早速

ヘンリーが職場に面会に来た……(汗)


仕事を早めに切り上げて、先日借りたものの全く使っていない職員宿舎に案内すると、「ロンドンを引き払われるおつもりだったというのは本当だったのですね」とあっさりと言われた。
カノンはどうやら、ヘンリーにここ数ヶ月の出来事を逐一報告していたらしい。
「さて、用件は既にご承知と思いますが」
紅茶の葉すらないことまで知らされていたのか、ヘンリーは持参したダージリンを一人用のティーポットで入れて、私の目の前に置いた。
「いや、私はいいから、アーサー、君が飲んでくれ」
「お気遣いは有難いですが、これは卿にお楽しみ頂く為に持参したものでしてな。それにしても、この部屋は殺風景すぎますぞ。せめてカーテンくらいはお付けなされ」
カーテンどころか、テーブルも最初から備え付けてあった小さなダイニング・テーブルのみで、ソファーもコーヒーテーブルもない部屋だ。向かいの椅子につくよう勧めても、老ヘンリーはここで結構の一点張りで、直立している。
一人だけ椅子に座らされて、立ったままの執事に小言を貰うのは、一体何年ぶりだろう。
「チェトウィンド卿。二度は申しませぬぞ。お父上は、心底、卿が戻られぬことを悲しんでおられます。厳しいお方ゆえ面と向かっては何も申されぬが、卿のことを心から愛しておられるし、誇りにも思っておられるのです。ましてや、母上のご心痛はいかほどか、お分かりにならぬはずはありますまい?」
「それは分かっている………」
「無論、卿の決意も並みならぬものと思っておりましたが、このように別居用の部屋を借り、仲もうまくいっておらぬということは、最早シュローズベリへお戻り頂くのに何の障害もない、と考えてよろしいのでしょうな?」
「それは……すぐには返答出来ない」
「何故です? 何をまだ逡巡しておられますか。この部屋を借りた時点で卿が爵位を放棄する口実は失われた筈ですが」
「そうではないんだ、アーサー、私は……アイオロスの事がたとえなかったとしても、爵位はカノンに継いでもらいたいと思っている」
「何故です? 自信がありませんか?」
「カノンの方が適任だと思うからだ。……私は、皆が信じるほど、あの家の生活に馴染んでいるわけではないし、家の資産を生かして投資や株などを扱う知識もない。百年前なら、伝統を守るだけで良かったのだろうが……今は、家を衰退させないためにはそういった資産家としての知識やセンスが必要だ。そういうセンスはカノンの方がある」
「それは存じています。しかし、それはサガ様がカノン様を相談役として指名すれば済むことです」
「また、カノンに影武者のような生活をさせようというのかい?」
顔を上げると、ヘンリーの眉がぴくりと動いたのが見えた。
「聞き捨てなりませんな。カノン様がサガ様の影武者であった事など一度もありませんぞ」
「でも、カノンはそうは思っていないだろう。だから、カノンは医者になる事を選んだんだ。家の援助がなくとも生活してゆけるように」
「仮にそうだとしても、カノン様は爵位を継ぐ事を本気で嫌がっておられますぞ?」
「知っているよ。だから、二人で今相談しているところなんだろう?」
「そこが間違っているのです! お二人とも嫌なら、継ぐのはサガ様です。貴方が長男なのですから」
「長男といっても、たった数秒だけの兄だ。しかもDNAは全く一緒なのだから、私達が名前を入れ替えたら、それだけで長男と次男は入れ替わる。だから、どちらが継いでも問題はないよ」
「まったく、何時からそんな詮無き事で駄々を捏ねるようになられたのか!」
「だから、私は、もうアーサーが知っている何でも素直に言う事をきく子ではないんだよ」
まだ湯気をたてている紅茶を一口啜ってそう言ったら、ヘンリーは盛大な溜息をついた。
「成る程、口は随分と達者になられましたな。昔は、それだけはカノン様の方が遥かに優れておられたが……これでは、なかなか相談しても決着がつきますまい」
「私も簡単に折れるわけにはいかないからね」
「しかし、それほどまでに頑になられるということは、まだ心残りがあるということですか? その……同居のご友人に」
今度は私が溜息をつく番だった。言われてみれば、何故私は懸命にヘンリーを追い返そうとしているのか。
「……嫌いになったわけではないんだ。勿論、一時は本気で怒りもしたけれど、嫌いになったのならそれほど怒ったりしない……色々不都合はあるけれど、ロスはまだ現状を諦めていない。彼が諦めない限り、私だけが勝手に諦めるわけにはいかないんだ……昔、そう約束したから」
ヘンリーは口をへの字に曲げて、仕方ありませんな、と言った。
「それ以前に、サガ様が爵位を継がれる事は生まれた時からの約束事ですが、その約束はサガ様ご自身がなさったわけではない。約束は必ず守れと昔煩く小言を申しました手前、本日はこれで下がりましょう。しかし、ずるずると結論を伸ばすのはいけませんぞ。答えを頂くまでしつこく通いますから、ご覚悟を」
次はカーテンを持ってきましょう、と残して、ヘンリーは漸く実家へ戻っていった。
しかし……次とは、一体何時だろう?
カーテンを持って来る、ということは、来週あたりにもまた来るつもりなのか?!
困った………。

コメントを残す