これまで、どれだけこの不条理に耐えて来たか、数え直すのも苛立たしいが……!
流石に、今度という今度は!!!
話は、四日前に遡る。
プチは初産にしては順調に子育てをしている様子だった。あまり母ウサギを刺激してはいけないので、巣の中を覗かないようにしていたのだが、万が一お乳が吸えなくて弱っている子がいたら大変だと思い、プチをケージの外に出し、その間に巣箱を開けた。
子ウサギたちはまだ目も開かず、耳の穴も開いていない。それでも、巣箱が開けられたのを関知したらしく、小さな鳴き声を上げた。
その時だ。
なんと、部屋の隅に、アイオロスが出張から帰ったまま置いてあったトランクの陰から、驚くほど大きな鳴き声が聞こえてきた。
「ネズミ?!」
咄嗟に、私はそう思った。ロスが、トランクにネズミが潜り込んでいるのを知らずに持ち帰ってしまったのではないかと。
ところが、そのすぐ後に、更に二度、必死に鳴く声が聞こえ、トランクの中ではなく、その奥の壁の隙間だと気付いた。
慌ててトランクをとりのけ、隙間を覗いてみると、なんと、黒い子ウサギが、その隅に蹲っていた……。
実は、ウサギには、こういうことがたまにあるのだ。
授乳に馴れていない母ウサギは、子ウサギがまだ乳を吸っているのに、小屋を飛び出してしまう事がある。すると、子ウサギは母親の乳に吸い付いたまま巣の外に出され、自分で巣に戻る事が出来ずに、暖かい場所を探して這い回るのだ。
プチのケージは、犬用のエクササイズ・パンを囲っただけのものだから、生後三日の子ウサギでは簡単に隙間をすり抜けてしまう。そのことに思い至らなかったのは、明らかに失敗だった。
生後三日では、まだ毛も殆ど生えていない。すぐに人が気付いて巣に戻してやらねば、一日と待たず凍え死んでしまう。
慌てて手の上に救い上げると、何時からそこに居たのか、子ウサギは、これでどうやってあの大きな声が出せたのかと驚くほど既に冷たく凍え切っていた。
恐らく兄弟の声を聴いて巣に母ウサギが戻ったと勘違いし、最後の力を振り絞って、母ウサギの注意を引こうと必死に鳴いたのだろう。
手の上に救い上げた子ウサギは、必死に動こうとするものの、既に弱り始め、動きも緩慢だった。
「ロス! プチを掴まえてくれ! 強制授乳する!」
最早、一刻の猶予もならなかった。生後三日の子ウサギを人間の手で育てるのは不可能だ。皮に少し皺が寄っている。朝の授乳を受けていないかも知れない。
アイオロスがプチを掴まえて仰向けに保定し、その上に子ウサギを乗せた。子ウサギは、生後二日で吸引反射(唇に触れたものに吸い付く反射)を失う。胸のあたりの乳首を探し、子ウサギの口元を押し付けるが、なかなか吸い付かない。
もう、乳を吸う力がないか。
焦りが、胃を締め付けた。もう少し早くに、気付いていれば……!
