ミロのサプライズ企画から一週間後の土曜日の朝、カミュは一通のロイヤルメールを受け取った。
差出人は、サザーク在住のお馴染みの名前になっていた。
あまり開けたくないな、という正直な感想を無理矢理押さえつけ、カミュは溜息をついて手紙の封を切った。中には、薄いCD−Rと、短いメモが一枚。
「ハッピーバースデイ! 大事にしろよ」
一週間も遅れて何がハッピーバースデイなんだか、と思いつつ、アイオロスがデジタルカメラを持っていたことを思い出し、ああ、先日の写真か、と思い当たる。
そういえば、ミロが写真を沢山とってくれと頼み事をしていたっけ。
サガの突拍子もない(とはいえ何故かそれが結構さまになっているのだが)写真がアイオロスのメールに添付されてバラまかれる度に、ミロはそれを羨ましく思うらしく、カミュに写真を撮らせろと迫ってくるのだが、カミュ自身はそれに応えたことはない。あんなソフトフォーカス入りの、背景に花が飛んでいるような写真など、死んでも御免だときっちり釘を差してあるからだ(もっともミロが撮ると、意図しなくてもボケてソフトフォーカスがかかるのだが)。
どうやら自分の技量を向上することは諦めて、実績のある人間に依頼したらしい、とカミュは苦笑しながら、CD-RをMacBookにセットし、デスクトップに現れたCDのアイコンをクリックした。
と、予想に反して、中に収まっていたのはMP3ファイルがひとつきり。
カミュは無意識に眉を顰め、それでも脇にあったBOSEのヘッドホンを手繰り寄せ、ジャックを差し込んでダブルクリックした。
iTuneが勝手に立ち上がり、イコライザーが何か動いているのは見えるが、肝心の音は全く聞こえてこない。
音量をMaxまで上げてじっと耳をすませていると、何かしら、猫がミルクの皿を舐めるような音が聞こえてきた。
なんだこれは、と思った瞬間、その衝撃はやってきた。
『Camus…? are you emotional?』
最大音量で、少し掠れたミロの甘い声を聞かされたカミュは文字通り椅子から飛び上がった。
ちょっと待て!!!!!!!
どういうことだ、これは???!!!!!
『What’s wrong? … you feel sad?』」
『No, I’m OK』
『but… you might recall your last birthday…』
カミュはそこで思わずヘッドホンを引きはがし、デスクの上に叩き付けた。ヘッドホンからまだ漏れている音に慌ててiTuneの一時停止ボタンを押す。
冗談じゃない!!!!
こんなモノが、どうしてアイオロス先輩から送られてくるんだ?!
机の脇に置いてあった携帯をとり、ミロの携帯にかけた。
一回、二回、三回……
コール音が7回を超えたころ、漸く、こんな土曜の朝に電話しても寝ているに違いない、と気付く。
溜息をついて電話を切ろうとしたとき、コール音が途切れた。
「Hello? どうしたのカミュ? こんな朝方に」
ミロの明るい声が聞こえてきて、カミュは一瞬言葉につまった。
深く考えずに思わず電話してしまったが、一体何を言えばいいのか?
まさか、盗聴器をしかけたか、とでも?!
「あ、……ごめん、別に大した用事じゃない。忙しいならあとでかけ直すよ」
「いや、いいよ? まだ家出るまで時間あるし。なに?」
「……いや、やっぱりいいよ」
「え? なんだよ! 気になるよ……どうしたの?」
どうやら若干心配しているらしいミロの声音に、カミュは溜息を噛み殺した。
「……じゃあ、聞くけど……お前、この間うちに来たときに、アイオロス先輩に何か頼まれなかったか?」
「何がって、何?」
「いいから、何か頼まれたかどうか、それだけ答えてくれ」
「えー? なんだよそれ?」
ミロは電話の向こうでふくれているようだが、それでも暫く独り言を呟いたあと、「いや、頼まれてないと思うけど?」と返答した。
「本当に? 当日だけじゃなくて、翌日の朝とかにも?」
「翌日の朝って、寝てたじゃないか………あ!!!!」
途端に、電話の向こうで叫ぶ声が聞こえて、カミュは携帯を耳から放した。
「そういや、電話がかかってきた! 俺の携帯に、忘れ物したから、アパート出るついでに送ってくれって!」
「その忘れ物って、ICレコーダーじゃなかったか?」
「え、あれそうなのか? ロスはラジオだって言ってたけど?」
「……ICレコーダーには、ラジオ機能がついてるのもあるんだよ……」
「ふーん、そうなんだ? ロスがラジオ聞くなんて意外だと思ったけど……」
「で、それはどこにあった?」
「なんか、ベッドのヘッドボードとマットレスの間におちてたけど?」
それは落ちていたんじゃない、巧妙に隠されていたんだ、とカミュはミロのお気楽な間違いを正してやりたい衝動に駆られたが、何も知らずに利用されただけらしいミロにこの録音の存在を知らせるのは得策ではないと思い直し、無理矢理その言葉を飲み込んだ。
「そうか、分かったよ。邪魔して悪かった。ありがとう」
「どうかしたの?」
「いや、こっちの話」
「なんだよ! はっきり言えよ!」
「まあ、気にするな。じゃ、こちらも忙しいから、また夜に」
「おい、待てって、カミュ!」
カミュは容赦なく通話をぶった切り、腕を深く組んでヘッドホンを見下ろした。
この録音をカードの文字通り、誕生日プレゼントと受け取っていいのだろうか?
サザークの二人よりは奥手といっていいに違いない自分達には良い刺激になると、こっそり録音をしかけて、彼自身は聞かずにコピーをとって渡した、などということが有り得るか?
