「悪いな、エセル。今年はどうにもバレンタインには休みが取れなかった」
アイオロスは一月もそろそろ終りになろうかという日の晩、サガのコートを受け取りながらそう言った。
帰宅はサガより早かったが、仕事を持ち帰っているらしい。キッチンの脇にある小さなテーブルに書類の入った分厚い封筒が三つ、積み重なっている。
極力家には仕事を持ち帰らないのがアイオロスの信条だ。しかし、年に何度かは持ち帰りの仕事に明け方まで噛り付きそのまま出勤する、という日がある。
「そんな、気にしなくていいよ。仕事、週末も出勤になりそうなのかい?」
アイオロスにコートを預けながらサガは尋ねた。
「出張にはならないんだが、どうにも示談が成立しなくてな。長引く」
玄関脇に備えているクローク掛けにサガのコートを掛けると、アイオロスはサガの額とこめかみにキスを落し、コキコキと首と肩を鳴らしながらキッチンに入っていった。
サガは、うさぎのろすとえせるに挨拶をすると直ぐにアイオロスの後を追って台所に入った。
「もう二、三分で出来るからお前は着替えて来い」
つん、と額をアイオロスの指先に押されて、サガは強制的に回れ右をする羽目になった。寝室に行ってアイオロスが呆れかえっている三つ揃えのスーツをハンガーに吊るし、ネクタイを解き皺を伸ばしてこれも吊るす。Yシャツの上に厚手のセーターを着てリビングに戻ると、アイオロスがオーブンから出したばかりの塊肉をテーブルに並べようとしているところだった。
エインズワース家には、何時のころからか食事のメインディシュに約束事が出来ている。
三日続けて陸上の動物性蛋白を取ったら魚。これを四度繰り返したら豆がメインの料理。黙っているとアイオロスが四つ足、二本足の肉しか食べようとしないからだ。
けれど、今日はもう連続五日目の四つ足動物の蛋白だ。魚はサガが基本的には担当なので、本日の献立にはサガの帰宅が間に合わなかったからという理由も考えられる。が、サガはアイオロスのがっしりとした背中を見ながら、少しストレスが溜まっているのかもしれない、と考えた。
こういう時は、無理に肉以外のものを食べさせようとしても意固地になるだけなので、アイオロスの仕事がひと段落したら、魚と野菜がメインの食事を続けて出すようにしてなんとか帳尻を合わせるしかない。
食事中、一瞬意識が飛んだのだろう。アイオロスは、どこか遠くを見るような表情をして息をふっと吐き出していた。
就寝も、先に休んでいていい、と言われ、サガはそれなら何か飲み物でも作るよ、と言った。するとアイオロスは書類を睨んでいた視線を上げて、ふっと笑い、サガの髪をクシャリと一撫でして「折角日曜なのになぁ……」とまた息を吐いた。
そんなに、全てのイベントをこなそうとしてくれなくてもいいよ、あまり遅くならないようね、と不服そうなアイオロスの鼻の頭にキスをして、サガはお休みの挨拶に代えた。
そんな事があったので、サガは今年の二月のイベントはお流れ、日常が淡々と続いてくれるだろう、と考えていた。平穏無事な日常が。ところが、2月12日の金曜日、白、クリーム、を基調にグリーンを所々にあしらったサガの頭二つ分くらいはありそうな、大層立派な薔薇の花束が大学の事務室に届けられた。
差出人のカードはもちろん匿名で(ここイングランドではバレンタインのカードには差出人の名前は書かないのが習慣だ)、けれど、こんな花束の送り主にはアイオロス以外に居ないという確信がサガにはあった。毎年薔薇の花束を職場に贈ってくれるし、カードを見れば、大らかに流れるペンの跡は間違えなくアイオロスの手のもので、毎年とても目立つこの贈り物に向けられる好機の視線がとても痛い。受け取りの書類にサインをしながら、サガは敢えて伏せた視線で秘書のもの言いたげな様子を無視した。そして、それにしても、今年の花束は特別に力作のようだ、と復路の高速バスの中で花が潰れてしまわないように抱きかかえながら、サガは思った。
「? 今年は花束一つしかなかったのか?」
日付が変わる頃に帰宅したアイオロスが、目ざとくテーブルの上に小山のように飾られた花束を見、それから部屋の中に視線を走らせて言った。