いやいやと首を振るのを、顎をつまんで乳首に何度も押し付ける。プチは、一番嫌いな姿勢で身動きの出来ない状態にされて、目を剥いている。
この状態で、乳が出るのか。
祈るような気持ちで、乳首の場所を変え、何度も試す。子ウサギは、乳を吸うことより、暖かい母ウサギの体温に寄り添って暖をとることに気をとられている。
プチにもう少し耐えてくれ、と祈りながら、幾度目か、唇の間に乳首をおしつけたとき、漸く、子ウサギが喉を動かすのを感じた。何かを嚥下しているような動きだ。
が、ほんの二十秒ほどで、再び腹の暖かい部分に蹲ってしまった。
少しでも飲んでくれていれば、このまま巣に戻せば明日には元気を取り戻すかも知れない。
ロスは、とにかく巣に戻して兄弟に暖めさせ、様子をみよう、と言った。
あんな大きな声を出せたのだから、まだ生命力はある、と。
力強いロスの言葉に、私はほっとした。
やはり、アイオロスが帰って来てくれてよかった、と。
子ウサギを巣に戻し、潰れていた毛を膨らませて上にかけなおしてやって、プチを小屋に戻した。
幸いなことに、プチは、小屋に戻されてすぐに産小屋に入り、翌日には、その小さな子ウサギも元気を取り戻していた。
そんなわけで、なんとか小さな命を失わずに済んだのだが。
ロスが置きっぱなしにしていたトランクが気になって、私は、トランクを元の場所に仕舞ってくれ、とアイオロスに頼んだ。
あれがなければ、もっと早くに、子ウサギが隠れていることに気付いたかも知れない。
(もっとも、トランクがなければ、別の物陰に隠れていたかもしれないのだが)
アイオロスは、特に文句も言わず、トランクを寝室に運び込んだ。
一週間が平和に過ぎ、穏やかな週末になる、はずだった。
そして昨日。
寝室の掃除をしていて、トランクが邪魔になった。トランクを退けようと持ち上げたら、チャックが空いていて、中から歯ブラシが転がり落ちてきた。
中身をまだもとの位置に仕舞っていないのか。
洗濯物は戻って来た日に受け取ったから、それ以外の洗面用具などが入りっぱなしなのかも知れない。
そう思って、掃除を中断し、トランクを開けたら……!
「……? これは………」
durex confort XL の12個入りパッケージ…………。
箱はあいている。逆さにして振ると、ころん、と、最後のひとつが滑り落ちて来た。
……………。
十二個入りのパッケージが、十一個使用済み、というわけだ。
勿論、そんなものを旅行用に持たせた覚えはない。
ふつふつと、怒りが湧いて来た。
つい三日前に、ロスが居てくれてよかったと思ったばかりなのに!
どうしてこうも、彼は人の神経を逆なでするような事をするのだろう?
何度か、電話をしてもすぐに留守録になってしまったことがあった。とても忙しいのだろう、邪魔をしてはいけない、と思っていたのに。
忙しかったのは、何処かの誰かと、せっせと夜を楽しんでいたからだ、というわけか?
その場で、トランクの中身を放り出し、自分の服を詰め、左手にトランク、最後の一個を右手につまんで寝室を出た。
「アイオロス?」
「ん? なんだ?」
「ちょっと、訊ねたい事があるのだけれど?」
にっこり笑って、右手を突き出した。
「これは、一体、どういうことかな?」
アイオロスは、まじまじと私の手元をみつめ、それからにっこりと笑い返した。
「それは勿論、お前用に決まっているだろう? なにしろ、最後の1つだからな♪」
「そうだな、十二人目を切らなかったのは賢明な判断だ。けれど、十一人も切ってきておいて、まだ私と関係を持とうとは、あまり賢明とはいえないね、アイオロス?」
「それは二つ目だから、十一人じゃないぞ? それに、一晩で一つとは限らないし」
「それは結構。慎重に重ね付けをして、子供を作らないようにしたのは褒めてあげるけれど、だからといって、私に君の春の病に付き合う義理はないね。それとも君も、ロスと一緒に去勢手術でもするかい?」
そうして、私はテーブルのボールペンをとり、ゴムの中央に思い切り突き刺して、ゴミ箱に捨てた。
「それ、ロスが食べると大変だから、ゴミ箱漁らせないようにね」
「? お前、どこへ行くんだ?」
「勿論、その病気が治るまで避難するのに決まっているだろう? 女の子と遊んで君が病気になるのは勝手だけれど、家に連れ込まないように。ウサギ達の情操に悪い」
「は?! 俺は病気になるようなへまはしないぞ!」
「心配しなくても、今の君は頭も下半身も十分春の病だよ」
じゃ、と手を振って、家を出た。
車をとばして、バーミンガムへ。
アイオロスが長期間我慢できない性質なのは最初から知っているが………
なにも、大事な公判中に、殺人的なスケジュールを縫ってまで、女の子と遊ばなくたっていいだろう?!
