新しい指導者

うわ、蒸してる。
ユーリ・ナジェインがローマ郊外のフィウミチーノ空港に降り立ったとき、肺に温水を突っ込まれるような湿度が襲ってきた。ローマに限らず、西欧の夏は一般に湿度が低く過ごしやすいと思われているが、ここ数年、温暖化の影響か、夏は特に海岸地区で湿度が上がる一方だ。午後はともかく、午前中がひどい。
快適だったパリの爽やかな夏を思い返し、ユーリはまたちっ、と小さく舌を鳴らした。
こんなところ、来たくなかった。
スーツケースの取っ手をひき、空港の外に出れば、バスが四台も連なって止まっている。このうちのいずれかに乗れば、30分ほどで借家の近くまで行ける。しかし、行き先の地名を見てもどれが正しいバスか分からない。
空港のインフォメーションで、片言のイタリア語を駆使して案内を貰った後、チケットを買って一番先頭に止まっていたバスに乗り込む。だが、15分経っても出発しない。運転手は何やら新聞のようなものを熱心に読んでいる。もう発車時刻はとうに過ぎているはずだ。しかし、乗客はおしゃべりに夢中で誰も文句を言わない。
こんなのに付き合っていられるか。
バスチケットは諦めてキャブを使おうと立ち上がった途端、ぶるん、と音がして、バスのエンジンがかかった。よろめいて再び座席に腰掛けると、バスはロータリーをゆっくりと動き出した。
ようやく出発か、と少し腹の虫を収めてみれば、たった10メートル進むごとに停止の大渋滞。
それもその筈だ。道は違法駐車で溢れ、三車線あるはずの道路で車が流れているのは一車線しかない。しかも、その違法駐車の隙間を縫って、歩行者がところ構わず道路横断してくる。
これでは、30分どころか、1時間経っても新居には辿り着けないに違いない。
あー、やだやだ。これだから南の人間は。
もう、パリに戻ってしまおうか。
今ならバスをおりて、空港まで歩いたって知れている。そのまま今日の午後のパリ行きの便を予約すれば、この不快な都市を離れてあのモンマルトルの家に戻れる。
9割方決まった心を押しとどめたのは、一瞬記憶に蘇った微笑だった。
この上なく綺麗に笑って、若い男と腕を組んで去って行った、あの小悪魔の後ろ姿。
はっと気がつくと、バスはようやく大通りに出て順調に走っており、”Fermata”と書かれた電光掲示板に、見覚えのある地名が表示されていた。


ユーリ・ドミトリエヴィチ・ナジェインは、モスクワ生まれ、モスクワ育ちのピアニストだった。
チャイコフスキー国際コンクール第3位、ロン・ティボー国際音楽コンクール2位の賞歴を持つ。
モスクワ音楽院を出た後、西の都会に憧れてパリ国立高等音楽院に進学。卒業と同時にロン・ティボーで2位をとり、フランスで演奏活動を開始。以来、故国の土を踏んだことは一度もない。
ローマは、パリより田舎には絶対行かない、と固く決心していたユーリが唯一妥協出来た転居先だったが、到着からこちら数日で一ヶ月分くらいの面白くない出来事を詰め込まれて、気分は滅茶苦茶にささくれ立っていた。
新しい勤務先、聖チェチリア音楽院の練習室の中を窓の外から物色しながら、最早母国語より肌に馴染んだフランス語でぶつくさと悪態をつく。
そもそも、僕は、浅黒い肌は好みじゃないんだ。
友達は「ローマには小さくて可愛い子がいっぱいいるよ!」なんて言っていたけど、僕の好みはやっぱり白い肌、透けるようなブロンドだし。
練習室の中で必死に楽譜を睨んでいる学生達にブロンドは一人もおらず、諦めて空いた一部屋の扉を開け、中を物色してみる。古ぼけたYAMAHAが一台座っていた。
なんだかな。
どうせまともな音なんて出ないだろう。そう思って叩いたキィは、意外に澄んだ音を叩き出して、思わずちょっとマジになって弾いた。

ユーリの音楽院での最初の仕事は、夏期講習で学生の面倒をみることだった。
表向き、赴任は9月からということになっているので、夏はゲスト講師扱いで待遇も悪くない。
ただ、直前に決まった話だったため、宣伝の時間がなく、外部からの参加は皆無。参加者は全て音楽院所属の学生ということだった。
講習初日、自己紹介を兼ねてラフマニノフの前奏曲とショパンのポロネーズを演奏する。留学生の割合がかなり多いと思われる顔ぶれの中、食い入るようにユーリを見つめていた一人の学生の姿が目に入った。
