゃなくて、俺が食ってるやつをコイツが横取りしに来るんだよ」
「では、君はこの一ヶ月そんなジャンクフードばかり食べていたわけだ」
「一ヶ月も留守にするお前が悪い」
急激に、現実が押し寄せてきた。
一ヶ月、乱れに乱れた食生活を、はたしてどう正してやるべきか。
人がいないのを良い事に連日飲み歩いていたに違いない財布の紐をどう引き締めるか。そもそも、今月の収支はまだ黒字なのか。
ジャンクフードの味を知ったウサギに、どうやって牧草を食べさせるか。
先刻まで、両親や弟の事を深刻に考えていたのが、まるで別世界のようだ。
再びバーガーを差し出そうとした手を私がはたいたので、アイオロスは、「ちぇ」と呟いて寝室へ着替えに行ってしまった。
残された(ウサギの)ロスは、まだ必死になってバーガーの匂いを追っている。
私は慌てて冷蔵庫の中を探し、しなびた人参のかけらを探し出して彼に与えた。
まったく、これが私の生活だと、家の者が見たら目を丸くして驚くだろう。
それでも、これを現実だと思ってしまうあたり、やはり、私の住む世界はこちら側なのだ、ということか(笑)。