一年次終了

 何度見ても、Aだ。Aがついてる。
 第一学年最後の学期の実技試験課題は、ショパンとリストの悪夢といっていい最悪の選曲で、この 3ヶ月間文字通り1日14時間ピアノに向かう生活だった。
 若い頃と違って、睡眠時間を削ってやり抜けるほどの体力もない。残り10時間のうち6時間寝たら、食事、風呂、その他の課題は4時間でこなさなくてはならない。
 おまけに指導教官は、相変わらず20分遅刻、5分早く切り上げの姿勢を崩さない。
 どう頑張っても、精々Bどまりだろうと思っていたのに、Aがついてる………。
 他の科目を見て、何度も計算機を片手に単位の計算をする。
 間違いない。進級のボーダーラインは超えている。
 つまり、これで補欠合格は取り消し、正規合格と同じ扱いになったわけで………
 それが実感として染み込んできた途端、ぷっつりと意識が途切れた。


「……だからさ、あんなところで寝るなって、何度も言ってるのに………」
 既に聞き飽きたミロの小言を聞きながら、夕食のスープを口に運ぶ。
 コンピュータの画面の前で、突っ伏したまま、ミロが家に戻るまで3時間爆睡していたらしい。
 本当は、今も食べるより眠りたいが、ミロが折角用意してくれた夕食をスキップするのも申し訳ないので、気をぬくとどこかに持って行かれそうな意識をなんとかテーブルの上に結びつける。
 ミロには本当に感謝しているし、同時に申し訳ないとも思う……。
 正直、ミロが家事一般を引き受けてくれなかったら、まともな食事もとれずにとうに体を壊していただろう。グロッサリーストアまで食材を買いに出かける時間すらなかった。ウサギたちが毎日新鮮な野菜を貰えているのも、ミロのお陰だ。
 あれほど、ミロの世話にはならない、と啖呵を切って別れたのに、結局何から何までミロに頼りっぱなしの自分が情けない。情けないし、なんとかしなくてはならない、と思うのだが……こうして同じ屋根の下に暮らし始めて6ヶ月も過ぎれば、段々と現状に馴染んできてしまっている自分がいる。
 ……思えば、こんな風に、長い期間一緒に暮らしたことなんてなかったのだ。
 ロンドンで一時期同居はしたけれど、ミロは殆ど家に戻って来なかった。
 それが、今は、本当に寸暇を惜しんで家に戻ってくる。
 出張が立て続けにある時など、出張先からそのまま別の出張先へ行った方が楽だろうに、たった一日家で寝るためだけに飛行機で戻って来たりする。
 まあ、多分、私の事をそれなりに心配しているのだろう……出張から戻って第一声は、必ず「元気にしてた?」で始まる。
 何か心配ごとがあれば、とことんまで世話を焼いてくれる性格は、昔と変わらないけれど、昔ほど素直でも純真でもない私には、その奥にミロの下心も見える。
 そして、その下心に、まだ未練を引きずっている自分がいて……
 同時に、そんな熱心さなど、ひとたび手に入れたら冷めてしまうのに、と、期待する自分をあざ笑う声も聞こえる。
 よくない傾向だ。
 そんな風に一人で空回りすると、自分も傷つくし、相手も傷つくのに。
「……でさ、進級も確実になったことだし、一度どこかに飲みに行かないか? カミュ、うちに来てから全然飲まなくなっただろ? 気が抜けないっていうか……折角終わったんだから、思い切り羽目を外しに行こうよ」
 ミロがそんな事を言って水の入ったグラスを掲げたので、おかしくなってつい吹き出した。
「飲みに行くって……お前、飲めないじゃないか」
「いや、だから、グラス一杯くらい付き合うって。そのあとはジュースだけど」
「無茶言うな。飲めない奴相手に自分だけ飲んだって酔えないよ」
「嘘だ。カミュ、今だって自分一人で飲んでるじゃないか!」
