俺は、恋人としてはロクデナシで、結婚相手にするには最悪の人間らしい。
二月の最後の日曜日、ロンドンのカミュのアパートに行った。そこで、噛んで含むようにしてカミュに諭された。
「生涯をお前と一緒に歩いてくれる人は、お前が不精せずに探せばきっといるさ。ただ、私にそれが出来ないというだけで……」
微笑みすら浮かべて、まるで教師が覚えの悪い生徒に言い聞かせるように言われた。
それだけじゃない。
唇の端に浮かんだ、考えすぎてもう擦り切れてしまったという風な色は、ギリギリまで追い詰められて、微笑む事でしか自分を保てない、そんな最後のカミュの鎧のように見えた。
カミュは全身で、もうこれ以上は駄目だと訴えていた。
『お前の荷物をまとめてあるから見てくれ』とカミュは箱を視線で示した。
近寄って、蓋を開け、まず目に飛び込んできたのは、カミュの誕生日に使った小さなパスタ・プレスだった。置いて行けとカミュにゴネられて、それで言われた通りにロンドンに残したやつだ。
置いてってもカミュはパスタなんか自分で作らないじゃないか、と言ったら、カミュは完璧なにっこり笑顔を作って『お前が作りに来てくれるだろ?』と言った。
他に、歯ブラシとか、ロンドンへの移動中に暇つぶしに読んでいた本とか、髪を括るのに使っていた10個で1ユーロぐらいの安い髪ゴムだったり……。
そういったガラクタがちんまりと綺麗にまとめて四角い箱の中に納まっていた。
カミュが勝手に捨ててしまったって、きっと俺は気付かないし、たとえこうしてまとめて準備されていたとしても後生大事にイタリアにまで持って帰るようなものじゃない。
それを、カミュだって分かってる筈なのに、丁寧にまとめてある。
潔癖なのか、真面目なのか。
細々したそんな安物のガラクタの下に、今度はCDやMP3。
カミュが欲しいと言って、俺が贈った、俺の演奏が入ってるやつだ。
頭がガツンとぶん殴られて、血の気が引くような衝撃を感じた。
息が、詰まった。
どんなことがあっても、カミュだけは自分の音楽を聴いてくれると、言葉で意識しなくてもそう思い込んでいた。
でも、こうして、音楽まで拒否された。
棺桶の中でも漁っているような気分だ。
音を立てないようにプラスチックのケースに入った薄い音の欠片を取り出し、机の上に出した。
そしてその下から出てきたのは、俺がモデルの仕事で貰ったスチル(still pictures)だ。
楽譜と本と建築資料でパンパンになった屋根裏部屋をカミュと二人で片付けたときに出てきた。
好意で貰った自分の写真をゴミ袋に投げ入れるのもちょっと気が引けて「いる?」とカミュに聞いたら、「じゃ貰っとく」と、そんな短いやり取りで所有者が変わった。
不精して貰ったままの状態で大小様々な封筒に入っていた筈の写真が、綺麗に何冊かのアルバムに綴じられていた。
胸の中で何かが膨らんだ。そしてそれは、急速に冷たく収斂して小さい石の礫になった。
喉の奥が、熱くなって、奇妙に膨らんで、痛くなった。
分かってる。
ここまでカミュを追い詰めたって事だ。俺が。
静かに、やさしく、控えめに、けれど激しい情熱を持った人を、俺がちゃんと受け止め切れなかったんだ。
唾を無理やり飲み込んだ。
息を吐いた。
引き出したものを、元と同じようにダンボールに戻して俺は台所に足を運んだ。
「カミュ、宅急便の伝票ある? あとガムテープとか」
カミュは一瞬考えるような表情をしてから、ちょっと待ってと言うと寝室からテープと伝票を持ち出してきてくれた。
そして、カミュはすぐに台所に戻り、俺は伝票にニア・ソーリー(実家)の住所を書き、一気に箱の上にテープを張り渡して封をした。
ため息は吐かないと決めて、歯を食いしばり足を台所に向けた。
「何か手伝うこと、ある?」
お互い、いつもの様な気安さを装って声を掛けたり掛けられたりしながら簡単なパスタとサラダを作り、途切れがちな会話の中で食事をした。
カミュも俺も、そんなには食べられなかった。
進まなかった食事を台所に片付けて、カミュは「何か飲む?」と俺に聞き、パントリーに残っている茶葉とワインを見せた。
俺はティーバックのハーブティーを。
カミュは紅茶を淹れた。
指に痺れるような熱さを伝えるカップを持って居間に移動し、ソファに座った。
