英国寮生物語3巻で、年長組(アイオロス&サガ)と年少組(ミロ&カミュ)がロンドンに出かけ、バラ・マーケットで別れてからの年少組の行動とその後です。
本編中からカットされたシーンですが、お楽しみ頂ければ幸いです。
ウォーター・ルー駅でノースラインに乗り換え、ミロとカミュはレスタースクエアでチューブを降りた。コヴェント・ガーデン駅もあるが、さらに乗り換えなくてはならない上に、歩いても大して変わらない時間しかかからないからだ。
人波をゆるゆると過ごしながら二人はセシルコート(古書店街)を歩いた。道の両端には小さな店が並び、店のウィンドウや店先に出されたワゴンにはそれぞれの店の特色を現した商品が並ぶ。ミロやカミュはワゴンの中身を覗きつつゆっくりとセント・ポールズ教会を目指した。
教会は一六六三年にベトフォード伯の布施によって作られた。「大きな納屋程度に」という伯の支持に従って、この教会は他のロンドン市内の教会に比べると格段に装飾も少なくいたって簡素なものになった。しかし、地下鉄コヴェント・ガーデン駅のすぐ南側にある石畳の大きな広場コヴェント・ガーデン(修道院の菜園のであった)にはロイヤル・オペラハウスが隣接し、また倉庫のような長いレンガの建物とその間に広がる吹き抜けのホールという独特のつくりの市場跡のビルにはショップやレストラン、カフェなどが入居、ガラス屋根のホールは手作りの工芸品やアンティークの常設マーケット広場になり人に溢れ、セント・ポールズ教会のなんの装飾もない広場には大道芸やアマチュアの演奏会など格好のパフォーマンスの舞台として賑わっている。
ミロとカミュは、人だかりの出来ているセント・ポールズ教会の前で、なんとか人の輪の中が覗けないかと爪先立ちしてみたり、首を伸ばしたり五分ばかり努力してみたのだが、見えるのは盛んに拍手する人の背中だけなので、諦めて教会を後にした。
カミュが、向うがロイヤル・オペラハウスだと指差しながらミロを先導すると、ミロはその手前のコヴェント・ガーデンのアップル・マーケットで足を止めた。中には何やら手作りの小物から装飾品、アンティークの市が立っている。覗いて行きたい旨を伝えると、カミュは愛想良く了解した。
建物と建物の間に、巨大なアーチを何本も渡し、ガラスを張った屋根にしている。その下に集まる人はここもまた多く、カミュは再度ミロの右手を握った。
何軒ものお店を端から端からまで見て回る。と、反対側の出口付近でアイスクリーム・ヴァンがあった。二月にアイスクリームなんて、とカミュは呆れたが、ミロがぴたりとその場から動かなくなった。
「カミュは食べない?」
カミュはミロの顔をまじまじと見つめた。もともと、カミュはそれ程アイスクリーム好きではない。夏でも滅多に口にしないものを、何故この寒い二月に味わおうなどと思えるものか。カミュは断りの台詞を口にしようとした。
と、その時、カミュの視線の先に、手書きの張り紙が像を結んだ。
『アイス1カップにつき くじ引き一回』
景品は何かと思ってさらに視線を走らせると、アンティークの銀のティースプーンだった。小さいが上品で、装飾も丁寧だ。どんなカップにも合うような落ち着いた顔をしている。カミュの中で何かが動いた。こんなどんよりとした天気に冷たいアイスクリームを口にする。そんな、普段だったら絶対にやらないような事を、やってみてもいいような気分になったのだ。それは、目を輝かせてアイスボックスに並ぶ色とりどりのアイスクリームを見つめる金のふわふわとした頭と、生き生きとした青い瞳の少年の楽しくて仕方がないといった雰囲気に感染したのかもしれない。気が付けば、
「うーん…じゃあ少しだけ…」
と返事をしてしまっていた。
そして、あれも美味しそうだ。これも美味しそうだ、というミロに流されて、ついツインのアイスクリームを注文してしまった。これでクジが二回引ける、と心の中で言い訳してみたものの、明らかに自分の平素の行動とはかけ離れた「暴挙」だ。
ミロは、そんなカミュの内心の葛藤も知らずに、散々悩んでどうにか希望を三つまでに絞り込んでコーンの上に三つの小山を盛り上げてもらっていた。