茶色の髪に、かなり目立つ赤のメッシュを入れている。カミュ・バーロウという名前からして、おそらくフランスからの留学生だろう。年齢は30で、しかもまだ学部の一年生が終わったばかり。フランスの国立音楽院では、年齢制限で入学さえ許してもらえないから、こうして(表向き)年齢制限のないイタリアの音楽院なぞに在籍しているのだろう。
着ているものはシックだがどう見ても……な外見だし、とりあえず名のある音楽院を出て、クロスオーバーでポップスとクラシックの境界をやりたい、という手合いかもしれない。
で、どうせ、新顔講師にこういう面倒な学生を押し付けられるんだよな。
ユーリは溜息をかみ殺し、「それじゃ、番号一番の人から、課題曲を弾いて下さい」と営業用の笑顔を学生に向けた。

初日は、参加者全員にホールに集まってもらい、レッスンに入る前に課題曲のショパンのスケルツォを全員一度ずつ弾いてもらうことになっている。最終日の演奏と比較するためだ。他に、学生は10分程度の自由曲を一曲用意しなくてはならない。
バカみたいに速い演奏やら、力押しで荒い演奏、ミスタッチだらけで明らかに準備が足りない演奏、よりどりみどりの疲れる演奏にほとほと辟易したころ、最後の一人がやたら軽いタッチでサラリと演奏した。迫力はないが、時々、どきっとするような洒落た音を出す。あの派手な頭のカミュ・バーロウだった。
えーと、この感じは、プレトニョフ? っていうか、ジャック・ルーシェ??
流石に12人も同じ曲を弾けば参加者も飽きた頃だったが、毛色の違った演奏に皆少々目を見張っていた。
当人は、至って涼しい顔で、思わず絶句したユーリを見上げている。
おや、目も赤茶色か。
しかも、ちゃんと見たら、かなりハンサムというか、切れ長の目と意思の強そうな眉、通った鼻筋で印象的な顔をしている。これは、メディアに出れば結構当たるかも知れない。
「……君、バンドで弾いてたの?」
「……いえ、そういうことはありませんが……」
「ジャック・ルーシェの匂いがした。懐かしかったよ」
年齢がいっているのが惜しいな、とユーリはちらっと思った。もっと早くに専門教育を始めていれば、そこそこのピアニストになれたかもしれないのに。
もっとも、「この程度」のセンスの持ち主なら、世界の音楽院にごまんと居る。早く始めたからといって、誰でもそれで食っていけるほど、演奏家の世界は甘くない。
「じゃ、レッスンは午後1時半から、今日だけ変則で3人ずつ来て下さい。時間割は配った紙の通り。明日からは一人ずつ、持ち時間60分で見ます」
そう通知して、さて、昼食に出かけるか、と振り返ると、舞台を降りたカミュ・バーロウが不安げにユーリを見上げていた。
「すみません、少しお話があるのですが……」
来たな、進路相談。
お話、って言われてもね。まだレッスンもしてないのに、「僕は演奏家になれるでしょうか」とか言われても困るよ。
「何? 食事の時間が短いから、手短に」
ややつっけんどんにそう返すと、カミュはきまり悪げに、ちらと目を逸らして言った。
「すみません。先刻、バンドでは弾いていない、と言いましたが、実は、一年に一度だけ、パブリック・スクールの仲間とジャック・ルーシェのコピーバンドをやっていました。殆ど遊びの範囲で、僕自身もうっかり忘れていて……嘘をつくつもりはなかったのですが」
 ゆっくり言葉を選びつつ、それでも完璧に正しい文法でそう言った几帳面さに、ユーリは苦笑した。どうやら、第一印象を裏切る、かなり真面目な性格の持ち主らしい。
「君、フランス語は喋れる?」
 カミュは少し目を見開き、それから即座に「Oui」と頷いた。
「良かった。じゃ君とはフランス語で会話しよう。お互い、その方がやりやすいだろう?」
「先生がよろしければ、僕はその方が有難いです」
「ああ、これで大分楽になったよ。一日中不自由なイタリア語だと疲れてね。君、ジャック・ルーシェ好きなの?」
「はい。あの透明な音が。和音も綺麗ですし」
「じゃあ、プレトニョフは?」
「音は好きです。……演奏は、スカルラッティあたりは結構好きですが、ロマン派の曲になるとちょっと納得出来ない演奏もあります」
ふーん、とユーリは呟いた。先刻聞いたピアノで分かる。カミュ・バーロウは、相当に耳がいい。だから、ピアノ科にありがちな力押しのフォルテを絶対弾かないし、和音も綺麗に響かせるし、音を濁らせるペダリングもしない。しかしその分、いつも力をセーブして弾く癖がついている。