「これを持ち帰るのが精一杯だったから、他はカードだけ頂いて事務職員の女性の方に差し上げてきたんだ。週末に誰にも面倒を見てもらえないのじゃかわいそうだからね」
アイオロスは、サガの返事を聞くと、ニヤッと笑って何故か機嫌がとても良さそうだった。
「エセル、今週の日曜は駄目になったが、来週の日曜にはデートに行こう。映画でも見て、外でゆっくり食事をして」
サガの左手を取ると、薬指の付け根に唇をあててアイオロスが言った。柔らかく湿ったアイオロスの唇の感触が、細い金色の金属に遮られて、その瞬間にふと特大の花束の理由に気付いた。
……そうか。結婚して初めてのバレンタインだったのか……
疲れているのだから、無理をしなくても、家でゆっくりとしたらいいよ、とは、アイオロスの意味する所がなんとなく分かって、サガには言えなかった。
それから一週間、アイオロスは殆ど日付が変わってから帰宅する毎日を続け、金曜の夕方に帰ってくるなり叫んだ。
「よし! 明日はデートだぞっ!!」
そして、その言葉通り、土曜の朝八時半にサガを起こし、バラ・マーケットを覗きつつゆっくりと朝食を済ませると、のんびりと散策を楽しみながらウォータールー駅の直ぐ傍にあるBFIへと向かった。
British Film Institution 英国映像協会の略で、マイナーな監督作品、社会問題を扱った作品、小品、クラシカル・フィルム、現代のハリウッド作品、あらゆるものが上映されるとてもユニークな映画館だ。外観も大変奇抜でスタンフォード・ストリートとウォータールー・ロードの交差点の真ん中の空き地に、強大な給水塔のようにして建っている。外壁は二重構造で、外側が360度ガラス張り、内側は巨大な広告塔の役割を果たしている。
アイオロスは約一ヶ月前に予約して取ったというIMAXのチケットを握り締めて足取りも軽くこの巨大な建物の中に滑り込んだ。
彼が見たかった映画は、タイタニックで名を不動のものにしたキャメロン監督の新作「AVATAR」だ。
どうしてもIMAXの3Dを体験したかったらしい。
二人揃って奇妙なメガネを顔に掛け、どうせ誰も見ていない、と主張するアイオロスに押し切られる形でサガはずっとアイオロスに手を握られながら146分を過ごした。サガは少々、眩暈のような感覚を何度か味わったが、長さを感じさせない、美しい映画だと思った。隣のアイオロスを見れば、まずは大満足のようだった。きっとこれから既観者を相手に色々と議論を吹っかけるのだろうな、と容易にその意気込みが感じ取られて、サガはこっそりと笑みを零した。
映画館から出たサガたちは1ブロックテムズ川に向かって歩くと、国立劇場に背を向けて、ジュビリー・ガーデンの中を歩き、隣のロンドン水族館へと移動した。
13年ほど前に開館した水族館は、ロンドン・アイの足元にある。
アイオロスは、ちょっと腕の時計を確認すると、これまたすでに購入済だったチケットで館内を足早に歩くと、巨大な水槽の前で止まった。
火曜、金曜、土曜日だけのサメへの餌やりを予約していたからだ。
こういう事に、嬉々として挑戦したがるアイオロスの表情は、パブリックでずっと自分より大人びていると感じていた頃の表情よりずっと幼く、まるで出会うことの出来なかった幼年時代のアイオロスに会えているようで、サガはそのことを嬉しく思った。
サメの大きな口を堪能した後は、のんびりと水族館の中を回って過ごし、時間はあっというまに夕方の四時半を回った。
「そろそろいいかな」
アイオロスは館内の壁にある時計を見ると呟き、「何か他に見たいものはあるか?」とサガに聞いた。
外で食事を、と言っていたアイオロスの言葉を思い出し、サガは首を振った。予約があるのなら時間ギリギリになってはいけないと思ったからだ。
外に出ると、日は除々に長くなっているとはいえ、もう薄暗い。
腕を組んで歩きこそしないけれど、コートのすぐ外側にアイオロスの腕があるくらい親しい距離を保ちながら、サガはアイオロスの道行きに従った。アイオロスはこんな「お楽しみ」の日には、行き先は滅多にサガに教えたりしない。秘密にしたがる。だから、サガもアイオロスを隣をただ歩く。
先ほど見た不思議なクラゲの事や、映画の事、うさぎの事、などを話しているうちに、足はどんどんと自宅に近付いている。
車に乗って出直すのだろうか?
