ウサギの武器

今、私の喉には一筋の傷がある。


今日は土曜日、アイオロスは夜中眠れなかったのか朝まで起きていた模様で、私が十時頃にリビングに現れたのと入れ違いに、「少し仮眠する」とベッドルームに戻っていった。
今週は仕事がたてこんでいて、終バスに駆け込む毎日、帰宅は常に午前零時を回っていた。
私が床に入れば目を覚ますのが常のアイオロスは、何故か今週起きる気配がなく、従って(私にとっては)比較的睡眠時間の充実した一週間だった。
とはいえ、その皺寄せは何処かにやってくるわけで。
昨晩は大学側の都合で夕刻六時過ぎには建物を閉め出され、家に戻ってみるとアイオロスが準備万端で待ち構えていて、十時過ぎにはさっさとベッドルームに(文字通り)運び込まれ、久々の長時間戦になった。
私の方は仕事の疲れもあって、午前三時頃にはどうにも目を開けていられなくなり眠りに落ちたが、アイオロスはそれでも眠れなかったらしい。明方まで読んでいたらしい本がソファの上に投げ出してあり、傍らには簡単な朝食が置かれていた。
本当は、今日は一緒に市場にでかけようと思っていたのだけれど。
よい天気なので、予定を変更し、この一週間ほとんど構ってやれなかったウサギ達を外に出すことにした。
(ウサギの)ロス、娘達を一匹ずつ表に出し、最後に白に黒ブチの子を出そうとしたときだった。
一番おっとりして見える彼女が、突然暴れ出し、私の喉をひっかいた。
実は結構私の体にはウサギの爪痕があって、あまり肌を晒さないようにしている。体の小さいドワーフウサギの爪は細く尖っているので、服の上からでも肌に穴が開くことがあるのだ。
無防備な喉を引っ掻かれたのは結構な痛手で、押し付けたティッシュには線状に血が滲んだ。
アイオロスがまた怒るな、と思った。
(自分が人の肌に痕をつけるのは構わないくせに、兎には結構真剣に怒るから大人気がない)
しかし、彼女は彼女なりに、身を守る策を講じたのだ。兎にとって、爪は数少ない大事な武器だ。
二時間ほど遊ばせてやって、柵の外に興味を示し始めた娘達を家に連れ帰り、代わりに病み上がりのプチを出した。プチは子育て中にロスとえせるに酷く噛み付いていて、以来彼等の仲は険悪だった。
母親のえせるとの関係修復は望むべくもなさそうだが、雄であり夫でもあるロスとはなんとかもう少しましな関係になってくれるのでは、と一縷の期待を抱いてプチを放したのだが……
飼い主の顔は一週間で忘れるウサギも、噛まれた恨みは何ヶ月も覚えているものらしい。
ロスが猛然とプチを追いかけ、プチは必死で逃げ、逃げ切れずロスに毛を毟られ、仰向けにひっくり返された。
こうなるとウサギボールとでもいうべき状態になり、お互い絡み合って弱い所に噛み付こうとする。
慌ててロスを引き離し、家に連れ帰ったが、既に当たりは二匹分の毟られた毛が方々に散らばっていた。
(幸い、まだ毛を毟る段階で引き離せたようだが)
ウサギのもっとも強力な武器は歯だ。あの歯で噛み付かれたら、皮膚はざっくり切れる。
けれど、ウサギがこれを使うことは殆どない。逃げて逃げ切れず、爪で撃退できなかった時に初めて歯を使う。あるいは、母ウサギが子供を守るために捨て身の攻撃で歯を使う。ウサギの方も、噛み付いたら自分もただではすまないとちゃんと分かっているのだ。
既に子宮もなく、子供を守る必要のないプチは、ロスが挑み掛かった時まず逃げた。子育て中に自分から飛びかかっていったのとは対照的だ。
彼女の方に攻撃心がなければ、あと一年くらいもすれば、恨みを忘れてくれるかもしれないが……
いずれにしても、まだ当分時間がかかりそうだ。
今、彼女は私の目の前で、のんびりと芝を食んでいる。
手術してから約一ヶ月半ぶりの外で、よくぞここまで回復してくれたと思う。
ふと、(人間の)アイオロスが、私をよくウサギに見立てているのを思い出した。
成程。
身を守る(?)には、まず逃げるのが先か。
(確かに今週は家から逃げつづけて? 平和だった)
しかし、その後がいただけない。
爪……は楽器を弾く邪魔になるから、常に短く切っている。
歯は、使った事がまったくないわけではないが、攻撃ではなく親愛の証と受け取られてしまった。
つくづく、人間とは弱い生き物だ、と思う。
いや、待て。
噛むところを選べば、アイオロスにも攻撃が可能なのじゃないか?
喉とか。それとも………。
いい塩梅に、今、彼は寝ている。
試すなら、今だな、と、好奇心が囁く。
いやいや。
ウサギだって、噛むのは最後の手段、自分も同じ傷を負う覚悟でやるのだ。
噛み合いになって、あの力も重量もあるアイオロスに勝てるわけがない。
噛まれるだけならともかく、食べられてしまうかもしれない………(汗)
流石に昨日の今日でそれはきついので、私は好奇心に蓋をした。
ウサギの武器は、やはり、逃げ足だ。

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