2009年1月17日。カミュ・バーロウの誕生日のきっかり三週間前にその電話はあった。
「ごめん! 本当にごめん! 去年から連続で時間が空けられなくて……!! そのかわり、というか、全然代わりにはならないけど、イースターが終わったら、必ずロンドンに行くから!!! あ、ってか、行ってもいい……?」
スカイプという便利なインターネット電話で繋がったイタリアに住むミロ・フェアファクスのいかにもしどろもどろの言葉の向こうから、金属の当たる音や人の気配が伝わってくる。
いったい何処から電話を掛けているのやら……。
別に誕生日を祝ってもらうような年でも無いし、殊更その日を重要視しているわけではない。けれど、もし本当に「謝罪の気持ち」を表明したいのなら、それを表明するだけの時間と場所を整えてから自分に連絡を取るべきではないのか?
以前のように「ドタキャン」されなかっただけまだ「マシ」とミロの行動を認めてやるべきなのか、そんなに自分が折れてどうすると憤慨するべきなのか。
どちらの選択も、カミュが意識の一番奥底に眠らせている感情に心地よいものではなく、カミュは短い溜息を吐いた。正直、ミロ本人は精一杯の事をしているつもりなのだろうが、こんな風に相手に振り回される形になるのが一番堪える。
「いいよ、気にしなくても。イースターの後は、まあ、じゃあ期待せずにスケジュールの調整をするつもりでおくけれど、連絡は早めにくれ。こっちにも都合がある」
何度も、まだ謝り足りないと「本当にごめん」を繰り返すミロに、カミュは「後ろから呼ばれているぞ」と呟いた。
実際、ミロの背後に響いていた雑音のそのまた向こうから、ミロの名前を呼ぶイタリア語の響きがカミュの耳に飛び込んだのだ。
カミュの指摘に、慌てたようにミロが後ろを振り返った気配が伝わる。そして、カミュに断りもなく短いイタリア語でのやりとり。
どうせ聞こえやしないのだから、とカミュは今度は盛大に溜息をついた。
パソコン画面の表示を見ると、イタリア時間では夜の八時を回ったくらいだ。この時間なら、そちらの用事を済ませてからこちらに電話を掛けてくれば良いだろうに。
それとも帰りがそんなに遅くなるような「用事」なのか。
二度目の溜息を吐こうかと息を吸い込んだとき、突然ヘッドフォンにミロの声が響いた。
「ごめん! カミュ! ちょっと時間で……明日明後日とまたシチリアの方に行かなきゃならないから、ネット繋がったら電話掛ける! ごめんね!! お休み!!」
何がお休みだ。こっちはまだ夜の七時だ。そう言い返す隙も無いくらいに、一方的に通話は切れた。
一体何をやっていたのか、聞きそびれた……。
溜めていた息を吐いて、カミュは両耳に被せていた結構高級品の部類に入るヘッドフォンを外した。一気に食欲が失せていた。
これから何か作るのは面倒だ。クラッカーととチーズの残りがあるから、それとワインで済ませてしまおうか。
そう考えて、これではミロの食生活をとやかく言えたものではないな、と気付きカミュは苦い笑いを頬に刻んだ。
と、その時だった。電話のベルが鳴った。
コンピューターからではない。固定電話からだ。
一体誰からだろう? 訝しく思いながらも、構える事無く受話器を取ると「Hello?」と、よく知った極めて上品で気品のあるキングス・イングリッシュがカミュの鼓膜を振るわせた。
「サガ先輩、今晩は。お元気ですか?」
「今晩は。ありがとう。私もロスも元気だよ。そちらは? 君もプチも元気にしている?」
去年にサガの元から引き受けた、小さな灰色のウサギの名前を控えめに口にしたサガの気遣いに、カミュは笑った。
「ええ。二人とも元気です。プチは相変わらずですけれど、それでもご飯を貰う時だけは撫でさせてくれますよ。あ、けれど、最近鼻の頭に出来物ができたようで……」
暫く二人してウサギ談義を繰り広げ、プチの出来物は大きくなるかどうか暫く様子を見てみよう、という事に落ち着いた。
「ところでね、カミュ」
ウサギの話が一段落した時、サガの口からまた別件が告げられる気配を察して、カミュは少し背筋を正した。