「……食事、一緒にどう? 僕、まだローマに来たばっかりで、いいランチの場所とか分からないんだよね」
ちょっと興味を惹かれてそう誘ってみたら、カミュは困ったように俯いた。
「……すみません、僕も昼食は大抵持参するので、よく知らないのですが……」
「なんだ、使えないなあ」
「バゲットの美味しい店なら知っていますが……近くに総菜屋もありますけど」
「じゃあ、そこでいいや。案内してよ」
バゲットと買い足した総菜で手製サンドウィッチを作って簡単な昼食を済ませた頃には、ユーリのカミュに対する印象は初対面の頃から大きく変わっていた。
まず、フランス語で喋れるのがいい。音楽以外の知識も豊富で、話題に飽きない。そして何より、カミュ・バーロウには洗練された都会人の空気がある。会話も、ファッションも、ちょっとした仕草なんかもだ。以前の仕事で、アッパーミドルクラス以上の得意先も多かったようだから、そのころに身につけたものかも知れない。
これで、あとせめて5歳若かったら、ストライクゾーンなんだがなあ。金髪じゃなくても。
カフェオレをすすりながら、ユーリはカミュの横顔をじっと見た。
色が白くて、唇が紅をひいたように赤い。睫毛は長いし、髭はかなり薄い方で、肌理も細かい。
けれど、なんとしても、年齢がいきすぎている……。
ユーリの「恋人」は、これまで、最高でも25才を超えたことはない。
ユーリは女性に全く興味を示さない真性のゲイだったが、まだ完全に大人になりきっていない青年、所謂twinkが好みのゲイだった。カミュは年齢の割に若い顔をしているが、やはり年相応の落ち着きが表情に出てしまっていて、それが今ひとつユーリの心に火を灯さないのだ。
まあ、それでも、受講生の中では見所がありそうだし、レッスン中に眺める分には十分観賞に耐えるからいいか。
くちた腹の底で教育者にあるまじき算段をする間に、カミュはさっさとユーリの出したゴミを片付け、引き払う準備を始めていた。
「それじゃ、僕は練習するのでこれで失礼します。午後からよろしくお願いします。」
「ああ、うん、楽しみにしているよ」
親しくなった講師にいつまでも付きまとわない礼儀もちゃんと弁えているのは、カミュがフランス人だからだろう、とユーリは勝手に合点した。これがイタリア人だったら、時間ギリギリまで付きまとって、いつの間にか肩も組んだりして(まあ、それは結構歓迎だけど)どうでもいいお喋りをいつまでも続けているに違いない。

カミュ・バーロウがフランス人ではなく、生まれも育ちもイギリスの英国籍の人間だと知ったのは、それから実に二ヶ月も過ぎた後のことだった。そのころには、カミュは指導教官の転属願いを提出し、ユーリが受け持つ四人の学生の一人に収まっていた。
以前の指導教官は、ユーリも名前を知っている有名な教師アニタ・バルトリだったが、カミュには次から次へと課題を出すだけでほとんど何も教えなかったらしい。残り二人の学生のうち一人が期待の星サミュエル・リンであることを思えば、まあありがちな話だ。
カミュはその事に内心かなりの不満を抱いていたようだが、実際、あのオバサンには手の出しようがなかったんだろうな、とユーリは思っていた。教師なら誰でも教えられるわけではない。自分が弄ったら、もともと本人が持っていた良いものも潰れる、そういう相性もある。
自分のスタイルをゴリ押しせず、自分が潰す相手か生かせる相手かを見極められる、そういう意味で、アニタは確かにへぼ教師ではないし、こんなに年かさのいった学生の入学を認めてチャンスを与えるくらいだから、耳はいいのだろう。
「とにかくさ、君はもう少し限界まで攻めることも覚えないと。まあ、無闇に力押しするよりはいいんだけど、今はセーブしすぎ、楽し過ぎ。フォルテも8割でやめとけば、音が濁らないのは当たり前。10割、13割で弾いても、魅力的な音が出せるようにしなくちゃ。も一回弾いてみて」
勘は悪くないし、指導すればすぐに直して弾くだけの器用さもあるのに、どうしても迫力のある音が出せないカミュに、ユーリはついに鉛筆を投げ出して天を仰いだ。
「一体君達イギリス紳士は、この世の終わりまで大声を上げちゃいけないって決まりでもあるのかい?!」
「……すみません……」
「謝るくらいなら、今すぐやってよ! もう一回、最初から!」
