六日にローマについてから、天気はずっと曇りがちで、何度か雷雨に見舞われた。
昨夜、例年より少し気温も湿度も高い、と、ミロが少々心もとない眼差しで夜空を見上げていた。弦楽器に湿気は大敵だから、気持ちは分からなくもない。けれど、そんなに緊張するほどのことでもないだろう、と言うと、ミロは、思いの他真剣な眼差しで、「明日は大事な日だから」とこちらを見た。
今日、大学のホールを借りて、ミニ・リサイタルを行うことになっている。
リサイタルといっても、聴衆は一人だけ。私が我侭を言って、ミロのディプロマ取得のための演奏会を再現してくれ、と頼んだからだ。
今年の春、ミロは卒業に必要な最後のリサイタルをこなし、見事首席で院を卒業した。知っていれば、何を置いても聞きに行っただろうけれど、私はそのことはおろか、ミロが音楽院に復学していた事すら聞かされていなかった。
思わぬ形で、サガ先輩の誕生日にその事をデス先輩の口から聞いた時、あまりに色々な感情が交錯して、暫く、嬉しいのか、腹立たしいのか、悲しいのか、それすらも分からずに戸惑った。
ミロがヴァイオリンを諦めていなかったことは本当に嬉しかったし、彼があの年で首席をもぎ取った事には心から拍手を送りたいと思う。けれど同時に、相談すらしてもらえなかった事、そして、何より、デス先輩が絶賛する演奏をこの耳で聞けなかった事が、いつまでも私の胸に刺のように刺さっていた。
先日、ミロがあまりに彼の対応のまずさを(そのことに関しては私も否定しない)申し訳なさそうに詫びるので、つい、あの演奏会を再現して欲しい、と頼んだ。軽いつもりで──それこそ、伴奏は私がやっても構わない、と思っていたくらいなのに、ミロはピアノ科の学生に協力を頼んで、本番と同じ体裁を整えてくれるつもりらしかった。
イタリアへ来た初日は、ただひたすら甘い表情しか見せなかったミロが、昨夜から、時折、私が見ていない瞬間に厳しい表情をするようになった。私が疲れて眠り込んでいた間、ミロはずっとヴァイオリンを弾いていたらしい。目が醒めて、隣にミロが居ない事に気づき、事務所まで下りて扉を開けると、ミロはヴァイオリンを下ろして、申し訳なさそうに、あと一時間だけ一人にさせてくれないか、と言った。
音に真剣に向き合う時、音楽以外の全てのものが消える。
私自身そうであるから、誰にも邪魔されたくないミロの気持ちはとてもよく分かる。
それなのに、一瞬、その声にはっとして、背筋を何か冷たいものが走った。
「勿論、好きなだけどうぞ」
そう、言葉が溢れる直前、息が震えたのがわかった。
一夜明けて、今日の天気は良くもないけれど、時折太陽が顔を覗かせるようになった。
いつも話に聞くばかりだったローマ音楽院(聖チェチリア音楽院)への道を、二人で並んで歩く。
ミロはヴァイオリンケースを抱え、私の手には簡単な録音機材を入れたバッグがある。
あとで聞き直して勉強するから、とミロが自分で用意したものだ。昔は、録音を録るのをとにかく嫌がって、何度頼んでも決して首を縦には振らなかったのに、と笑うと、「もう、そうも言っていられないから」ときまり悪げな返事がかえってきた。
音楽院には三つのコンサート用ホールの他に、リハーサル室があった。リハーサル室といっても、客席も舞台もある小ホールの形で、レコーディング用機材なども揃っている。ディプロマのコンサートもここでやった、と明るく光の差し込む廊下を渡りながら、ミロが教えてくれた。勿論、本日の会場もそこだ。
オープン・エアのテアトルを横切り、二番目に大きいシノーポリ・ホールに隣接するリハーサル室へと向かう。シノーポリ、というのは、2001年にオペラ・アイーダの演奏中心筋梗塞で急逝した指揮者、ジュゼッペ・シノーポリからとられたものだろう。たしか1980年代に数年、この聖チェチリア音楽院の管弦楽団の音楽監督をしていたはずだ。作曲家マーラーについて精神医学の論文を書き、医学博士でもあった彼がドレスデン・シュターツカペレを振ったマーラーの交響曲第五番のCDは、十代の頃の気に入りの一枚だった。