カミュはすっと一人掛け用の椅子を選んで腰を落としてしまったから、俺はカミュと直角になるような角度で複数人用の椅子に座った。
「それで、話って?」
カミュは、持っていたカップをひざ近くのローテーブルに置くと俺に横顔を見せたまま尋ねた。
俺は腹に力を込めて、強く、はっきりとした声で言った。
「ごめん」
カミュの静かな横顔を見詰めて、俺はその横顔を目に焼き付けるようにして言った。
「何が?」
カミュが俺を見た。カミュの濃い紅茶色の瞳が、真っ直ぐに俺を見た。
「カミュを傷付けた事……だよ。追い詰めて、でも結局カミュの受け皿にはなれなかった」
カミュの喉が、何かを嚥下する動きを見せた。
カミュは唇を引き結んだまま二拍ほど俺の瞳の中に何かを探って、瞼をゆっくりと下ろし自分の瞳の色を隠した。
カミュの色の濃い睫に隠れて、その双眸から何かを読み取る事は出来なくなった。
暫くの沈黙が続き、静かなカミュに俺は言葉を投げかけた。
「でも、俺は今でもカミュを愛してる。カミュを手放したくない」
俯き加減の瞳が嵌め込まれたカミュの顔の皮膚は微かにも動かず、やがて閉ざされていた唇だけが動いた。
「……わかっているよ」
カミュも俺も、静かに、静かに話をした。
短い言葉が互いの間をゆっくりと振り子のように行き来した。
振り子のように言葉はやりとりされ、時間は進んだ。けれど、それが何を変えたわけでもなかった。
ただ同じ所を行ったり来たりする。
目に見えない振り動く鎌に、薄く一枚ずつ甘くうずく希望や譲れない想いが削り取られていった。
体の中に溜め込んでた俺の想いは研ぐように殺がれて、心が悲鳴を上げた。
カミュの選んだ結末は嫌だと、叫んでいた。
でも、二人の会話は何処までも静かに続いた。
長いようで、時計を見たら二時間にも満たない時間だった。
分かってる。
カミュが辛いって。
カミュが、何故自分にはもう無理だと言うのか、そう俺に伝える事がどんなにカミュ自身を傷付けているか、分かってる。
カミュの願いはみんな叶えたい。
全てに同意したい。
でも、胸の中からそれだけは承諾出来ないと、カミュと別れるのは嫌だとどんなに抑えようとしても抑えきれない強い反抗が湧き上がる。
その原因を作ったのは俺だって、わかってるけど、でも、嫌だ。
なんて自分は分からず屋な人間なのか。
一本、また一本と俺の想いの枝が折られて、幹しか残らない状態にされて、俺はカミュに聞いた。
「電話、してもいい?」
「実家に戻るから、電話は遠慮して欲しい」
「メールは?」
「暫く連絡はしないでもらいたい」
体の中に、どうしようも無くカミュの声が刺さった。
息が詰まった。
笑おうとして、顔の筋肉がうまく動かなかった。
囁くような小さな声しか出せなかった。
「暫くって、どのくらい?」
「……こちらから、連絡するまで」
胸が、痛いのか、焼けているのか、凍ったのか、分からなかった。
ただ、凄く、凄く、痛かった。
このカミュの決断が俺の行動の結果だと、自業自得だと分かっていても飲み込めなかった。
覚悟はしていたのに、やっぱり自分がカミュの生活から切り離されてしまうという現実は、体が痺れるほどの衝撃だった。
緊張でビリビリと痛む指を伸ばしてカミュの頬に触れようとした。
カミュは、はっとした様に目を開いて俺の指を避けた。
俺の唇が笑った。苦笑だ。
こんなに苦くて息苦しい気持ちで笑ったことは無い。
「もう触るのも駄目?」
カミュは目を見開いたまま凍りついて俺を見た。
赤茶の瞳はぴくりとも動かなかった。
俺は避けられた指をゆるゆるとまた伸ばした。
目で見ても分かるくらい自分の指先が震えていて、可笑しくなった。
カミュの皮膚に指先が届きそうになったとき、カミュの声が耳に届いた。
「友人としてなら」
今度は俺がカミュを凝視する番だった。
伸びていた腕が、石のように固まった。
俺は、油の切れたロボットみたいにぎこちなく動いて、カミュの前に崩れるように屈み込んでカミュの体を抱きしめた。
カミュの全身が緊張と警戒に硬くなった。
その反応が、深くまた俺の体に突き刺さった。
からからになった口で、懸命に何かを飲み込んで無理やり筋肉を動かした。
それから、腕の中に抱えたカミュの頭に向かって言葉を押し出した。
