晩餐

折角の誕生日にミロと会えなかった、ときいて、カミュを夕食に誘った。
電話の向こうで、「もう誕生日を祝う年じゃないですよ」なんて笑っていたけれど、それでも、楽しみにしていた予定がキャンセルされてしまう残念さは、いくつになっても変わるものではないと思うから。


精進料理を作るから手伝ってくれ、と伝えてあったので、カミュは約束通り午後三時にやってきた。
レシピは四種類用意してあって、建長汁とアスパラガスのくるみ白和え、black mushroom(椎茸)のあわびもどき、それからちらし寿司。
家にはrice cookerがないけれど、圧力釜でも炊けるというので、それで米を炊き、二人で人参や椎茸、蒟蒻、ごぼう、蓮根などを刻む。カミュは蒟蒻を見た事がないらしく、不思議そうに指先でつまんで感触を楽しんでいた。
Black mushroomのあわびもどきは、black mushroomの傘の裏(ヒダのある方)に薄く小麦粉をはたき、、一時間水切りしたトウフとすりつぶしたsesame seed、塩、みりんをそれぞれtable spoon1杯ずつを練り合わせたものを塗り、フライパンにごま油をひいて焼くだけだ。
傘の方から焼かないとトウフがくずれる、と書いてあったが、傘の方から焼いてもひっくり返すのは難しい。最初の四つは形がいびつになってしまった。
仕上げに、みりんとsoy sourceをtable spoon 1ずつあわせたソースをかける。
……と、カミュが不思議そうに手元を見た。
「それって、あわびにみたてているんですよね?」
「うん。精進料理には、みたて料理というのがあって、肉や魚介類を使わずにそれらしいものを作るんだ」
「それなら、やはりソースはワサビとsoy sourceがいいんじゃないでしょうか」
我々は顔を見合わせ、次の四つはそうしよう、と決めた。

 

カミュは、(本人曰く)あまりレシピに忠実ではないらしい。レシピを見て着想を得ても、出来上がるとかなり違っている事が多々あるのだとか。
私は、自分の舌に自信がないので、なかなかそういう逸脱ができない。
それなので、そういう臨機応変を少し羨ましく思う。
考えてみたら、ミロもレシピなど見ないし、ロスもそうだ。
もっともロスの料理は、卵料理か、肉類のバーベキューか、その二種類しかないといってもほぼ差し支えないのだけれど……
(そういえば、最近、スクランブル・エッグを食べていない。朝アイオロスが作ってくれる、少しミルクと砂糖の入ったふわふわの味が懐かしい。)
建長汁は、根菜類と蒟蒻をまずごま油で炒める。それからsoy sourceを分量の半分加え、干したblack mushroomを水につけてふやかした後の汁を注ぐ。コンブを似出した汁も加えて、野菜に火が通ったらトウフを手で崩しながら入れ、残りのsoy sourceで味をととのえる。トウフを崩すのは、この建長汁が生まれた日本の建長寺で、何十人もいる修行僧の全員にトウフが行き渡るように、という古来から伝わる知恵であったらしい。
アクをとりながら野菜を煮ていたら、カミュがジャガイモはいれてはいけないのか、と尋ねてきて、少々返答に困った。
根菜ならなんでもよさそうだけれど……ジャガイモは溶けるから、汁が濁ってしまうのじゃないだろうか?

 