「今年の誕生日、良かったら家に来ないかな? 丁度その日はロスも留守の予定だから、良かったらプチも連れて里帰りと、二人でどこかに食事に行かないかい?」
カミュは一瞬、なぜサガからそんな招待を受けるのか、その背後に隠れるものを探りたい気持ちに駆られた。しかし、サガのパートナーであるアイオロス・エインズワースの代名詞とも化している「策略」とは程遠いサガの人となりを思い、胸に浮かんだ疑問をまた沈めた。
「丁度ミロから2月に来られないと連絡がありましたから、それじゃ、お言葉に甘えて」
電話の向こうから、ほっとした空気が流れて来たのを感じて、カミュは苦笑した。
きっと、去年心配を掛けてしまったから、気を回してくれたのだろう。
二つ年上の先輩の気遣いを有難く受け取りながら、カミュはそっと電話を置いた。
それから三日間、結局ミロからの連絡はなく、四日目の晩に久し振りに聞いたミロの声は少し掠れ気味だった。
「内装を変える仕事が二件入って、家に帰るの面倒くさくて車で寝たら少し咽に来た」
もう若くないのだから、と何度言ったかしれない言葉を言いながら、あの狭い車でよくミロが眠れたものだと感心もする。ミロは寝相が悪い。あればあるだけのスペースを使って運動会をするから、つまるところまともに寝ていない、という事なのだろう。
話を聞けば、カルテットでの演奏の話もコンスタントに来ているらしい。そして今年から個人レッスンの生徒を一人、見ていると。
頑張っている、というのは良く分かる。
ミロが、出来る事を精一杯やっている、というのは良く分かる。だからこそ、自分も何かミロの為にしてやれる事があればいいのに、と思う。
しかし、国が違えば物理的なサポートは言うに及ばず、精神的なサポートも何処まで出来るのか甚だ怪しいものだ。そして、どこまで自分が干渉していいのか、それを見極めるのが難しい。
ミロは簡単に誰にでも世話を焼かれる事を許すようで居て、その実一番芯に近い場所には生半な事では人を寄せ付けない所がある。
よくミロは自分を「頑固」だ「強情」だと言うけれど、時に自分のそれらはミロの前で皹を入れられたり、砕かれる事があっても、その反対は決してないのだ。
きっとミロはそれも分かっていないだろう。
一月が終わり、例年に比べて雨の多い二月が始まった。五月に、カミュはインテリア・デザイナー、照明デザイナー、フロー・リスト等六人で一軒のアールデコ調の屋敷を会場にして作品発表を行う企画に参加する事にした。ミロの目指すものに何も貢献出来ないという負の感情に付き合うには飽いたし、カミュ自身もまた何かに向かって没頭したい気持ちに駆られたのだ。
二週間後に迫ったバレンタイン・デーに向けて、ちょっとした照明の仕事も入っていて、カミュの二月の第一週はそれなりに忙しかった。
週末に行う洗濯と掃除をざっと済ませ、午後2時にカミュはプチをキャリー・バッグにつめて部屋を出た。
チューブを乗り継ぎ、サガとアイオロスの住むサザークに降り立つ。土曜の市場の活気が漂う路地を横切り、カミュは古いアパートの扉のベルを鳴らした。
ドアを開けたサガに手土産のワインを見せると、サガは苦笑した。
「今日は君の誕生日なのに……」
サガの言葉にカミュは「招待してもらったお礼です」と微笑んで、アイオロスの居ない部屋に通された。ウサギの為に暖房の付けられていない部屋は少し足元にひんやりとした空気が溜まっている。
コートを脱ぎ、巻いていた襟巻きを取ると隠されていた空気がひんやりと肌に触った。
「暖房、つけようか?」
カミュの様子を見て取ったサガが素早く尋ねた。
「いえ。うちもこんな感じですから大丈夫です。多分歩いてきたので体が温まったんですよ」
サガの入れてくれた熱い紅茶を飲みながら、約一ヶ月ぶりに娘と母、又は夫と妻、といった関係の三匹のウサギは対面したのだが、結果として彼らの関係の修復はまだまだ時間が掛かりそうだと言うことが分かった。
「ロス! どうして君はそんなに心が狭いんだ?!」
元妻に対して、歯を剥いて攻撃心を露にする赤褐色の斑を体に散らしたサテンのウサギ、二代目アイオロスに向かってエセルが声を上げる。
