お酒を飲まないと本心が言えない、という理屈が、俺には分からない。
お酒が腹を割って話す環境を作る、という一般論も、理解できない。
心の奥底の事を白状するなら、素面でするべきだと思うし、本気の話がしたいなら尚更自分の知覚を鈍らせて挑むべきじゃないと思う。
そう言う度いつも、綺麗な赤色の髪の持ち主は、『お前には大人の話が通じない』と軽い、でもあからさまな揶揄の色を刷いた瞳を細める。
そんなやり取りを数え切れないくらいした後、いつのまにか俺は、きつい暗紅色の双眸の持ち主に対して異議を唱えることを諦めた。
アルコールを摂取しないと、堅牢に築き上げた殻の中から本当の声を漏らす事が出来ない。
それは、心情を吐露するのに、きっかけや理由がどうしても必要だと、自分はそういう人間だと、俺をからかう風を装いながら、必死でサインを出していたんだと気付いたから。
カミュが主張したいところの「酒の過ち」から一晩明けた後の本人の落ち込みようといったら本当にあからさまで、笑うしかない。
多分、覚えてないって言うんだろうな、と思っていたらその通りで、無かった事にして欲しい、という所まで綺麗に予測どおり。落体の法則で観測出来る放物線みたいだ。
カミュの気持ちは、通常の努めての初速ゼロの状態から、酩酊という状況をかりての興奮状態まで上昇して、寝ている間に急降下して地面にめり込んで今に至る、って感じだ。
もの凄く予測できた事で、そして予期した通りのカミュの物言い。アルコールって、都合のいい言い訳だよな、とちょっと思う。だって、俺は全部覚えている。
だから、一つだけ嘘を付いた。
「待ってて」って言ったよ、カミュが、俺に、と。
寝不足の赤い目を見開いて、一瞬息を詰めた後「酔っ払いの言うことを、真に受けるな」と焦って言葉を返してきたカミュに、そうなの? とにっこり笑顔を作って無言で問えば、「今後も、2年後も、そういう予定はないから」と、力一杯断定された。
いいけどね。
分ってたし。そう言うの。
その後、こっちが愛想よくすればする程、カミュは俺の愛想の裏に「俺の期待」の幻を見て懸命に俺との間に距離を置こうとする。
具体的に言うと、以前より車間間隔ならぬ体間間隔を取ろうとするようになったし、ピアノ可の賃貸をこそこそと探している。
あからさまじゃないよう、さり気なくやろうとして、あからさまになってるって、自覚あるのかな? と、時折思う。
ああ、でも俺も人の事言えない。人間、逃げたいと思ってる時は、どんなに注意を払ってもあからさまになる。
立ち向かっていこうという人の隠し事は、見えないことが多いけど、逆は物凄くよく見える。
かつて、腕を壊して楽器が弾けなくなったとき、カミュにバレないように逃げ回っているつもりで、カミュから逃げた事実とカミュから離れようとした意図、その二つ分、深くカミュを傷付けた。
そういう前科が、たくさん俺にはあったから、カミュの持つ罪悪感なんて、カミュが気にする程には俺を傷付けたりしない。
そう言ってあげればいいのに、そうしないのは、やっぱりちょっと意地悪だ、と自分でも思う。
夏季休暇に入って五日目、カミュが胃痛を抱え始めて三日目、俺は一枚の用紙をカミュに手渡した。
「来学期からのビアノ科の講師で、夏期講習をやってる。色々ぎりぎりで決まった人事だから、まだ定員に達してないんだけど、行かない?」
モスクワ音楽院を卒業後、コンセルヴァトワールで教鞭を取っていた人だ。
偶然、その人の音を聞いた。
つまらなそうに練習室のピアノに触れて、つまらなそうに練習室を見回して、つまらなそう椅子に腰掛けて、つまらない事を全部放り出すような演奏をした。
シューベルト。即興曲。