「それは家での話。ちゃんと量も計算してるし。外で羽目を外して飲むときにはそれなりにルールもあるんだよ」
「……そんな事、気にするような奴だったっけ? お前」
 ミロがじっと不審の眼差しで睨んで来たので、こちらも正面からその目を見据えて釘を差してやった。
「……そんなに飲ませたい理由が何かあるのか? 自慢じゃないがこっちも酔いつぶれて失敗した前科があるし? 酔わせて寝込みを襲うとか?」
 途端に、ミロの顔が真っ赤になり、それから蒼白になった。
「……俺は、正気じゃない相手にそんなことはしない。そういう風に思われてるんなら、心外だ」
 予想通りひどく傷ついた表情をしたのが、かえって苦笑を誘われた。
「馬鹿」
 言わなきゃ分からないか。
 怒るよりも、ちょっと寂しい気分になって、テーブルの上のワインを一気に煽り、むくれている頬を指先で弾いてやった。
「……お前にそのくらいの下心があれば、別れる必要なんてなかったんだよ。……子供じゃあるまいし。そうなったら、自制が効かないのがむしろ当たり前。……だから、二人だけで飲むのは、ナシだ」
 翌日は、久々に本屋にでも行ってゆっくり時間を潰すつもりだったのに、朝からウサギのルーファス(ブラックベリという名前だったが、ミロが勝手にルーファスと呼び出し、それで定着してしまった)がハンストして、病院に担ぎ込む羽目になった。
 ミロに車を出してもらって(自分で運転する、という申し出はコンマ5秒で却下された)、向かった先の大学病院で診察してもらったのは、初めて見る顔のドイツ人獣医だった。
 まあ、イタリア人よりは信頼出来るか。
 よくある胃腸うっ滞、対処としては、補液して腸を動かす薬を飲ませるくらいしかないが、ドクターはその上にレントゲン写真と血液検査をするつもりだ、と言った。
 レントゲン写真は麻酔が必要だから、と躊躇すると、麻酔ではなく鎮静剤でやれる、という。
 いままで、レントゲンは麻酔が必要、とばかり言われていたので、思わずドイツ人医師を見直した。
 それにしても、彼は何度も、ルーファスのことを「big boy」と言う……。
 確かに、HRSから連れて帰ってきた時より、体重は増えていると思うが、ハレクイン種としてそれほど大きいわけではない。
 この人、ネザーランドとか小さい種類のウサギばかりを診ているのかな、と思っていたら、彼は仕上がってきたレントゲン写真の腹の部分を指差し、はっきりと「Fat(脂肪)」と言った。
 ……まさか……「Big Boy」は、肥満している、ということだったのか?!
 そんな……毎日あれほど運動させて、ペレットだってそんなにやっていないのに!!!
 貰ったカルテを見ると、「ルーファスは多少肥満気味なので、体調が回復したらダイエットが必要」と書かれてあった。お陰で、昔子供の頃少し太っていて、色が白いのと合わせて「白ブタ、赤ブタ」とからかわれたのを思い出した……。
 ミロは、「だから、最近絶対太ってきてる、って言っただろ?」とケージの隙間から(ウサギの)ルーファスの頬をつついている。ルーファスはふい、と顔を背けて、失礼な横槍に抗議した。
「あんまり太ってるって言うな。気分が悪い」
「えっ……なんで?!」
「お前が妙な名前をつけるからだ!」
「ええ?! だって、カミュはむしろ痩せてるじゃないか! もう少し太った方がいい音が出るよ? きっと」
「モデルやってたお前が言うな。そういう事は、お前自身が2倍ほど膨らんでから言え」
「そんな無茶な……俺太れない体質だし」
「……本気でむかつくな、お前」
「だから、なんで!! カミュ痩せてるし、太ってたことなんて一度もないじゃないか!」
「太ってたんだよ!! 子供の頃は!」
「子供の頃って、いつ!」
「歌やめる前」
