祭りの後

今だに現実とも思えない80人以上のパーティから一晩明けて日曜日。
あんなに限界まで人が詰まっていたのが嘘のように、静かな朝だった。


サガ先輩の家でお腹を空かせているウサギ達の朝食のため、8時にかけておいた目覚ましが鳴り、昨夜ここに居たはずのミロの姿がないことに気付いた。
急いでいない、などと。
まったく、いつから、そんな気遣いをするようになったのか……。
動きたくないと主張する手足を、ケージ越しにこちらを見ていた三匹のウサギ達の顔を思い起こして働かせ、バスルームでシャワーを浴び、八時半に家を出た。途中、チューブの窓に映る自分の酷い顔を眺めながら、ミロはもうイタリアに着いただろうか、と考える。
昨夜。
何かがおかしいと、気付いてはいた。
あんなに積極的なミロは知らない。どこかで、何か裏があると予想はしていた。
それでも、嬉しかったから、溺れずにはいられなかった。
人が隠していることの、口を割らせる為だったとはね……。
知らないうちに結構盛大な溜息が漏れていて、向かいに座った中年の婦人の意外そうな顔がこちらを見ていた。
サガ先輩の家に着くと、鍵をあける物音に一瞬喜んだ(ウサギの)アイオロスが、顔に怯えの色を張り付かせて両耳をぴんとたて、こちらを見ていた。
「ごめんよ。君の大好きな、サガ先輩じゃなくて」
そう声をかけて、我ながら卑屈な台詞だと苦笑した。どうも昨夜以来僻みっぽくなっているらしい。
しかしそれにしても、既に半年は付き合いのあるプチまで両目を最大限に見開いて怯えているのには、少々悲しい気もするが。
(もっともウサギの記憶は数時間で薄れるので、これは致し方ない。そのくせ、噛まれたウサギへの恨みは相当長く残っているようだから、ウサギというのは本当によくわからない。)
全身で「侵入者!」と訴えるウサギ達のケージを横切り、ペレットの入ったプラスチックのコンテナを開け、小さな子供の玩具のようなスコップをペレットの中に突っ込むと、小さなウサギ達の態度は一変した。アイオロスもプチも、ケージに手をかけて後ろ足立ちになり、必死でこちらを見ている。えせるは後ろ足が弱いため後足立ちこそしないが、白い前脚を限界まで伸ばして背伸びをして、こちらを期待に満ちた眼差しで見上げている。
人間も、このくらい素直になれたら良いのかもしれないな……。
ケージにスコップを差し入れる手に縋ってペレットに顔を突っ込んでくるウサギ達に、そんな事を思った。
餌やりを済ませ、水を変え、トイレの掃除を終えると、リビングにかかる時計はちょうど9時半になっていた。正直、昨日もその前も寝不足だから、まだ体は怠い。忙しい一週間だったし、今日は最初から一日家でのんびりするつもりだった。
けれど。
振り返ると、ペレットを貰ったことですっかりこちらを信頼したらしいアイオロスがまだケージの柵に縋っていて、ふと口元が綻んだ。
まる一日、エクササイズパンの中に閉じ込められていて、さぞかしストレスが溜まっているだろう。
少し運動をさせてやるつもりで、サガ先輩がやっていたようにエクササイズ・パンを広げてアイオロス先輩の仕事机をプロテクトし、アイオロスとえせるの二匹をリビングに出してやった。
彼等が運動を終えるまで一時間ほど暇ができたので、部屋の中をぐるりと見渡す。
こうして人の家を見ると、つい照明の配置を考えてしまうのは職業病だ。けれど、照明のアイデアというのは常に考えてストックしておかないと、いざ現場に行ったときに良い案がうかばない。
リビングをひととおり見渡して、寝室の扉を開けた。
サガ先輩からは、この家に寝泊まりする許可を貰っている。寝室も使ってかまわない、ということだったが、流石にあの二人が使用しているベッドに寝るのは気がひけるので、実際に使う気はなかった。
でも、部屋を見るくらいなら。
スタンドの配置などを考えながら扉を開け、思わずその場で二、三秒固まってしまった。
……この部屋、なんでこんなにウェスタン(というか開拓時代調)なんだ?!
明らかにアイオロス先輩の趣味とわかるその部屋におそるおそる足を踏み入れて、バカみたいな大きさのキングサイズ・天蓋つきベッドを見上げた。
……これ……絶対アイオロス先輩の手製だ………。
こんなサイズのものが、玄関のドアから入るはずがないし、そもそも天蓋を支える支柱だって細工が粗削りだ。何より、こんなウエスタン趣味の家具なんて、このロンドンでそう簡単に手に入らない。
これがアイオロス先輩の趣味であることは間違いないが、サガ先輩はどうだろうな、と考えて、ふと悪戯心が目覚めた。
この部屋、この間のウチの寝室改変の返礼に、すっかり模様替えしてやろうか?
壁の色は落ち着いたアイボリーなので、この透明のニスを塗っただけのベッドや衣装棚の色をもっと落ち着いたものに変え、取っ手を真鍮あたりにして、間接照明をしかければ、それなりにちょっとしたホテルのような部屋に様変わりするだろう。そういえば結婚祝いを贈っていないし、サガ先輩が喜びそうな部屋に改装してやったらきっとびっくりするに違いない。
(そしてアイオロス先輩は怒るだろうが。)
流石にメジャーは持っていなかったので、腕の長さで大体のサイズをはかり、リビングに戻ってメモ用紙を一枚貰い、部屋の間取り図とサイズを書き込んだ。覚えていた数字を全部紙に書き込んだところで、また(ウサギの)アイオロスと目が合った。
こっちへ来いよ、と、そんな声が聞こえるような表情だった。
そういえば、アイオロスは、ただ出しておくだけではなくて相手をしてやらないと、拗ねるんだったか……
かがみ込んで、こっちへおいで、と背を差し伸べると、アイオロスは濡れた鼻をこちらの手に押し付けて、他の二匹よりふたまわりは大きい頭を手の下に潜り込ませた。
つまり、撫でろ、ということだ。
腰を下ろしてアイオロスの頭を撫でてやると、どうして察するのか、えせるも飛んで来てその横に並び、一緒に頭を差し出した。
プチは自分からはそんなことはしないし、自分の彼女の関係はもっとドライだ。でも、最近は手を伸ばしても昔ほど逃げなくなったし、それなりに信頼してくれているようなので、それで満足している。
けれど、今日は、こんなふうにスキンシップを求めてくるアイオロスとえせるに、少し胸を突かれた。