「もう二度とカミュを抱く事は出来ない?」
呟いた後、目の奥が焼けるように痛んだ。喉が熱く腫れて千切れてしまいそうな感覚を、歯を食いしばってこらえた。
カミュの辛い気持ちは分かる。
カミュを追い詰めたのは自分だ。
分かってる。分かってる。
でも、カミュだって酷い。
そう叫びたい自分を必死で押さえた。
カミュが、目の前で飛び降り自殺でもするようなやり方で、俺に音楽のバトンを渡した。
カミュのその犠牲の重さがずっと辛かった。苦しかった。
一人向こう岸に残されたカミュが、俺の事を好きだと知ったとき、俺は正直、やっとカミュに「返せる」と思った。
カミュを誰よりも好きになる事で、カミュから捧げられたものに「返せる」と思った。
音楽を必死でやる事、カミュを一番に好きでいる事。
それが、カミュに俺がしてあげられる事だと信じてた。
精一杯音楽の世界で羽ばたいて、見たこと知ったこと、感じたこと、全てカミュに届けようと思ってた。
幸福の王子の燕のように。
それが、たった一人残されたカミュに俺が出来るたった一つの事だと信じてた。
カミュが、俺を振り向かせた。
カミュが、俺を音楽に行かせた。
それなのに、カミュが俺を諦めると言う。
そんなのは、ずるい。
カミュは、俺がカミュを好きなのは、カミュが俺にとって一番都合のいい人間だからだろう、と言う。
カミュが俺の事を一番理解している人間だからだろうと言う。
それは、そうかもしれない。
でも、それだけじゃない。
それだけじゃない。
カミュは、俺が一番好きなのは音楽だよ、と言う。
音楽とカミュを比べるなんて、全然違うものじゃないか、と俺は答える。
カミュは薄く笑って説明する。
それは、確かにとても理論的で、筋が通っていて、俺はその理屈の何処をつつけばいいのか分からない。
「お前と私では、人生のパートナーというものへの認識が違うんだよ」
そうも説明された。
俺の音楽にも、生活にも、カミュが不可欠の要素として入り込む隙が無いと。
カミュの助けなんて、カミュの存在の必要性など、ないじゃないかと、そう言われた。
俺が、そんな事は無い、と言うのは無駄で、事実がそれを示していると言われた。
一度壊した腕、開いたブランク、それでも音大に戻って成功を収めたと。
生活だって、学生と社会人の二足の草鞋を誰の助けも借りずにこなしたと。
そして、俺がどう感じているかが問題では無く、カミュ自身がどう感じているかが問題なのだと。
カミュの言葉が重く、過去に自分の取った行動がぎりぎりと痛い。
後悔はしないように生きてきた。
他人をうらやましがるような人生は生きないと誓って生きてきた。
でも、ことカミュに関しては本当に後悔ばかりで……。
本当にどうすることも出来ないんだろうか、とあがく。
カミュが俺の事を諦めるのを唯許すしかないなんて嫌だ。
「カミュが欲しい」
カミュを抱きしめたまま俺は声を絞り出した。
今も、この先も、カミュが、自分の人生の中で欲しい。
カミュの体が硬くなり、やがてゆるゆるとその緊張が解れる中でカミュは答えた。
「それでもう連絡をしあわないと約束してくれるなら」
どんな交換条件だ、と俺は思わず笑ってしまった。
セックスって、そんな取引きでするものじゃないだろう、とカミュに対して一瞬わずかに嫌悪感を持った。
でも、例えカミュがビジネスライクに振舞っても、それでもカミュの体に自分を残したい思いの方が途方も無く大きくて、俺はその条件を飲んだ。
カミュが先にシャワーを使っている間に俺はぶらりと外に出た。
外は、もう三月になるというのに肌寒くて、息を吐いてみると空気がうっすらと白くなった。
薬局まで歩いてクリームとコンドームを買ってアパートに戻ると、カミュが丁度シャワーを使い終わった所だった。
入れ替わりにバスルームに入ると、中も殆ど整理されていてガランとした感じだった。
ぼんやりとしながら体を洗って、ドライヤーで髪を乾かしてから居間に戻った。
居間では、バスローブのままのカミュが音を絞ってイザイを聞いていた。
俺が、カミュにせがまれて、カミュに送ったやつだ。
俺が、つい数時間前にガムテープで封をしたダンボールに入っていたものだ。
わざわざ出した? どうして?