とうとうアパートに入り、家の鍵を開けたアイオロスの背中を見ながら首を捻った。
と、アイオロスが大きく開けたドアの向こうに広がる光景に、サガは思わず息を呑んだ。
狭い廊下の奥から金色の柔らかい光が流れ出している。光に向かって居間に入ると、そこはまるで品のいい高級レストランのように全体が濃い茶色でまとめられ、アクセントに鮮やかな真紅花が飾られた、朝出かけた時とは全く異なる部屋になっていた。
目を見張って言葉を無くしているサガに、アイオロスはコートを脱ぐよう身振りで示し、椅子を引いてた。サガは信じられない気持ちのまま、思わず腰を下ろし、そしてこんな事が出来る人間は一人しかいない、と頭がようやく動き始めた。
「アイオロス、これは……」
「お前、前にバーロウに寝室弄られた時、妙に気に入ってただろう? だから、ついでに居間もやらせた」
アイオロスは台所から料理を運びながら、さらっとそう種明かしをした。
「やらせたって……当然、お金を払ってやってもらったんだよね?」
「払ってやるぞと言ったら要らないとぬかしたから無料奉仕だ」
「ロスっ、それは、駄目だよ! 唯でさえ引越しでお金が要るだろうに」
「実家に帰るのに金が要るのか? まあ、別に俺が払わなくったってお前が払うだろう? 後で俺の分もやるから一緒に渡しとけ。どうせ俺からは受け取らねぇよ」
アイオロスとカミュの関係を思って、サガは一瞬口を噤んだ。どう表現したら良いだろう。アイオロスの弟のリアなどは、自分より余程兄弟らしいと二人の関係を表している。
実際、アイオロスとカミュはパリで約二年間の共同生活をしていて、それなりに気の置けない仲だ。ただ、アイオロスは、それ故かカミュの事を本当に遠慮なくつつく癖があり、カミュも上手くそれを躱すと見えて実際の所は結構痛い目にあっている。
実の弟はいるが、その弟が嫌がる事をして楽しむ癖とは無縁のサガとしては、正直アイオロスの心理はよく分からない。分からないが、そこまでしてもお互いにどこか相手を認めているような二人の関係には、時折羨ましいような思いも抱いていた。
次々に運ばれる料理は、どれもサガがカミュに特に美味しいと言って感心したものばかりで、室内の内装変えの仕事から料理までやらせてしまったのかと思うと、サガは申し訳なさで一杯になった。
「……引越しで忙しいだろうに……」
思わず呟くと、
「忙しくしておきたい奴は忙しくしてやるのが親切ってもんだ」
とアイオロスが切り返してきた。
アイオロスに一番愛されているのは自分だという自覚も自信もあるが、ロスとカミュの間には自分には築き得ない絆がある、と思うのは、こういう時だ。
アイオロスはアイオロスなりに、ちゃんとカミュの事を見ているし、考えているのだろう。
サガは溜息を飲み込んだ。引越しの原因は、全部でもないのだろうが、数年前漸くよりを戻したミロとまた別れたからだと聞いている。人と人との関係は、他者が介入すればややこしくなることが多い。ましてや、カミュとミロの関係は普通とは違う。
目の前に並んだ料理の数々と暖かな金色の光が、本当は、カミュがミロとこうして過ごしたかったのではないかと思えてサガの胸は痛んだ。
「あいつらの事は、考えたって今すぐどうこうなるもんじゃないぞ」
つい、アイオロスとの会話が上の空になっていたらしい。
目の前に座ったアイオロスの一言に、サガははっとしてこの世に唯一無二のパートナーの瞳を見た。
「二週間前にミロの奴に会って、あっちサイドの話は聞いた。まあ、アイツも動物なみの勘に頼って暮らすのもそろそろ卒業し始めてるみたいだしな。本人たちが距離を置くって言ってるんだ。ほっとけ」
この話はこれで終り、というように言われてサガは意識を目の前のアイオロスの存在に向け直した。
蝋燭の光と淡い間接照明の明かりを頼りに、二人だけでひっそりと食事をする。
いつもと同じはずなのに、どこか違って、アイオロスと目が合うたびに暖かな震えるような感覚を覚えるのは、サガを見る彼の瞳のせいだ。
時折、テーブルの向かいからアイオロスの手がそっと伸びてサガの頬や髪を撫で付ける。シャンパンを飲み終え、次のアルコールに赤ワインが注がれ、なんとなく気分がふわふわしていたのだろう。食事を終えた後、サガはアイオロスに手招きされてレコード・プレーヤーの前に立たされた事を特に不思議に思うでもなく、黙ってアイオロスが自らの腰に腕を回す動作を受け入れていた。
流れてきた音楽は、ワルツで……サガは、あ、と思った。
「もう女性パートのステップは覚えていないよ」
サガは苦笑を浮かべて腰に回されたアイオロスの腕にそっと手を掛けて牽制した。
「ロード・パーフェクトの記憶力は折り紙付だ。信じてるぞ?」
アイオロスは愉快そうに笑って自らを宥めたサガの手を取りホールドの姿勢を取らせた。
今日だけは特別かな、とアイオロスの楽しそうな笑顔に負けて、サガはリードをアイオロスに任せた。サガが女性のステップを踊ってやると、アイオロスは本当に嬉しそうに笑い、サガの耳元に
「I love you, my sweet heart」
と囁いた。
サガはアイオロスのそんな笑顔と言葉にちょっとズルイい事をされたような心持にされたが、それを冷静に指摘するタイミングも気力も逸してしまって、結局一曲分踊り通した。
曲と曲の間のちょっとした間に、サガの腰に手を回したままアイオロスはローテーブルに置かれていた箱の蓋をひらりと開けて中を取り出し口の中に放り込んだ。そして、サガの唇にそれを渡す。
サガの口の中にふわっと甘さと独特の香りが広がって、それがチョコレートだと理解する。
「チョコレートには媚薬の成分もあるんだと」
いたずらっぽくアイオロスの瞳がちらりと輝いた。
サガは、思わず噴出してしまった。
曲は次の舞踏曲が掛かっていたが、サガとアイオロスは時々チョコレートを摘みながらぴったりと体を寄せ合ってリズムに合わせて静かに揺れていた。
シャワーを先に済ませて寝室に入りバスタオルやこれから行う事に必要なものを揃えていると、時々サガはどうしょうもない羞恥心に襲われる事がある。
アイオロスと体を繋げる事は嫌いではない。でも、それは生物学上、そして常識の範疇からして、とても奇妙な事のはずだ。それなのに、その奇妙さが、年々曖昧になっていくような感覚に襲われるのだ。奇妙さに対する感覚は鈍くなり、けれど、羞恥心だけは残る。
奇異だ。
自分の性別に関する認識、本来のセックスの意味、そういった事を考えて、本当に奇妙だと思うのに、夜、アイオロスが同じベッドで眠ること、彼に抱かれる事、それが、日常の一部になってしまっている。
不可思議な透明な境界線の上に一人立っているような曖昧な感覚。そんなものに襲われて、そして羞恥を感じる。
一体、自分はいつまでこんな風にアイオロスと体の関係を続けていくのだろう?