カミュはチョコレート・ミントとコーヒーを。ミロは五種類のナッツがふんだんに入った『岩場のゴロツキ』アイスとジャージィー牛乳で作られた『白い霧』アイス、日本のお茶である抹茶を混ぜた『勝利の芝生』アイスを頼んだ。
カミュは、舐め始めてから三分でツインを購入した事を後悔したが、横にいるミロのアイスが半分も残っていない事を知り愕然とした。
「…食べるの早いな。冷たくないのか……?」
「? 冷たいけど、おいしいよ?」
普段、あれ程食事の手が遅く、アイオリアの手を煩わせているのがウソのようだ。せめて今の半分のスピードでもあればアイオリアの苦労も報われるのに…そろそろ頭に響いてきた冷たさに眉を顰めながらカミュは詮無い事を考えた。その間にも、ミロはぱくぱくとアイスクリームを『食べ』続け、コーンの尻尾までばりばりと砕いて飲み込んでしまった。そのあまりの見事な食べっぷりに、カミュはつい自分の分も食べるかと聞いてしまった。いくら好きでも三つも食べれば十分か、と勧めてしまってから気付いたが、ミロは二つ返事で食べるといい、本当に幸せそうに食べてしまった。
呆然とその様を見ていたカミュに、ミロがクジの存在を思い出させた。ミロは、カミュが景品の小さな匙が気に入ったと知り、全部のクジをカミュに引かせようとしたが、それはカミュが断り、カミュが三回、ミロが二回クジを引くという事で落着した。
最初に、カミュが穴の開いた木箱に手を入れ小さく折りたたまれたクジを引いた。三つをそれぞれ開いてみると、何れもハズレで、そううまくいくことはないと知りつつも、カミュは少し落胆した。
「カミュ、スプーン欲しいんだよね?」
何を思ったかミロが再度カミュに確認してきた。カミュが曖昧に頷くと、ミロは「待ってて」と呟いて、木箱の中で腕を一掻きしてから二枚のクジを一遍に引き出した。
ひょいひょいと長い指が紙を開く。
アタリ。
アタリ。
覗きこんでいたカミュは驚愕の表情でクジをミロの手から引き取った。我知らず「ウソだろ…?!」と声が漏れた。が、手元に持ってきたクジには確かにアタリとプリントされている。自分が三枚引いて全てハズレ、ミロが二枚引いて全てアタリ。しかも、ミロは「スプーンが欲しいのか」とカミュにわざわざ確認してからクジを引いたのだ。
カミュは、先だってのハロウィンでの出来事を思い出した。…まさか、まだあの貴婦人がミロに憑いているということはあるまいが。霊感体質とは、そのほかの勘にも優れているものらしい。
いずれにせよ、カミュのミロに対する不思議度はまたひとつランクアップした。大体、アイスをあれだけ食べても平気な歯など、一体どんな歯をしているんだ? と。
帰りはゆっくりとコヴェント・ガーデン駅に向かって歩き、道々の大道芸人達の技を楽しんだ。そして、チェリングクロスから鉄道に乗り換え、空いたコンパートメントに腰掛け、よく歩いた1日の心地よい疲れを感じている時、路線図を睨んでいたミロが叫んだ。
「ウォーター・ルーで乗り換えないで、そのままノースラインに乗って行けばベーカー・ストリート駅だったんだ!」
何事かとカミュがミロに焦点を合わせると、ミロはこの世の終わり、といった体で唇を噛み締めていた。
「ベーカー・ストリート」それは魔法の言葉だ。その名はいつも英国が世界に誇るある名探偵の名を呼び起こす。
シャーロック・ホームズ、と。
ミロはあまりの悔しさに両の手を使って金の髪をくしゃくしゃにした。七歳の頃から憧れてきた世界が、目と鼻の先にあったのに気が付かなかったなんて! これではファン失格だ。
カミュは、ミロの路線図を手元に引き取り、本当だ、と小さく呟いた。彼もロンドンに住んでいたわけではないし、流石にチューブの路線図までは記憶していなかったのだ。
それで、すっかり消沈しているミロの肩を叩き、慰めるように言った。
「再来週またロンドンに来るんだし、まだチャンスはあるよ。そのうち、皆で遊びに来てもいいしね」
ミロは路線図をカミュから取り返し、睨みながら呟いた。
「うん。分かった。絶対再来週行って来る」
