実家のコンピューターは未だにインターネットに繋がっておらず、そのセットアップに二時間を要した。
私が大学時代に使っていたものを勤め始めた時に置いていったものだが、まだ動いていたらしい。
今年のクリスマスには、散々使わせてもらっているピアノの礼も込めて、ノートパソコンをプレゼントしよう、と決めた。
さて、昨日、二度目の合わせが終わった。
一週間の強化練習の甲斐あってか、一応ピアノは何とか来週の本番に間に合いそうなレベルにまでこぎ着けた。
再びローマから来るはずのミロは時間になっても現れず、サガ先輩やアイオロス先輩と共に15分過ぎに駆け込んで来た。
サガ先輩がしきりに謝っていたが、彼の演目はまだずっと先だし、遅れたのは間違いなくミロの所為だろう。
前回よりはずっと順調に滑り出した練習が一段落ついた頃、ミロがピアノの隣までやって来た。
人の顔をしげしげと見詰めているので、何かと思ったら、
「カミュ、どうしたんだ? なんか、やつれてないか?!」
と一言。
今週は、我ながらかなりのハードスケジュールで、仕事以外でつぎ込める時間は全てピアノに費やしたため、実は食事もろくにとっていない。今朝、それで母に怒られたばかりだが、ミロの目に分かるほど痩せたと思ってはいなかったので、少し驚いた。
「今週は暇があればピアノを弾いていて、結構食事もスキップしたりして…だからだろう…久しぶりに母に怒られたよ」
正直にそう返したら、ミロは医者が検診をする時のように人の顎を摘んで、
「食事ぐらい、ちゃんと取りなよ…。体力は音楽の基本だよ?」
と眉を顰めた。
仕事がたてこんで来るとすぐに食事を忘れるのは、むしろミロの方だ。そのうえ、空腹をチョコレートや甘い菓子で誤摩化したりするから、始末が悪い。思えば、兄のジェームズにも同じ悪癖があるので、もしかしたら長男に共通する習性なのかも知れない。
とはいえ、ミロの言葉は正しいので、大人しく頷いて、持って来たミネラルウォーターを口に含んだ。ミロは、人が水を飲んでいると大抵直後に自分にもくれ、と言って来るので、そのつもりでボトルを渡そうとしたのだが、その前に何故かまた顎を掴まれた。
まだ何かあるのか、と一瞬固まった時、柔らかいものが右頬に触れた。
それから、左頬、目元、額へと。
……以前は他人が居る場所でのこういう所業は固く禁じていたが、寄りを戻して以来、挨拶でキスすることもある場所へのキスはあまり煩く言わない事にしている。我々の関係を知られている人間しか居ない場所なら特に問題はないし、もっとオープンな場所であっても、所詮知らない人間に何と思われようと実害はない、と諦めたからだ。
もっとも、あまり頻度が高ければ人に不快感を与えかねないので、なるべくミロを傷つけない方法で止める必要がある。
そして、今日のミロの出来は、こんな所でいちゃついていると知れればシュラ先輩の額の青筋が二倍に増えそうな程度には、崩壊していた……
「シュラ先輩が戻って来て目に止まったら、しごかれるぞ」
一つキスを返して、ミロの体をそっと押しやった。何時もは、実のところ、ミロのこういうアプローチには困惑する。でも、昨日は、内心で喜びの感情が動くのを否定出来なかった。
ミロは、既に、女性の柔らかさを知っているはずだ。
それでもこんな風に触れてくるのなら、少なくとも触るのも嫌になった、というわけではないという事だから……
それからミロの調子を尋ねて、少し他愛のない話をして、ミロがサガ先輩との合わせに走っていった後、アイオロス先輩がやってきた。先輩は、わざわざ人が聞かないでおいたことを、ミロから聞き出して洗いざらい話してくれた。
ミロはこの三日で女性と二晩過ごし、男性とも一夜過ごした、ということ。
それから、女性はともかく、男性とはもう二度とやりたくない、と言っていた、と。
全く予想通りの(納得出来る)結果だったので、それはどうも、と礼だけ言って、さっさとその話題は切り上げ、先ほどうまく噛み合なかった部分の打ち合わせをした。アイオロス先輩はもっと何か言いたそうだったが、本番直前のこの時期に、無駄口を叩いている暇はないのだ。
帰り道、ミロはあっさりと手をふって、今日はこのまま先輩の家に楽器を置いてローマに戻るから、とアイオロス先輩、サガ先輩と共に駅の向こうに消えていった。ロンドンに泊まるものだとばかり思っていたから、驚いたし、少し残念にも思った。
ミロにも仕事があるし、遊んでばかりいられないのも勿論分かっている。
それなら、空港まで送って行こう、そういいかけて、声が喉で止まった。
一瞬、アイオロス先輩の声が脳裏を過ったからだ。
もしかして、帰ったのは………。
その一瞬の躊躇の間に、ミロの後ろ姿は遠くなり、人混みの中に消えていった。
空港まで、送っていって、何を話すつもりだったのだろう。
きっと何一つ、知りたい事は尋ねられないのに違いないのに。
仕方がないので、そのまま携帯を取り出し、実家に電話をかけた。
何となく、一人で居ない方がいいような気がしたからだ。
誰かの目がある所ならば、一人で考えても埒のあかない事を考える時間はないだろうから。
そんなわけで、今日は朝からピアノ部屋に籠っている。
父はそろそろ、鳴り止まないピアノに参り始めているようだ。
父が音を上げるのが先か、私の準備が整うのが先か、なかなか微妙になってきた。
不安に思う事はいくらでもあるが、それも全て金曜日には解消する。
「あと少しだから」と父を宥めて、パソコンに向かい、アップルストアでMacBookを注文した。