漠然と五年先、十年先を考えると、足元が無くなるような浮遊感をサガは覚える。
「エセル、どうした?」
アイオロスの声にはっとすると、タオルを手にぼんやりとしていた自分に気付いた。
「なんでもない。ちょっと、考え事をしたら、広がってしまって」
「一体どの辺まで広がっていたんだ? イングランドから外には出ない程度にしとけよ?」
がしがしと濡れた頭をバスタオルで擦りながらアイオロスは言った。
アイオロスがシャワーを済ます前に揃えておこうと思ったのに……引き出しからローションを取り出そうとしたサガの手が躊躇う。
と、パチンと音がして寝室のメインの明かりが消えた。ベッドの軋む音がした。
「……サガ、」
背後からアイオロスの腕がサガの首に絡みつき、低く、コントラバスのように響く声が耳の奥に向かって囁かれた。サガの体が、震えた。
アイオロスの右手がサガのガウンの袂に潜り込み皮膚に触れた。がっしりとした左手がサガの顎を捉え、唇撫で触れる。
堪らなくなって、サガは体を回転させてアイオロスの首に一度自分の腕を強く巻くと、そのままゆっくりとアイオロスの首筋を自らの手のひらで辿り、広い肩を撫でた。
アイオロスのバスローブの肩が落ち、しっかりとした筋肉ののった胸が露になった。アイオロスの唇に口付けながら、サガはアイオロスの厚い胸に手のひらを這わせた。サガ自身が、どうしても筋肉の付き難い体質なので、アイオロスのこの健康的な体は憧れでもある。サガよりも高い体温の体を手のひら全体で感じながら丁寧にアイオロスの体を宥める。
一方、アイオロスの腕の一つはサガの後頭部を支えて深い口付けを助け、もう一つはサガの背中からガウンを滑り落としながら背骨を辿った。
腰骨にアイオロスの暖かな手が乗ると、自然にサガの体は電気が走るような刺激を感じた。サガもアイオロスの固くなった乳頭に押し付けるような刺激を送り返す。
アイオロスの手が、ゆっくりとサガの背の中心を辿り、臀部の割部に潜り込んだ。サガの肩はびくりと上がり、アイオロスの胸に掛けていた両の手を彼の腰に回し抱きしめた。
アイオロスは、口づけあったままの状態でサガの体をじわりと回転させ寝台に着地させた。
サガの体は、寝具の弾力とアイオロスの重みで挟まれた。その閉じ込められた狭い空間の中で、サガは肉体的にも精神的にも着実にアイオロスを受け入れる準備を進め、何もかもアイオロスに預けてただ彼の体を抱きしめた。
朝は、いつもアイオロスの方が早く起きる。
早起きは健康にも、頭脳を効率的に働かせるにもよい習慣と言うことで、サガは大学時代何度もアイオロスの時間に合わせて生活しようと試みては失敗を繰り返した。結局自分には彼のように短時間睡眠で人並みに働くのは無理だと諦めたのは何時の頃だったか……。
そんなわけで、朝目覚める時にはいつも寝台にはサガ一人だ。ただ、どう察知するのか、アイオロスはすぐにサガが目覚めた気配を察する。そして、寝室に顔を出しお早うと挨拶をしてくる。だから朝の一人寝をサガが寂しく思うことはないし、一緒にいて欲しいとも願わない。ただ、彼の寝顔が見れないのは、時々悔しく思うだけだ。
起きている間は色々に憎まれ口を叩いているアイオロスだが、誰が何と評しても、眠っているアイオロスは、本当に可愛いとサガは思っているからだ。
アイオロスの寝顔は、彼が体調を崩した時か、疲れが溜まって転寝をしている時くらいしか見るチャンスがない。どれもアイオロスの健康を考えれば喜んでばかりもいられない状況なので、純粋にアイオロスの寝顔を鑑賞出来る機会は数年に一度、あるかないかだ。
けれど、眩しい白い光に瞼を刺激されて、ゆらゆらと意識を覚醒させながら、サガはこの日奇妙な違和感を感じていた。
寝台の中に何かが居る。
いつもは誰もいない、広々という程ではないがキングサイズの寝台だ。一人で寝るには十分なスペースがある。そこが、何か重さのある大きな物体によって半分程占領されている。
サガは、明るさに目を慣らしながら薄目を開いた。
「ロス!」
サガは驚きのあまり声を上げてしまった。アイオロスが、片手で頭部を支えながら此方をじっと見つめてたのだ。
「どうしたんだい? いつもはもう起きているのに……?」
ただじっと見つめられていてはばつが悪い。見ればアイオロスはすでにシャワーを浴びていたが、サガは勿論まだだ。なんとなく、居心地が悪くて、サガは手を伸ばして自分のガウンを探った。
「たまにはいいだろう? エセルの寝顔は可愛いしな♪」