 プァーッ、と後ろからクラクションを鳴らされた。赤信号、とうに青に変わっていた。
「うるさいな!」
 悪態をついて、それでもルーファスが転がらないようゆっくり車を発信させたミロが続けて言う。
「それって、やっぱり、歌やるには太ってた方がいいってこと?」
「さあね。別に歌のために太ってたわけじゃないし。痩せてたらどんな声だったのかも分からないし」
「パブリックに上がってからのカミュの声も綺麗だったけど、そっか、その前はもっとぽっちゃりしてて、声もきっともっと丸かったんだな……CDの声、そんな感じだもんなあ」
「……勝手に一人で都合のいい空想にふけらないでくれないか」
「え、だって、空想じゃないだろ? 実際、カミュの声綺麗だったし」
「それはどうも。でも、これ以上その話するならもう車降りる」
「またもう、すぐに臍曲げて……! どうして歌の話するとそこまで頑になるかな?」
「お前が未だにそういう古い話ばかりするからだよ」
「古くたって、良いものは良いんだから、否定しなくたっていいじゃないか……」
「じゃあ、お前は、プレップのころに弾いたヴァイオリンの音が良かったって、その年になってもそればかり言われたら嬉しいか?!」
「俺はバイオリンずっと続けてたから、そりゃプレップの頃が一番上手かったって言われりゃ傷つくよ。でも、カミュは歌途中で止めたじゃないか。だったらその時が一番上手くて当たり前だろ? ……ってか、そもそも、そればっかりなんて言ってないし! 」
「ああもう、面倒臭い。お前は全っ然分かってない! とにかく、これ以上歌の話題はナシだ!」
 ミロには、時間の感覚があまりない。
 多分、ミロにとっては、一年昔も、十年昔も同じような重さで頭に仕舞われているのじゃないか、と思う。
 だけど、殆どの人間にとって、一年と十年はまったく違う重みであって、十年かけて育ったものは、一年の成果とは比べられない。
 出会ってたった数年しかもたなかった子供の声を、その後の人生でようやく築いてきたものと同じように評価される度に、結局自分は時間がたつごとに駄目になっていくばかりなのだと思い知らされるようで、痛い。
 もう一度、13歳の時間に戻って、出会いからやり直すことが出来たら、もう少し上手くやれるだろうか。
 いっそ、パブリック時代の私に関する記憶を、ミロの中から全部消してしまえたらいいのに、と時折思う。
 でも、あの時代の記憶がなかったら、きっとミロは今頃私のことなど眼中にもなかったのだろうが。
 「恋人」という関係を解消して、良かったこともある。
 こういう、半分じゃれ合いみたいな、馬鹿な口喧嘩を気軽に出来るようになったことだ。
 お互い、相手の芯の部分は変わらないと重々分かり切っているので、もう本気で相手を納得させられるとは思っていない。
 それでも、たまに、こうやって相手の反応を探る。予想通りの反論が帰ってきて、それをどう言い負かしてやろうか、とムキになって考えるのは、よくよく考えると馬鹿馬鹿しいし消耗もするが、それでもなんだかすっきりする。
 ──もっとも、ミロがどう思っているかは知らないが。
 
 家に戻ると、(ウサギの)ルーファスは大層傷ついた顔をして、さっさとウサギ城の屋上へ上ってしまった。これから一日は、コンスタントにペレットや牧草を食べてくれるか、注意が必要だ。
 ルーファスの好きな新鮮な野菜も買い足しておかねばならない。グロッサリーストアに出かけると言うと、ミロが自分も行く、と車のキーを持ってきた。
「外で食事は気がすすまないようだから、美味しいワイン沢山買って、家で豪勢なディナーにしよう。メインは何がいい?」
 にっこりと笑って言ったミロにむしろ呆れた。