残るアスパラガスの白和えとちらし寿司を漸く作り終えたころには、既に七時を回っていて、外はすっかり暗くなっていた。カミュが持って来てくれた日本酒(もしかしたらミロから貰ったものだろうか)を開けてグラスに注いでいたら、居間からカミュの悲鳴が聞こえた。
「先輩! 大変です! ウサギが……!」
「えっ?! どうしたんだ?!」
「ロスが……石鹸を食べてます!」
しまった、と思い当たった。居間へかけつけると、カミュがウサギの歯形つきの石鹸を手にして呆然としている。
「これ……amishの村のものだから、合成のものは何も使っていないのですが……でもアルカリ性ですよね?!」
カミュが持って来てくれた土産だ。包装されたまま袋入りでテーブルの上に置いておいたものを、わざわざ袋から引っぱり出し、包装を噛み破って食べていたのだ。
しかも、くずが落ちていないからしっかり飲み込んでいる……(大汗)
「どのくらい食べてる? まさか、こんなに匂いのきついものまで食べるなんて! この間は蝋燭を食べてしまったんだ……蝋燭はまだ味がないからわかるけれど……」
落ちていたくずをつまんで舐めてみる。市販の石鹸ほどきつくはないものの、やはり舌に刺激がある。歯形はしっかりついていて、軽く角砂糖一つ分くらいは齧ってしまっている。
すぐに病院につれていくべきか、と様子を伺ってみるが、本人ならぬ本兎はまったく堪えた様子がない。
今連れて行っても、医者もどうする事もできないだろう。ウサギは吐く事ができないし、症状が出ていないのに薬を投与するわけにもいかない。
人間のように、胃洗浄ができるわけではないのだ。
「すみません、こんなものを持って来てしまって……」
「いや、悪いのは私だ。すぐに仕舞っておくべきだった。ロスはこのくらいの固さのものが大好きだと知っていたのに……」
今晩は、寝ずの番で体調を崩さないか見張るしかない、と覚悟した。
それにしても、相当にアルカリが強い筈なのに、胃もたれをおこさないのだろうか?
ためしに胃と背中側にある腎臓のあたりを触ってみたが、庇っているような強ばりも冷たい場所もなく、至って普通だ。
これだけ齧るにはそれなりに時間がかかったろうし、不都合なら、もうそろそろ出てきておかしくないのに、と考えたとき、あっ、と思い当たった。
ウサギは、胃の酸度が強いのだ。カミュが持って来てくれた石鹸は、私でも少量なら食べられたくらいだから、それほどアルカリは強くはない。幸い、人工物は何一つ使われていない石鹸だったから、毒性の強いものといったら、鹸化に使われる水酸化ナトリウムだけだ。
「……もしかしたら、大丈夫かも……」
思わずそう呟いたら、カミュが驚いて振り返った。
「えっ? 大丈夫って……」
「いや、今症状が出ていないということは、という意味なのだけれど。幸い、オール・ナチュラルの石鹸だから、怖いのは鹸化剤の水酸基と塩だけだけれど、ウサギの胃はPHが強いから、水酸基の方はそこそこ中和されてしまったのかもしれない。塩はナトリウムだから、この体の大きさだととり過ぎではあるけれど、即中毒になるようなものでもないし……」
「そうか、胃のPHが極端に崩れていれば、既に症状がでているはずだ、というわけですね?」
「うん。多分ね。勿論、今晩は注意が必要ではあるけれど……脂肪は明らかにとりすぎているし。でも、とりあえず、急性中毒の危険は去ったのじゃないかと思う。とにかく、夜のペレットはおあずけにして、牧草を食べさせて様子を見るよ」
触られているのに飽きてきたのか、手元を抜け出して走り出したロスを視線で追いかけてそう言うと、カミュの盛大な溜息が帰って来た。
「よかった……。一時はどうなることかと……」
「心配かけてすまなかったね。でも、ロスにはケージに戻ってもらった方がいいな。目の届かないところで急に体調を崩されると困るから。ウサギ達をしまって、食事にしよう」

 