プチが授乳していた昨年の春、手酷く噛み付かれてからというものウサギのアイオロスはその恨み辛みを一日も忘れる事無く、あの小さな頭のどこにそんな長期記憶用の記憶野が配置されているのか感心する程の執念深さで、プチに向かって歯を剥き隙あらば攻撃をしようと身構えている。
「エセル! この子は君の娘だろう? どうして忘れてしまうんだい? 君たちは匂いで家族は覚えているんじゃないのかい?!」
ウサギは鳴かない、という定説を覆す唸り声を上げている灰色と白のミックスウサギを、柔らかく撫でながらサガは嘆息した。
バスルームでのお見合いを繰り返した後、もとの家とケージに戻されたウサギを眺めつつ、サガはぐったりと嘆息した。
「プチの息子と娘達は今も仲良く一緒に暮らしていると言うのに……君達大人は……」
サガのまるで若年の者を嗜めるような言葉の様が、失礼だと知りつつも可愛らしく、カミュはそっと苦笑を漏らした。
去年の秋に他のホスト・ファミリーに貰われていったプチとロスの子供たちの動画では、四匹で仲良く遊んでいる様子が映されている。
まだ誰も貰い手がつかないというのはそれなりに問題だが、四匹で幸せそうにしている様はどれか一匹を引き離すのも可哀想に思えて、カミュはプチを引き取った自分の選択の正しさを思い返した。
ウサギのお見合いが済んだ後は、特にこれといって話す事もなく、サガはお茶のおかわりとクッキーをコーヒーテーブルに並べて、「そうだ、これ知ってるかい?」とビデオデッキにテープをセットした。若い合唱指導の教師が懸命にティーンエイジャーに歌を教えているシーンで始まったそれは、やがて「The Choir: Boys Don’t Sing」という白抜きのタイトルを映し出した。
「ああ、これ……! 昔ちらっと見たんですけど、録りそこねてしまって。また再放送やってたんですか?」
「そうなのかい? たまたま番組表でみつけて、面白そうだから録っておいたのだけど」
「地方の男子校で合唱団を作る話ですよね? 歌なんか格好悪いっていう子供達に歌を教えよう、っていう」
「いや、私もまだ見ていないんだよ」
結局、一時間番組を四回分通しで見切ってしまって、最後に流れた少年達の多少音程の危ないピエ・イエズを聞きながら、カミュはこんな時代が自分達にもあったのだな、と思い返していた。
無論、音楽の専科を抱えるクィーンズベリでは、合唱が「格好悪い」などと言われる事は無かったのだけれど……。
ふと、あの頃には当たり前のように生活の一部だった音楽が、今の自分の生活には片鱗すらない事を思い、カミュは首筋に冷たい風が吹き込んだような心許ない気持ちになった。
音楽の楽しさを忘れてしまった学校。それは、そのまま、今の自分を反映しているようだ。
ついサガの存在を忘れて物思いに沈みそうになったカミュの意識は、サガの「そろそろ夕食を食べに行こうか」という優しい声に引き戻された。
特に何処に行くとは聞いていなかったカミュは、どんどんと自分のアパートメントに近付いていくサガの足取りにいつ疑問の声を投げかけようかとタイミングを計っていた。
最初は、帰りの事を考えてこちらの住居に近いロケーションを選択してくれたのかと考えたが、それではサガのアパートメントに留守番させているプチを迎えに行くという行程が含まれていない。
ますます自分のアパートメントが近付くと、この付近にそんなサガが気に入るようなレストランなどない、という結論に達し、更にサガがカミュのアパートメントの正面玄関に到着した時には、もうあらゆる憶測が捻じ曲がって答えが見えなくなっていた。
軽く背中を押されるままに、リフトで自分の部屋のフロアの番号を押し、自分の部屋の扉の前に立つ。
「先輩……?」
サガの顔を探っても笑顔しか返ってこない。意を決して扉に手を掛けた。
鍵は掛かっていなかった。
「Happy Birthday!! Camus!!」
耳を劈くクラッカーの破裂音と共に、威勢のいい掛け声と口笛、雄叫びが重なり、ドサッと何かがカミュの頭の上に振ってきた。
一体何事か?!!