 ……こいつ……昨日の会話のケリをつけるつもりだな。
 何故か、だったら受けて立ってやる、という気になった。絶対に、飲みまくって、酔いつぶれて、ミロの目の前で寝てやる。
「じゃ、メインはツナで。肉はいらないから、そのかわりに魚二品。貝でもいいかな。ワインは最低4本。デザートはチーズの盛り合わせで。」
 ……つまるところ、やっぱり羽目を外して飲みたかったのかも知れない。
 前菜とサラダから始まって、パスタ、スープ、貝と金目鯛のアクアパッツァ、ツナのローズマリー焼き、付け合わせに芽キャベツとポテトのロースト、と、とても二人で食べる量とは思えない食事を作って消費した頃には、ワインのボトルも3本が空になっていた。流石にそろそろ打ち止めにした方が良いか、と思っていたら、ミロが六種類のチーズを盛り合わせたプレートを持ってきて、四本目のワインの栓を抜いた。
「今日は、潰れるまで飲むんだろ?」
 にっこりと笑った笑顔の向こうに悪魔のシッポが見えた。
「……自分は飲めないくせに、人のことばかり煽るなよ」
「まあまあ。1cmくらいは付き合うからさ。折角のチーズ、ワインなしじゃ詰まらないだろ?」
 ミロは、鼻歌を歌いながら自分のグラスに5mmほど注ぎ、それから私のグラスになみなみと注いだ。
「……お前、それ1cmないじゃないか」
「あとでお代わりするから」
 もうそろそろ危ないかも、と分かっていても、美味しいチーズを見たらアルコールなしではいられないのはその通りで、カマンベールをつまみながら軽く2杯、ゴーダをちびちびと齧りながらまた1杯、ゴルゴンゾーラをクラッカーにつけてつまみながらまた1杯空にしたところで、大分視界が怪しくなってきた。
 ……そういえば、ボトル3本分の水分はどこへ消えたんだろうか。
 そんなことをふっと想像したら、なんだか急にもよおしてきて、「トイレ」と席を立ったとたんに、世界がひっくり帰った。
「うわっ……カミュ、危ない!」
 ミロが支えてくれたから転ばずに済んだが、そうでなければ顔面からカーペットにダイブしていたに違いない。
「……いや……大丈夫……」
「大丈夫じゃないって!! 揺れてるから!」
「……だってまだ四本空けてない……四本までは余裕で大丈夫だったはず………」
「それいつの話だよ?! もう若くないし、そもそも、カミュ半年以上飲んでないだろ?! 弱くなってるに決まってるじゃないか!」
 言われてみればそうだ。アルコールは、飲むのをやめると、弱くなる。
 とにかく、大丈夫、とミロの手を振り切って、トイレまで辿り着き、用を足したところで一気にこみ上げてきた。
 ……まずい。飲み過ぎて吐いたことなんて、一度もなかったのに。
 折角買った高いワインが勿体ない、とか、今日のツナだって奮発して良い魚を買ったのに、とか色々不満はあっても、肝臓の正当防衛を宥める術はなくて、結局ほとんどもどしてしまった。
 ……ああ、勿体ない。
 気がつくと、びっしょりと汗をかいていて、このままでは風邪をひく、と判断。
 隣のバスルームに湯を張り、ミロには悪いが、先に風呂を使わせてもらうことにした。
 水音を聞きつけたミロが心配そうに浴槽を覗きに来て、大丈夫だから、と追い払ったら、渋々とバスローブを置いて出て行った。
 三十分ほど汗で冷えた体を暖めて外に出ると、部屋はクーラーを切ってあり、テーブルの上でジャスミン・ティーが湯気をたてていて、その向こうでウサギのルーファスがのんびりと牧草を食べている音がしていた。
「……回復したかな?」
 ケージを覗き込んだ私に、ミロが背後から言った。
「さっき、ペレットも完食した。野菜も食べたし、もう大丈夫じゃないかな」
「……ああ、ふんもしてる。あ、水も飲んだらしい」