なんで今、聞いているんだ?
俺は動くことが出来ず、ただカミュが自分の演奏を聞いている姿を見つめていた。
カミュの横顔。
白い、静かな横顔だ。
曲は静かに流れ続け、俺はただ石になったようにカミュを見詰め続けた。
静寂とバイオリンの音と、何も動かない空間の中で、カミュの頬を濡らすものだけが、時折光りながらカミュの膝に滑り落ちていた。
俺は、音大二年の時に事故で右腕を壊した。
その事をずっとカミュに言えずにいて、ロンドン大の建築学部に入学が決まってイギリスに帰る段になってやっとカミュに電話した。
以来、カミュは酷く俺にやさしかった。
俺より一足早く大学を卒業したカミュは、ロンドンの大手のインテリア会社に就職を決めて、俺に同居話を持ちかけた。
同居して、そして俺はそんなやさしいカミュから逃げ回った。
どうカミュに接していいのか分からなくて、大学に泊り込んだり、モデルの仕事を目一杯入れてなるべくアパートに帰らないようにしてた。
カミュが、あんなに辛い思いをして俺に渡してくれた音楽への道を、自分の不注意で駄目にしてしまった事が申し訳なくて、辛くて、そして、あんなにカミュが好きだと言ってくれたバイオリンが弾けなくなってしまった事が、カミュの俺に対する評価をきっと変えてしまうだろうと思ったから、その変化を知りたくなくて、逃げ回った。
そんなカミュから逃げ回っているような生活を送っていた時、長くイギリスから遁走していたドウコとシオンがひっそりとロンドンに戻ってきて施療院を構えた。
今なら暇だから格安で見てやるぞ、とドウコに声を掛けられ、特に期待するでもなく、ただアパートに帰らなくていい口実が出来たことに安堵して施療院に行った。
何度病院に行っても、どんなにレントゲンを撮られても、無理の一言で片付けられていた腕が、唯シオンに触られて一時間後、なんの障害も無く、すっと天井まで伸びた。
その時の驚愕と歓喜は鮮明に記憶に残ってる。
そして、腕が上がるようになると俺は、シオンとドウコの施療院に居候状態となった。
昔のようには弾けなくなった楽器をカミュに聞かれるのが嫌で、大学から帰れば施療院で楽器を練習し、大学に行くのもそこからだった。
臆病で卑怯だった俺は、カミュがどんな気持ちで一人でアパートに居るのか、想像することすらしなかった。
なんの未来への計画も無く、どんなカミュへの気遣いもないまま、ただ闇雲に逃げ回っていた日は、ある日ロスから「帰る気が無いならふってやれ」と言われた事で終結した。
そこで説教ついでにアイオロスから聞かされたカミュのここ数年間の状態の中のたった一つの出来事を掴んで、俺がカミュを詰ったからだ。
カミュと激しく口論し、結局俺は自分でカミュとの関係を切り捨てた。そして大学を卒業してすぐにイギリスから飛び出し、イタリアに再び流れ着き、音楽を始め、カミュと再会し、もう一度関係を始めてもらった。
二度目のチャンスを、俺は、また自分の手で壊してしまったんだ。
失敗したんだ。
失敗、という言葉が、何度も何度も体中で点滅した。
流れていたイザイの音が消え、微かな冷蔵庫のモーターの響きや時折入り込んでくる微かな外の音。それ以外は何も音の無い状態が長く続き、そしてカミュはゆっくりとCDを元のケースに入れなおし、パチンと蓋をした。
薄いプラスチックのケースを半開きになっていたダンボールに仕舞う。
「ごめん。勝手に開けてしまった」
疲れた声。疲れた表情。疲れた体の動き。
疲れ切ったカミュの何もかもを、もう見ていたくなくて俺は一気にカミュを抱きしめた。
力一杯抱きしめて、そして、何度も謝った。
ごめん、と何度も口にした。
そんな言葉でカミュの傷が塞がる筈が無い事は、よく、よく、分かっているはずなのに。
カミュを抱きしめたまま部屋の電気を落とし、エアマットの上にカミュを横たえた。
