水曜の晩、アイオロス先輩から電話があり、金曜の夜7時にホーボーン駅に集合との連絡が入った。
ホーボーン駅ということは、行き先はThe Lambだろう。シュラ先輩のお気に入りでもあるこのパブが集合場所なら、メンバーはもう決まったも同然だ。
仕事の打ち合わせが少々長引き、約束の7時ギリギリにホーボーン駅の改札を出ると、向こうから一目で分かる二人連れがこちらに向かって歩いて来た。目立つのは勿論、一方が2メートルに迫る長身で、もう一方が全身黒づくめだからだ。
「遅くなりましてすみませんでした。仕事が少々押して」
「気にするな。勝手に自分の都合を押し付けてきたこいつが悪い」
シュラ先輩がにこりともせずにその手の皮肉を言うのはいつものことだが、それに対する反論がアイオロス先輩からないので少々驚いた。よくよく見れば、『男同士の』飲み会(アイオロス先輩は、サガ先輩やミロが居る時には何故か絶対にこの言葉は使わない)に誘ったにしては、なんだか元気がない。
「それにしても、こんな時期に飲み会なんて、一体どういう風の吹き回しですか? クリスマスの選曲会議までにはまだ随分間がありますが」
黙々と目的の店に向かって歩く後ろ姿にそう声をかけたら、「たまにはそういうのもいいだろ」と、更にアイオロス先輩らしくない返答が返って来た。
「……とまあ、真面目な話、俺に何かあったら、適当に他の人間見繕って楽しく生きろと言った訳だ。そしたらアイツ、何て言ったと思う? 実家に戻るなんぞけろりと寝言を言うんだぞ? 三十も超えたいい年した男が言うような台詞か?!」
The Lambについて、立て続けにギネスをパイントで三杯空け、モルトのロックを二杯くらい空にしたころから、段々とアイオロス先輩の様子がおかしくなってきた。
パリで同居していた頃、お互いフランス人の悪口を言いながらしこたま酔ったことはあるが、そんな時でもアイオロス先輩からサガ先輩に対する愚痴を聞いたことは一度もない。まあ、サガ先輩が大幅に譲っている現状でアイオロス先輩に不満のあるはずもないから、当然と言えば当然だったのだが。
それが、どうやら、今日はサガ先輩について語りたいらしい。
しかも、いつもの頭から花が咲いたような自慢話ではなくて、真面目な話だ。
どうやらシュラ先輩にも意外だったらしく、先輩は黙ってギネスを傾けていた。
「それは、僕もその方がいいと思いますが、現実問題として、今更先輩はご実家に戻れるんですか?」
「戻れるわけがないだろう……って、何お前までワンダーランドの住人みたいな嘘ら寒い台詞吐いてんだ? 戻った方がいい? あそこに? 人権侵害だろうが、あの場所は!!」
「だって、サガ先輩はやっぱり、本来はこんな市井にまみれて貧乏暮らしをする人じゃないと思いますけど? それは勿論、我々より自由の効かない部分もあるでしょうが、もともとそういう世界で育った人ですし……。反面、我々には手の届かないような世界で活躍することも出来る人だと思いますしね。でもサガ先輩の気持ちとしては、矢張りアイオロス先輩の側に居たい、ということなんでしょう? だったら、先輩が居なくなったら何も好んで少ない収入で苦労することないじゃないですか。実家に戻れば自由になる資産もあるでしょうし」
僕がそう返すと、アイオロス先輩は本気で溜息をついて言った。
「……お前な……あいつがちゃんと本気になれば今の二倍は稼げる筈だ。収入で苦労しているのも、なんだかんだと保険を掛けたり貯蓄を増やそうとしているからで、人間が生きていくのには十分だ。
というか、健康で頭があればいくらだって金の稼ぎ道はある。
大きな金を動かしたいならそれなりの働きをすればいいだけで、それと引き換えに自分の自由を売るような真似をして何が人生だ」
「自由、ですか……。僕自身は、サガ先輩からご実家の生活について不自由を感じているような話を聞いた事は一度もないんですがね。むしろ、パブリックを出てから、慣れない事ばかりで随分苦労されたのは知っていますが」
「自由って言うのは選択権だ。自分でメシを食う権利。自分で家のドアを開ける権利、閉める権利。自分の人生を自分で決める権利だ。
アイツは自分の意思でお仕着せじゃない一から十まで自分で決めて自分で責任を取る生き方を一度選んでおいて、それを平気で棄てられると言う。
俺には全く理解できん」
アイオロス先輩の言いたい事も分からなくはない。でも、それは多分、アイオロス先輩の「自由」の定義であって、サガ先輩のものではないだろう。
「つまり、サガ先輩が選んだのはアイオロス先輩であって、自由ではなかった、ということでしょうね」
僕としては、珍しく凹んでいるらしいアイオロス先輩を多少元気づけるつもりでそう言ったのだが、先輩はその言葉を聞くなり、意味不明の言葉を叫んで頭を掻きむしった。
「やっぱりそういうことなのかっ?!」
「やっぱり、って?」
「どうも、パブリックの時から人の後くっついてくる癖があったが、未だにそれが抜けてないのかよって事だっ! 全くっ! 俺がどうだとかで人生決めるなって言うんだ! くそうっ! 今まで俺が見せてきた事みんアイツの中ではスルーかよ?!」
「……そう言われても……、とサガ先輩は思っていると思いますが……。ただの友人の関係なら、いつか自立するのが当然でしょうが、パブリックの時代からとてもただの友人と呼べる関係ではなかったですし?