と頭に手をやり、足元に小山になった紙ふぶきを見る。
「だから言っただろう? これじゃ多過ぎだって!! 今、ドサッて音したぞっ?!」
「だって、隙間が合ったから詰められるだけ詰めた方がゴージャスだと思って」
え?
カミュは自分の耳を疑った。
目を正面に戻すと、ミロがニコニコと笑って自分を見ている。
「お前、今日……」
訳が分からず言葉が続かないカミュの背をサガが押し、アイオリアのしっかりした腕が戸口に固まっているカミュの体を部屋の中に引き込んだ。
横から腕が伸びて来た。
その腕に体が引き寄せられた。
軽いハグと頬に軽いキスの後、「誕生日おめでとう」という言葉。ミロの声だ。
居間に引き摺って行かれると、カミュが普段それなりに神経を使ってシックに纏めている内装が、カラフルな紙のリボンやキンダーガーデンのお遊戯にでしか使われないような紙のチェーン、紙で出来た大きな花飾りで賑やかに飾り立てられ異空間になっている。
居間の中央には折り畳みのプラスチックのテーブルに赤のチェックのテーブルクロスが掛かり、その上にはピザとサラダとビールの瓶が、そしてキッチン際の壁に移動させられたコーヒーテーブルの上には様々なワインの瓶が並び、キッチンからはチーズとトマト、それから潮の匂いが漂ってくる。
「一体……」
リビングに集まっているのはパブリックの同級生アイオリア・エインズワースと代117期オーケストラのメンバー —-ウォルト、アンソニー、マックス、マーチン、マイケル、ジョナサン、ジェームズ、ハリー 等とカミュとジャックルーシェのコピーバンドを組んでいるシュラ・コーツ、アイオロス・エインズワース、そして何故か彼らと同学年のデス・ギネスだった。
「今日はカミュはホストじゃないからな? キッチンには立ち入り禁止な?」
後ろから歩いていたミロが楽しそうにカミュに言った。ミロは、彼には珍しくダークグレイのスラックスと真っ白なシャツというビジネス・スタイルの出で立ちで、白いシャツの袖を捲り、腰には長いエプロンを無造作に巻いている。
造詣のいい人間はたったそれだけのシンプルな装いでも様になる、とカミュがぼんやりとキッチンに消えたミロの姿の後を見送っていると、アンソニーとウォルトがやって来てグラスを渡された。
ミロの言葉通り、パーティーの間中、カミュは一度もキッチンに足を踏み入れる事無く賑やかに友人達と語り合いながら時を過ごした。
ミロとデスと二人のイタリアンによって饗された食事は集った仲間にも大好評だった。シンプルなチーズのリゾット、トマトとジャガイモのリゾット、トマトと海鮮のパスタ、チーズとホウレン草のラビオリ、新鮮なサラダとそしてピッツァ。
野菜類は今朝の市場でサガとアイオロスが買い揃え、チーズやトマトはワインと共にミロが機内持ち込みギリギリのバッグに詰めて運んで来た。パスタも片手で持てるようなパスタプレス機をミロがローマの自宅から持参して作った生パスタだ。ピッツァの生地もミロが分担した。
海鮮系のパスタ・ソースやリゾット、そしてデザートのチョコレート・ムースはデスが分担した。
下手なレストランに行くより余程上手いと皆が口を揃えて褒め称えると、二人のイタリアンシェフは得意気に胸を反らした。
食事毎に出されるワインはデスがミロにリストアップして持ち込ませたもので、料理の味に更なる彩を与えている。カクテルはアイオロスとシュラが担当し、BGMには彼らの演奏会の曲が小さく流されていた。
美味しい酒を飲める機会があるのなら、存分にその機会は楽しみたい人間のカミュは、キッチンの横でまだ飲んだことの無いラベルのワインをグラスに注いでいた。皆の胃袋が一段落した頃で、台所に居座っているシェフの二人も小休憩をしているようだった。デスがワインを片手にミロに尋ねた。