正直、カミュが応えてくれるか、物凄く不安だったけれど、カミュは始めに僅かな戸惑いを見せると、もう後はこれまでの様に、そしてきっとこれまで以上に熱心に俺を求めてくれた。
カミュのその情熱の理由が、悲しかった。
きっと、これで最後とその気持ちの分だけ熱いんだ。
そんなカミュの熱意が、堪らなく胸に痛かった。
痛くて、辛くて、苦しくて、どうしようもなく悲しくて、俺はカミュの体を背後から抱きしめた。
抱き合ってなんかやれない。
だって、どうしても我慢できそうにない。
自ら腰を動かして俺にも快楽を分けようとしてくれるカミュの背中を抱きしめて、堪え切れずに俺は声を殺して泣いていた。
そして翌朝、台所に一つの封筒を残して、俺はカミュの部屋を出た。
青と赤の交じり合う朝焼けの中、振り返ってカミュの部屋の窓を見上げた。
きっと、もう二度とこの建物の中に入る事はない。
その事実が、息を白く染める空気より冷たく胸の中に広がった。
「今日の予定だったっけ?」
俺の顔を見るなりジョシュアは言った。
「いや。特にちゃんと決めてなかったけど、ついでだから寄った」
「ついで、ってお膳立てしてもらってて言う台詞じゃないよね、それ。第一、なんだよ、その顔。いかにも寝てないみたいな」
「寝てないから」
「それが仕事の話をする人間のする事?」
「仕事の話以外する頭は今持ってないから丁度いいだろ」
ジョシュアは盛大に眉を顰めて、それでも俺を部屋に通した。
カミュを、一度しか抱けなかった。
それでも、カミュの体は何度かエレクトさせたから、カミュは眠りに落ちた。
そのカミュを起こさないよう、そっとシャワーを使って、カミュのアパートを出た。
合鍵と、書類の入った封筒をテーブルの上に残して。
八時を過ぎるまで、大手コーヒー・チェーン店でとんでもなく薄味のラテで時間を潰し、それからパディントンにあるジョシュアのアパートに向かった。
去年のパガニーニで二位を取った後、散々馬鹿にされたが今年のシーズン前に共演してやってもいい、という言葉を貰い、曲を詰めようという話が出ていたからだ。
イギリスにしっかりとした地盤があるジョシュアからの誘いは勿論有難いもので、近々ロンドンに行くと伝えてあった。
いつ、とは言っていなかったが、居なければそれでも良しと思って住所を頼りにチャイムを鳴らしたら、応答があった。
「来る前にメールの一本でも寄越してお伺いとか立てるでしょう、普通は」
眉間にしわを寄せたままジョシュアは居間に俺を置き去りにすると、何処かに消えた。
アンティークでロココの香りが残ってるソファに勝手にどさっと座ると、間もなく手帳とカップ、何種類かのティーバッグが入った籠とポットを持ってジョシュアが戻って来た。
「どれでも好きなの勝手に選んで」
と言われ、俺は『緑茶』と書かれた袋に手を伸ばした。
「今度のコンサートは伯爵の奥方の誕生会なんだ。身内だけの小さなパーティーと言ってるけど、クラスが高いからね。押さえていったほうがいい。そっちの小品の方は思いっきりメジャーでロマンチックな曲を希望されてるからそのつもりでいて」
「エルガーとかクライスラーとか?」
湯気を鼻に当てながら聞き返すと、
「そう。エルガーは決まりだね。伯爵からのリストに入ってる。協奏曲の方は、全曲じゃなくて何か一楽章をって感じだな。娘が居てフルートやってるからってその伴奏も引き受けたから」
「……引き受けたんだ……お前が」
そう思わず口にしたら、おもいっきり睨まれた。
大体の持ち時間の確認や、いくつかの曲の候補を出し合って一段落した時、ジョシュアは冷めた紅茶を一口くちに含むと、徐に話題を変えてきた。
そう言えば、変な事を聞いたんだけど、と。
「バーロウ先輩、音大に入ろうとしてるとかどうとか。これ、本当?」
ジョシュアの薄い水色の瞳は冷え冷えとした温度で俺を見ていた。
「どっから聞いた?」