この場合、自分もアイオロスの寝顔に対して同じ感想を持っているので、アイオロスだけを責めるわけにはいかない。そして、アイオロスはいくらでもその感想を口にできるのに、サガが同等の感想を音にするにはかなりのリスクが伴う。そのリスクを経験で学んでいるサガは、不平等だ、という言葉を頭に点滅させながら仕方なく自らの感想は胸の奥に仕舞い込んだ。ここにしまう分にはアイオロスに禁止される事も、取り上げられる事もない。
「朝ごはんは食べたのかい? 何か作ろうか?」
指先に当たったガウンをそろそろと引き上げながらサガが問うと、
「ああ、軽く俺は食ったな。お前は? 腹減ってるか?」
と、アイオロスは何度も啄ばむような口付けをサガに降らせながら尋ね返してきた。
「まだ体がちゃんと起きてないのかな。空腹は感じない。じゃあ、君がお腹を空かせていないのなら、シャワーを浴びてきていいかな?」
「シャワー? どっか気持ち悪いか? 昨日、ちゃんと拭いておいてやったぞ?」
こういう言葉は、何度聞いても居たたまれない。耳が熱くなるのを防ぐ手段もなく、サガは口の中で短くお礼の言葉を述べると、一気に引っ張りあげたガウンを腕に通そうとした。
すると、アイオロスがひょいとそのガウンを奪ってサガの体を寝台に押し付けた。
「……ロス……」
ただのおふざけなのか、本気なのか、アイオロスの望む所を計りかねて言葉に力が十分篭らなかった。それに気を良くしたのか、アイオロスを鼻歌を歌うような雰囲気でサガの顎から耳元に向かって舌を這わせ、サガの下半身に被さっていた掛け布団をバサリとはいだ。アイオロスの手がサガの下腹を軽く撫でずっとさらに奥へ滑り込んだ。
「アイオロスッ!!」
今度は強い非難の声が出た。アイオロスはじっとサガの顔を見つめると、
「どうしても嫌か? 俺は構わんし、待ちたくない」
「嫌だ。シャワーを使わせてくれ」
「きれいだぞ、お前。ちゃんと拭いてやったって言っただろう?」
するりとアイオロスの手がサガの首筋から胸の上までを刷くように撫でた。
脊髄に走った衝動を無視して、サガは強い態度を崩さず再度言った。
「アイオロス、」
アイオロスの目はサガの目を覗き込んでいたが、固く緩まないサガの眼差しにやっと諦めたように肩を一度竦めて体の力を緩めた。サガはホッとしてガウンを手早く体に羽織らせてベッドを降りようとした。 が、その時だった。突然視界が白く厚いもので閉ざされた。皮膚にあたる感触からガウンの腰紐だと合点がいくまで、二拍ほどかかった。
「バスルームには行ってもいい。でも、洗うのは俺がやる」
忍び笑いを隠したような、それでいて奇妙に熱い耳もとの囁きに、サガはこれはどんな抵抗も無駄だと悟った。
アイオロスは、大人しく従ったサガの手を取ってゆっくり寝台を降りさせると、そのままバスルームにまで導いた。
「ロス、最初だけ、一人で入らせてくれ。その後は君に洗ってもらうから」
「目隠しは外さないって条件なら」
奇妙な取引で、奇妙な事に陥った。手早くアイオロスに見られたくない処理を一通り済ませ、二度目に掛かったアイオロスの声にサガは入ってもいいと返事をした。
熱めの湯でさっと汗を流すと、アイオロスの手はもはや洗浄ではなくサガの体を煽るための動きを始め、サガは閉ざされた視界の中で感じる居たたまれなさに蓋をしてアイオロスの体に自分の体を預けた。
狭いバスタブの中で体中を弄くり回されて、もう一度寝台に戻された時には、サガの平素の理性や羞恥心はすっかり緩んでしまっていた。
視界を遮るという行為には、抵抗の意思を無くす効果が少なからずある。自暴自棄にならない限り、周囲の状態が見えない状況で四肢を振り回すことも、拘束から逃げることも簡単ではない。
結果、パートナーの指示には従わざるを得ない。
アイオロスの手が指示するままに、サガは背中を彼に向けて膝を立てた。おもむろにアイオロスの体がサガの体に覆いかぶさり、サガの背筋に唇が、胸に手での愛撫が与えられる。サガは目を閉じてアイオロスから送られる刺激に意識を集中させた。口を軽く開き、呼吸を止めないよう快感に対する期待感を意識的に高める。
アイオロスの体は所詮サガとは全く別の物質で、それと息を合わせて共同で歓楽を得ようという作業は、衝動に突き動かされて闇雲に突き進むのとは別で、共に階段を一つずつ上っていくような行為に似ている、とサガは思う。
今も、体の敏感な箇所に丁寧な刺激を受け、理性をより原始的な欲求の領域に少しずつシフトさせるよう導かれている。そして、サガの意識の中で性に対する欲求が高まれば、今度はより具体的にその方法がアイオロスによって示唆される。皮膚の上からの刺激ではなく、もっと直截な、もう一つの刺激が体の中に入ってくるのだ。