 ルーファスは、水入れの水で口を濯ぐ癖があって、水を飲めば水入れの底に牧草の欠片が沈んでいるので、すぐに分かる。胃腸うっ滞の場合、水が飲めてふんが出れば、あとはじきに回復する。
「……よかった。処置が早かったから、酷くならずに済んだ。車出してくれてありがとう、ミロ」
 振り返ると、ミロが優しい笑顔で笑っていた。
「どういたしまして。ほら、カミュもこれ飲んで。水分きちんと補給しておかないと」
 まるで、こうなるのが分かっていたかのような用意周到さだ。苦笑しながら暖かいジャスミン・ティーをすすると、胃の奥まで柔らかい暖かさが広がった。
 ……ああ、生き返る。
 ウサギの体調がよくないため、クーラーをずっとつけっぱなしにしていたのも、よくなかったのかも知れない。思いのほか体が冷えていて、風呂で暖めたにもかかわらず、体の中心はまだ冷たかった。
 カップを両手で包み込むようにして、胃に広がる暖かさを感じながら、じっと手のひらで熱を受けていると、急に眠気が襲ってきた。
 思えば、こんなにほっとした心地になったのは、本当に久しぶりだ。
 今更ながら、なんとか一年乗り切った実感が湧いて来て、明日からしばらくレッスンも授業もない、という事実に一気に肩の力が抜けた。
「……ごめん……眠い………」
「……いいよ、寝なよ。このソファー、ベッドに出来るし。……毛布も持ってきたから」
 柔らかい声が聞こえて、半分閉じた瞼の隙間から、ミロがカップを取り上げるのが見えた。手に溢れるものがなくなった途端、もうどうにも体を垂直に支えるのが辛くなって、そのまま崩れるようにソファに横になると、既に頭の位置には枕が置かれていた。
 ミロがなんでそんなものまで用意していたのか、もう考える頭も働かなくて、そのまま、すーっと意識が遠くなった。
 目が覚めたのは、それから、二時間くらい経った後だっただろうか。
 髪を撫でる感触があって、それで意識を戻された。
 じっと動かないまま、薄く目を開けて部屋の様子を探ると、部屋の灯りは落とされていて、窓の外の街灯の白い光がぼんやりと見えた。
 ソファはいつの間にか平らなベッドに変えられていて、体の上には毛布と掛け布団がかかっている。
 ミロは、眠りに落ちる前に見た姿と寸分違わぬ位置で、じっと暗がりの向こうを見つめていた。
「……吐くまで飲む、か………」
 ぽつりと、ミロの呟きが聞こえた。
「……そこまで羽目を外さないと、ストレス発散出来ないのかな……。アルコール以外に、お前の心を完全に自由にしてやれる方法はないのかなあ………」
 ミロは、私が飲むのをあまり歓迎しない。たしかに、何度か潰れたことはあるし、意識が飛んでいる間にやってしまった失敗で一度は別れたくらいだから、本心はキッパリ禁酒して欲しいと思っているだろう。アルコール中毒になりかけているのじゃないかと、本気で心配しているふしもある。
 でも、時折、ミロの方から、飲まないか、と誘われることがある。
 そういう時のミロは、優しくて、どこか寂しげだ。
 ミロがこちらをじっと見つめた。起きているのを気づかれたか、と、息を殺していると、小さな溜息が聞こえた。
「……不甲斐ないな………」
 また、するり、と髪を撫でられて、慌てて目を閉じた。どうやら、気づいていないらしい。
 急に、心臓の鼓動が早くなった。
 ……もし、今、この状態で起きていることを知られて、体の関係を求められたら、拒絶出来ない。
 いや、それ以上に、起きていることが分かっても、そういう関係を求められなかった時の方がずっと怖い。ずっと傷つく。
 我ながら、身勝手な感傷だと思う。
 ミロを、酷い振り方をして傷つけたのは自分なのに。
 でも本当は、温もりが欲しくて、構ってほしくて、いつも飢えていたのは私の方だ。