中断されていた食事の準備に再度とりかかり、ウサギ達にもペレットをやって、私達は共にテーブルにつき、豪勢な食事(アイオロスが見たら大いに異を唱えるだろうが)を始めた。
こんなにまともな料理は作るのも食べるのも久しぶりで、あらためて、一人で食事をとる事の味気なさを思い知る。
ふと、カミュはもうずっと、そんな生活をしているのだな、と、思った。
ウサギでも居れば、気も少し紛れるけれど、彼の家に生き物の影はない。
お互い、別の拠点で仕事を抱えている身では、どちらかが居を移す、というのはなかなか難しいのだろうけれど……。
辛いだろうな、と感じるのは、やはり自分があまりに強くアイオロスに依存しているからだろうか。
「あ、あわびもどきは、やっぱりワサビと醤油が合いますよ。歯ごたえが少しあわびに似ているかな?」
「本当だね。甘いたれも悪くないけれど、お酒には醤油の方が合いそうだ。この甘いのも、少しわさび醤油をつけると美味しいよ」
誕生日当日の顛末をいろいろと聞かせてもらいつつ(少々どういう反応をすれば良いのか戸惑ったけれど……カミュが笑って話せる事なら、あまり気にする必要はないのだろうか?)、本日のメニューをひととおりこなしたあと、カミュは、聞かせたいものがある、と鞄から一枚のCDを取り出した。
「CD-R? もしかして、ミロから?」
カミュは唇に笑みを浮かべて、黙ってそのCDをコンポにかけた。
しばらくの無音の後、溢れてきたのは、聞き覚えのある声。
「カミュ、誕生日おめでとう。
本当はクリスマスに披露したかったけど、間に合わなくてゴメン。
ええと、カミュの言った通り、難曲でした。
イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタから、第二番。」
えっ? と視線で問い返した先で、カミュはにっこりと笑ってみせた。
溢れてくる、バッハのパルティータを模した旋律。
イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタは、有名なバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタに触発されて書かれた曲だといわれる。バッハの無伴奏ほどの知名度はないものの、自らもヴァイオリニストであったイザイのヴァイオリンに対する造詣は深く、コンクールの課題曲にも指定されるような難曲揃いだ。
全部で六曲あり、全てがそれぞれ同時代のヴァイオリニストに捧げられている。
2番は、フランスのヴァイオリニスト、ジャック・ティボーに捧げられ、六曲のうちでもパロディ色が強く、バッハの無伴奏パルティータ第3番と全く同じフレーズで始まる。途中からは、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」のモチーフも現れる。
バッハの原曲を知っていると尚更笑みを誘われる作品なのだけれど、この曲には、それだけで収まらない魅力がある。
第二楽章が、たとえようもなく美しいのだ。
一挺のヴァイオリンで二声を弾く、ダブルストッピングを多用する。耳には美しく聞こえるが、そう聴かせるには高い技術力を要求される。
冒頭のメッセージからするに、この曲はカミュのリクエストだったのだろう。私には、彼が六曲のうちでもこの曲を好む理由がわかる気がした。遊び心あり、洒落っ気もあり、けれど、素直に美しい部分も失ってはいない、この曲は彼自身にとても似ているからだ。
はたして、高らかなバッハとグレゴリオ聖歌への賛美(これがイザイのこれら二曲への敬意でなくてなんであろう?)で一楽章を閉じた後、その衝撃はやってきた。
こんなに美しいイザイは聴いた事がない………。
思わず、耳を疑った。これが、プロの演奏家ではなく、建築家とモデルを兼業してまともに楽器に触る時間もない人間の演奏なのか、と。
実は、私は、ミロがスクールを卒業してからの音はあまり知らない。彼はローマ音楽院に進んだが、不幸な事故で右腕を痛め、学位をとるまで在籍することが出来なかった。
だから、私の記憶にあるミロの音は、どちらかと言えばパブリックスクール時代の音であり、その頃、ミロは元気のよい曲は得意でも、こういった美しく聴かせる曲は照れが邪魔してあまり出来がよくなかった。
こんなに、変わっていたなんて………。

 

 

ふと、コンポの横に立ったままのカミュを見上げると、じっと宙を見つめたままの目の縁が、少し赤く染まっていた。
「もう一度……あいつが音楽をやると言うなら、学費くらいなんとか工面してやれるんですけれどね……」
曲が途切れたあと、カミュはぽつりとそう呟いた。その横顔は、相変わらず微笑みを浮かべていたけれど、どこか悲しげにも見えた。
「僕は……まだ、自分の耳を信じているんです。あいつが、もう一度演奏家の道に戻れるなら、何だってするでしょう」
「だけどカミュ、ミロはきっとそれを望まないよ? 君が彼の音楽に何かを捧げようとすることをこそ、彼は一番怖れているのじゃないのかい?」
「ええ、分かっています。……もう、子供ではありませんから(笑)」
だから、自分からは手が出せないのだと、カミュは苦笑した。
私は、カミュに対して、すべて、憶測が間違っていたことを悟った。
たとえ誕生日に会えなくても、この一枚のCDを贈られたというだけで、彼は何よりも幸せなのだ。
私だって、アイオロスが私のためにこんなに美しい演奏をしてくれたら、どんなにか嬉しいだろう。
それでも、それは、アイオロス本人の存在に勝るものではない。
けれど、カミュは、ミロのヴァイオリンのなかに、ミロの一番芯の部分を見ているのだ。
カミュの前では極端にはずかしがり屋になるミロ本人を見つめていては、おそらくなかなか見えない部分を、演奏が伝えてくれる、そこに、無類の幸せを感じているのに違いない。
この二人の関係は、こうして端からみていると、少し危うげにも見える。
けれど、その繋がりが音楽である限り、決して途切れる事はないのかもしれない。

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