隙間に台風

先月、飼い兎の一匹に避妊手術を試みてから、アイオロス・エインズワースとサガ・チェトウィンドの生活は大きな変更を余儀なくされた。


手術を受けたうさぎは2005年8月16日生まれの、おそらくダッチとのミックスだと思われる白い前掛けのあるエセルという雌うさぎとドワーフのアイオロスというこげ茶色の兎から生まれた全身灰色の雌だった。
最初の手術の後、3日ほどは順調だと思われた快復が、何故か次第に食欲の減退、糞の量・形などの減少、異常などといった形で現れ、一週間を過ぎた頃には排尿がなんらかの形で困難になっている症状がみうけられるようになった。
その後、結果的に約一ヵ月後に再手術を行う運びとなった。
手術は予想外の内臓器官の状態に、五時間を越える大手術となった。
ケアは、自力での排尿が行えないうさぎの為に、ピーク時には一日に二度の通院を始めとし、一ヶ月以上の長期に渡って、強制給餌と針の無い注射器での水分補給を、毎日3〜4時間毎に行うというものだった。
見捨てるか、やるだけの事をやってみるか、アイオロスの決断は早かった。普段それ程動物愛護に熱があるようにも見えない男だが、安易な結果を選択する事を良しとしない性分があった。
彼は、早速自分とパートナーのスケジュールを調整した。
丁度長期夏期休暇に大学が入っているサガが、出勤の時間を午後からにずらし、アイオロスは仕事の比重を午前、または午後の早い時間に集中するよう組みなおした。
夕刻、早々に帰宅するアイオロスがまずは給餌と給水を済ませ、深夜まで仮眠を取る。
夜に帰宅するサガが深夜まで兎をケアし、夜中の二時、三時にお互いのシフトを交換する。
互いに睡眠不足と戦いながらの看護だったが、ちいさな動物もその甲斐あってか、二度目の手術後には順調な快復を見せ、10日目にはほぼ全快の様子を二人にうかがわせた。
これでやっと安心して纏まった睡眠が取れる……。
サガ・チェトウィンドは心から安堵し、その日はゆっくりと風呂に入りこれまであまり構ってやれなかった他のうさぎ達を順番に撫でては、その穏やかな時間を噛締めていた。
と、そこえ、サガの五分の一にも満たない時間でバスルームから出てきたアイオロスが、サガを呼んだ。
「まだ寝ないのか?」
時計を見れば、時刻はまだ九時を少し回ったところだった。
さすがのアイオロスも疲れが溜まったか。
サガは腰を上げた。
そう言えば、彼は殆どの睡眠を今のソファーで取っていた。
生乾きの髪を、慰め程度にタオルで擦っているアイオロスの側に寄り、サガは笑って言った。
「乾かそうか?」
そして、もう一度バスルームに戻り、ドライヤーを手に取ると、アイオロスの頭を前に屈ませてゆっくりと手で梳きながら髪を乾かし始めた。
まっすぐで、けれど実は猫毛でとても柔らかい金茶の髪を、丁寧に乾かす。その単純作業は、とても短いものだったが、サガに眠気をもたらすには十分なやさしい静かな時間だった。
「さ、終わり」
そう言って、いつも自分の視線より高い所にあって滅多に目にする事のないアイオロスのつむじに、サガは一つキスを落とした。
寝室に入り、少し行儀が悪いと思いつつ、サガはバタン、とベッドに倒れこんだ。
寝具の存在が大きな幸福感になってサガの胸に広がった。
ベッドのスプリングが揺れ、アイオロスが隣にやって来た事が知れた。サガはうつ伏せにしていた体を起こし、アイオロスにお休みのキスをしようと手を伸ばした。
伸ばした手は、サガより一回り大きいアイオロスの手にしっかりと捕まれた。アイオロスがサガに追い被さる。サガの唇はアイオロスのそれに塞がれた。
おやすみ、と言おうとして開いた口に、アイオロスの舌が侵入してくる。