そもそもサガ先輩の覚悟はアイオロス先輩と一生を共にするところから始まっているんだと思いますけど?」
思わず普通の声量で喋ってしまって、しまった、と口を抑えた。隣でシュラ先輩がとても嫌そうな顔をしている。
「……それが、そもそも間違ってると俺は思うんだが、違うのか? 惚れた腫れたと人生は別物だろう?」
「それはそうでしょう。惚れたから、本来の生活の場所を飛び出して、先輩のところに来たわけで、それがなくなったら本来の生活に戻るのが普通なんじゃないですか? まあ、僕はサガ先輩が実家に戻ってしまったら寂しいですが、でもそれ以上に、あの人が一人でウサギと暮らしている事を考える方がいたたまれないですよ。他の人、といったって、サガ先輩以上に上品な女性なんてそう居ないですし」
「いや、上品か上品じゃないかはこの際問題じゃないだろう? 普通は目の前に愛情を注ぐもんが居なくなれば、自然別のものに目が行くだろうが?」
「いや、それは先輩、サガ先輩を甘く見てますよ! そんなに簡単に切り替えられるものなら、パブリックで破局した時に目が覚めているでしょうし、そのあとの浮気騒動でとうに先輩見限られてますよ」
「切り替えるも何も、死んじまったもんは仕方がないだろうが? 存在していれば修復改善でも訴訟でも何でも出来るが、死人相手じゃどうにもならん。
切り替えるんじゃなくで、普通に、事実の認識だろう!」
「振られるのだって、関係の終わりと言えば終わりですが。僕は直接、サガ先輩の口から聞きましたから。望みがなくても、相手が死んでしまっても忘れられない、他にその穴を埋める人はいない、というのは人間なら有り得る感情でしょう」
「だからな? 感情に流されて自分の人生棒にふってどうすんだって、話だ! おかしいだろうが? 惜しいだろうが? もったいないだろうがっ」
「そう僕に言われても……サガ先輩、ロマンチストですからね……」
「…………信じられん……」
アイオロス先輩は、呆然とそう呟いて、理解不能だ、とまた頭を掻きむしった。
まあ、これだから、この二人は上手くいっているのだろう。
そこそこ現実的(たまに非現実的・非科学的な事も言うが、それも遊びの一部に過ぎない)なアイオロス先輩と、少女も顔負けのロマンチストのサガ先輩だから、お互い相手に美質を見ていられるのだろう、と思うのだ。
「まあ、それはそれは高貴な人をパートナーにしてしまったんですから、責任もって一生面倒みるしかないですね。そういうの、好きなんでしょう? 究極の騎士道ですよ」
「アホかっ!!! 本当の面倒見るってのは面倒見てやる側が居なくなってもきちんとやっていけるようにすることだろうがっ!」
「そうなんですけれどね……しかし、世の中には三つ子の魂なんとやら、という言葉もありますし、ここまで育ってしまったものに今更教育など何の意味もない、というのも、僕は身にしみて知っているので、もうどうにもならないと思いますよ」
「そこで諦めてどうするっ!! っていうか、アイツは頭はあるんだ。人の話は理解できるんだから、あとはそれをどう刷り込むかだろう……」
アイオロス先輩は、そこで最早僕との会話を放り出して、どうやったらサガ先輩を自分の思い通りに改心(?)させられるか真剣に考え始めたらしかった。
そこで、今迄黙々とパイントを空にしていたシュラ先輩が一言。
「どうでもいいが、奴を男だと本気で認定したのなら、二度と下らんメールは送るな」
そういえば、アイオロス先輩がサガ先輩のことを真剣に男性として語るのを見たのは、これが初めてだ……。
やっぱり、かなり酔っているのかな?