窓辺を見ると、一枚の写真がある。
昔から、あまりポートレイトを飾るのが好きじゃなかった。
自分のものは勿論だが、人のものも駄目だった。写真より本人の方がずっと良いのに、わざわざ実物に劣るものを部屋のあちらこちらに貼る理由が分からない。
もう逢えない人を忍ぶのには良いけれど、まだ会える人の肖像を飾るのは、どこか二度と会えなくなってしまうような気がして、余計に馴染めなかった。
今年の六月、今迄素通りするばかりだったインテリア・ショップのフォトスタンドコーナで、今窓辺に置かれているスタンドを買った。中に収まっているのは、ミロがオーケストラをバックにシベリウスのヴァイオリン協奏曲を弾いた卒業演奏会の時の写真だ。
折角の晴れの舞台なのに、一枚も写真を買わないというミロの代わりに買って貰った。凄く様になっていて、これなら飾ってもいい、と思ったからだ。
以来、気分が落ち込んだり、出口のない迷路に思考が陥りそうになった時には、写真を眺めながらミロの送ってくれたCDを聴くようになった。
ミロの音が部屋を満たすと、凝固していた感情や、もつれていた思考が解ける。その音が在るだけで、何も変わらなくても、無条件に幸せな気持ちになれる。
ミロが再びヴァイオリンを初めてくれたこと、これからも彼のヴァイオリンが聴けるというだけで、他に何を諦めてもいい、と心の底から思う。
そう、思うのに、
時折、その幸せが、遠のくことがある。
ちょっとした感情の拗れや、小さな猜疑心が、すぐ其処にあるはずの幸せを遮ってしまう。ディスクにどうしても手が伸びない。
音を聴いてしまったら、きっと全て許してしまうだろう、そして、また同じ日々の繰り返しだ、と。
意地の悪い心が邪魔をする。
許せるのなら、許し続ければ良いだけのことなのに。
***
日曜の夜、喧嘩をした。
喧嘩というより、一方的に、こちらが怒っただけ、というのが正しいのだけれど。
ミロが忙しいのは、十分分かっている。楽器を弾きながら、建築事務所の方も続けていくなんて、他に脇目をふる時間などあるはずがない。
けれど、たまに先輩の家に食事に招かれたり、コンサートに出かけたりする度に、ここにミロが居ればいいのに、と願う。
いつのまにか、そんな希望ばかりが膨れ上がって、それをひとつひとつ諦めているうちに、感情が濁って来る。
時間がないのは分かっているけど、一言くらいそのことを詫びてくれてもいいんじゃないか。
こちらの希望は抑えてミロの事情を気遣っているつもりなのに、それを当然のことのように思われているのじゃないか。
今、ミロの中に自分はどのくらい存在しているのだろう、と、不安と苛立ちが募る。
都合の良い時だけ思い出して、つかの間の『恋人』を演じる相手には丁度いい、と思われているのじゃないか、本人に悪意がなくとも、結局それで許してもらえる相手だから私が選ばれただけなのじゃないかと、時間が経つほどそのようにしか信じられなくなることが一番怖い。
自分だって、起きている間ずっとミロの事を考えているわけじゃないし、少々仕事が忙しくなればそんな不平を零す余裕もなくなるくせに。
それでも、今度ばかりはなかなか冷静になれず、怒るのも疲れて、何もかも面倒になりかけていたとき、ミロが突然やって来た。
また、拗れてから慌てて機嫌をとりにやって来たのか、と、有耶無耶になっていた怒りが再燃した。
帰り便の最終時刻を過ぎていたのが幸いだった。でなければ、本気で追い返していたかも知れない。
一晩過ぎて、朝の光の中でミロの走り書きしたメモを見たとき、漸く少し頭が冷えた。
一体、何時に出て行ったのだろう。
朝食もとらずに出かけて、夜はきっと昨夜と同じくらい、十時すぎの帰宅だ。
それから、就寝まで、ほんの二、三時間の為にローマとロンドンを正規料金で往復するなんて。
ご機嫌取りにするには、あまりにも馬鹿げ過ぎている。
あまりに馬鹿馬鹿しくて、少し可笑しくなった。
その笑いが、凝り固まっていた不満を少しだけ解いてくれたのかも知れない。
本当に久し振りに、窓際の写真が目に止まった。
ミロの事を責めることはできない、自分だって、この写真を見なくなってからどれだけ経ったのか、思い出せなくなっていたのだから。
ミロがマスターを取ったリサイタルの時の録音CDを取り出して、コンポにかけた。