アイオロスの指が、通常なら決して他人に触れられたりしない場所を意識させる動きを繰り返し、濡らされ、軽くほぐされた後、滑らかなプラグがまた更にサガの体に滑り込む。サガは大きく息を吐いてその刺激を、直接の挿入のある場所でより、寧ろ脳内に受け止める。樹脂で作られた拡張を目的とした器具は、本来なら数時間体内に入れてその大きさに慣らすよう作られているものだが、滑らかな楔状のそれでゆっくり前立腺と腸内を刺激されれば、数時間前に味わった快の感覚が蘇る。息と一緒に小さく声を漏らしながら気持ちを高めるよう務める。
月に数度、というような割合ではなく、週単位でコンスタンスに肉体関係を持つ間柄では、受け手のサガの体に掛かる負担が自然大きくなる。だから、なるべく結合部分に負荷が掛からない方法で体を開く準備をする。結局、指ではどうしても摩擦や歪な形による粘膜への負荷が避けられないからだ。
アイオロスが軽くサガの肩を押した。サガは肩を寝台に付け、腰だけを上げるような姿勢を取った。アイオロスが差し入れていた器具を取り去り、潤滑液をサガの体の中に入念になじませた。最初のものより一回り上のサイズの直径のものがサガの体に滑り込む。それがサガの体の中でサガの意志とは別の意思によって動かされる。
カーテンは開いていた。
脳裏にふっと白昼の明かりに照らされた部屋の様子が浮かび上がり、サガは目蓋をぎゅっと閉じた。好んで曝したい姿ではない。けれど、時々アイオロスはこうした行為を求める。
アイオロスはの強い好奇心が先走って、時にサガが困惑せざるを得ないような遊びを持ちかけてくるが、基本的には無理強いなどはしない。ましてやサガの体に殊更負担をかけるような事も絶対にしない。ただ、基本的に、という事は例外もある訳で、その例外には二通りある。
日常に退屈を覚えて何か目新しい事をしたくなる好奇心に根ざしている例外と、アイオロス自身も恐らく自覚していない、十年以上もアイオロスを見続けてきたサガだから気付くような例外だ。
隠してもやっている事は同じ、とケロッと言われてしまっては、本当に答えに困るのだが、好奇心に満ちてただそういう事を求めている訳ではない状態のアイオロスは、意識の奥深くに澱のように残ってしまったストレスを抱え込んでいる。弁護士として、時に人間の最も醜悪な面を見続けなくてはならないアイオロスは、無意識に怒りを押さえ込み、その怒りすら見ないふりをする事がある。せめて愚痴でも零してくれれば、と言葉で問えば、それが仕事と割り切った答えが返るだけだ。ましてや、理不尽にサガに不満をぶつけて発散させるような事は決してしない。だが、不満を飲み込まなくてはならない事への不満が、まれに消化しきれずに鬱屈する場合がある。
「あいつが鬱屈すると、やっかいだぞ」
とは、世話になっている二つ上の学年の整体師、シオンの言葉だ。
「奴はクルクルと体も頭も回っているうちは疲れ知らずで動き続けるが、一度その動きを止める障害物に捕まると途端に壊れる。その壊れ方が、何処に行くか見当がつかん壊れ方をするし、まず直せん」
お前がガス抜きをさせてやれ、と言われ、その言葉は深くサガの記憶に刻み込まれた。
サガがあからさまな状態をアイオロスに見られたくないのは、それで相手の熱が冷めてしまうのが怖いからだ。けれど、そんな澱が溜まっている時のアイオロスはそういう普通なら美しいと思わないような状況に割く気をどうやら持ち合わせていないようなので、サガはなるべくアイオロスの熱に沿う形で体を繋げる。単純なもので、そうやってサガの体を相手に自分の我侭を通させ十分に汗をかいてから一晩眠ると、アイオロスの体から抑圧されたものが消えている。そういう仕組みが分ってしまえば、羞恥心を煽られるような、少し意地の悪い要求と思えることでも、なんとなくサガには可愛らしく思える。
自分にだけに、そして自分だからこその無意識のアイオロスからのSOSだと感じられる。愛おしさが増す。だから、いたたまれない自分の気持ちは一時見ないことにして、アイオロスの体を抱きしめる。
やがて十分体の準備が整えば、内部に感じる圧迫感と熱が増してきて、アイオロスの一部がサガの内部に侵入を果たす。
息苦しいような、眩暈のような快感を体に許していると、アイオロスの両腕がきつくサガの胸に回された。首筋を強く吸われる。頭の奥がぶるっと痺れた時、体が一瞬宙にに浮いたような気がした。
どさり、と音を立ててアイオロスの体がヘッドベッドに持たれかかり、サガの体は胡坐をかいたアイオロスの中心に縫い付けられるようにして閉じ込められた。
アイオロスは右手でサガの膝を開かせると、サガの首と耳にキスを繰り返し舌を押し入れた。
サガは耳が本当に弱い。逃げようが無く体を縮ませると、体の前に回されたアイオロスの両腕が胸や結合部分の外側から前立腺などを刺激し始め、サガは狼狽して腰を浮かせた。