彼がオーケストラ・ピットの指揮台で、指揮棒を手にしたまま急逝した時、その早すぎる死を悼むと同時に、文字通り音楽と共に燃え尽きた彼を羨ましく感じた事を覚えている。幾度かの岐路を経て人生の道も既に定まっていたのに、その感傷に我ながら苦笑を覚えたことを思い出した。
リハーサルに入ると、ミロは少し待っていて、私をホールに残し、そのまま楽器を携えて何処かへ出ていった。指馴らしは朝から少しやっていたようだけれど、人の体というのは朝おきてすぐに目覚めるわけでもないので、午前中の演奏にはとくに入念な準備が必要になる。ピアノを弾いていてかまわない、と言われたけれど、これから伴奏者が使うピアノに迂闊に触る気になれなくて、ホールの中をあちらこちら眺めて回った。職業病というか、箱ものを見るとつい照明設計が気になる。
多分普通の人は覗かないだろう隅の方まで眺め回していると、扉が開いて数人の学生とおぼしき男女が入って来た。肩にヴァイオリンケースを担いでいる女性は、もしかしたらミロがトレーナーをしているという弦合奏団の団員かも知れない。あきらかな部外者の私を見て眉を顰めるかと身を固くしたら、先方はこちらに向かってにっこりと会釈をしてくれた。どうやら、私の事は既にミロから報告済みなのか、あるいは部外者など気にしない土地柄なのだろう。
何となく居心地の悪い思いをしながら、舞台中央の中央から少し後ろの座席で待っていると、やがててそれまで明るく照らされていた客席側の照明が落とされた。照明係もいるのか、と驚いて周囲を見渡すうち、舞台側の扉がさっと開いた。
一瞬、息を飲んだ。
舞台袖から颯爽と現れたのは、髪をひとつに束ね、燕尾服に身を包んだミロだったからだ。
大きなストライドで舞台中央まで歩く。一足踏む度に、ホールの空気が引き締まるのを感じる。
まばらではあっても、惜しみない拍手が起こる。その音に漸く我に帰り、腕にかけたままにしていた上着を隣の席に置いて拍手した。
この緊張感は、確かに、彼がここまで着て来たニットとジーンズ、スニーカーの組み合わせでは生まれ得ない。私は漸くその瞬間、ミロが本当に本気で、ディプロマ試験の舞台をやり直す気なのだ、と悟った。
まさか、本当に、何から何まで再現してくれるなんて……。
明らかに、ミロよりも緊張している。
この決して狭くはない舞台をこれほどの緊張感で満たしてしまう、この迫力は一体何なのだろう。
観客の全ての視線を一瞬で釘付けにする、そういう華が昔からミロにはあったが、それを以前のように照れて包み隠さなくなった今、ミロの長身は普段より一回りも、二まわりも大きく見えた。
ミロが、彼の愛器を構え、弓を弦に置く。
迸ったG線の音が、一瞬で私の肺を握り潰したように感じた。
イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタ、第四番。
ミロから貰ったCDで、幾度となく聞いた曲。ずっと、これを生で聴く日を夢見ていた。
その場に居られなかった自分を不甲斐なく思いながら。
ときに、偶然聞く事の出来た三人の先輩を妬みながら。
けれど、それで良かったのかもしれない。
ミロの大切な試験に、水をさすような真似をしなくて済んだのだから……
音に握られたままの肺が苦しくて、痛くて、涙が溢れた。
何かが溢れてしまいそうで、口を掌で覆った。それでも堪え切れず、歯を強く噛み合わせた。
本当に心が音に捕われる時、胸にある一番強いものは、喜びではなく、痛みだ。
一音一音が空に消えて、未来永劫二度とは戻らない、その全ての瞬間を惜しむ喪失感だ。
胸が、痛い…………。
目を開けている事が出来ない。瞳を閉じると、音だけが、世界になった。
