雪の夜

少しは暖かくなったと思っていたのに、また雪が降り始めた。


研究室の窓から外を眺め、今日は早めに仕事を切り上げようと机を片付け始めた。最後にもう一度メールチェックをして、壁にかかったコートを取り上げた時。
涼しい鈴の音がして、新着メールが届いた。
もしかしたら、アイオロスからかも知れない、と、メールを開いて、その場に硬直した……。
それから、六時間。
狭い室内には、学生達の慌ただしく駆け回る音と、キーボードを叩くヒステリックな音に占拠され、いつも静かに流しているクラシックの演奏はすっかりかき消されてしまっている。
私はといえば、学生の求めに応じ、天井までぎっしりとつまった書籍の中から資料を選び出し、該当ページを開いてやる作業をこの六時間立ちっぱなしで行っている……
何でも、明日の試験で発表しなければならないプレゼンテーション資料を納めたハードディスクが再起不能になったとかで、機械好きな学生の一人が何もかも資料をコンピューターに納めていたため、同じ班の全員が単位失格の危機に立たされてしまった、という事なのだそうで……
つまり、今大慌てでその資料を作っている、というわけだ。
研究室のゼミに参加している一人が、私ならばこの突貫工事につきあってくれるだろうと、引き連れてきたものらしい。
気がつけば、終バスの時間が迫っていて、学生に帰る時には部屋に鍵をかけるよう合鍵を渡し、外に飛び出した。舞い落ちる雪はまるで砂糖のようにサラサラで、踏みしめても固まらない。これはきっと積もる、と思いながら、バス停に辿り着いたのが五分前。だが、いつもなら既に待機しているはずのオックスフォード発ロンドン行き最終バスは、まだ姿が見えなかった。
雪も降っているし。
ロンドンからの便が遅れているのだろう……
つい先日、コートを真冬用の厚手のウールからもう少し軽いものに変えたばかりで、こんな日には少々寒さが肌に刺さる。それでも、湿度の低い雪は幼い頃過ごした実家の冬を思い起こさせてくれて、ほんの少し、心が温かい。パブで既に体も暖まった学生達の喧噪が、煉瓦の屋根を挟んだ向こうの大通りから聞こえる。
………十五分が経過した。
二月の初頭に比べれば随分ましになったとはいえ、気温はマイナス7度。
動いていればそれほど感じないが、じっと立っていると流石に冷えてくる。
マフラーをもう一重巻いて、両手をポケットの中に押し込んだ。
………更に十五分が経過した。
キャブが何台かやってきては、同じようにバスを待っていた人を乗せて去って行く。
道はすっかり白銀に覆われ、カーブを描いてバス停に入ってくる車はみな後車輪を滑らせながらやってくる。この様子では、バスも危険かもしれない、と思いつつ、時計を見る。
予定の時間より、二十五分遅れている。運休になったのか、と不安に陥りかけた時、別の方面行きのバスがやってくる。少なくとも、運休ではないようだ……
………更に十分が経過した。
学生達の喧噪は遠ざかり、バス停で待つ人は誰もいなくなった。道の向こうを、自転車を漕ぐ人影が見える。いや、正確に言うなら、雪を漕ぐ、といった方が正しいかもしれない。なぜなら、彼は五メートル進む毎に、雪についた轍にタイヤをとられて転倒していたからだ…
人というのは不思議なものだ。あのように既に役にたたないと思われるものに、何故に斯様に執着するのか。押して進むのも楽ではないのかもしれないが、転倒して体を打ち、自転車を起こす作業の方がよほど体に負担となるだろうに。
………などとつらつら考えて気を紛らわそうとはしてみたが、どうにも、もうこの寒さは我慢が出来ない。
疲れているアイオロスに迎えを頼むのはあまりにも気の毒だと、なんとか自力で帰るつもりだったが…
携帯のボタンを押そうとして、指がまったく言う事をきかなくなっている事に気付く。
なんとかリダイヤルのボタンを押し、電話をかけた。
「……ごめん……終バスが、来ないんだ………」
「はああ?! 何やってんだお前、こんな時間に!」
「いや、だから、終バスで帰ろうと思って……でも来なくて……雪で遅れているのだと思うんだが………」
「雪降ってんなら、終バスと言わず、さっさと帰りゃいいだろうが!!! つか、お前、俺にこの雪の中Oxfordまで迎えに来いと??」
「そのつもりだったんだ……でも急用で帰れなくなって……ロスに迷惑かけないように、とりあえず四十五分待ってみたけど、ちょっともうこれ以上ここで待つのは限界……」
「四十五分って……アホかお前は!!」
「……研究室に、戻ってもいいかな……」
喋りながら、もう歯の根が合わない。とにかく暖かい場所に入らないと、このまま隣のポールと共にオブジェと化してしまいそうだ。
アイオロスは盛大に文句を言っていたが、さっさと部屋に帰れ、と迎えに来る事を約束してくれた。
……貯金崩して、少しお小遣いあげることにするか……。

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