「大人しく座ってろ」
サガの腰を抱え込んだアイオロスの腕がゆっくりとサガの体を再び深く縫い止めた。サガの耳がかっと燃えた。
例えサガには見えなくても、アイオロスの目にはこの状態が映っている。せめて、向かい合わせに座らせてもらえば……。首を捻ってアイオロスに向かって出そうとした言葉は彼の舌で塞がれた。
下から断続的に揺すり上げられ、サガ以上にサガの体の事を知っている人間に体中を弄られれば、通常の判断能力は殆ど機能停止状態になる。
ああ、このまま続けたら自分を見失いそうだ、サガにそう思ったまさにそのタイミングに、アイオロスはサガの目隠しを解いた。
さあっと、視界が明るくなり、最初に見えたのはアイオロスの口元だった。サガは首を捻って彼の唇に自分の唇を合わせた。アイオロスの手が優しくサガの胸を撫で、サガは無意識に自分で小さく腰を揺らした。感じて反らされた胸に執拗にアイオロスの手が愛撫を加える。
サガはアイオロスの膝に手を掛けて自分の体を支えた。声が上がっていた。
と、その時だった。目の端、否、正面に光るものがあった。
え、と思った次の瞬間、体の芯が凍った。
「アイオロスッ!!」
叫んでアイオロスの体の中から這い出ようとしたが、遅かった。がっちりとアイオロスの両手に腰を捕まれて、またもとの位置に腰を引きずり落とされる。
「サガ、さっきまでの可愛い顔が台無しだ」
「ロスッ、これは、嫌だと言っているじゃないかっ」
「どうして? 俺が見るだけなんだからいいだろう? それとも何か? サガ、お前はお前以外の人間のやってる所を見て俺に欲情して欲しいのか? そりゃ浮気って言わないか?」
「またそんな屁理屈をっ!」
「屁理屈じゃない。お前のいい顔を見るのが一番感じるしクる。それを大事に保管しておいて何が悪い?」
言い返す暇もないまま前立腺をぐいっと指で押されてサガの体が竦んだ。体が竦めばアイオロスを含んでいる部分も収縮し、結果、体でますますアイオロスを感じる事になる。
そして結局、サガはいつもと同じように、アイオロスとの押し問答を喘ぐ息の間から繰り返し、力負けした。
アイオロスとこうして体を繋げて二人で快の感覚を求めて互いの体で上り詰めるのは嫌いではない。寧ろ好きだ。けれど……それを映像として残されて記念品扱いされるのは全く別の話だ。
理性はもっとも原始的な刺激に凌駕され流される。引き返せなくなった状態でビデオカメラの存在を知らされても、その流れを食い止められた事は無い。分かっていて種明かしをするアイオロスは本当に性質が悪い。どうせだったら、最後まで知らせないで済ませてくれればいいものを、と、そんな恨み言が一つならず零れる。
「もちろん、最後まで知らせないで撮ったのもあるから大丈夫だ。心配するな♪」
何をどう心配しなくていいのか、サガには全く分からない。正常位の体勢でカメラのレンズをサガの顔に向けてアイオロスはニッと笑った。
「サガは何をしてても可愛いし綺麗だから心配しなくていいんだよ」
そんな事は 絶対に 無い。
断言したいが、すれば必ず言い負かされる事を諦観してしまえるくらいには経験を積み重ねてしまっているサガは、潤んだペリドットの瞳でキッとアイオロスを強く一度睨みつけると、瞳を閉じてアイオロスの首に縋った手に力を込めて体を揺らした。
その夜、自分のコンピュータの画面の前で、頬を赤らめながらgoogleの検索窓を覗いているサガの姿があった。
『恋人が、セックスの様子をビデオカメラで撮影したがっています。こういうのって、変態でしょうか?』
『恋人が、セックスの最中に目隠しをします。私達、アブノーマルなんでしょうか?』
webで質問し、それを見た別の人間が答える、その手のQ&Aサイトが溢れている昨今、ちょっとした単語検索で簡単にこういったQuestionに行き当たる。
自分で質問せず、他人の質問を覗いてその答えを探すというのはどうにも卑怯な気がして、その気後れと自分自身に対する羞恥がサガの頬を淡い薔薇色に染めている。
かといって、いくらハンドルネームが使えるとはいえ、自分で質問を書き込むのはあまりにも恥ずかしい。サガは、プライベートをこうしてネットに晒して質問した勇気ある女性達(女性ではないかもしれないが)に心の内で賞賛を贈り、かつ答えを覗き見することを詫びつつ、Answerの欄に恐る恐る視線を移動させた。