ミロが十三分弱の無伴奏を殆どミスなく弾き切り、観客から半ば熱狂したような拍手が沸き起こった時、初めて音の呪縛は解け、私は俯いていた顔を上げた。
ミロが、心配気にこちらを見ている。はっとした。下を向いて口を抑えていれば、心配するのは当たり前だろう。
ごめん、お前の所為じゃない。
まだ涙で視界は霞んでいたけれど、立ち上がって拍手を返した。普通、一曲目からスタンディング・オベーションはやらない。けれど、すぐに、他の観客もそれに続いた。
イザイの無伴奏は、近代ヴァイオリンのあらゆる技巧を要求する難曲だ。技術的な難易度を言えば、バッハの無伴奏より難しい。その難しさを、そうと思わせずに美しく弾く事、それだけで、殆どの演奏家が手一杯になる。そこに何らかの精神性を込められるのは、本当に一握りの演奏家だけだ。
そして、ミロのイザイは、間違いなくその域へ達していた。
それが身内の欲目ではないことは、この鳴り止まない拍手が照明してくれているだろう。
ミロのイザイは、彼がまだ小さな少年だった頃から密かに抱き続け、育てて来た世界の音そのもののように、私には思えた。かつて、ミロはその世界を決して言葉で語る事はなく、唯一彼の弾くヴァイオリンだけが、その世界への入り口だった。そして私はごく僅かに、時折ミロが本当に照れを捨ててヴァイオリンを弾く時にだけ開かれるその世界の光に夢中になり、ミロにとって必要な人間で在り続けようと躍起になった。
これほど美しい世界を、私は他に知らない。
だから、何を犠牲にしても、この世界を手放したくないと願い、足掻く。
お互いに年をとり、ミロは少しずつ、ヴァイオリン以外にもその世界への扉を開くようになったけれど、今もヴァイオリンが彼の最も重要な扉であることに変わりはない。そのせいか、ミロは時折、私が彼の側にいる理由をただヴァイオリンが弾けるからだと不安に思っているようだ。
そんな事があるか、と幾度も笑い飛ばしてきたけれど、こんな風に彼のヴァイオリンに強く心を揺さぶられる私を見て、ミロは不安になるのだろう。
イザイの後には、バルトークの民族舞踊、それから休憩を挟んで、ブラームスのヴァイオリンソナタ第三番と続く。どちらも、学生時代にミロと弾いた思い出のある曲だ。バルトークがミロはお気に入りで、何度も相手をせがまれた反面、ブラームスはあまり気が乗らないらしく、誘ってもあまり相手をしてもらえる事はなかった。
そんなミロが、コンサートのメインプログラムにブラームスを選んだと聞いた時、私は彼の変化を嬉しく思うと共に、幾ばくかの寂しさを覚えた。
ブラームスは、ピアノ側にも高度な技術と芸術性を要求される。折角ミロが弾いてくれるようになっても、今の私ではもうミロの相手にはならない。学生時代、もう少し強く強請っておけばよかった、と、滅多に後悔などしないのに、今になって失われた機会が惜しい。
相手のピアニストは中国系の青年で、ピアノ科にありがちな見当外れな自己主張に陥ることなく、ミロのヴァイオリンと自然に溶け込んでいた。ヴァイオリンの音がある時は相手を立て、ピアノの音のみの場所では十分に楽器を歌わせる事が出来る、センスの良いピアニストだ。
ああ、ここは確かにこう奏でたかった、と、私では実現出来ない音を軽々と操るのを見て、彼等と私の間に開く、埋めようのない大きな差を感じた。
そんな事は、もう十年も前に分かっていたことなのだけれど……。
こうして現実を突きつけられれば、感傷と分かっていても、平静ではいられない自分がいる。
容赦なく過ぎ去って行く音への未練と、その時間に自分が関与していない事への痛みと。
そんな幸せなばかりではない時間が、どうしてこんなにも愛おしいのだろう。
我ながら、滑稽だ。
華やかなフィナーレを弾き納めて、ミロがピアニストと共に一礼した。いつのまにか、ホールには休日だというのに人が増えていて、ミロのこの学院での人気を思わせた。