イザイの無伴奏第四番。誕生日に貰った二番より、快活で、情熱的な曲だ。
久し振りに聴いた音は、耳から受け止めた音が体の芯を通って全身に溢れるようで、気がついたら、涙が零れていた。
何も信じられなくなっても、この音を生む魂の清々しさだけは信じられる。
それだけは、もう、ずっと以前から知っていたのに。
下らない意地を張るのは止めて、今晩、きちんとミロの話を聞いてみよう、と思った。
仕事の打ち合わせの帰り、夜十時まで開いているKensingtonのオーガニック・グロッサリー・ストア、Whole Foodsへ出かけて、夕食の材料を買った。
どうせ、自炊をする暇もないのだろう。自分で作る時間がないのなら、せめてまともな所で食べてくれば良いのに、ミロは未だに適当に菓子のようなもので空腹を誤摩化す癖が抜けない。まるで子供みたいだ。
サラダとスープ、サーモンのムニエルをテーブルに並べて、遅い夕食の準備が整った頃、約束通りミロはイタリアから戻って来て、開口一番、話がある、と言った。
ミロは、本当に大切な話がある時は、まっすぐに人の目を見てものを言う。こちらの機嫌に怯えて出方を探る時には、それが少し俯き加減の角度から見上げるようになるから、すぐに分かる。
今日は、前者なのだろう。慌ててイタリアを飛び出してきた、と顔に書いたような昨日の様子より、ずっと落ち着いて見えた。
食事の後、長引きそうな話の前に食後酒を用意して、出来心でミロにも薄い水割りを勧めてみた。
最近、漸くミロはワイン一杯くらいのアルコールなら受け付けるようになってきていて、それが私にはとても嬉しい。
一人だけで飲むのはつまらないし、自分ばかり酔うのも気に食わない。
ミロは、困ったような表情をして(おそらく、話に支障が出るから飲みたくなかったのだろう)、一口、二口だけ申し訳程度に口をつけてから、語り始めた。
どうして、音楽院に復帰していたことをぎりぎりまで黙っていたのか。
どうして、こんなにも忙しいのか。
建築の仕事は止められないけれど、もう少し音楽を続けたい、そのためにはコンクールの入賞歴が必要で、来年はそのためにもっと忙しくなる、と。
だから、またずっと寂しい思いをさせてしまうだろうけれど、もう少し、待っていて貰えないだろうか、と聞かれた時、この十ヶ月彷徨いつづけていたものが漸くあるべき位置に定まった。
何も異存はない。ミロが音楽を続けたいのなら、どんな事でも協力する。
それは、とうの昔から──もう十年以上に渡って変わらない答えなのに、口から溢れる刹那、ほんの少し形を変えた。
「……どうしても寂しかったら、こちらから会いに行けばいいだけのことだから。もう覚悟を決めたのなら、気が済むまでやればいい。──ただ」
年に一度か二度だけ。お互いの誕生日か、クリスマスか、イースターか──どこかで、ゆっくり時間をとって会ってくれたら。
そう、言葉が滑り落ちる直前、漸く制動がかかり、私は残りの言葉を飲み込んだ。
誕生日は二月と十一月。どちらも演奏会シーズンだ。クリスマスやイースターも、演奏の機会は多い。
希望を言えば、今度こそミロは何を犠牲にしても、日程を空けようとするだろう。
それがミロのキャリアにとって大切なチャンスだったりしたら………
言いかけて黙るのはミロが一番嫌う事だと分かってはいたが、その損失を思うと、どうしてもその先は言えなかった。それよりも、思いもかけないところでこちらの制御を離れて溢れそうになった我侭に唖然とした。私もミロに倣って、アルコールは慎むべきだったかも知れない。だが、その時には既にストレートで二杯空けていた。
ミロの瞳が、少し痛みを感じたように細められ、こちらをじっと見詰めた。いつもならば、言いかけたのなら最後まで言うべきだと絶対に譲らないのに。
彼の中の負い目がそれ以上追い縋ることを躊躇わせたのかも知れず、それが、互いの間の距離を象徴しているようで、ほんの少し寂しい。
もう隠す必要もないから、いつローマにきても構わない、と訴えるミロ。これまで、音楽院の痕跡を隠す為に、私が訪れる度に楽譜で埋まった部屋の発掘作業が必要で、そのために色々口実をつけて来られないようにしていたのだという。「馬鹿だな」というと、「うん」と素直な苦笑が返って来た。