『あなたとパートナーが合意の上で、かつそれによってお互いに快感を得られるのであれば、それを罪悪に思う必要はないのではないでしょうか? 実際、長く続くカップルや夫婦の間では、時々普段と違うことをしてパートナーの新たな一面を発見する、ということもよく行われています。心の結びつきと体の結びつきは、一般に思われているよりずっと強い相互関係にあります。体の関係がマンネリズムに陥らないようにすることは、心の関係がマンネリズムに陥らないようにするために一定の効果があります。
大切なことは、二人のどちらもがそれを楽しむことです。どちらか嫌がったり、快感を得られない行為は避けるべきです。二人が楽しめるのであれば、世間一般でどう呼ばれていても、メイク・ラブだと言ってよいのではないでしょうか。 (専門家、自信あり)』
「なーに見てるんだ? エセル?」
突如背後からかかった声に、サガの腰は軽く1インチほどは椅子から飛び上がった。慌てて画面を消そうにも、アイオロスは既にサガの背後に辿り着いてコンピュータの画面を覗き込んでいた。
「ふーん? そんな事が気になるんだ?」
「いや、……その……」
「なるんだろ?」
サガが返答できずにいると、アイオロスはにっと笑ってサガの肩を叩いた。
「ま、そんなに気になるんなら、お前も見てみたらどうだ?」
「それは嫌だ!!」
自分のあんな姿を客観的に見るなんてとんでもない。思わず机に手のひらを叩き付けて立ち上がったサガの首に、アイオロスはくるりと自分の腕をかけてサガの顔を自分の目の前に引き寄せた。
「お前、俺のイイ顔見たくないの?」
アイオロスの目が、じっとサガの瞳を覗き込んだ。その瞬間、何かが、すとん、とサガの胸に落ちた。
「……君も、映ってるのか?」
「そりゃ当たり前だろう。二人でやってるのに、お前だけ映すなんて器用なこと出来るか。三脚使って録ったところはどっちも映ってるだろうが」
「…………」
ロスのいい顔、は、かなり、見たいかもしれない………。
大体、いつも終盤になると、サガの方は半分意識をとばしていて、アイオロスの顔がまともに記憶に残っていることはあまりないのだ。
それが、じっくり見られるとしたら………
「見るか?」
もう一度、アイオロスが問う。その顔が、いかにも楽し気に笑っている。
嵐よりも激しく鬩ぎ合った胸の内の葛藤をくぐり抜けて、
こっくりと、サガが頷いた。
耳がほんのり赤く染まっている。
「じゃ、ここに座って待ってろ」
アイオロスはサガの手を引き、リビングのソファに座らせた。サガは、背筋を延ばし、ちんまりとソファの端に腰掛け、目の動きだけでアイオロスの動向を伺った。アイオロスは、鼻歌を歌いながらパントリーからポテトチップスの袋を引っ張り出し、冷蔵庫からコカコーラの入ったペットボトル(何処に隠していたのかサガには不明だ)を掴み出しローテーブルの上に並べると、パソコンに繋いでいたビデオカメラをケーブルでテレビに繋いだ。そして、最後に、ティッシュの箱をサガの目の前にドン、と置き居間の電気を落とした。
このティッシュは一体なんだろう? どうして部屋を暗くするのだろう? 目に悪いと言った方がいいだろうか?
サガが己の疑問に気を取られた一瞬の間に、ソファがアイオロスの体重を受けて沈んだ。
一方の端に寄っているサガの横にピタリと腰をくっつけて座ったアイオスが、リモートコントロールをテレビに向けて伸ばした。
まるで、魔法の杖のようにテレビに電源が入る。
プツッという鈍い音と静電気の走る微かな音がシンと静まりかえったリビングに響いた。
「ほら、エセルの声、可愛いだろ?」
ぴんと背筋をのばしたサガの腰に手を回しながら、くつくつとアイオロスが笑った。リビングには、サガが意識的に自らの欲情を煽ろうとして漏らしている息と微かな喘ぎ声が衣擦れの音共に響いている。
「……その、音は消す、っていうのは駄目かな?」
「おい……音のないAVほど間の抜けたものはないぞ」
「AVって言わないでくれ……」
「いや、立派なAVだろう。……って、そういやお前、市販の AVみたことあるのか?」
「勿論ないよ! そんなもの」
そこは、本来、男としては威張る場所じゃないんだがな? と、顔を赤くしてそっぽを向いたサガを見てアイオロスは天井を見上げた。
昨年とうとうサガの反対を押し切って購入したシネマスコープサイズ56型液晶テレビを、顔を斜め45度に保ったまま、ちらり、ちらりとサガの視線が捉える。
アイオロスはパリパリとポテトチップスを齧りながら、すっかり棒のように固まってしまっているサガに言った。
「…………チップス、食べるか?」
長い沈黙の後、サガの細い声が返ってきた。
「………………それじゃあ、頂くよ……」
視野と聴覚から自身の痕跡を消してアイオロスの姿ばかり追おうとするサガの懸命な姿勢に、アイオロスは改めて思った。
生まれて初めて見るAVが自演作品とは、コイツもあらゆる意味で希有な存在だな、と。