カミュは、ピアニストとしては肩が弱い。鍛えないと使えない部分はかなりあって、そのせいで芯のあるフォルテが出せないのも分かっている。しかし、それ以前に、カミュには強い音を出すことに反射に近い躊躇いがあるようだった。
「……あのさ、君、もしかして、子供の頃ピアノ練習したら煩いって言われた?」
レッスン時間終了間際までピアノと格闘しても、まだ合格点がもらえずに息を乱しているカミュに、ユーリは呆れを通り越して半ば関心しながらそう尋ねた。
「いえ、そんなことはありませんが……昔から、あまり強くは弾かない方だったので」
「じゃあ、誰かに、その茹ですぎたマカロニみたいな音を綺麗だって褒められた?」
さっとカミュの表情に緊張が走った。ユーリはほくそ笑んだ。ああ、つまり、自分の音に相当自信を持っていたわけね。だけど、どんなに綺麗な真珠のタッチでも、一曲まるまるそれじゃあ聴く方は飽きるんだよ。
「……褒められたわけではないですが………」
カミュは苦しげにそれだけ押し出して黙り込んだ。
つまり、褒めたわけではないが、イージーミュージックのような穏やかな音楽ばかりを好む聴衆がカミュの身近にいた、ということだ。家に老人や病人がいるとか、本当のピアノの音を知らない恋人が自分の好みで適当なことを言ったとか、素人の余計な口出しが害になっている実例はいくらでもある。
……いかん。あまり楽しそうにしては迫力にかけるじゃないか。
つい口角が上がるのを抑えきれず、ユーリは己を叱咤した。
大体、音楽院の学生なんて、多かれ少なかれ自分にしかない美点があると信じて、とてつもなく傲慢なプライドを皮膚の下に隠しているものだ。
それを暴いて、その未熟な思い込みを粉々に打ち砕き、自分の手の元に飼いならす瞬間ほど楽しいものはない。演奏活動より指導に重点をかけているのも、全てはその楽しみのためだ。
こんなに虐め甲斐がありそうな生徒は久しぶりだ、と思っていたら、カミュが何やら決意したように、顔を上げて言った。
「……原因は、分かっています。そして、すぐに解決すると思います」と。
ピンときた。これは、絶対恋人絡みだ。
「分かってるんだったら、教えてよ」
「……それは……プライベートな問題なので……」
「あのさ、こんな出遅れて、指導教官相手にプライベートとか言ってる余裕あるわけ? そういう口答えは、せめてショパンのエチュード全曲軽く流せるくらいになってからにしなよ」
カミュは息を詰めて全身でユーリの圧力に抗っていたが、やがてふっと力を抜くと、渋々語り始めた。
「……同居人です。パブリックスクール時代からの友人で……優秀なヴァイオリニストで、音に対してとても鋭い耳を持っているし、僕も彼の耳は信用しています。言い訳するつもりはありませんが、彼が不快に思うような音は出せない、といつもどこかで思っていて……それが癖になっていたのかもしれません。今まで気づかなかったけれど」
「してるじゃん、言い訳」
「だから、今まで気づかなかった、と……!」
「どうでもいいけど、君、結構言い訳多いよね。初対面のときも、嘘つくつもりはなかったとかどうとか」
「…………」
カミュはぎっと歯を食いしばり、それからやや険を込めた視線でユーリを見た。
「色々言いたい事がおありのようですが、続き、聞く気ありますか?」
「どうぞ? 続けて?」
「……それで、すぐに解決する、と言ったのは、僕はもうあの家を出るつもりで、現在ルームメイトを探している最中だからです。条件に合う部屋がみつかり次第引っ越しますから、問題はじきに解決すると思います」
「条件って?」
「ピアノ可、音楽院までの交通機関が整備されていること、家賃は月800ユーロまで、あとウサギ可」
「ウサギ?!」
「イギリスから連れて来たウサギがいるんです。2匹。飼い始めた時は、音楽院に入ることなんて全く考えていなかったので。それだけ満たされれば、あとは何も注文はありません」
ユーリは、改めてカミュの全身を頭の天辺からつま先まで眺め回した。
……同居人は、こっちで可愛い子を見つけてその子と楽しく、と思っていたけど。
案外、この弄り甲斐がありそうな学生を住まわせて、朝から晩まで一挙一動虐め倒すのも面白そうだ、と思ったのだ。
まあ、同居して時間外レッスンをつけたとしても、このカミュ・バーロウが一人前の演奏家になれるかどうかは分からないが。
「……その条件なら、うちに一部屋空いてるけど、どう?」