 吐いて随分アルコールは捨てた筈なのに、意識はどこかふわふわと浮遊している。
 馬鹿じゃないか、ここでそんな事になったら、何のために去年別れて、この年になってピアノの世界に飛び込んでしなくても良い苦労をしているのか、と自分を叱咤してみても、まるで迫力がなくて枷になんかなり得ない。
 ……だって、この半年間、ミロは本当に優しかったから……。
 こんなに優しくされたら、絆されるに決まってる。
 こんなに優しくしたのに、拒絶されたら、それはひどく傷つくだろう。
 ゆっくりと、目を開けた。
 恐怖だったのか、願望だったのか。多分、そのどちらもだろう。
 黙って寝たふりをしていれば、答えを見ずに済んだのに、その答えのない状態がどうにも息苦しくて、堪えられなかった。
 ミロが、私の横顔を凝視していた。小さく息をつめる気配がした。
 横向きの体を、寝返りを打って仰向けにすると、正面に、目を見開いているミロの顔があった。
 窓の外からの街灯の光が差し込むばかりの部屋で、瞳の色もわからないのに、その目がどんな真剣さでこちらを見ているかだけは皮膚で感じた。
 どれだけの時間、そうしていたか分からない。
 ミロは、ぴくりとも動かなかった。そのうちに、猛烈な羞恥がこみ上げてきた。
 一体、何を期待しているんだ、自分は。
 たとえ惚れた相手でも、こんな酒臭いヨッパライにその気になる人間などいるわけないだろう。
 とにかく、黙って凝視されているのがいたたまれなくて、一気に上半身を起こしたところで、また視界が半回転した。 
 ……あ……まずい。まだ揺れてる……。
「カミュ?!」
 呪縛が溶けた(そうとしか見えなかった)ミロは、慌てて私の背中をさすり、横から顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? まだ気分悪い?」
「……いや……急に起きたから一瞬目が回っただけ。もう気分は悪くない」
「もう少し横になっていた方が……」
「いや、もう自分のベッドで寝るよ。……そこの水もらえるか?」
 ミロがとってくれたコップの水を一気に半分空けた。よほど乾いていたらしい。体中の細胞が水分を吸収しているような感覚があった。
 ミロはその間、黙ったまま、なんとも言えない表情でこちらを凝視していた。何をそんなに気難しい顔をしているのだろう、と思った瞬間、手にしていたコップを取られた。
 まだ飲むのに、と抗議しようとしたら、ミロはそれを自分で飲んでしまった。思わず唖然としてその様を凝視していたら、急速に何かが近づいてきて視界が暗くなった。
 背中を左腕で固定されるのと、顎を右手で開かれるのと、口の中に生温い液体が流れ込んで来たのが同時で、思わず何もできずにそのミロが口に含んでいた水を嚥下してしまった……。
 ええと……
 一体、何がスイッチだったんだ?!
 それとも、一応友人という関係に配慮して、水を飲ませるくらいなら許容範囲と判断したのか?!
 でも、意識のある友人にこんな飲ませ方は普通しないんじゃないか?!
 本当に、こいつの考えている事がわからない!!!
 もう、呆然とミロの顔を見つめ返すしか出来なくて、何も言えずにじっとしていたら、ミロは幸せそうに笑ってもう一口コップの水を口に含んだ。そして、また同じ作業を繰り返した。
 口移しで水を飲ませるという行為に、ミロがなんらかのエロティシズムを感じていたのかと聞かれれば、120%の確率でノーと答える。きっと、何も考えていない。動物が口移しで餌を与えるのと同じレベルに違いない。
 好意を持つ相手に、食べ物をあげた。食べてくれた。嬉しい。
 そういう単純な快楽に決まっている!!