本当は。
自分だって、いつかミロと一緒に暮らしたいと思っていた。
手製のベッドを作ったり、キッチンに立って毎日の食事を一緒に作ったり、休日には一緒に市場に出かけたり……
そうするつもりで、イタリアに事務所を移すことを本気で考えていた。
それが、素直にそう思えなくなったのは、ミロが本気で音楽家になることを考えていると知らされた、あの日からだ。
言葉では言い表せないほど嬉しかった。ミロがヴァイオリンを諦めないでいてくれたことが。
けれど同時に、その瞬間に、自分の中で、ミロの存在は少し遠のいた。
ミロは、音楽と何かを両立できない。彼が音楽に集中するとき、自分の存在は完全にミロの世界から消え去る。
それでも、自分がピアノを弾き、ミロがヴァイオリンを弾いて、たまに世界を共有出来ればそれでも良かった。それが、去年のミロの誕生日に聴いたブラームスで、はっきりと分かってしまった。
もう、自分には、ミロの相手はつとまらない、ということ。
そして、自分のレベルにミロが合わせる事を考えた瞬間に、全身に怖気が走った。
つまらないプライドと分かっていても、それだけは絶対に嫌だ、と。
いま自分がピアノを弾けないのは、過去の自分の選択のせいであって、ミロにはなんの責任もない。
そう分かっているから、コンクールが終わる秋までになんとか気持ちの整理をつけるつもりだった。
けれど、ミロがあんな行動に出たということは、きっとミロには見えてしまっていたんだろう。
そして、自分はまた、一番言えない事を敏感に察するミロに、甘えたのだ。

気持ちよさげに目を閉じて撫でられているウサギの温もりを手放したくなくて、サガ先輩のCD棚からハイティンクのマーラーのディスクをつまみ出し、コンポにかけた。全曲聞き終わる頃には夜になっているだろうが、結局のところ、誰もいないあの部屋に戻りたくなかったのだ。
午後一時ごろ、昼間はいないと分かっているミロの家の番号に電話をかけ、昨夜自分が言ったことは忘れてくれ、とメッセージを残した。
本当は、忘れて欲しくないと願う自分も居る。けれど、その我侭をきいてしまったら、自分もミロも、不毛な関係に陥るだけだとわかっている。
大きな茶色のブチの愛嬌のある顔をしたウサギが、「大丈夫か」とでも言いたげに鼻をこちらに押し付けて来て、ウサギに慰められるなんて、と苦笑しようとしたが、うまくいかなかった。

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