「お前、そういや今日は楽器は持ってきてないのか? いつもならここら辺で何か弾くだろ? 余興」
「今日は置いてきた。今日はカミュの誕生日だから……楽器の事は忘れる」
カミュは、お祭り騒ぎの中で楽しく楽器を弾いているミロを眺めるのも、ミロには言った事は無いが好きだった。けれど、こんな風に自分に気を遣ってくれている事を知るのは、嫌な気分ではなかった。
カミュのアパートは、飲み会の会場になる事が多い。そうなると、ホストという立場から中々思う存分場を楽しむ、という事が出来ない。けれど、今日はミロがホストを買って出てくれたお陰で、何の気兼ねもなく楽しむ事ができた。久々に会った友人達と気の向くままに会話を楽しみ、暖かい作り立ての料理に舌鼓を打った。
一人10ポンドまで、と決められていたらしいプレゼントの予算枠から友人達が送ってくれたプレゼントには、久々に声を立てて笑った。
コンドーム一箱、連盟でBBC交響楽団のチケット一枚、キャンディーの袋詰め、学生用ノート一束、アロマキャンドル一本、小さな花束、バンドエイドと包帯のセット、調味料、怪しい媚薬と銘打たれたローション、何故か数年前のファッション雑誌 — ミロの写真が掲載されていたらしい — 等等
「誰だよ?! プレゼントの上限なんて決めたの?」
「そんな、お金を掛ければいいもの買えるのなんて分かってるじゃないか! 少ない予算で面白いもの買って贈るのが楽しいんだろう?」
ケラケラと笑って応えているミロの顔は明るい。
午後八時を過ぎた頃、簡易バーに陣取っていたアイオロス・エインズワースがひょいと台所に顔を除かせた。
「なあ、そろそろサラミとか肉が乗っかったピッツァ、出ないのか?」
シェフの二人は一瞬目を丸くし、そして揃って顔を顰めた。
「アイオロス、言っとくが、サラミの輪切りにプロセスのとろけるチーズをたっぷり乗せた平たいパンみてぇな物体は、ピッツァとは言わねぇんだぜ?」
「そもそも、そんなピッツァ、イタリアには存在しない。バジルと良いオリーブオイルと塩、それからドライトマトがピツツァの基本だ」
「それはフィレンツェのスタイルだろうが! 言っとくが、ピッツァには新鮮なトマトソースと新鮮なモツァレラと新鮮なバジルだ。赤、白、緑、これがピッツァの真髄よ。それ以外は乗せちゃいけねえよ。無粋ってもんだ」
「それはナポリのスタイルだろ? うちではそんな食べ方しない」
「こないだイタリアに行った時俺が作ったらお前食ったじゃねぇか! 今さら食えねぇとは言わせねぇぞ、オラ!」
「あれは俺の作ったdoughだ。トマトだって市場でいつも俺が買ってる農場のやつだったんだ。不味くはないのは知ってた」
「お前、俺様のあの絶妙の焼き加減があればこその味だろうが?! 下手な奴にやらせて見ろ! 折角のトマトの香りと酸味が飛んでいくんだぞ?!」
どうやらここでは自分の望むピザは食べられそうもないと悟ったアイオロスは、長身を回転させてリビングに屯す酔っ払いに声を掛けた。
「おーい、ドミノ・ピザに電話掛けるけど、なんかリクエストあるか?」
アイオロスの大音声に驚いたシェフの二人は台所の入り口に駆け寄った。すると、あろう事か、半分以上の人間が次々に手を上げて得体の知れない名前を連呼している。
「アメリカン・スペシャル!」
「ラザニアーノ」
「コンビネーションでシーフードとペペロニとミートミックス」
「トロピカル」
「テリヤキ」