 しかし、実際に唇が触れて、舌が触れれば、こちらとしてはそういう気分にならざるを得ないわけで……。
 一口含むごとに、再び唇が離れるまでの時間が長くなって、コップの水の残り半分がなくなった時には、お互い相手のバスローブの中に手を入れて肩から払い落としていた。
「……酔っ払いと寝るのは、嫌なんじゃなかったのか?」
「別に? 飲んでる時のカミュって、普段と違って面白いし」
「……酒臭いだろう……お前飲まないし……」
「今日は俺も飲んでるから、あんまり分からない」
「……入れるなよ。今日はちゃんと洗ってないから」
「入れないよ。……ってか、一年以上やってなくて、ローションもナシで、なんてどう考えても無理だろ。途中で頼まれてもやらないから、そのつもりで」
「何威張ってるんだ」
 我ながら、馬鹿な会話をしている、と思いながら、流される。
 折角半年間、必死で守ってきたのに……
 やっぱり、同じ家になんか住むんじゃなかった、と後悔しても、
 きっと明日はひどく後悔する、と分かっていても、
 ……やっぱり、世界で一番愛おしい人の肌に触れる、泣きたいような幸せには抗えない。
 齢三十に届いても、まるで二十代前半みたいな綺麗な体。
 綺麗な顔。綺麗な髪。
 誰にも穢す事の出来ない、綺麗な心。
 そして、誰よりも綺麗なヴァイオリン。
 神様は、理不尽だ。
 こんな綺麗なもの、どれだけ辛い思いを重ねても、諦め切れる筈がない。
 唇の届くところ全てにキスを贈りながら、全身で抱き締めて、そんな思いを噛み締めた。
 翌朝。
 テーブルの上に置かれたオイルの瓶と、ゴミ箱の中の大量のティッシュを見て撃沈した。
 ……ええと……。
 この状況を鑑みるに、結局最後までやってしまった、ということで……(それは体の状態でもう分かっているのだが)
 ……記憶がないが……もしかして、こちらから誘った??
 ミロが無茶をするのは、一層考えられないし………
 最悪だ………(汗)
 ミロはすっかり、よりを戻した気になっているに違いない。
 これは、手をついて謝るしかないか……(溜息)
 ソファベッドの上で呆然としていたら、ミロがこれ以上ないくらいに上機嫌で、部屋に入ってきた。
「どう? 二日酔いはない?」
「……おかげさまで。 ……その……昨晩のことだけど……」
 ああ、言いづらい。期待だけさせて、付き合えないなんて、本当に最低だ。
 予想通り、というか、最初から分かっていた通り、流石に申し訳なくてミロの顔をまともに見ることが出来なかった。
「本当にごめん。……あんなこと、するべきじゃなかった。……その……お前とよりを戻すつもりで寝たわけじゃなくて───」
「うん? 分かってるよ? 俺、待ってるから」
 ………はあ?
 あまりにあっけらかんとした返事が返ってきて、思わず俯いていた顔を上げてミロの顔を凝視してしまった。
「……待ってる、って、何を?」
「え? そりゃ勿論、カミュの卒業。今は忙しいからダメなんだよな? だから、あと2年待ってるよ?」
 ……もしもし? いつのまにそういう話になってるんですか??
「……いや……忙しいからダメとか、そういう話じゃ………」
「え? だってカミュ、昨晩、『待ってて』って言ったじゃん。……すっごく色っぽい目で……声もすごく甘くてさ。沢山キスして、ほんの少しの時間も離れたくない、って感じで抱き締めてくれて……綺麗だったなあ……昨日のカミュ……」
 ……嘘だろ?!
 それはない、断じて、言った覚えはない!!!
 第一、あの薄暗い灯りの中で、目の表情なんてわかるわけがないじゃないか!!!
 それはお前が見た夢だ、そうに違いない!!!
「……あのな、ミロ。……酔っ払いの言うことを、真に受けるな」
「でもカミュ、もう酔ってない、って言ってたけど?」
「そういう事言う奴が、一番酔ってるんだ! とにかく、昨日のはあくまで酔っ払いの事故! 今後も、2年後も、そういう予定はないから!!!」
 とにかく、1年目は無事終わった。
 当初の目的を果たすためには、これ以上、ミロの好意に甘えるわけにはいかない。
 新学期が始まるまでに、やっぱり新しい下宿先探そう……(溜息)。
 
 
 

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