今週は忙しくて、ウサギの事も気になって、結局夜はすぐに寝てしまっていた。アイオロスに申し訳ないかな、とも思ったけれど、こうなってみると、それで正解だ。
女性の感触が肌に残っている間に交渉を持つなんて、とんでもない!!
……とはいえ。
さすがにそんな理由で、カノンに暫く居候させてくれとも言えない。それでも、折角ここまで来てしまったのだから、顔くらい見て帰ろうか、と思ったら、カノンのアパートから明るい笑い声が聞こえてきた。
一人じゃない。もう一人は、多分女性だ。
はっとして家の横の道を見ると、赤い車が一台停まっている。
……土曜の夜だ。カノンにだって彼女もいるのに、考えなかった方が迂闊だった……。
結局、バーミンガムから直接Oxfordへ来て、行くあてもないので、そのまま研究室へ。
さて、これからどうしよう、と思案していると、休みだというのに教授がやってきた。
この、学生時代には指導教官だった教授とは、どういうわけか、こういう遭遇が多い……。
「いや、たまたま、書類をとりに来たのだが……こんな遅くに、君の部屋のあかりがついていたので驚いたよ。仕事かい?」
「ええ、……まあ、そんなところです」
「仕事熱心なのは、君の性格だろうが……でも、休日はちゃんと休みなさい。ただでさえ、長距離通勤で疲れが溜まっているのだからね。……おや、そのトランクは?」
教授が部屋の隅に置かれたトランクに気付き、私は、しまった、と思った。
事情を知れば、教授は、間違いなく宿を提供してくれるだろう。それこそ、望めばいつまででも。
……それは、流石に問題だ。
「ええ、ちょっと、弟の家に行った帰りだったので……」
「ああ、たしかバーミンガムにいるのだったね。それでは、随分と長旅だったろう。食事は?」
「あ……いえ、その、あまり空腹ではないので……」
煮え切らない私の返事に、教授は苦笑した。それで、見るともなく見ていた私の資料のページを、ぱたん、と閉じた。
「君らしくもなく、疲れた顔をしているじゃないか。ちゃんと食事をとって、少し休みなさい。その顔では、資料を読んでも頭に入っていないだろう。年長者の言う事は、素直に聞くものだよ」
流石にそう言われては反論もできなくて、結局教授の家で夕食をご馳走になり、流石に長距離ドライブの疲れがでて、一晩の宿を貸してもらうことになってしまった。
途中、何度か携帯のバイブレーションが作動したが、取らずに切って、しまいには電源も切った。
アイオロスのことだから、私の行ける場所などとうに見当をつけて、確認してまわっていることだろう。カノンの家にもカミュの家にも居ないとなれば、残る場所が何処かくらいは承知だろうが……
少しくらい、心配してつまらない思いをすれば良いのだ。
第一、アイオロスの危険さに比べれば、教授はよほど紳士だというのに、ロスが教授を下心があるなどと非難するのはお門違いというものだろう。
とはいえ、長期間世話になればレンタカーででも乗り込んで教授に迷惑をかけかねないので、教授の家は今朝辞して、今はオックスフォード郊外をドライブしている。
着替えもあるし、今晩は何処かホテルに泊まってゆっくりしようか。
明日は出勤に時間もかからなくて、一石二鳥だ。
……とはいっても………。
火曜日にはロスの去勢手術があるし、子ウサギの事も心配だ。
ロスも、三日ぐらいなら真面目に面倒を見るだろうが、それ以上となると、飽きていい加減な事をしかねない。
今日くらい遊び歩くとしても、明日か明後日には、ロンドンに戻らざるを得ないだろう。
……………。
結局、私が折れるしかないのか??
絶対に、不条理だ!!!