ミロとデスがあんぐりと口を開けている間に、アイオロスはさっさとこの不景気の中、順調に業績を伸ばしているという宅配ピザ屋に電話を掛け、メニューなど見もしないでさらさらとトッピングなどという言葉を使ってピザを注文し、ついでにビールもダースで発注してしまっていた。
九時前に届いた大判のピザに群がる後輩を見ながら、キッチン脇に作られたバーの横に椅子を運んで来て腰を下ろしたデスは、ワイングラスを握り締めながら低く恫喝した。
「二度とアイツ等に俺様の料理は食わさねぇぞ」
「信じられない……あんなのの何が美味いんだ??」
呆然と呟くミロはキッチンの入り口の壁の下にしゃがみ込んでいる。
「ミロとデスのピザの方がずっと美味しいと、私も思うよ? でも、なにしろロスは、動物性蛋白のないものは何を食べさせても美味しいとは言わないものだから……」
サガが心から申し訳なさそうに言って、縁の盛り上がったマルガリータに手を伸ばした。
バーのローテーブルには、ミロの作ったシンプルなオリーブオイルとバジル、ドライトマトのピッツァとデスの作ったマルガリータがちんまりと並んでいる。
「俺にはあそこに群がってるのはアイオロス一匹には見えないんだがなッ?」
自棄糞気味のデスの声が鼻笑いつきでサガに返された。サガが言葉に詰まった。すると、今度はカミュが言葉を継いだ。
「いいじゃないですか、味の分からない連中には店屋物を食べさせておけば。僕はこっちの方がいいですから、分け前が増える分には大歓迎ですけれど?」
「まあ、カミュが美味しいっていってくれるなら俺はそれで良いけど……」
ミロが床から呟き、カミュは、ミロがフルートシャンパンのグラスに入った金色の発砲酒に見える液体をちびりちびりと飲んでいる事に気付いて少し驚いた。
「ミロ、それは何?」
「え? 何って……」
次はそれを飲もうかな、といった具合で尋ねられたミロは言葉に詰まった。すると、隣でデスがにやりと笑って、
「これはコイツ専用よ。お前さんの口には合わないと思うぜ?」と言った。
「……まさか、アルコール・フリー?」
こんな席で、こんな美味い料理を前にして酒を飲まないなんて信じられないと、半分酔いが回っていたカミュは驚きの声を上げた。
「これは、スパークリング」と、ここで一つ息を切ったデスが、「ジュースだよ」と言い切り、途端にケラケラと笑い出した。
「Cheer!」
カミュは自分のグラスに入っていたトスカナの白を1cmほどミロのグラスに注いだ。
「折角の料理なんだから、少しは飲めよ」
「うわっ! バカッ!! 何すんだよっ! この酔っ払い!! 俺は料理作ってんだからいいんだよっ!!」
「バカかお前! クッキングにはいつもア・グラス・オブ・ワインを引っ掛けながらが鉄則だろ?」
「うるさいなぁ! カミュには言うなって言っただろう?! 折角格好だけはカミュの好みに合わせてるんだからわざわざネタばらすなよ!」
カミュに倣って自分の赤ワインまで注ごうとしたデスに、ミロは飛び上がってそれを退けた。
ミロが助けを求めようとカミュを見れば、カミュは二人のやり取りを腹を抱えて笑っているような有様だ。
「カミュ、あんまり飲まないでよ……」
そっとカミュの横に近付いて来たミロがこっそり囁いた。
いかにも困った、という声音のミロに、カミュはまた吹き出しそうになった笑いの発作を無理矢理飲み込んだ。
「お前じゃあるまいし。ちゃんと計算して飲んでるから、そんな心細い声出さなくていいよ」
カミュのその余裕の態度に、ミロの青い目がいかにも怪しいと曇り「めちゃくちゃ酔ってるじゃないか……」と呟いた。
すると、その小さな呟きを聞き逃さなかったカミュは、にっこり笑って「お前と一緒にするな」と笑った後、猜疑に満ちた表情浮かべるミロの顎を軽く摘んで「今度飲み方を教えてやるよ」と嫣然と微笑んだ。