ふと気がつけば、舞台袖に近い場所に佇む初老の人が居る。その厳しい、けれど暖かい眼差しを見て、直感した。彼はきっと、ミロの恩師だ。
採点までやり直してもらうつもりなのか、と驚いた瞬間、その人はくるりと舞台に背を向け、そのまま扉の向こうへと消えてしまった。
不評だったのか、それともそもそも恩師などではないのか。
一瞬、気になってその後ろ姿を追っている間に、トン、と舞台から飛び降りる音がして、目の前を風が巻いた。
ミロが、楽器をピアノの上に置いて舞台を飛び降り、まっすぐに私の方へと走って来たのだ。
コンサートは終わり、魔法は解けた。金髪のヴァイオリニストは、まだ燕尾服を着てはいるけれど、その表情は普段着のミロと変わらない。
まだ舞台の上の演奏家を見上げる一人の観客、という立場から抜け切れていない私は、その突然の変わり身に驚き、あの大胆かつエレガントな演奏家が一瞬にして消えてしまった事を惜しくも感じた。
「どうだった?」
そんな事、滅多に尋ねた事などなかったのに、ミロはひどく心配そうに、私の顔を覗き込んでそう訊いた。
申し訳ないな、と思う。きっと、演奏している側からは、笑顔が欲しかっただろう。
このリハーサル・ホールの客席は完全には暗くならない。舞台の上から、私の表情も、動作も見えていたはずだ。
一向に顔を上げない私を見て、途中で、不安になっただろうか。それとも、そのような些事には惑わされず、自分の音楽にのみ集中する強さを身につけただろうか。
返事をしようにも、言葉が胸に詰まった。
素晴らしかった、美しかった、楽しかった───そんな言葉では、とても言い尽くせない。
ただひとつ、言葉に出来る事があるとしたら………。
まだ観客が完全には引けていない、と分かってはいたけれど、それを思うより先に、ミロの方へ両腕が勝手に伸びて、広い背中を腕の中に包み込んだ。
「───有り難う。……ヴァイオリンを、諦めないでいてくれて」
人に見えない角度で、ミロの耳元にキスを落とし、頬をミロの頬に合わせる。
狡いのかもしれない、それでも、今何か語れる言葉がそれ以外にあるとは、到底思えなかった。
どれほど心を砕いても、結局言葉は人の心を表現するには粗すぎて、大切なことは何一つ上手く伝えられない。だから、こんなにも音楽に惹かれるのだろう。
溜息が不覚にも僅かに震えたその瞬間、強い腕の力を背中に感じた。
午後はお互いに楽器を弾いて遊ぶつもりで押さえてあったホールの予約を結局キャンセルして、私達は寄り道もせずにミロのアパートに戻った。
小さな屋根裏部屋までの細い階段を上り、扉を閉めた瞬間に押し殺していたものが溢れ、殆どなし崩しに固く抱き締め合った。寝室は目と鼻の先だというのに、部屋の扉に押し付けられたままでお互いの衣服を剥ぎ取り、唇を合わせ、奥深くまで舌を絡め合った。
途中でミロが、無理矢理にも寝室へ移動させてくれなかったら、あのまま床の上で抱き合っていたかも知れない。
私はまだ体の内に音の余韻が響いていて、すぐにでも吐き出さねばおかしくなってしまいそうな有様だったし、ミロは明日の夜にはもう居ない私の事を考えていたのだろう。
どちらにも我を忘れる理由があり、その情動は幾度目かの頂点の果てに遂に私の意識が途切れるまで衰えることはなかった。
「次に会えるのは、お前が最終予選に残った時かな」
流石に体のあちこちが痛んで、起きる気にもなれずに、マットレスに転がったままそう呟くと、ミロが悲しそうに体を起こして私の顔を覗き込んだ。
「え……? クリスマスは?」
「クリスマスで浮かれている場合じゃないだろう? それは確かに、以前コンサートのゲスト依頼をしたけれど、あのときはお前がコンクールを狙っているなんて知らなかったから……。我侭を言って悪いことをした。こちらは何とでも出来るから、気にしなくていいよ」