カミュはiTuneの表示窓に出ている時間を確認し、その甘い期待を捨てた。
録音は二時間。だが、もし仕掛けて撮りっぱなしにしていたのなら、最近のICレコーダーなどゆうに十時間以上連続録音が可能だろう。
つまり、どこまで聞いたか知らないが、編集して送りつけてきた、ということだ。
「まったく……あの人は………!」
弁護士のくせに、やっていい事と悪い事の区別もつかないのか、と憤りかけて、そんな正論を持ち出したところで蚊に刺されたほどにも感じないだろう、と思い直す。勿論悪い事と分かってやっているのだ。何故かアイオロスには、後輩であるカミュに対してだけ、シャレにならないギリギリのところまで煽り立てようとする向きがあって、パリでルームシェアをしていた時代カミュはついその挑発に乗って何度も手痛い教訓を叩き込まれていた。
単に人を弄んで楽しんでいるだけなら本気でこちらも噛み付けるのだが、そこに微妙に親心めいたものが混じっているから尚更にたちが悪い。以前、アイオロスが閨の様子をビデオに録っている、と聞いて、信じられない悪趣味だと断じたとき、アイオロスは心底気の毒そうな顔をして言ったものだ。
『惚れた相手のいい顔なら何時でも見たいと思うのが当然だろうが? お前さんは、自分のやっとる事が肯定的に見られんのかね』
絶対間違っている、と信じて疑わなかったものが、一瞬、その言葉に揺らがされた。自分とミロの間にそういうオープンな空気がないのは、否定しようのない事実だったからだ。
だからといって、盗聴は許容できないし、すべきだとも思わないが……!
カミュはぎりっと歯を食いしばり、一体何を聞かれたのか一週間前の夜を思い起こそうとして、赤面した。
何故、よりによって、あの夜なんだ?!
あの日でなければ、そんなに饒舌でもなかったのに!!!
たっぷり十分は迷った後、カミュは遂に、そろりとヘッドホンに手を伸ばした。
何を言ったか、正直全部は覚えていないし、ミロが何を言っていたかも、後半は覚えていない。
とりあえず、アイオロスに何を聴かれたのかは確かめておくべきだ、と思ったからだ。
二時間後。
赤くなったり、青くなったり、白くなったりを繰り返し、心臓に悪い音声にいい加減疲れ切ってぐったりと机にもたれかかっていたとき、その声が耳に滑り込んできた。
『Miro』
自分の声だ。カミュは、その声の甘さに唖然とした。明るいはずの部屋の空気は、あの夜の息苦しいほどの密度の記憶ですっかり重くたれ込めている。
『Thank you for considering my wish…. I love you. I will do well until when you come to me again…』
『I know…. I love you. I love you too, Camus….』
その、普段なら照れに紛らわせてしか言ってくれないミロの、真摯な声音に、カミュは背筋から全身に震えが走るのを感じた。
……あいつ、こんな声出してたのか?!!!!
聞いているようで聞いていなかったのか、それともあまりに濃密な時間の後で感覚が麻痺してしまっていたのか。
実際に聞いた時には、ここまで色気のある声だとは思いもしなかったカミュは、いつも色気がないだの空気を読まないだのと言い放題だった自分をほんの少し反省した。
確かに、やれば、できないわけではないらしい(そうなるまでに時間がかかるが)。
そして、そうなる頃には、自分の記憶もかなりあやふやになっているものらしい。
つまり、正確な事は、こんな録音でもない限り、わからないわけで…………。
………。
このディスク、どうしよう………。
結局、カミュは爽やかなはずの土曜の朝をショッキングピンクに塗り替えた一枚のディスクをゴミ箱には送らず、もとのケースに入れて厳重に封をして机の引き出しに仕舞い込んだ。
その後日課となっているシャワーの時間がいつもより15分ほど延長した事を知っているのは、エクササイズ・パンの中で朝食を待ち続ける一羽の小さなウサギだけであった。
***
さらに後日談。
ミロのもとに、一本の電話が入った。
「チョー希少価値の、世界で一枚しかないディスクをバーロウの奴に送っといたから、聞かせてもらえ?」
3分後、ロンドンのカミュの携帯に電話したミロは、夕食後のんびりとプチの毛の手入れをしていたカミュにまくしたてた。
「なあ、ロスからなんか凄くいいもの貰ったって、なに?!」
「……聞いたのか……」
「いや、なんなのか教えてもらえなかったんだ。カミュに直接貰えって!」
「まったくあの人は余計なことを……」
「え? 何?! 気になる!」
「ものすごく馬鹿馬鹿しいものだよ」
「え?」
「まあ、たいしたものじゃないから」
「なんで? ロスは希少価値だって!」
「希少だからっていいとは限らないだろう」
「え? でも聞きたい! 送ってよ」
「馬鹿言うな。送れるか、あんなモノ」
「なんで? でもロスからは送られてきたんだろ?」
「そういう問題じゃない。とにかく、送るのは却下。どうしても聞きたければ、お前が今度こっちに来た時に渡してやる」
なんでだよ、とまだ向こうでまくしたてているのを受話器を塞いできっぱり無視して、カミュは思った。
どうせ、ミロが来るのなど、あと半年くらい先のことだ。
そのころには、ミロもこの話など忘れているに違いない。
勿論、アイオロスが余計な煽りをいれなければ、の話だが。
しかし、このカミュのささやかな希望は、五月にサガ・シュローズベリの誕生パーティと称して開かれた飲み会で最も最悪の形で裏切られることになるのである。
End