もう、好きな時に訪ねてゆける。ミロにゆっくりする時間がなくても、食事を作ったり、部屋を片付けたりして、ピアノを弾いて帰ってくればいい。
そう、一瞬気がそれた瞬間に、頬に暖かい手を感じて、気がつくとミロの瞳がずっと間近にあった。
たった二口の、殆ど水のような水割で酔ったはずがないのに、その青い瞳が少し潤んでいるように見えて、どきりとした。
軽く唇が触れて、その唇の冷たさにまた驚く。
ゆっくりと、啄むように、二度、三度。
「十一月は車を借りて郊外へ行こう」と提案するのを、殆ど上の空で聞く。これまでそれなりに綺麗に整頓されて収まっていたものが、ミロに触れられた瞬間から、大きなうねりと共に変容し始めて、制御がきかない。何を返答したのか、よく自覚もしないまま、無理矢理会話を終わらせた。
「さあ、もう寝よう。明日も早いんだろう?」
ひとつひとつ、積み上げるようにして築いてきた覚悟が、綺麗に箱に収められたはずの感情の暴走で滅茶苦茶に壊されようとしている。
全部納得したはずなのに、今になって、これからも満足に会えない状況がどうしようもなく辛い。
忘れていた体温を思い出した瞬間から、こんな無様な事態に陥るなんて、想像もしなかった。
木曜は現在設計中のビルディングの屋外照明の調整のため、帰宅は午前二時頃になる。それを理由に、此処に泊めるのは今日迄だと突き放すと、ミロは、何の躊躇いもなくこちらの金曜の予定を聞いて来た。
「……チケット代ばかにならないだろう。その分貯金するか早くローン返せ」
「カミュの誕生日と夏のバカンスと卒業祝い。三つ合わせれば大目に見てもいいでしょ?」
「そんな、たった一日二日の週末のために大盤振る舞いするな。……焦らなくても、すぐに11月になるよ」
「お金の問題じゃないでしょ?」
こういう、まるで子供に言い聞かせるような話し方をするときのミロは、こちらの不調に気付いていて、それを宥めるように話しかけてくる。そしてこちらが激昂すればするほど、ますます冷静になり、どんな言い訳も一瞬で見透かされる。
これ以上婉曲な言葉を重ねても無駄、というより、そこまでの余裕が最早なくて、陥落するしかなかった。
「……お前の気持ちは分かった。──頼むから」
これ以上、言いたくない事を言わせようとしないで欲しい。
本当は、帰れなんて言いたいわけじゃない。
どうして明日も仕事に行くのか、一日二日くらい休んでくれたっていいだろう、と、いくらでも我侭は暴走する。
折角、仕事が軌道に乗るまでは待つ、と決めたのに、
今甘えたらきっと全てがなし崩しになってしまうだろう。
悲しいのか、寂しいのか、愛おしいのか、よくわからない感情が一気にこみ上げてきて、不覚にも目頭が熱くなった。
グラスを片付けるのを口実にリビングを離れる。
グラスをシンクに置いても、戻れる場所はなくて、じっと両手を握りしめて立ち尽くしていたら、背後から包み込むような体温が被さってきた。
初めはふわりと、優しく。それから、次第に強く。
「ごめんね」と、小さな囁きが聞こえる。
表情は見えなくても、どんな思いで呟いた一言なのか、回された腕の強さでわかる。
それは、人が己の知識と経験をつぎ込んで尽くす言葉よりもよほど雄弁で、確かで──だからこそ、人は言葉を得たあとも、そういう交わりを結ぶのだろう。
かつては私達の間に確かに繋がれていたその絆が、どんどん希薄になっていくことが怖い。
その怯えは私だけのものではなく、ミロは、もう一度だけ、本当に会わないほうがいいのか、その方が楽なのか、と聞いて来た。
そして、息がつまるほど、強い力を感じた。
苦しい。
でも、この力の分だけ、多分、ミロも苦しいのだろう。
自分と同じだけ、相手も求めてくれていると分かったのなら、それでいい。
今は。
「……ごめん。11月に、もっと楽しく会おう」
週末は、ミロのヴァイオリンを一杯聞こう。
次に会う時は、ちゃんと笑って、何があっても揺らがない覚悟を決めてくるから。
だから、今週末は、そのために一人になろう。
漸く答えを押し出した瞬間、ミロの吐息が、やるせない溜息と共に耳にかかった。
何かと世話になっている二年上の先輩達のことを思うと、自分達のあまりの不器用さに時々天を仰ぎたくなる。
それでも、これが自分で、ミロなんだから、仕方がないのかな。