ふ、とクイーンズベリで、カミュのピアノの音を始めて聞いた時の光景が蘇った。
カミュは、きっとこの人の音楽が好きだろう、そう思った。
直ぐに、カミュに確認を取ることもなく夏期講習に申し込んだ。講習費は、バレた時点で払うとか言われるだろうけど、ウサギの為にとっときなよ、と言うことに決めていた。保険のきかないウサギの急患診療代、二人分の一か月の食費代より高かった。驚きだ。
何はともあれ、俺はちょっとわくわくしながらサインアップを済ませた。この一年のカミュの鬱憤。Mentor に恵まれない現実が、少し、変わるような気がしたから。
この家から出る口実ならなんでもいい、そんな感じで出て行ったカミュが、講習から帰った日には、もう顔つきが変わってた。
干されていた喉に水を流し込むように、カミュはピアノに向かい始めた。
それでいい。と思う。
罪悪感なんて、そんな余計なものしょわずに、今向かうべきところに心を向けるのがいい。
「新学期から、彼の授業が受けられるようになった」ほっとしたように、カミュが食事の席で言った。俺の正面に座るカミュの足元では、プチとルー、二匹のウサギが台所のおこぼれをもらって食んでいた。
新しい形の同居を始めてから、三本の指に入る変化の一つがここにある。相手の体に触れない。相手の寝室には入らない。それから、食事は向かい合って取る。
緊張が少し緩んで、肩の落ちたカミュに、「よかったね」と言って冷たい水をグラスに足してやる。
カミュの思う、「失礼にならない程度」の会話をしながら、40分にも満たない夕食の時間は過ぎ、夜は更け、また朝がやってくる。
ローマの夏、夜は束の間だ。
冬より圧倒的に短い闇の中で、陽の光の中ではとことん無視される俺とカミュとの間にある緊張が、湿気と混ざり合って、家中いたるところで鎌首を伸ばす。日中、不自然に無かったものにされる感情の欠片が、闇に隠れて生気を取り戻し、眠ろうとする体を圧迫する。
ぼんやりと、青黒く霞む窓の向こうを見つめて、カミュも寝苦しいだろうかと考える。
でも、あれだけピアノを毎日必死で弾いていたら、クタクタですぐに眠れているかな、とも考えなおす。
もし、カミュが寝苦しい夜を抱えているのなら、少し、うれしい。
でも、カミュが、夢も見ないで疲労を回復するために短い夜を使えていれば、その方がいいと思う。
なんにせよ、ローマの夏の夜は短い。
だから、思い悩む時間も短くていい。
新学期が始まれば、授業の開始とともに二か月後の演奏会シーズン開始に向けての調整も課題として迫ってくる。
学院は、まるで蜂の巣のように喧騒と活気、不安と緊張で空気が圧され、音楽が金色の蜜のように小さな練習室の小部屋を満たす。
広げられる範囲で、新しいロシア人のピアノ講師の評判を拾い聞けば、悪くない。
そんなのは、毎日家に帰ってくるカミュの顔を見れば分かってもいたけれど。
カミュの表情の変化には目を見張る。たやすい講師ではないようだけれど、きちんとカミュの音楽を聞いてくれているようだった。
記憶の中のカミュの姿と、今の姿を比べてみて、先の一年は、やはりそうとう苦しかったんだと、今さらに胸が痛んだ。
いつも15分遅れてやって来る。10分早く切り上げられる。
真剣に、対峙してもらえない。
カミュはストレートAが当たり前の学生だったし、それに見合うだけの努力もする。そして、努力する事で相応の評価も得てきた。それなのに、最初から努力する事すら期待されないのは辛かったと思う。
そんな講師しか、カミュに紹介できなかった自分自身も、カミュに済まなかった。
それが、やっと、カミュの年齢ではなく、音と努力を見てくれる人に出会えた。