就寝の挨拶にしては些か濃厚に過ぎるのではないだろうか。
サガが不審に思い、体をアイオロスから離そうとすると、アイオロスは離した唇をサガの首元に押し当て強く吸い、舐め上げた。
ちょっと、待て!
流石に半分眠りかけていたサガにもアイオロスの意図が判明し、慌てて首を反らして待ったをかける。
と、覆いかぶさっていた男の顔が見て取れ、その表情にサガは愕然とした。
そんな……全身で不満だって言わなくても……。
確かに立派な成人男子の姿をしている筈の人間のアイオロスが、何故か肥満体質の為、厳しい食事制限を受けているうさぎのマンゴロス太の姿に重なった。
でっぷりとした、うさぎのエセルの倍はあるこの愛嬌に溢れるマンゴロス太は、柵に両手を掛け、ぽっちゃりとした真っ白な腹を露にして爪先立ちながら、必死で彼の好きなペレットをサガにねだるのだ。そして、その願いが叶えられないと、「オレは不当な扱いを受けている」、と全身でその悲哀を表現する天才だった。
物凄く、疲れてるし、眠い。
物凄く、今すぐ睡眠を貪りたい。
でも、君、そんな顔して人を見ないでくれよ……。
サガは、諦めの吐息を吐いて、眉間に皺を寄せて自分を見下ろすアイオロスに両腕を伸ばした。
はいはい。確かに、君にもずっと構ってあげなかったものね……。
今日は土曜日。少しくらい無茶をしてもまだ明日一日ある。久しぶりにアイオロスを抱き締める感覚と、抱き締められる感覚に酔いながら、サガはゆっくりと体の力を抜いた。

そして、日曜日。昼過ぎに目覚めたサガはもう一度アイオロスに請われて体を繋げた後、ようやく寝室から外に出た。
そして、居間の惨状にぎょっとした。
いつの間にか、どうやってか、つい昨日一昨日まで病人だった筈のうさぎが柵から出て、母兎であるエセルと壮絶に争った模様が、あちこちに散乱する灰色の毛の塊と、自分の家であるサークルの奥隅で小さく丸くなっているエセルの姿が物語っていた。
さらに、あろう事か、エセルの唇か晴れ上がっている。どうやら引っかかれるか、噛まれるかしたらしい。
「プチ……ここまで一気に快復しなくても……」
がっくりと居間に手を付きサガは呻いた。
そして、ガウンのままで、すっかり怯えて縮こまっているエセルを必死に撫でて慰める。
「おー、こりゃ派手にやったな」
背後から暢気なアイオロスの声が聞こえた。
思わず、酷いんだっ、とエセルの子供の暴挙を訴えると、顎の無精ひげを撫でながら、アイオロスはにやにやと可笑しそうに口元を歪ませながら言った。
「俺は昨日、久々にエセルに噛み付かれたけどな」
サガは、一瞬顔に朱を散らしたが、直ぐにアイオロスを睨みつけて背を向けた。
どうして、こうやって人の話をいつも茶化さずにはいられないんだ、この男は!
なるべくエセルの痛みが和らぐように、撫でる手に意識を集中させようとするサガの後ろで、こりゃ殆どえせるの毛だな、と呟くアイオロスの声がする。
そのうち、ばさっと大きな音がして、ばふんばふんと空気を叩く音がリビングに響く。うさぎ達のトイレを交換する為にアイオロスがゴミ袋を広げている音だった。
鼻歌を歌いながらアイオロスがうさぎ部屋の掃除を始める。
なあ、飯は? もう飯だよな?
この家で一番大きな体躯のうさぎ、マンゴー改めアイオロス二世がエセルの背後から肩にがっしり乗りかかる。
はいはい。わかった。今あげるから。待ってなさい。
分厚い絹糸のような毛の上からぽんぽん、と頭を撫でてやりサガは立ち上がった。
それにしても、二人の女性の戦いの間、この子は何をしていたんだろう?
全く外傷もなく、毛の束の落ちている様子も無いマンゴーロス太の無邪気な様子にサガは首を捻った。
つまり、うちの雄達は、みんな自分の欲求以外の事には興味がないって事か。人間のアイオロス然り、うさぎのアイオロス然り。
はあっ、と溜息をついてペレットを詰めている大きなパスタ保存コンテナを取りに柵を跨ぐ。
そして、ふと気付いた。
今、ナチュラルに、この家の男たちってカテゴリーから自分の存在を外してなかっただろうか?
愕然とするサガ・チェトウィンド、気持ちの良い日曜の午後の一コマだった。

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