どうやら、「そのうち」などという未来までは待てないらしい。カミュは可笑しくなって、つい自分の知識の一部を披露した。確かに、一度は誰でも行ってみたい場所ではあるだろう。
「入り口で、マントと帽子を貸してもらって写真を取れるよ。カメラも持っていったほうがいい」
「え? そうなんだ。でも、カメラなんて持ってないぞ、オレ」
目に見えてがっかりしたミロの表情に、カミュは、暫し思案した。この不思議な少年と、シャーロッキアン・ツアーというのは悪くない計画のように思える。…問題は、ミロが、自分と行く気があるかどうか、ということだ。
「カメラ…オートマチックの安物なら持ってるけど…一緒に行く?」
ミロは、はっとしてカミュを見つめた。彼の話し振りからすると、すでに一度は訪れている場所のように思われたからだ。ミロの中で、暫し遠慮と希望がごちゃ混ぜになってどんな顔をしたら良いのか分からなくなった。
「でも、カミュは行ったことがあるんだろ?」
「随分昔に一度行ったきりだから、実はあまりよく覚えていないんだ」
「じゃ、一緒に行こう! 再来週!」
ミロは勢い込んでカミュに迫った。カミュ・バーロウがシャーロック・ホームズのファンとは知らなかった。わくわくする気持ちはミロの表情にぱっと表れて、カミュは「うん。分かった」とにっこり笑って返事をした。
それから小1時間。二人の少年はひとしきり彼らのヒーローである名探偵の話で盛り上がったのだった。ミロはいつになく良く喋り、ミロが気に入っている台詞や登場人物、エピソードそういったものを話し続けた。カミュはミロのその記憶力に驚きつつ、自らは殆ど聞き役に徹し、内心で再来週までにもう一度全巻目を通しておくことを心に決めたのだった。
二月二十八日、土曜日。ベーカー・ストリートにはパブリック・スクールの少年達六人が、さざめきながら訪れ、分厚い訪問者名簿の一ページに彼らの足跡を記した。
28th 2 1987 Miro Fairfax The Lake District
28th 2 1987 Camus Ballow London
28th 2 1987 Aiolia Ainsworth London
28th 2 1987 Michael Garnet London
28th 2 1987 William Vankin Wales
28th 2 1987 Edmond Hough London
こんなにも大所帯になってしまったのは、寮に戻ったミロが再来週に積年の夢叶う喜びに浮かれてアイオリアに話し、どうせだったらお前も一緒に行かないか、となり、三度も行っているからもういいというアイオリアを強引に口説き落としたのが始まりで、結局ミロの部屋の少年達は全員でベーカー・ストリートへと赴く事になったのだ。その日、残念な事にホームズの姿は見えなかったが、ワトソン氏に狭い館内を案内され、部屋毎の様々なエピソードを解説して貰った少年達は大はしゃぎだった。その中でも一番に興奮していたのは勿論ミロで、持ち前の好奇心でありとあらゆるところを覗き込み、屋根裏部屋にまで顔を突っ込んだ挙句、『まだらの紐』の部屋では蛇が動いたと騒ぎ、カミュとアイオリアに溜息を漏らさせた。
アイオリアが、カミュに尋ねる。
「お前、よくこいつに付き合ってられるな」
「まあ、実害を被るわけではないからね…本当に紐が動いて噛まれたわけでなし」
ミロは、結局主張を信じて貰えなかったが、最後にはみんなで地下鉄のタイルの前で写真を取った。この小さなタイルには一枚一枚に赤くシャーロック・ホームズの横顔の影が印刷されており、それがまた更に巨大なホームズの横顔を浮かび上がらせているのだ。
小旅行の終わり、カミュは街の写真屋に現像を頼み、出来上がった写真は少年達の晩餐のひとときを賑わせた。ただ、ポール・リッジウェイだけはその輪に加わろうとせず、時々外から沸き立つ集団を眺め、ミロはそんなポールの姿に何度か気付き声をかけようとするのだが、その度に彼はふいっとミロから顔を背け去って行った。その後姿は随分と伸び、カミュやアイオリアに近付く程になっていたのだった。