「直接そうだと聞いたわけじゃないけど、ちょっと前にグルーバー先輩から変な事を聞かれた。30代の人間を理論じゃなく奏者として受け入れてくれるピアノ科のある音大はイギリスにあるのかってね。先輩はアメリカで指揮と経済の学位を取った人だからね。今一つイギリスの事情が分かってないってのもあるかもしれないけど……」
ジョシュアは、ふっと言葉を切って唇の端を引き上げた。
いやな感じの笑い方だった。
「社会人になってから大学に行くんならこっちよりアメリカの方が断然やりやすそうだ、くらいは分かっていると思うしね。しかもピアノのいい師匠はいないか、とかさ。トロンボーン奏者で指揮をやりたがってる先輩の希望とは思えない。誰かに頼まれて探りを入れてるってのはすぐに分かったし、グルーバー先輩にそんな頼み事をするようなピアノを今から音大で学びたい、なんて人間、僕には一人しか思い浮かばなない」
ジョシュアは鼻を鳴らした。
「もしそれが僕の推測道りバーロウ先輩なら」
ジョシュアは一旦言葉を切った。さっきまで冷たかった瞳が、何かに苛立つような色を含んで温度が上がっている。
「なんでミロが黙ってそんな事をさせとくのか疑問だね。もし知らないんだとしたら、忠告ぐらいはしとこうと思って」
ジョシュアの瞳は、挑むように俺を見詰めていた。
俺は、深く息を吸い込み、そして言った。
「知ってる。それは、カミュだ。それに、それを勧めたのは俺だ」
ドンッ、と鈍い音が響いた。ジョシュアが絨毯の敷かれた床を踏み蹴った音だった。ペールブルーの瞳は、激しい憤りの色に燃えていた。
「勧めたのがミロだって?! 何考えてんのさ、アンタ! 今からあの人に音楽をやらせてどうするのさ?」
勘がいいってのも困ったもんだ……。
てか、こいつ、昔からカミュの事になるとムキになる傾向がある。
そういえば、カミュもジョシュアの事になると変に融通が利かなくなる。
どうしてなんだ?
と思いつつ、カミュにそれを勧めたのはカミュに必要だと思ったからだ、と返した。
すると、ジョシュアは、
「それは、音楽家としてのバーロウ先輩にとって? それとも、挫折した人間の為のカウンセリングとして? どっちにしても、あんたの今の立場でそれを勧めたってんなら、あの人、めちゃくちゃどん底の気分を味わってると思うけどね……!」
ジョシュアは苛立つ自分を宥めるようにカップを持ち上げて液体に口を付けた。
「……僕がこんな事気にする必要もないし、考えるだけ時間の無駄だけど……あんたって本当に、昔から傲慢だよ!」
ジョシュアは眉を潜めて部屋の壁を睨み付けながら言った。
尖った目尻の先が、濡れているようで、俺はジョシュアに何も言い返せなかった。
じりじりと待つだけの春が過ぎ、夏になり、やがて入学シーズンを迎えても、カミュからの連絡は何も無かった。
夏に、クイーンズベリOBオーケストラから弦トレーナーの話を貰って、二週間に一度イギリスに戻るようになっていた俺は、時々カミュの実家の辺りをうろついて、カミュに偶然会う事が無いか期待したけれど、そんな偶然は発生せず、OBオケでもカミュの所在を知っている人間は居なかった。
サガやドウコには何か言っているんじゃないかと、度々尋ねてみるものの、結果はいつも知らない、との事。
サガには、聞くたびにとても済まなそうな顔をさせてしまって、こっちもだんだん聞き辛くなる。
ドウコには、いつも笑い飛ばされる。いい歳した大人なんだから、1年や2年連絡がないくらい、元気にやっている証拠だ、と。
自分だってそうだっただろうが、と、イギリスを飛び出してからの音信不通期間をあのドウコのニヤリ、とした笑顔で指摘されると、何も言い返せない。
カミュが、どうしているのか。
元気なら、それでいい。
でも、もし、何か困っているのだとしたら……。
そんな事を思い始めると、居ても立ってもいられなくなる。
もし、年が明けても何も連絡が無かったら、カミュの両親に聞いてみよう。
そう思った矢先、とんでもないものに遭遇した。