ユーリの声が湿りを帯びた。カミュ・バーロウは、その声に潜むひそやかな危険には気づかなかったのに違いない。はっと打たれたように目を見開き、その瞬間に彼が綺麗に感情を覆い隠していた平常の仮面が剥がれ落ちた。
まるで、獲物を見つけた獣の瞳だった。────ついに、見つけた。
決して逃してはならない、這い上がるための一本の道。
その奥に、僅かな希望が揺らめいていた。
「是非、お願いします!」
「即答だね。……本当か、とは聞かないんだ?」
「嘘なんですか?」
一瞬、ユーリはカミュの強い視線に圧倒された。今更、嘘だとは言わせない。嘘だったとしても、撤回させてみせる、そんな迫力があった。
「嘘じゃないよ。僕もルームメイト募集中。……音楽関係者を家に入れるつもりは今までなかったけどね。こっちからの条件は、家事、食費、水道光熱費は全て折半。ピアノは時間を決めて交代で使う。まあ、僕は音楽院の講師室のピアノが使えるから、君に優先権をあげてもいい。あと、恋人を連れてくる場合は自分のベッドルームで全部済ませること。お互いの趣味には干渉しないこと。君、宗教は?」
「とくに信奉するものはありませんが……」
「結構。じゃ、今日授業が終わったら一度部屋を見においで。今日はこれで終わり。課題は今日言ったことを出来るようにしておくこと。質問は?」
「ありません」
「じゃ、僕から一つ質問」
カミュがびっくりしたように目を見開いた。ユーリは多少意地の悪い笑みを浮かべた。
「その同居人のヴァイオリニスト、業績は?」
「業績?」
「リサイタルをどれだけやってるかとか、CD何枚出してるかとか、コンクールの入賞歴とかだよ」
「……ほとんど四重奏団で活動しているので……チャリティで呼ばれる以外、リサイタルはやってませんが、協奏曲のソリストに呼ばれたことは何度かあります。コンクールは、昨年のパガニーニ国際で2位。ジュニアのころにイギリスで1位をとったことがありますが」
「何、同居人って年下なの? それなのに遠慮して大きな音が出せない?」
「同い年です。パブリックスクールで同級生でした。二年前、28歳のときに聖チェチリアのマスターコース卒業。それ以前は腕を壊していたので、殆ど賞歴なし」
カミュの赤茶色の瞳に、深い影が見えた。ユーリは僅かに眉を顰めた。
「……ヴァイオリンで、29歳入賞?」
「しかも、音楽院に通いながら、ローマで建築設計士をしていました。コンクールも、年齢制限のためジュニアを合わせても4つほどしか受けていないと思います。もう少し若い年齢で復帰できていたら、さっさとエリザベート王妃あたりで1位をとっていたと思いますが」
何それ。天才かよ。
モスクワ音楽院時代のピアノ科首席の顔が浮かんだ。何を思ったか、人生経験を積みたいと突然音楽院を離れて大学に行き、戻ってきたら、いきなりチャイコフスキーコンクールで一位をとった。
いるんだよね、そーいう、神様に貰った素材が違う、って奴。
ユーリは面白くなさそうに鼻をならすと、もう興味はない、というようにカミュを手で追い払う仕草をして言った。
「なんにせよ、ヴァイオリニストにピアノのことは分からないから。あんまり、ルームメイトの言葉に惑わされないようにね」

その夜、ユーリはパリから持って来た写真立ての中から一枚の写真を抜き取り、細かく引き裂いて屑籠に捨てた。
カミュ・バーロウは、これをチャンスだと考えている。一年間無視され続けた末に、指導教官から同居の話を持ちかけられた。常識的に考えれば、内弟子をとることに等しい。つまり、教官が自ら、生徒を見込みがあると認めたことになる。
まあ、それは、当然の思考だろう、とユーリは思う。いくら自分でも、まったくつまらない音楽しかやれない弟子を同じ家に住まわせるつもりはないから、カミュの期待は完全に的外れでもない。
でも、ユーリにしてみれば、これは半分は浮気を繰り返し、自分を散々振り回した恋人へのあてつけだった。
カミュと仲良く食事している写真をとって、もうお前なんかに未練はない、って絶縁状を叩き付けてやる。
家の中ではフランス語で喋れるし、まあ、会話もそこそこ面白いし。
興が乗ったら、特別に時間外レッスンしてやるのも、やぶさかではない。──でも、
──僕と暮らすのは、結構大変だよ。
ユーリは薄く笑い、窓辺に揺れている蝋燭の光を吹き消した。

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