跳躍の年になるかな、と密かに期待していたら、10月も半ばを過ぎたころ、カミュから新しい引っ越し先が見つかった、とそう言われた。
「家賃は折半。ローマ郊外になるけれど、バスが近くまで通っているからそんなに不自由はないと思う」
ピアノはもちろん弾けるしね。
言いながらてきぱきと荷物の整理をし始めたカミュに、一瞬唖然。
二瞬後、いや、まったくカミュらしい、と笑いが込み上げてきた。
どうしても引っ越したくて、だから頑張って粘って条件を探して、見合う物件を掴んだ。
しかも、同居人があのロシア人講師だというのだから、カミュにとっては大漁旗だ。
流れは、今、カミュを応援してるんだな、とそう思った。
そういう時は、個人的な痛みなんて水流に投げ込まれた小石程にもその流れに変化を及ぼさない。
屋根裏部屋から潰してあった段ボールを引っ張り出してきてカミュに渡すと、カミュはちょっと目を見開いた。
「プライベートでも指導してもらえそう?」とカミュの机の上段から辞書なんかを掴み出しながら聞くと、
「どうだろう……それは、今後の交渉しだいかな」とカミュは答えた。そうして貰えれば有難いけどね、と苦笑を一つ零す。
カミュから毎月渡されていた家賃、手つかずのままにとってある。カミュが家を出た後に、カミュの口座に戻しておけば、多分まとまったレッスン料くらいにはなるだろう。
他に、カミュに入用なものはないだろうか。そう考えて、
「ウサギの家、持って行く?」と聞くと、
「いや、さすがにそれは……うさぎ達は喜ぶだろうけどね」と、笑われた。
カミュの引っ越しの準備は、まるでホテルを引き払う旅行者のように、とても簡単に片付いた。ほとんど一年近くもの間ここに居たのに、カミュは意図的に、すべての荷物をあっけなく持ち去れるように暮らしていた。
今更のことだけど、カミュのその意思の強さに感嘆を覚える。と同時に、カミュの固い意志は棘のように鋭いとも思う。だから、カミュの事を考えるたび、胸の奥が何時も痛い。
こんなにきれいに晴れた日なのに。きれいと思うより、無性につらい。今日から、あの家に居るのは自分一人だ。
ちょっとそんな弱音を吐いたら、
「とてもよくわかるよ。私もどこかの薄情な誰かのせいで、十年以上もそんな気分ばかり味わっていたように思うからね」
と、カミュは、赤い唇を綺麗なアーチ型にしてにっこり笑った。
「まぁ、昔の話だけどね」加えて、トドメも忘れない。
目に見えない剣で二回ほど刺されたダメージに天を仰ぐと、秋の天空は広い。水色の空に薄い脱脂綿のような雲が伸びている。溜息を、つくべきじゃない。それは、わかってる。
「ウサギの事でまた何かあったら、とにかく考えないでこっちに電話して」
全部の荷物をカミュの新しい住処の玄関に下して、ここから先は一人で運ぶというカミュに、携帯電話を見せて念を押す。
「夜中でも、明け方でも、なんでもいいから。これだけは約束。友達として。カミュの変な意地でウサギが苦しんだり、取り返しの付かないことになるのは、ウサギにとってフェアじゃない」
いい? と真剣にカミュの瞳を射るようにして言うと、カミュは曖昧な笑顔を浮かべて「そんな事は無いように願うけどね」と溜息をついた。
ダメ押しをするかどうか迷って体の重心を動かしたとき、足元で小さな小石が鳴った。しばらく雨が降っていない。白茶けた道に、カミュと俺と、二人分の影が伸びて、まるで影絵芝居のように見えた。
その影の、妙にひょろりとした姿に目が引き寄せられて、思わず首を傾げたら、カミュの丸い頭部の影の横で、羊の臀部みたいな黒い影がかくりと動いた。
なんだか、笑ってしまった。
「カミュ、」
カミュの目が「なんだ?」と言って俺を見る。
「前に言ったの、待ってて、って、あれ、嘘だよ」
