溜息

 人と人との関係は、難しい。
 けれど、その難しい関係が、それほどに難しくもなくしっくりと収まってしまうことがあって、そういう関係がきっと一生続く関係なのだろう、と思う。
 そう思うと、彼等の縁というのは、私とロスとの縁ほどには簡単ではないのかもしれない……。


 週末の公判の準備で、連日アイオロスの帰りが深夜を過ぎ、今日も夕食をどうしようかと考えていた夕刻のことだった。
 携帯電話のバイブレーションが鳴り、一通のメールが入った。
 開いてみると、カミュからで、黒いうさぎがカメラのレンズを見上げていた。
「ラディッシュ改めブラックベリです。よろしく」
 ブラックベリ、という命名に、少し笑みを誘われた。おそらく、「ウォーターシップダウンのウサギ達」からとった名前だろう。ヘイズルの率いる群れの仲で一番の知恵者だ。
 思わず、携帯をとり、電話をかけた。
「こんにちは、カミュ。写真、見たよ。もしよかったら、今日ちょっと帰りに彼の様子を見に行ってもいいかな? ロスは今日も帰りが遅いんだ」
 電話の向こうで、勿論、お待ちしています、と明るい声が返ってきた。
「まだ、プチが怖がるので、普段はお互いに見えないようにしているんです」
 この間訪れたときよりも随分と家具が減ってすっきりとした印象のある部屋の一角に、エクササイズ・パンを二つ並べたスペースを指差してカミュが言った。
「お見合いも、しばらくはしてはいけない、とGeorgeに言われて……」
「うん、ウサギは環境の変化にとてもストレスを感じる生き物だからね。1週間はとにかく静かにさせて、ここが安全であることを教えた方がいい。一週間したら、まずは仕切りをとってみて、また一週間様子見、という感じかな。とにかく、時間がかかるよ」
「そうですね。……でも、3月初めにはこのアパートを出てしまうので、それまでに慣れてくれないと困るのですが」
 少し苦みの混じった笑みがカミュの口元に浮かんだ。何となく、今日はカミュが話してくれそうな気がして、先日は躊躇った質問を口にしてみた。
「……もしかして、ロンドンを離れるのかい?」
 カミュが引っ越しをするらしい、というのは聞いていたけれど、今敢えてプチのパートナーを迎えたのは、もしかしたらそういう事が簡単に出来ない場所へ行くつもりなのか、と思ったからだ。
 けれど、カミュは笑って首を振った。
「いいえ。実家に戻るつもりです。……理由は、まだ言えませんが」
「そうか、ご実家に……それは、ご両親はきっとお喜びだろう」
「いえ、いい年をして結婚もせず、と家に戻る度に言われています。本当は僕も出来ることなら戻りたくないのですが……現状、それしか方法がないものですから」
 カミュは目を伏せがちにして、そう独り言のように呟いた。
 何故このアパートを出て実家に戻らなければならないのか、カミュが「理由はまだ言えない」と言った以上、今知る術はないだろう。そして、「まだ」ということは、いつかは話してくれるつもりなのに違いない。
 もっとも、理由はともかく、原因はミロとの仲違いに違いないのだろうけれど……。
「また、ミロから電話があったよ」
 そう言うと、カミュはまた苦い笑みを浮かべた。
「あいつは……何か困った事があるとすぐに先輩に頼ろうとして。……ご迷惑をかけてすみません」
「迷惑だなどとは欠片も思っていないよ。私で役に立つ事なら何でもしたいと思っている。……君がどうしても、ミロと話したくないというなら、私が伝言を引き受けてもいい」
 ミロにはなんとしてもカミュと話したい理由があり、カミュにはどうしても今話せない理由があるのだろう。それを暴くことは私には出来ないが、伝言板の真似事くらいなら出来る。
 真剣にカミュの顔を見詰め返してそういうと、カミュの切れ長の瞳が小さな溜息とともに伏せられた。
「……先輩は、アイオロス先輩のために、何処まで自分を犠牲に出来ますか?」
 カミュらしくない、重く沈んだ声にどきりとした。こんな声を、かつて一度だけ聞いたことがある──クィーンズベリに居た頃、私も、カミュも、先の見えない暗闇の底に居たときのことだ。
「──カミュ、」
 何かを言わなければ、と強く思って、それでも声が喉に引っかかった。私が言う事など、カミュは十分に分かっているはずだ。
「……犠牲、なんて……そんなものを要求する関係は、私達の間にはないし、君達の間にもないだろう?」
「……本当に? 先輩は、ご家族を捨てたでしょう? アイオロス先輩との生活を選ぶために……大切なご家族を悲しませて、弟さんにも苦労をかけて、そこまでの代償を払ったのに、アイオロス先輩が浮気をしてきて、去年はとても怒っておられた。アイオロス先輩はサガ先輩のことをとても大切に思っているでしょうが、一方で結構平気で浮気もする。サガ先輩が嫌だと言っているのに、女物の服を買って来たりする。自分の献身が報われないと思ったことは本当にないんですか?」