「いや、気にする、とかじゃなくて……。俺だって、クリスマスくらい、好きな人と一緒に過ごしたいよ?」
長く関節のしっかりした左手の指が、すっと私の頬を撫でてから髪に触れた。
まるで、猫の毛か何かの感触を楽しんでいるみたいだな。
ふとおかしくなって、つい忍び笑いが漏れた。
こういうときのミロは、ほぼ本能に従って会話している。明日がどうなるかなんて、話しても無駄だというのは分かっているのだが……
「嘘つき」
と、ちょっと笑いながら言ってみた。ミロが、ぎょっとしたように目を見開く。
「えっ?? なんで?!」
「お前は、一度音楽に集中したら、私の事なんて考えないよ」
途端、ミロの表情が凍り付いた。即座に否定しないところをみると、一応、自覚はあるようだ。
ミロが誤解する前に、と、急いで続きを伝える。
「……そして、そうでなければ、演奏家としてはやっていけない。だから、そこで、お前が私に負い目を感じる事はないし、私も、それでいいと思っている」
ミロは唇を噛み、俯いた。そして、心底悔しそうに呟いた。
「……それは違う。いつもいつも、忙しいからってカミュの事考えていないわけじゃないんだ。でも、結局空回りで……何もできないまま、本当に何にも脇目を振れない状態に陥る。気がついたら、何ヶ月もまともに連絡すらしない状態で……。
でもそんなのは、もう二度とやらないって決めた。もう、本当に懲りたから」
だから、クリスマスにはきっと行くよ、と、縋るような眼差しで言われて、少し、落とされかけた。
会いたくないわけでは、勿論ない。
けれど……
今のミロが、この年齢でコンクールを狙う事がどれほど厳しい挑戦か、門外漢の私にだって分かる。
長期戦を支えてくれる家族が必要になることはあっても、気を遣い機嫌をとらなければならない恋人など、邪魔なだけだ。
勿論、ミロが私に、彼を支える事を許してくれるなら、私に出来る事なら何だってするだろうけれど………
それは、きっとミロの自尊心が許さないに違いない。
「ミロ、そんな事に気を遣う暇があったら、その分しっかり音楽に集中してくれ。……大丈夫、待つのには慣れてるし、もう、お前が何をやっているのか分かったから、気長に、結果を楽しみに待つよ」
こちらを覗き込んでいる頭を引き寄せて、鼻の頭にキスしたら、別の場所にキスを返された。まるで、これ以上何も言うな、と言わんばかりにキスに、二人共暫く黙ってしまった。
多分、離れているのがいけないのだろう。
もう少しそばに居れば、こんなに深刻に悩む事でもない。ミロの負担にならない程度に、食事の準備をしたり、仕事を手伝ったりする事も出来る。
私がミロの為に出来る事があるとしたら、今こそ、現在の仕事の拠点をこのイタリアに移動して来る事なのかも知れない。そう、感じた。
深く身も心も混じり合うようなキスに再び何も言えなくなって、それでもその先へ進む体力は既に尽きていて、互いに互いの体を弄り回して過ごした後、漸く規則正しい寝息がミロから聞こえて来たのを見計らって、そっとベッドを抜け出した。
窓から見える外の灯りがおぼろげに少し濡れた道を照らしている。また雨が振ったのだな、と、湿った空気を胸深くに吸い込む。
雨。
……学生時代、一番ミロと心ゆくまで奏でたかった、ブラームスの「雨の歌」。
今日、天の声を聞いた。
ヴァイオリンの音の形をしていたそれは、残酷なほど鮮やかに、揺るぎなく、まだ私の中に燻っていた未練を貫いた。
これからは、彼と共にブラームスを奏でるのは、その資格のある者だけなのだ。
お前などが、到底届く世界ではない。そう、その声は告げていた。
一番諦め切れなかった夢は、叶った。
それならば、もう一つの夢は、今日今ここで、封じ込めてしまおう。
もう、音楽に託してしか自分の気持ちを表せなかった、あの頃のような未熟な子供ではないのだから。