一瞬、カミュの眉間に小さな皺が寄って、なんの事だ? って顔をした後、カミュは大きく目を見開いて、大声を寸前で飲み込んだ。
「ごめん、ちょっと意地悪した」
舌を出して首をすくめると、カミュは怒りを奥歯で食い止めながら、思い切りこちらを睨みつけいうべき言葉を探している。
わざわざカミュの苦情をのんびり待っている事はない。
俺は運転席に戻ってドアを閉め、エンジンをかけると窓を開けた。そこから首だけを出して、まだ腹の虫が収まらない、きつくこちらを睨み付けているカミュに言った。
「でも、カミュも悪い。最初は最後までやらないって言ったくせに、途中で言葉を撤回して脅迫してきた」
カミュの体がビクッと揺れて強張った。
「なんて脅迫したか、聞きたい?」
カミュの喉が揺れた。白い顔の中で、紅茶色の双眸が警戒心で一杯になって破裂しそうな程見開かれている。
溜息が、深く肺から出た。
「だからさ……大酒飲まなきゃならないほどストレス溜め込まずに、小出しに処理しようよ、カミュ……」
俺の背中はシートの背もたれの上をだらだらと滑って沈み込んだ。
フロントガラスに切り取られた空は、少し黄色みがかって鈍い。
「カミュ、別に脅迫なんかしてないよ」
そう呟いてやったら、目の端に移るカミュの姿から、若干緊張が薄れた。
「酔っ払って意識が飛んでた時の事こんな風にネタにされたら、カミュは反論できないだろ? それで何言われたって気にしないっていうんならいいけど、カミュにそれは出来ないんだからさ……。ほんと、アルコールは程々にしときなよ?」
そこだけが心配だよ、とボヤいたら、「余計な御世話だ」ときつく言い返された。
小石を跳ねながら、車をバックさせて方向転換する。カミュはまだ玄関の前に立っていて、運転席の窓から手を振ると、手を振りかえしてくれたのがバックミラーの中に小さく見えた。
「待っていて」と甘い声で、沢山のキスと一緒に、カミュは言わなかった。
お互いが、それぞれの絶頂に飲み込まれる寸前に、互いの事を思いやる余裕が針の先程も無い、追い込まれた状態で、喘鳴の隙間に、彼はたったひとこと、言葉を残した。
「待っていて」と。
空耳かと思った。
互いの呼吸を奪い合うように唇をかみ合わせて、それでも足りなくて体の中と外、全部使って相手を束縛し合って、彼が、自分の何かを、飢えるように欲しているのがわかった。
彼の欲するものが、寝れば解消されるものでも、「待つ」という言葉で満たされるものでもない。そんな欲望じゃないとも知れた。
それなら、固く現実と隔離された、夜の隙間に残された彼のメッセージのように、「待つ」という選択肢しか自分には無いのだと思う。彼が、彼の望む何かになった時、多分もう一度彼は聞いてくるだろう。
彼をからかったように、ただ待てば解消されるのではない、待ったその先に初めて問われる瞬間があるのだろう。そこに、彼は彼の全身全霊を賭けようとしている。
じゃあ自分は、彼の何を待っているのだろう?
彼の皮膚や、髪、体の奥底に触れる事なのか。
いや、ここまで来たら、そんな単純な事じゃない。
そんなことで満足し合える関係は、自分で壊してしまったから。
自分は——多分、彼の飛ぶ姿を待っている。
遠い昔、目の前で折られてしまったあの翼が、また彼の音楽を奏でる為に空気をたたくのを待っている。
決められた道を通ってしか羽ばたけないと彼自身が敗北を認め、項垂れて膝をつく、その条理の玻璃を砕いてくれる事を待っている。
零してしまった彼の音楽に、もう一度会えるのを待っている。
毅く美しい復活の音楽に会えるのを待っている。
再会できたら、その時は……
自分は彼の体を彼の音楽ごと喰らって、彼の渇きを止められる瞬間が来ることを、
待っている。