 カミュの眼差しはいつの間にか私の方をじっと見上げていて、その真剣さに気を飲まれる思いがした。
「……それは、勿論、不満に思うことはあるよ。どうして人が嫌だと言う事を好んでするのか、私には理解できないし、理解したくもない。でも、それで自分の思いが報われないと思ったことは、一度もないんだ。……彼が私に愛情を注いでくれていることは分かっているし、本当に側に居て欲しいときには、何も言わなくても必ず側に居て頼もしい味方になってくれる。……一番伝わって欲しいことは、必ず、ロスには伝わっている。そんな人は、他に何処にも居ないんだ。だから、ロスが側に居てくれるなら、多分私は何も犠牲だとは思わないと思う」
 本人が側に居たらとても口には出来ないような言葉が、カミュの真剣な眼差しの光に導かれるように溢れた。もう十年以上も一番近くに居て、お互いを見て来た。双子の弟でさえ、ロスとするように感応することはもはや出来ない。
 カミュは、ミロのことをそういう風には思えないのだろうか……。
 寂し気な苦笑で、カミュは「羨ましいですね」と呟いた。
「ミロが僕の事を想ってくれている事を、疑ったことはないんです。ロス先輩と違って浮気もしませんしね。……でも、ミロが一番愛しているのは僕じゃない。ヴァイオリンと、ヴァイオリンを弾ける自分自身だ。そして、彼が楽器を弾くのに、僕の存在は全く必要ない。
 演奏家なんて、みんなそんなものだと分かってる。そうでなければ、頂点は目指せない。……でも、そういう相手に、見返りを期待した愛情なんて注げないんです。ノー・リターンだと納得してしまえば、僕はあいつの為に何だってしてやれる。たまに会って、恋人気分を味わって……それでも、まったく別れてしまうよりはいい、そう思っていたのに、ミロは、それはまやかしだと言った。
 そんなまやかしなら、結婚どころか恋人である価値もない、と。
 まあ、あいつは正論しか言わない奴ですから、言ってる事は正しいんですが。
 でも、正論ならあと十年早く吐いて欲しかったですね。そのまやかしを壊さないために、僕は十年も、たまに音楽にかまけて全く連絡がとれなくなるあいつを待ち続けて、嫌な事も腹立たしい事も、全部飲み込んできたわけですから」
 カミュの家で夕食をご馳走になって、ウサギ達の待つ家へ帰るチューブの駅への道すがら、何となく一人で居たくなくて、ロスに電話した。ロスはまだ法律事務所で、丁度夕食に買って来たマクドナルドのハンバーガーを食べているところだ、と言った。
『で、どうした?』
 優しい声が受話器の向こうで聞こえた。ロスはこういう時、必ずこちらの気分を察してくれる。何も言わないのに、優しく、宥めるように訊いてくれる。
「いや……どうしているかな、と思って」
 急に、電話したのが気恥ずかしくなって、そう言い訳すると、ふーん、と人をからかうような相づちが返って来た。
『今、歩いてる途中だろ?』
「えっ……どうして分かった?」
『息が荒いから。夜道を一人で歩くのは危険だからな。そのまま電話しながら歩けよ。……で、どうしたの?』
 もう一度訊かれて、頬が熱くなったのを感じた。
 笑われるだろうな、と思いながら、息を深く吸った。
「……ロスには、私と同じくらい、愛情を注ぐものがある……?」
 一瞬、沈黙が落ちて、ふっと向こうで微笑した気配がした。
『何? 焼きもち? 可愛いなあ、エセルは』
「……いや、ごめん、馬鹿なことを訊いた」
『あるよ』
 きっぱりとした答えに、一瞬息を飲んだ。……あるに決まっている。ご両親だって、アイオリアだって……そして、このきき方ではミロの場合との比較にならないな、と思った。
『……将来の、俺達の娘。』
 甘い、それでもきっぱりとして揺るがないその声が聞こえた時、体中が指の先まで暖かくなったように感じた。
 ……成程……ミロには、多分こんな言葉は言えないのだろうな……。
 家に戻ると、ウサギのアイオロスとえせるがぴったりと体を寄り添わせて、まだ夕のまどろみの中にいた。
 カミュは、せめて、ウサギ達が寄り添う姿を見たくて、もう一匹ウサギを引き取ったのだろうか。
 私の目には、ミロがかならずしもカミュよりヴァイオリンを優先しているとは見えないのだけれど……(そうとられても仕方がない出来事は多々あったけれど……。)
 こればかりは、本人の主観だから、第三者にはどうしようもないか……(溜息)
 

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